楽しくあるきま専科
昨日の雨が嘘のように上がり、今日は杉並区・上井草保健センター自主グループ主催の「青空の会」に参加。気温が11度位まであがると言うからその積りでJR御茶ノ水駅聖口前に集合したら、未だ風が寒かった。
「青空の会」は毎月1回、住んでいる杉並地域の周辺、又は東京のあちらこちらを自由参加でウォーキングする会で、参加資格は5Km以上歩ける事だけで、あとは何も無く、至って気軽な会である。参加者は圧倒的に女性が多い。そして男女共通に言えることは、若者が少ない。特に男性は殆ど老年者。10時出発、休憩時間込みで2時間歩いて12時解散である。
今日のコースは、ニコライ堂から歩き始めて湯島の聖堂、神田明神、万世橋から浅草橋へと神田川に沿って歩き、神田川が隅田川に合流するところ、即ち浅草柳橋と言うところで解散。行程やく5キロ。途中神田明神で驚いた。昔、私がまだ三十台のころ、神田明神下と言えば粋なところで、何とかいう料亭で芸者を呼んで、上司の役員就任祝いで5,6人の部下が招待されたことがある。私もその中の一人だったが、その時であった芸者さんで福丸姐さんという方を、今でも名前も顔も良く覚えている。別にその芸者さんと何かあった訳ではないが、あまり良い声なので惚れてしまったという訳。福丸さんは今でも小唄・端唄の師匠として健在で、とこどきNHKラジオに出演されておられる。
私が驚いたのは、福丸姐さんを思い出したことではない。それは、神田明神が真っ赤っかにお化粧してしまっていたことである。この神社の祭神は、大物主命、猿田彦命、平将門の三柱で何れも戦の神である。徳川家康が関が原戦に出陣する前に、神田明神に武運を祈ったら戦に勝てたので、家康は生涯神田明神を尊崇したと言う。その神田明神が、真っ赤にお化粧して、今は縁結び、商売繁盛、入学祈願などお願い事のデパートと化している。思うに小泉総理も、靖国で不戦の誓いなど祈らずに、神田明神で改革成就を祈ってはと提案したい。そうしたら中韓との外交も巧く行くのでは!!!
小泉よ靖国の壁をぶっ壊せ
小泉が総理になって、自民党をぶっ壊すと言った時、私は喝采した。政界も財界も、世の中は、嘘、嘘、嘘の花盛り。こんな自民党的腐敗政治がはびこっている真っ只中で、派閥を離れて改革を唱え、改革無くして前進なしと、織田信長張りの心意気で、郵政改革を押し進める小泉の姿に拍手したものである。
ところが、郵政改革関連法案が衆議院で辛うじて可決された後の参議院で否決され、小泉は民意を問うために衆議院を解散し総選挙となった時、反対派の候補者達を蹴落とすために、多くのチルドレン達を刺客として選挙区に送り込み、その結果大勝した。
だが、広島でホリエモンを起用したのは、絶対にまずかった。候補者として公認はしなかったが、いくら郵政民営化に賛成だからといって、「世の中に金で買えないものは無い」と嘯くような人間を利用したのは、小泉の大失敗であった。ホリエモンも幸か不幸か落選したが、自民党の有力者達が応援演説しているところをテレビで見たが、全くぶざまなことをしたものである。
経団連の奥田会長も、ホリエモンを会員にしたのはミスであったと認めている。経済人としての倫理に欠ける人物を選挙の看板にしたことは、自民党の連中も同類だということに外ならない。ホリエモンは錬金術を成功させるために粉飾決算をしたり、嘘の情報を流したりした。小泉は、選挙で圧勝するために、ホリエモンのような粉飾人物をりようしたり、チルドレンのような人気軍団を使って選挙を勝った。
私は、12月19日のブログで小泉の壁について書いた。もし小泉が本当に、改革を推進するためにはいかなる手段も選ばず、信長的直線的力を発揮するというのなら、ここで一番靖国の壁をぶっ壊して見せろといいたい。どうしても靖国の壁が壊わせないのでは、小泉の改革も見掛け倒しということになろう。
小唄人生
ひょんなことから小唄を始め、60年のサラリーマン生活の半分以上小唄の世界に足を突っ込んできた。そして、脱サラ2年目の今でも、小唄は私にとって生き甲斐であり、小唄を離れてこれからの余生は考えられない。まさに小唄人生というべきである。小唄を通じての人との出会いは、私にとって最も大切なものである。これから先、もうあまり長くは無い私の余生の中で、これほど大きなウエイトを占める小唄とは、私にとって一体何なのか。
小唄とは何か? これに一口で答えることは難しい。小唄の他に、荻エ節、一中節、宮園節、園八節、河東節、新内、清元、常磐津、哥沢、長唄、義太夫、地歌、端唄、俗曲など、三味線に乗せて唄う伝統的邦楽は色々ある。そして小唄は、他の邦楽の好い所を寄せ集めたようなところがある。小唄は明治以降優れた作詞者、作曲者が沢山現れて盛んになったが、内容は遊郭や芝居もの、庶民の生活習慣を歌ったものなど江戸時代の文化的遺産が多い。昭和30年頃から、日本が高度成長への路を辿り始めた頃、サラリーマンの必須科目として、ゴルフに小唄に囲碁を称して3ゴと云われた。いまでこそ、滑稽な話にきこえるが、サラリーマンが高度成長の波に乗って出世するには、以上の3科目をマスターすることが必要であった。だから、我も我もと小唄を習った。
私の場合は、サラリーマンとしての出世のために小唄を習い始めた訳ではない。純粋に小唄に魅せられてのめり込んでいったのである。小唄に入る前は、クラシック音楽に傾倒したり、ドイツリードを習ったり、オペラのアリアを唄ったりしたが、ベート-ベンの第九で喉を潰してから、10年間歌と縁がなかった。それがふとしたことから小唄を習い始めて、三味線や小唄そのものに興味を持つようになったのである。今小唄の名手と言われる人達は、民謡、清元、常磐津、端唄などから小唄に転じたのが多い。私のように洋楽から入ってきた人は少ない。しかし、発声の基礎は洋の東西を問わず同じであることを発見した。
永年小唄をやってきて、小唄の何処が楽しいかと言うと、先ず師匠から与えられた曲をすっかり自分のものにできた時。一曲上げるのに、短いもので半月、長いものだと一月はかかる。10年、20年と稽古を重ねると、いつの間にか100曲、200曲と数が増えて、いっぱしの唄い手になってゆく。気に入った曲が自分の持ち唄になり、それがだんだん多くなってくるとまた楽しい。私の場合、一応今までに上げた曲の数は約五百であるが、まだまだ増えそうだ。そして仕上げた唄を、勉強会、浴衣会、新年会、忘年会などで一杯やりながらご披露するのが亦楽しい。会員制で小唄専門の飲み屋で唄うのも楽しいが、最近このようなお店が少なくなったのは些か淋しい。
軍隊の思い出
老年に達した現在でも、鮮烈に蘇る軍隊の思い出がある。昭和19年、太平洋戦争の末期、6月にマリアナ海戦で惨敗し、7月サイパン島玉砕、日本の敗色濃厚となり、前の年に学徒の徴兵猶予も無くなって、既に同窓の三分の一、大正12年11月30日までに生まれた者は、学徒動員で戦場に駆り出されていった。私は大正12年12月13日の生まれだったので、僅か2週間の差で運よく昭和18年度の徴兵は免れた。だが、昭和19年4月の徴兵検査では、眼が紅緑色盲のため第二乙種だったが、今年は逃れられないだろうと覚悟はしていた。
9月に学校が繰り上げ卒業となり、どうせ徴兵になるのは仕方がないにしても、一応就職はした方が良いと学校から言われたので、何処でも良い積りで、一番志望者の多い某化学工業の会社の就職試験を受けに行った。同窓から20人位試験に受かって、9月末入社した。そうしたら12月に召集令状が来た。覚悟はしていたものの、やっぱり来たかと思った。いざ来てみると、何やら冷たい鉄の扉に突き当たったような気分で、これから自分の身に降りかかって来るであろう運命に身震いした。
入隊先は、相模大野の陸軍通信学校で、入隊日は確か12月24日、その日は親類縁者や隣近所の人たちが「祝出征」の幟を立て、日の丸の旗を振り、「勝って来るぞと勇ましく・・・」と軍歌を歌いながら駅まで見送ってくれたが、晴れがましいと言うような気持ではなかった。これから入隊する者とすれ違いに戦死した人の遺骨に出会うといった風景は珍しくなかった。同じ仲間達が戦場で戦っているのだ。だから自分も戦場に身を投ずるのは当たり前、という単純な考えであった。
軍隊の生活は、冬だというのに、藁の布団に毛布が3枚。寒くて中々寝付けない上に、栄誉の乏しい食事で、夜中に6~7回おしっこに行く始末。その度に軍服を着たり脱いだり、勿論暖房などある訳ない。体重がどんどん減って遂に42.5kg。骨と皮と少しばかりの筋肉という身体になってしまった。そんな具合で体力が落ちてしまったある日、朝の点呼で整列していろとき、ふらふらっと眩暈がして昏倒してしまい、気がついたらベッドに寝かされていた。急性気管支炎で練兵休20日、という診断であった。練兵休というのは、軍隊用語で、何もしないで寝てろということである。病気が治るまで毎日お粥を食べさせられて寝ていた。
軍隊での身分は、特別甲種幹部候補生ということで、入隊と同時に伍長、1年半で卒業する時は見習士官になって、戦地に配属されるはずであった。私の隊は第二区隊で約30名、区隊付見習士官が一人、同じ部屋で起居を友にした。教官は宝来少尉という若くて優秀な将校であった。その教官から毎日のように殴られた。誰か一人でもチョンボをすると、全員が一列に並ばされて殴られた。
3月の半ば、ある日の未明、「非常呼集! 全員褌一つ営庭に集合」の号令で叩き起こされた。まだ肌寒い時季で、身震いしながら整列した。「右向け右 駆け足」の号令で見習士官が先に立って、防火用水を溜めた大きな池へざぶんざぶんと飛び込んでいった。「軍人勅諭始め!」で、「わが国の軍隊は」で始まる長文の軍人勅諭を暗誦し終わるまで冷たい水の中を泳ぎ回った。「上がれ 営内迄駆け足! 営内で乾布摩擦!」で、冷えた身体をごしごしこすっていたらポカポカ暖かくなってきた。最近南方へ派遣される兵隊がアメリカの潜水艦にやられることがおおくなったため、冷たい海に投げ出されても耐えられるよう訓練するのだということだった。
営庭に蛸壺を掘ったり、徹夜で行軍したり、通信の実技を教わったり、中隊長の精神訓話を聞いたり、いろいろ教育を受けたが、一番気分が乗ったのが軍歌演習であった。お腹から声を出す練習をした。自然に発声練習が身に付いた。これが終戦後役に立った。メイデイの日、会社から日比谷公園まで、組合員の先頭に立って、労働歌の指導をやらされた。その時軍隊での軍歌演習を思い出し、「聞け万国の労働者・・・」
と得意になって歌った。
8月15日の玉音放送は、営庭に整列して聞いた。通信が専門であったからボツダム宣言受諾のニュースは既に傍受されていた。軍隊解散までの数日間、八王子の被災地に救援派遣でトラックで通った。八王子は8月3日の空襲で全滅した。そこで焼け跡の整理を手伝った。一日の作業を終えて帰るとき、私は自分の飯盒が無いのに気が付いた。だれか通りがかりの人に盗まれたらしい。私は正直に引率の教官に報告した。教官は布井という少尉で、私だけ残して全員帰れと命令した。みんなトラックで帰っていった。それからが大変であった。軍隊では官給品を無くすると重い罰を受ける。私は布井少尉の前に直立不動の姿勢をとらされ、約30分殴られ通しに殴られた。「たるんでいる!」、「貴様のような奴がいるから日本が負けたんだ」、「根性を」叩きなおしてやる!」と、殴られる度に倒された。その度に起き上がっては又殴られた。その内に、布井少尉も草臥れてのだろう。「もうよい」ということになって、二人で電車に乗って原隊へ帰った。
私は、この時布井少尉が私を殴ってくれたことに感謝している。歯を食いしばって「なにくそ!」と耐えたことが私にとって大きなプラスであった。布井少尉の拳は愛の拳であったことを私が感じ取ったからである。戦争に負けたからと言って投げやりにならず、一人の男の魂を鍛えてくれたことは有難かった。
少年時代の思い出
夜中にふと眼が覚めて、NHKラジオの深夜版を聞くとはなしに聞いていたら、五木寛之の昭和十年代の流行歌の思い出話であった。彼は昭和7年(1932)の生まれだそうだから、私より九つ若い。昭和7年というと満州事変が始まった翌年だから、関東軍を中心に軍部の力が強くなり、日本が次第に軍国主義に傾いていった頃である。私が小学校3年の時、五木寛之が生まれたことになる。私が生まれたのは大正12年、関東大地震の年で、新潟県の加茂という田舎の町が私の故郷である。五木の話から、私自身の少年時代のことを色々思い出していた。小学生の頃、「討匪行」という映画を見た記憶がある。テノールの藤原義江が従軍記者の役で出演し、「どこまで続くねかるみぞ・・・・」と、自分が作曲した歌を歌った。そのころ「満蒙は日本の生命線」というスローガンが流行った。
小学校6年の時(昭和11年)、二・二六事件が起きた。雪の少ない年だったけど、朝起きたら雪が積もっていて、ラジオが事件発生を繰り返し放送しているのを聞いた。確かその翌日だったか、松内アナが有名な「今からでも遅くは無い 原隊に帰れ」と放送するのも聞いた。その年の4月、私は隣町三条の中学に入学し、毎日汽車で通った。
二・二六事件の翌年(昭和12年)、支那事変が始まった。日野葦平の「麦と兵隊」がベストセラーになって、同名の歌を東海林太郎が歌って大ヒットした。三条中学で私は柔道部に入った。三条中学時代の思い出は、毎朝、汗臭い柔道着を抱えて同じ部の中山修君を誘って通学したことである。終戦後彼は中越運送と言う運送会社を立ち上げ、新潟県で一番大きな運送会社に育て上げた。
昭和13年の春、私は父の転勤に従って福井中学へ転校した。父は三代目の呉服屋を止め洋品店を始めたがこれもやめ、次に輸出絹織物の検査員になったが、羽二重の産地である福井に転勤することになった。福井中学では、4年ぐらいから陸士,海兵へ志願するものが多く、軍国主義の見本みたいな学校であった。毎日巻き脚絆を着けて登校した。夏には九頭龍川の上流で古式泳法の水泳訓練があったが、水が冷たいのには参った。昭和14年に父がまた八王子へ転勤したので、私も八王子中学の4年生に編入させてもらった。その年、第二次世界大戦が始まり、翌年、日独伊三国同盟が締結された。そして次の年、昭和16年に太平洋戦争に突入した。大本営発表のラジヲを聞きながら、やがて自分も戦場に駆り出される運命にあるのだろうとよかんした。私の少年時代はまさに戦争のじだいであった。
般若心経について
般若心経は、今から2500年ほど前、印度で作られた600巻もある釈迦の教えを記述した経文のエキスである。原文は梵語(サンスクリット=古代インド語)で書かれているが、玄奘三蔵法師が漢文に翻訳して中国へ持ち帰った。その内容を一口で言えば「悟りの知恵」といったもので、宗教的というより寧ろ哲学的である。いかこれを私なりに意訳してみた。(参考文献:柳沢桂子著「生きて死ぬ知恵」)
人間を表す言葉として、色、受、想、行、識。これを五蘊という。色は形ある身体、受は感覚、想は表彰、行は意思、識は知識。受以下は心の働きと思えばよい。人間の形ある身も、形の無い心もやがて滅びる運命にある。
だが、生きるということは苦しみ多いことである。苦しみ多いこの世の生から逃れて、苦しみの無い向こう岸(彼岸)へ行くには、道のりは遥か遠い。そしてそこへ導く船(知恵)が、釈迦の教えなのだ。
この世の中のどんなものでも、時が来れば消滅し、そしてまた生まれ変わる(これを輪廻という)。人間が消滅すれば、形の無い粒子に還り、その粒子は又生あるものに蘇る。人間の身体だけでなく、心もまた実体が無い。かくして人は宇宙の一部であり、人と宇宙は一体なのだ。宇宙の実体は、生まれもしなければ死にもしない。汚れてもいなければ綺麗でもない。増えもしなければ減りもしない。つまりそれは空そのものであり、形も心も無い。
人に眼、耳、鼻、舌、身体が無かったら、色も声も香りも味も感覚も意識もない。従って眼界、耳界、鼻界、舌界、身界、意識界も無い。欲望も無く、欲望が尽きることも無い。老死も無く、老死が尽きることも無い。苦しみやその原因を無くすることもなく、またその方法も無い。これ以上の知恵も無く、得をすることも無い。得をしようとする心も無いから、悟りを目指す人は、悟りの知恵を得ようと修行をするが、心に執着が無い。従って恐怖心も無い。一切の間違った考え方や妄想から遠く離れよ。そうすれば遂に悟りの境地に達することが出来る。
過去、現在、未来の仏たちは、悟りの知恵を知り、悟りへ至る修行を行うから、この上も無い悟りを売ることが出来る。悟りの知恵と悟りへの道を知ることが出来るから、この般若心経は、偉大なる真実の言葉である。またこれは、明白な言葉であり、最上の言葉であり、比類の無い言葉である。能く一切の苦るしみを除くことは、嘘ではない。だから般若波羅蜜多の呪文を唱えることを説くのである。行け行け、彼岸に行く者達よ。悟りりへの道に幸いあれ。
新たな年を迎えて
元日から息子や娘や孫たちが、入れ替わり立ち代りやってきて、相手をさせられている内に、三が日が過ぎてしまった。お陰でみんな元気な顔を見せてくれて、こんな嬉しいことはない。孫は女ばかりで、一人くらい男の孫が欲しいと思うが、こればかりはどうにもならない。娘の方の上の孫がもう大学2年生で彼氏もいるらしいから、もしかして私が長生きしたら曾孫の顔が見れるかもしれない。
昨年は、私の脱サラ元年で、大腸癌の手術をする羽目になったが、ブログを始めたり、メル友が増えたり、やや前向きのこともあってよかったと思う。そこで、今年の目標はどうか。いくつか掲げてみたい。
①デジタルビデオムービーの使用開始
ビクターのGR-DX95Kを昨年購入したが、まだ一回も使用していない。
②韓国旅行の実現
昨年12月26日のふみあと旅行会の忘年会で提案のあった韓国旅行を実現させたい。
③囲碁二段位取得
一昨年初段になってから足踏み。ことしは是非昇談したい。
④小唄祭り出演
6月6日の小唄祭り出演
⑤社交ダンス再開
まだ覚束ないが、出来れば暖かくなった頃再開したい。
⑥グログ読者拡大
私のブログを読んでくれているひとは、まだ6~7名ですが、出来るだけ増やしたい。
八海老人海外10大ニュース2005
①地球上大規模テロの後絶たず:ロンドン、エジプト、バリ島などで大規模テロ続発。
②パキスタン揺れて瓦礫の山と化す:パキスタン東北部で大地震。死者9万人超。
③民主化はテロ続発で泥沼化:イラク国民議会選挙実施、新憲法承認で民主化の一歩を踏み出すが、テロが止まず泥沼化。
④ブ政権カトリーナが来てボロを出し:超大型ハリケーン米国南部に上陸、大被害。詐害対策出遅れでブッシュ政権批判される。
⑤中国の反日デモはやらせ気味:歴史教科書、国連常任理事国入り反対で反日デモ拡大。治安当局見て見ぬ振り。
⑥鶏のインフルエンザ人襲う:東南アジア、中国で鳥ウイルスが人に感染。人類への脅威。
⑦イスラエルガザ退けば平和来る:38年間占領してきたガザ地区からイスラエルが撤退。中東和平への期待高まる。ただし、パレスチナ武装勢力の解体が条件。
⑧移民たち花のパリーで大暴動:失業、人種差別への不満から、アフリカやアラブ系移民の若者による暴動がパリーで発生、各地に飛び火。
⑨バチカンでパウロ二世が大往生:東西冷戦終結の陰の立役者、ローマ法王・パウロ二世がバチカンで死去。
⑩ブ政権支持率低下なお強気:ブッシュ政権は2期目をスタートしたが、ガソリン代高騰、ハリケーンへの対応遅れ、イラク派兵反対、CIA秘密漏洩などで、支持率は50%台から37%に低下。でも、ブーさん強気。
八海老人国内10大ニュース2005
①JR安全運転見掛けだけ:尼崎の脱線事故で107人死亡、555人重軽傷。過密運転、安全軽視が原因。
②マンションを偽装で揺らす建築士:姉羽一級建築士による耐震強度偽装事件発覚。入居者の不安拡大。
③チルドレン小泉劇場大当たり:郵政民営化参院否決後の衆院選で反対派の選挙区にチルドレン候補を立て、小泉自民党圧勝。
④女児ばかり狙う悪魔か吸血鬼:広島、栃木、京都で小学女児が相次いで殺害される。
⑤ITがTVの株買い占める:ライブドアや楽天などのIT企業が、フジ、TBSなどのテレビ会社の株を買占め経営を揺さぶる。
⑥待たされてまた待たされてやっと見る:自然の叡智をテーマにした愛知万博が開催され、予想を上回る2200万人が入場、一時入場制限。
⑦30年経って今頃アスベスト:施工から30年も放置して今頃アスベストの被害深刻化。発ガン性が指摘されていたのに役人の怠慢。
⑧プライバシー保護法が出て名簿なし:個人情報保護法が施行され、学校や地域などで名簿作成が困難となり、国勢調査人が仕事が出来ないとこぼす。
⑨道路公談合などはお手のもの:橋梁工事を巡る道路公団の談合事件発覚。だが公共工事の談合事件
発覚は氷山の一角。税金のムダ使いこれに尽きる。
⑩皇籍を離れ宮様清々し:紀宮様が黒田慶樹氏と結婚、うれしそう。
海外10大ニュース2005は次回。
ふみあと旅行会
