日本古代史 | 八海老人日記

日本古代史

最近、時々考える。日本はいつごろからヤマトと呼ばれるようになったのだろうか。古くから大和や倭という字が、本来の読み方でないヤマトという言葉に当てられ、大和魂、大和心、大和撫子、大和民族など、誰も疑問を持たず日頃使っているが、思えば不思議である。辞書を引くと、古代朝廷のあった土地の名から国名として使われるようになったとあるが、これは答にならない。


 昨年手術入院中、古事記を読んでから、日本古代史に興味を持ち始め、先月韓国旅行を思い立ったのも、日本古代史に関係の深い韓国をこの眼で見、この足で踏んでみたかったからで、日本ではその昔、古事記や日本書紀を作るとき、時の権力者に都合の悪い文書は総て焼き捨てさせられ、真実は闇に葬られたという。今更、韓国を訪ねたからといって、昔の真実が分かる訳でもないが、一度も韓国へ行った事もないんじゃ話にならんと思った次第。


 昔、朝鮮半島南部から日本群島にかけて、ヤマト部族というのが次第に勢力を広げ、出雲族その他の豪族を制圧し、王権を立てた。その部族が住んだ土地をヤマトと言った。他にも出雲とか吉備とか各地に豪族がいて、夫々王国を作っていた。ところがヤマト部族というのは、大変好戦的部族で、朝鮮半島や日本の各地を荒らし回り、他の豪族たちを制圧したり懐柔したりして、どんどん呑み込んで行ったらしい。そして遂に天皇家を創設し、日本はヤマト部族が統治する国だと勝手に決めたようだ。


 古事記にカムヤマト(神武天皇)やヤマトタケル(日本武尊)の名が出てくるが、カムヤマトのヤマトは「倭」の字が当てられており、「倭」も「大和」も大陸側から付けられた名称のようだ。但し、「倭」は夷に通ずる侮蔑語で大和は朝鮮半島南部の部族の名称。その本拠地がヤマトであったことから、「倭」も「大和」もヤマトと呼ばれた。どうもヤマト部族というのは、大陸から渡来した有力者の子孫らしい。息長族(オキナガ族)という海人族を先祖に持つ有力な豪族もいたが、天皇家に服従し、天皇にお后を奉る役目を持っていたらしい。神功皇后は、オキナガタラシヒメという名で、息長族の出自である。


 大和魂、大和心などがいつから日本精神を象徴する言葉になったのかは、研究課題であるが、多分本居宣長あたりと思われる。彼は江戸中期の国学者であるが、天照大神を宇宙の神と信じる大変なナシュナリズムの信奉者で、「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」という有名な歌を残したが、私はあまりいい歌だと思わない。だけど前の戦争では、この精神でどれだけ日本の若者が命を捨てたことか。