八海老人日記 -22ページ目

日本の文化ナショナリズム

 国際日本文化研究センター教授・鈴木貞美博士の最近の著書・「日本の文化ナシヨナリズム」(平凡新書税込903円)が面白そうなので、ブックセンターへ買いに行ったら、売れ切れで新しく取り寄せになりますというから注文したら10日ほどでやっと手に入って読み始めた。


 鈴木博士の所論については追々触れてゆくが、その前に、3月19日のフジテレビの「報道2001」を見ての感想を一つ。出演した一部の論客が、靖国神社は「国のため命を捧げた英霊を祀ってある」と述べていたのが気になった。これは正確ではない。正しくは、1853年以降の国事殉難者、具体的に言うと《天皇》のため命を捧げた者+東京裁判のA級戦犯の霊が、一人々々名前を記されて祀ってあるので、明治政府によって創られた「天皇への忠」の思想の象徴であり、明治4年、政府によって定められた国家神道と深い関係がある。中韓の指導者たちが、小泉総理の靖国参拝に反対しているのは、彼らの反日教育せいばかりでなく、日本における軍国主義ナショナリズムの象徴である靖国神社に一国の総理が参拝する事なのである。


 鈴木博士は先ず、軍事、政治、経済などのナショナリズムは、その時々の政策によって変わり易いが、文化ナショナリズムは強い力を持ち、何十年、何百年経っても中々変わらないことを指摘する。文化ナショナリズムは、屡々伝統と同一視され、長い年月の間に地域の生活に密着し自然に発生したもので、みだりに変わらないし、変えられないものというイメージが強い。ところが、歴史を支配する伝統的文化の力に着目するイギリスにおける最近の研究によると、伝統と見られるものの多くは、実は、発明されたもの、創られたものだという。例えば、日本における神前結婚や初詣の習慣は、明治時代に新しく作られたもの。また相撲が日本の伝統的国技と呼ばれるようになったのは、明治のころ本所・両国の回向院境内に新しく相撲興行の常打館が建てられてからだという。


 鈴木博士は、また、日本の天皇制も時代の権力者によって発明されたものだと言う。天孫降臨の神話から始まって、万世一系とか神国思想とか八紘一宇とか、日本人の多くが頭から信じている或いは信じ込まされていたことが、実は作られた伝統であり歴史であったと言う。そして日本がこれら日本の文化ナショナリズムに引きずられて、第2次世界大戦の敗戦に追い込まれた道筋については、次回以降で触れてみたい。


 

小唄人生

梅が咲いた  観泉寺境内の梅がやっと咲いた。今年は、寒い日が多かったせいで、例年より大分遅いようだ。 久保田万太郎の作で、「冬の梅」という小唄がある。


        嘘も隠しも 隠しも嘘も

        泣いて見せたる 実意の程よ

        咲いていじらす 冬の梅


 生きるため、花街で媚を売る女。そんな女でも好きな彼氏がいる。馴染みの客にからかわれたりすると、嘘も隠しも出来ず、つい涙ぐんで本音を見せてしまう女の若さ。今日の様な寒い冬日にも、いじらしく梅は咲いている。


 一夜、「ばあ小うた」でくつろぎながら、こんなのが出来たよと示した久保田万太郎の心憎い唄に、すぐ三味線を引き寄せ、即興で附けた山田抄太郎の曲の、又なんともいえない素敵さ。こういう小唄を残してくれた先達達の有難さよ。

小唄人生

銀座八丁目の土橋からJR山手・京浜東北線に沿って走っている高速道路下のビルの地下2階にそのお店はあった。偶々その辺を散歩していて眼についた看板が、三味線の絵で皮の真ん中に「ばあ小うた」と書いてあった。今から20年も前の話。平成11年に亡くなった私の親友で小唄友達のS君も、未だその頃は元気だった。看板に惹かれて、何の気無しに覗いたら、そこは柴小百合さんという小唄柴派の家元さんの経営している小唄専門のバーでした。おどおどしていたら、何か唄わされて、何を唄ったか覚えていないが、お店の雰囲気が気に入って、それからちょいちょいそこへ行くようになって、いつの間にか常連になってしまった。


 そのお店は、小唄が一番盛んだった昭和30年頃、「小唄も唄えるバー」という宮田重雄画伯のヒントから始まり、舞台芸術家の伊藤さん、川口松太郎、六代目菊五郎などが応援し、久保田万太郎が名づけ親になって「ばあ小うた」が誕生した。それ以来、山田抄太郎、島田正吾、藤山寛美、三木のり平、春風亭柳朝、漫画家の杉浦さんなど、芸能界、文士、マスコミ界の有名人がこのお店のお客であった。私のような風来坊が、誰の紹介も無く客になれたのは、運が良かったという外無い。


 ある日、会社の私の所へ、ママさんから6時頃お店に来て欲しいという電話があったので訳を聞くと、テレビ局が取材に来るという。その時あんまり客が少ないと格好が悪いから「さくら」になって貰いたいのだという。早速OKして、S君も呼び出して一緒にお店へ駆けつけた。するともうテレビ局が来ていて、ママの三味線で唄っているところを写されてしまった。私がテレビに出たのは、これが最初で、そしておそらく最後であろう。


  ここのママは、私より一つ年上だから、今から十数年前、70歳の頃に、漫画家の杉浦さんと結婚されたのにはビックリした。早速マスコミが追いかけてきて新聞記事にされてしまった。毎年ここのお客が催すゴルフ大会があって、私も一度参加させてもらったことがある。調子が良くて2等賞だったが、小唄新聞に名前をのせられ、それをうちの師匠に見つけられて冷やかされたことがあった。平成9年の11月、この年のゴルフ大会(私は不参加)の過労が祟って、ママが急死してしまった。柴派家元の名跡は、二代・柴小百合に引き継がれたが、半世紀も続いた「ばあ小うた」は消えて無くなった。今私の手元にママから貰った「小唄柴派創立五十周年記念 久保田万太郎・山田抄太郎 小唄集」のカセットテープが残されている。全曲山田抄太郎の弾き歌いで、時々これを聴いてはママのことを思い出している。

小唄人生

 私の小唄の師匠・せき孝師匠が残していったカセットテープの整理が大体終った。数えてみたら約400曲もあった。これをパソコンのエクセル(表計算のプログラム)を使用し、カセット毎に番号を付け、一曲ごとに季別(春、夏、秋、冬、季なし)、分類(芝居、新内、廓、色物、滑稽、その他)、調子(本調子、二上り、三下り、六下りなど)、唄い出し、曲名、作詞者、作曲者、唄い手などを入力し、リストを作成する作業で、結構時間が掛かった。


 唄い手で一番多かったのは、竹苑家元・せき師で、その次が花菱は満さん、蓼胡満喜さんが唄っているのは比較的少なかった。竹苑家元の唄は、全部弾き唄いで、古曲が多い。小唄の現役の家元でこれだけ古曲を持っている師匠も少ないだろう。これは私にとって、まさに重要文化財だ。仇やおろそかには出来ないまことに有難い資料である。


 小唄のカセットテープのリストをパソコンに入力するメリットは、①リストの並べ替えや検索が自由自在に出来ること。例えば唄い出しをアイウエオ順に並べ替えようと思ったら、それは簡単な作業で出来る。②同好のメルトモさんとの間に、リストの交換がメールで簡単に出来る、などである。今や世の中はIT時代。徒に齢を重ねるだけでは能がない。新しい時代の新しいツールを利用し、お互いに芸の巾を広げ、大いに楽しみたい。 だけど、小唄界でパソコンを利用している人が少ないのは残念。


  でも、問題もあります。 例えば現役の家元さんのテープを、お弟子さんが家元さんの許可を得ずに、勝手にダビングして、よその人に流したりすると問題になります。伝統的な邦楽の世界では、所謂インテリジェンスプロパティ(著作権)は余り問題にされませんが、本当は問題があるのです。お互いに問題は起こさないよう注意しましょう。

小唄人生

 昨日午後4時半から、神楽坂・志満金において、第140回天声会の例会が催された。昨日は欠席が多く、顔を揃えたのは12名。この会は年4回、2月、5月、8月、11月に催される。発足したのは35年前と言う計算になる。流派を問わず、小唄の好きな連中が料亭の座敷を借りて集まり、唄方は二周りで唄を披露する。1巡目はアルコール抜き、2巡目からお膳が出て、飲みながら食べながらの演奏となる。


 糸方は4名、2月と8月は佐々舟洋さんと鶴村寿々豊さん、5月と11月は蓼静奈美さんと蓼胡満和さんの2名づつ交替で勤める。いずれもベテランの糸方である。この会は、お稽古やお浚いをする場ではなく、物にした唄を聴いてもらう会で、ご披露する唄が十分出来ていないと話にならない。糸方は大抵ぶっつけである。糸方に聞くと怖いとおっしゃる。だから唄方は唄える唄を何曲か出して、その中からどれにするか選曲は糸方に任せる。


 私がこの会に入会させてもらったのは、5年程前で、その頃は、小林喜八郎さんという大ベテランが会長を努めておられて、毎回素晴らしい古曲を聴かせて頂いていたが、残念ながら2年程前、未だそれほどのお年でもないのに癌で亡くなられた。その後、会長は設けず、古参の方々が世話人となられて、会の運営が続けられている。


 昨日の私の出し物は、1巡目が冬の梅、嘘の塊り、2巡目が春浅き、連れて退かんせで、1巡目は佐々舟洋師匠、2巡目は鶴村寿々豊師匠が糸方を努めて下さった。冬の梅は久保田万太郎作詞、山田抄太郎作曲で個性的な唄、嘘の塊りは古曲、春浅きは伊東深水作詞、三升延作曲で北村の演ずる新派・婦系図は湯島境内の場を唄った大曲、連れて退かんせは古曲。古曲は唄い込むほど味が出てくる。


西伊豆旅行

2月16日~17日と囲碁同好会で西伊豆・雲見温泉へ旅行し、「さかんや」という民宿へ一泊した。この宿の今は亡きご主人は、若い頃、腕のいい左官職人で、漆喰絵など作っていたらしい。だから「さかんや」つまり左官屋という訳。今は、元美人のお上さんと息子さんで民宿を経営し、息子さんが仕入れと料理を担当。もっとも仕入れといっても、魚は海から捕ってくるだけ。


 一緒に行ったメンバーは、世話役の矢野夫妻の他は太田君、竹内君、それに小生と、たったそれだけ。宮内君、永田君は病気、帆足君は奥さんが具合が悪く、赤羽根君、西沢君も足腰が弱って不参加。囲碁同好会もこんなにメンバーが減っては、もう終わりだと太田君が嘆く。


 私は、囲碁の楽しみもさることながら、二ヶ月に一回、気の置けない友達と一緒に旅行するのが、またたのしみなのである。この雲見温泉には、前にも来た事があるが、お上さんが親切で、息子さんの板前で、美味しい魚料理を食わせてくれる。亡くなった学友達の思い出話をしながら一杯飲む気分は最高。こういう楽しみを続けられるのなら、長生きも悪くないと思う。


 翌日は晴天。東京から南伊豆フリー切符を買ってきたので、バスで河津まで行ってみようということになった。若しかしたら早咲きの桜が咲いているかもしれないと期待して行った。咲くには咲いていたが、まだやっと三分咲き程度。それでも、俺達はもう花見をやってきたのだぞと、東京へ帰って自慢できる。だが、花とお酒とどっちが狙いか分かったもんじゃない。


 矢野夫妻はもう一泊すると言うし、竹内君は、大船だから在来線で帰るという。結局のところ、私と太田君と二人、河津からスーパー踊り子号で東京へ帰ることになり、帰りの東京までの車中、矢野君から差し入れのウイスキーが空になってしまったことは言う迄も無い。

国家の品格を読んで

  数学者・藤原正彦氏著「国家の品格」(新潮親書)が最近ベストセラーになっているから読んでみたらと友人に奨められ、その人から、私はもう読み終わったからこの本差し上げると一冊戴いちゃったものだから、読まない訳にゆかなくなって読んだという次第。読んでゆく内に面白くなって、さすがはベストセラーになるだけのことはあるとは思ったが、気に入らないところもあった。


 藤原氏の所説は、欧米流論理的思考の限界、自由主義、平等主義、民主主義への疑惑、資本主義、市場原理主義の破綻等に毒された結果、最近、地球上の先進国の文明の荒廃が目立つようになり、特に産業革命後、欧米流が世界を支配するようになってから、資本による収奪、貧富差の拡大、自然破壊などが甚だしくなったと言うものである。その結果、果てしない戦争やテロ、核拡散、環境破壊などが地球を覆い、ローカル地方に残された健全な伝統的文明が損なわれ、人類の行き着くところは、地球の破滅しかないという有様である。以上の見解については、私も全く同感である。


 だがそのあと、藤原氏は武士道精神の復興を説き、日本的情緒の国柄に誇りを持てと教えておられる。確かに、卑怯を憎み、惻隠の情を重んじる武士道の行動基準は、日本人が世界に誇りうる精神であるが、敗戦後アメリカナイズされた今の時代で、それを取り戻せと叫んでも、それは無理というものである。千年も続いた封建時代の中で、神道、仏教、儒教などの影響をうけて培われた武士道であるが、そのエッセンスとも言うべきものは、不動の情緒であると私は思う。「白刃の下、落花の中、体は黙して語り、舌は転じて物を言わず」という詩がある。このような情緒を持ち、かつて祖国の為に散っていった多くの士たちの精神を取り戻せと言っても無理である。


 藤原氏の所論には、教えられるところが多いが、今一つ、痒いところに手の届かない点がある。それは、国家とか神道とかの概念の曖昧さである。議論が長くなるのを避けるため、ここではそれに触れない。藤原氏の結論は、「金で買えないものは無い」といったような拝金主義がまかり通る日本ではなく、日本人のひとりひとりが貧しくても豊な情緒と形を身に付け品格のある国を保つことが大切であるということである。


 藤原氏の言われることも一つの理想論として理解できるが、私が私なりに主張したいのは、どんな国家や宗教にも頼らず、国家や宗教を超越した「宇宙原理所義」と言うものであこれを普及させる以外に地球を破滅から救う道は無い。そのためリーダーを養成し、普及を実現するための確かなシステムを作り上げることである。無限の数ある宇宙の星の中で、地球と似たような経過を辿りそして死滅していった星が必ずある筈だ。その星を分析すれば地球の未来も予言できる訳だ。


小唄人生

昨日、2月9日(木)夜、私の小唄人生の中で、それは一つのエポックメーキングなことでした。株式会社関東コーワの大川社長に紹介されて、日本橋小唄処・好秀という処でやっている上村幸以先生主催の「室町小唄会」の仲間に入れて頂き、春日とよ津多という方の糸で、「曽根崎」「宵の謎」「久しぶり」の三曲を歌わせて頂きました。すると、私の小唄がお気に召したのか、上村先生から、「夜雨会」に入って10月27日、三越劇場で催す小唄会に出なさいと言われ、名刺を下さいました。


 「夜雨会」という会は、昭和31年に他界された、小唄界の恩人、十代目団十郎を偲んで、伊東雪路のお父さん、伊東深水さんが始められた会で、「夜雨」というのは十代目団十郎さんの俳号から取られたものだそうです。現在でも、アマとしては最高のレベルを保っている会なのです。その会の入会を上村会長からノミネートされたのですから、こんなに光栄なことはありません。喜んでメンバーの端に加えさせて頂きます。但し私は、この道の諸先輩方のように、清元や常磐津などの他の邦楽の下地が全く無く、むしろ若い頃は、ドイツリードやオペラなどに愛着を持っていた人種ですから、諸先輩方のお名を汚さないようこれから一所懸命勉強をして、少しでもいい唄が唄えるよう努力したいと思います。


 私を、室町小唄会にご紹介して下さった大川社長に対し、ブログの書面を借り心から感謝申し上げます。

田舎のお葬式

 叔父の連れ合いのウメさんが91歳で亡くなったという知らせを受けて、5日の通夜に間に合うように、15時32分東京駅発上越新幹線ときに乗車、燕三条に向かった。燕三条で弥彦線に乗り換え、終点東三条で更に信越線に乗り換え二つ目加茂で降りた。加茂は私が生まれた町で、今は市になって人口も増えているが、私が生まれた大正12年頃は、人口3万位の小都市であった。回りが山に囲まれ、町には加茂川という川が流れ、小京都と言われた風光明美な町である。周りの山一面自生の雪椿が群生し、これが町花に指定されている。今は真っ白に雪に覆われているが、雪の下から雪椿の真っ赤な花が咲く4月下旬頃、雪椿祭が催され、上越線でここの駅で停車する乗客に郷土の銘酒「雪椿」が一杯づつ無料で振舞われる。


 私と亡くなったウメさんとは、血の繋がりはない。私の家は、代々呉服屋で、ウメさんは、私の祖母の妹が明治の中ほど分家し、「マルヨ」という屋号で同じ呉服屋を営んでいた家の長男の嫁さんである。終戦後は呉服屋を止め、暫らくパチンコ屋をやっていたが、やがてそれも廃業し、男の子供達は全部サラリーマンになり、ウメさんは、連れ合いが亡くなると一階の店舗を人に貸し、自分は二階でひっそりと独り住んでいた。今度の葬儀で喪主を務める正雄さんは、ウメさんの長男である。


 私は、昭和13年春、三条中学の3年になる時、故郷を離れてから、福井、八王子、東京と住まいが転々と変わった。しかし、私が故郷を訪れるのは、冠婚葬祭の時だけである。故郷に帰る度に、先祖の墓のある本量寺というお寺に墓参りしたが、故郷を留守にしてから墓守をずーとウメさんがやってくれた。そのウメさんから、年を取って墓守が出来ないと苦情を言ってきたので、止むを得ずお墓の引越しをやった。今から二十年も前の話で、引越し先は東京都西多摩郡日の出村の秋川霊園である。この霊園には、元総理・中曽根一家の墓もある。


 偶々今度の葬儀の後のお清めの宴で、私は、葬儀を取り仕切られた七十歳がらみの御住職様の隣り床柱の前に坐らされた。私が「マルヨ」さんのご本家筋ということで、喪主が私を立ててくれたのだ。今更本家も分家もないわけで、こんな高い席で肩が凝りそうだが、異議を唱えても始まらない。私が隣りの住職様に本量寺様ですかと話しかけるとそうですと応えられたから、私は元檀家で、二十年ほど前東京へお墓の引越しをさせて頂いた小島ですとご挨拶申し上げると、私はその際住職でしたから良く覚えていますと言われたので吃驚した。それから一頻り、お墓の引越しの事で話が弾んだ。


 お墓の引越しは結構大変だった。先ず引越先の秋川霊園で新しいお墓を準備したが、大分費用が掛かった。本量寺のお墓は今から130年ほど前に建てられ、風化が甚だしいので廃棄することにし、ご住職さんに霊を抜くお経を上げてもらい、それから墓石を倒し、その下にある投げ込み式の大きな壷をシャベルで浚い、15人分のお骨を全部水道の水で洗い、それをビニールの袋に詰めて段ボールに入れ、お米と偽って宅急便で送付した。違法送付である。ところが、ビニール袋に穴が開いていて、輸送途中で水が漏れ出したが、中を改められず、自宅まで送り届けてくれたので助かった。段ボールからお骨を取り出し庭先に広げて乾かし、大きな骨壷に入れて秋川霊園の新しいお墓に無事埋葬した。


 田舎のお葬式は念が入っていて、特に葬儀の後のお清めの宴は盛大で、告別式参列者全員を招待し、大変なご馳走の上、色々なお土産が付く。私は、お酒を鱈腹頂いて、カロリーオーバーし、ぶっ倒れそうな大きな荷物を持たされて、やっとの思いで東京に帰り着いたのである。もう田舎のお葬式はこりごりだ。


 

小唄・菊地派新年会

2月4日(土)、小唄菊地派の新年会にゲスト出演した。会場は、日本橋の料亭「ゆかり」。午後1時半、糸方の胡初奈師匠と、JR新橋駅5番ホームで待ち合わせた。会場へ着いたら既に23番まで進行していた。プロを見たら、私の出番は39番目でゲスト出演者3人の内の最初で、三番目が上村先生であった。上村先生は4時頃見えられて私の隣へ坐られたのでご挨拶申し上げた。此の頃声が出なくなってとこぼしておられた。


 私の出し物は、「久しぶり」と「懲りもせず」の2題。「懲りもせず」が受けて糸方の胡初奈師匠と乾杯した。立春とはいえ風が冷たかったが、楽しい一日であった。


 新潟県加茂市に住む叔母が91歳で亡くなったので、葬儀出席のため、今日これから新幹線で出発。