2005年の総括
60年のサラリーマン生活よさらば!!!
昨年末、60年に亘るサラリーマン生活にピリオド。今年は、私にとって脱サラ元年であった。太平洋戦争中1944年、化学品製造会社に入社、すぐ召集令状で入隊したが、幸運にも戦地へ行く前に終戦、それ以来脇目も振らず働いて、1952年の朝鮮戦争から高度成長の浪に乗り、石油化学コンビナートの建設やらドイツとの合弁事業やら運送会社やらを経験し、気が付いたら八十路の坂を越えていた。その間に、仕事以外にやったことと言えば、コーラス10年、社交ダンス10年、小唄35年、山登り・スキー25年。そして今年は脱サラ元年。ブラボー!!! これからは趣味に生きる。でも、今年は色々ありました。
大腸ガンの手術
脱サラを機に検査入院したら大腸ガン発見。すぐ入院手術となり、家族に心配をかけた。私の人生もこれでオワかと思った。でも、手術後経過良好。まだ当分大丈夫みたい。入院中、古事記を口語訳で読み、日本の古代史に目を向ける。
ブログ開始
メル友がブログを始めたのに刺激されて、私もブログを始めた。目的は、自分の家族や友達に、自分の過去の履歴やその時々の考え方やこれからの生き様などについて日記代わりに記述し読んで貰うためである。
メル友
ブログでコメントを貰うのも楽しいが、メル友とメールを交換するのも楽しい。凡らくこれからの私の人生の大半は、ブログやメール交換などで時間を費やすことになるでしょう。
年間小唄出演回数
今年の年間小唄出演回数を数えてみたら23回でした。一番多いのが江戸小唄友の会が8回。天声会が4回、あとはお付き合いしているお師匠さん達の新年会、浴衣会、勉強会、仲良し会などへのゲスト出演である。來年からは、唄だけでなく、三味線も積極的に弾かせてもらうよう努力しようと思う。
旅行
今年は、7回旅行をした。家族旅行が北海道と館山。囲碁旅行が那須と富士宮。それ以外に同窓会で紀伊勝浦、山の会で能登、小唄の旅行が小諸で計7回である。来年は何処へ行くかまだ決まっていないが旅行はやっぱり楽しい。
囲碁
脱サラを機に、囲碁の上達を目指し、昨年入段を果たしたので、今年は二段にチャレンジしたが、目下足ふみ状態。急ぐことでもないから、まあぼちぼち楽しみながらやってゆきましょう。
日本の壁
毎朝、NHKテレビの1チャンネルで8:15からの「我が心の旅」というのを視ている。この番組は、様々な分野の有名人が、心に残る旅の思い出を追って、世界の各地を旅して歩いたのを映像化したもので、10年ほど前に放映されたものの再生である。だから出て来る主人公が今は故人であったり、いやに若かったりして現実にはそぐわないが、結構面白い。今朝は、俳優の三国連太郎のベルリンの旅で、1995年頃放映されたものである。
三国は、私とは歳が同じ1923年生まれで、私は、三国が強そうでいて一面人情味のあるという弱さを持っているところが好きである。かって、東西ドイツを隔てたベルリンの壁が崩壊した頃、NHKは、大河ドラマ「冬の旅」の現地ロケをベルリンでやっていた。そのとき、三国は主役としてそこにいた。そして今度の旅の目的は、10年前のロケで一緒に仕事をしたドイツ人のスタッフや世話になった人達がその後どうしているかを訪ねることであった。
私は、「冬の旅」のストーリィは忘れてしまったが、三国が、今は東西冷戦の記念として残されているだけのベルリンの壁の残骸を見て、一時は、肉親に会うためにこの壁を乗り越えようとした市民たちを容赦なく射殺した国家権力の怖さを述懐したとき、それに共感を覚えた。三国も、1945年、太平洋戦争の末期、召集令状が来た。入隊する振りをして家を出たが途中で逃亡する積りだった。戦争に行くのが怖かった。敵の弾で殺されるのが怖かったのではない。罪もない人を殺すのが怖かった。刑事に捕まって無理やり戦線へ送られたという。戦前の日本には国家権力という大きな壁があった。
三国の述懐は、私にとって目から鱗であった。日本は戦後民主主義国になったと言うが、今でも大きな壁が残っている。それは、覇権主義の国アメリカとの同盟と神道を保持する天皇制という二つの壁である。マッカーサーが天皇制を温存してくれたお陰で、戦後の日本は大きな混乱もなく、高度成長を遂げられたし、アメリカも日本をアジア太平洋の戦略拠点として利用出来た。だが壁は壊されるまでは問答無用で、厳然として存在する。沖縄や横須賀の人がいくら怒っても蟷螂の斧、小泉首相が靖国参拝を止めようとしないのもみんな壁のせいである。いつの日か、これらの壁が破壊されることがあるとすれば、それをなしうるのは中国の力かも知れない。
義経伝説とモンゴル帝国
私は、クラス会の後など、よくカラオケを唄いに行く。カラオケ好きと言うのが何人かいて、その人達との付き合いも結構楽しく、勿論私もカラオケは嫌いではない。10年ほど前までは、今は亡きカラオケ好きの親友・S君に刺激されて、新しい曲を追いかけたものだが、彼が亡くなってからその意欲も失せてしまった。
最近ふとしたきっかけで、小金沢昇司と言う若い歌手が歌った「義経伝説」というカラオケを手に入れた。丁度NHKの大河ドラマで「義経」をやっていて、12月11日の夜が最終回で、義経が最後を遂げる場面であった。義経主従が、「新しい国でまた会おう」と誓い合って一人ずつ死んでゆく。最後に弁慶と義経が残り、弁慶は衣川の辺で、全身に矢を受けて立ったまま絶命(立往生という言葉はここから出た)、義経は持佛堂に隠れるが、直後一筋の光芒が天に向かって立ち上がる。それは、義経の死を暗示したものであるが、そこから、実は、義経は秘かに藤原泰衡の手から逃れて、独り、荒波吠える竜飛岬から北の大陸へ渡ったと言う、そしてジンギスカンは義経になっという義経伝説が始まる。
12世紀、モンゴル高原に突如一人の男が現れ、遊牧民による大帝国を創り上げる。その男がジンギスカンと呼ばれる英雄である。当時のモンゴル帝国の強大な軍事力は、馬と弓によって齎された。モンゴル軍は、騎馬による機動力と馬上から弓を射る戦闘力を併せ持つ最強の軍隊で、ジンギスカンの統率により次から次へと版図を広げて行った。 モンゴル帝国は、軍事力に優れていたが、大帝国の財政運営にも、貴重な天然資源であった塩を専売制にするなどすぐれた面もあった。 しかしジンギスカンの死後を継いだクビライ迄はよかったが、その後、大帝国を治める器を持つ者が現れず、モンゴル帝国は内部から崩壊した。
ジンギスカンは義経であると言う伝説については、「ジンギスカンの謎」、「ジンギスカンは義経」などと言う文献も存在するが、戦時中蒙古の人たちに読んで貰うために書かれたもので、信憑性に乏しい。ジンギスカンは戦いに勝つと必ず、滅ぼした国王の后や王女を浚って来てハレムに加えたと言う。静一人を愛した義経がそんなことをする筈がない。
観泉寺の四季
昨年の終りまで会社勤めだったので、観泉寺のお庭を散歩する気には中々なれなかったが、お勤めを辞めた今年は、ゆっくりこの寺が眺められる。枝垂桜や寒牡丹はわりかし有名だから観に来たことがあるが、晩秋の庭を眺めるのは、初めてかもしれない。公孫樹も紅葉も、もうあらかた散ってしまったが、屋根に溜まった落葉が秋の名残を留めている。三百五十年このかた境内に並んだ今川家先祖のお墓や六地蔵にも、なんとなく秋の静けさが漂っているような気がする。
春には、鐘楼を背にした枝垂桜が美しい。ここの鐘楼は、以前、藁葺き屋根で、枝垂桜と良く似合ったが、数年前に瓦葺に改築された。大晦日に年越し蕎麦を食べていると、除夜の鐘が鳴り出す。それから、2月頃の寒牡丹が綺麗で、よく観に行った。そういえば、牡丹の異名を名取草と言うと、木村菊太郎の「芝居小唄」の中の助六の解説に出ていたのを思い出した。「春霞」という小唄に出てくる「東男の扮装ちは間夫の名取の草の花」の意味が解けた。助六は揚巻という吉原一の花魁の間夫(情人)で、二代目団十郎の当たり役。
そして名取草即ち牡丹は団十郎の紋所である。
観泉寺の夏の印象は、昼尚暗い鬱蒼とした林の中を吹き抜けてくる風の涼しげなこと。昼間歩いて汗ばんだ身体が、この森林浴な中に入ると、オゾンを吸ったようにほっとする。林の中では、色んな蝉が鳴く。やがて蜩が鳴き出す頃になると、そろそろ秋が近づいてくる。
今川観泉寺の歴史
今年の4月から毎朝6時に起きて30分、家の周辺を速足で歩き、それが終るとインスリンの注射、それから朝の食事ということになっている。少しくらいの雨でも休まない。お陰で体調は頗る良い。歩くコースは大体決まっていて、先ず家を出て真っ直ぐ北へ行く。早稲田通りにぶつかって左へ曲がる。観泉寺北の信号から左折して南へ向かう。観泉寺横からお寺の正門前に出る。参道を下って荻窪病院の手前を左へ曲がり帰路に着く。
このコースを選んだのは、観泉寺というお寺の前を通るからである。私が荻窪に住み着いた昭和25年頃は、いかにも東京の郊外という感じで、早稲田通りから北は広い田んぼで、その中に地主の住む屋敷森が点々と散らばっていた。屋敷森は武蔵野の特色と言われる地主の住む森で、藁葺の家を囲んで南側には欅、北側には杉をぎっしりと植え、夏は欅の陰で涼しく、冬は杉が風を防いでくれた。我が家の周りは、畠や雑木林で、少し低いところに小川が流れていた。主な通り以外はアスファルトでなく、地面を掘ると浅井戸ポンプで地下水が汲めた。その頃の観泉寺は荒れ放題で見る影も無かった。この寺に興味を持ったのは、偶々墓地を散歩していて今川家累代の墓という古びたお墓を発見した時からである。
文献を読むと観泉寺は、正式には曹洞宗、宝珠山観泉寺と言い、江戸時代初期の創建になり、今川家十二代目今川氏真以降代々のお墓が在る今川家の菩提寺である。なんでこんな所に今川家のお墓があるのかと不思議に思ったtが、文献を読んで判った。かの戦国時代、駿河の大大名・今川義元が信長に討たれてから、その子の氏真は家康に仕え、家康は氏真に十万石の格式と二千五百石の所領及び高家の地位を与えて厚く遇した。高家とは大名達の礼儀作法の指南役である。格式と所領がマッチしないところに問題があり、氏真はそのギャップを大名からの賂(まいない)で埋めた。世が降って元禄時代になると。高家の身分は、賂を取るしきたりと共に吉良上野が引き継ぎ、勅使下向の春弥生、接待役を命じられた浅野の殿様が世事に疎かったため松の廊下で吉良上野に刃傷に及ぶという悲劇が起きた。忠臣蔵という文化遺産の遠因がこんな所に転がっていようとは!!!
観泉寺のある今川町、青梅街道にある八丁、八丁から北へ入る仲通りなどの地名は、皆今に残る今川家と関わりのある名である。夜遅く荻窪へ帰ってきてタクシーに乗ったとき、運転手に行く先を「八丁の信号を右へ行って下さい」と告げ、ついでに乗っている間に八丁の名の由来を、昔今川家の御家人の屋敷が長く連なっていたので「八丁」、その真ん中の通りを「仲通り」というのだと話してやると運転手に感心される。今川家は明治二十年、二十三代で絶えたが菩提寺観泉寺だけが残った。
埋もれたプロジェクトX
毎週火曜日夜9時15分からNHKテレビの人気番組「プロジェクトX」が始まる。私は、敗戦後日本の高度成長を支えたものが、草の根のベンチャービジネスであったり、何処にでもいる市民や個人の力に負うところが大であったという物語を聞くのが好きで、大抵逃さず見ている。そして戦争には負けたが、日本人の活力は、まだまだ捨てたものではないと思う。だが、こうやって映像化されるノンフィクション物語以外にも、明るみに出されないで埋もれてしまう「プロジェクトX」も数限りなくあるのではないかと考えた。現に、私の身近にも、苛酷なシベリヤ抑留から1500人の捕虜を、病気などで死んだ10人を除き、一人残らず日本につれて帰るという大偉業を成し遂げた人・織(仮名)さんがいる。織さんは、私の会社生活の大半を上司として仕えた人で、私が入社した時は、既に職場から陸軍に召集され、幹部候補生を経て機械化砲兵隊の将校となり、ソ満国境の守りについていた。そして1945年8月、日本はボツダム宣言受諾ー敗戦となった。織中尉の属する機械化砲兵梯団1500名は、敗戦と同時に武装解除されソ連軍の捕虜となった。その年の暮れ、全員貨物列車に乗せられ、西へ西へと運ばれた。クゼノオーゼル(鴨の湖)という湖畔の炭鉱町へ連れて行かれた。1500人を収容する半土中埋没型バラックが建てられていた。悄然と肩を落として歩む集団は、早くも捕虜になり切っていた。本職の将校達は、敗戦のショックで魂が抜けてしまったようで、まるで役に立たなかった。そこで織中尉が中心になって立ち上がり、数名の幹部候補生出身の将校達を集めて指揮班を組織し、日本人捕虜たちを束ねることとなった。織中尉はみんなの前で、俺は、命がけでみんなを守るから、お前達も頑張ってくれ。そして一人残らず故国の土を踏もうと誓い合った。それからの織中尉は、偶々道で拾ったロシヤ語の辞書で片言のロシヤ語を覚え、ソ連軍の監督将校を相手に、ノルマの軽減と食糧確保のためのハードネゴシエイションの毎日であった。捕虜の分際で、よくもまあ恐れも知らずずけずけと勝手な要求を突きつけられたものだ、多分使命感と若さがそうさせたのであろうとは本人の後からの述懐である。ソ連軍の監督将校にもノルマ達成の弱みはあった。そこを計算に強い織さんがうまく突いた。そして織中尉は次第に収容所側から信頼されるようになり、苛酷なノルマもほどほどに緩和され、食糧も確保できた。十二月になるとー50度Cにもなる。鶴嘴もシャベルも歯が立たない酷寒のなかでも、みんなよく頑張った。ところがある日事件が起きた。頭のおかしくなった捕虜達が3名ほど脱走をはかった。織中尉はソ連兵に銃剣を突きつけられ、一室に監禁された。脱走者が出た責任を取らされて銃殺かと覚悟した。一週間ばかりで開放されたので、収容所長に何故殺さなかったのかと聞いたら、お前は責任感が強いから、自ら責任を感じてハラキリするのではないかと心配して保護したのだという。
やがて1947年春、帰還第1陣50名を収容所から送り出した。織中尉の前でみんな泣いた。織中尉は独り収容所の屋根に上り、故国へ帰る捕虜達が、原野の果てに豆粒のように小さくなり、そして見えなくなるまで、手を振り続けた。それから次々と帰還者を送り出し、1948年秋には残りの殆ど全部を送り出したときには、漸く使命を果たした満足感とやっと肩の荷を降ろした開放感を味わった。最後に残った折中尉他数名が、残務整理を終えて故国の土を踏んだのは1950年であった。ソ連軍によってシベリヤに送られた日本人捕虜60万のうち7万が、過労と栄養失調で命を落としたと云われた中で、織中尉の収容所では、殆ど全員帰国することが出来たというのは大変なことであると言うべきであろう。
織中尉は、帰国後会社に復帰し、私の上司として仕事上の苦労を共にさせて頂いたが、シベリヤの話は、自分からは殆ど語られることは無かった。しかし、1500名の捕虜の中に偶々同じ会社の社員が一人混じっていて、織中尉の働きを実際に見てきていたのである。
会社に戻られてからの織中尉は、親しみを込めて織さんとよばせて呼ばせて頂く事にする。会社では織さんは常務までゆかれたが、織さんのもう一つの大きな「プロジェクトX」、建設総資金700億の石油化学コンビナート建設の仕事については、私も建設本部の一員に加えて頂いたが、この話は別の機会に譲り、今回は割愛する。
織さんは復員後、奥さん共々山歩きがお好きなので、会社の山岳部に入って頂き、数々の山行にご一緒させて頂き、山岳部の会長も勤めて頂いた。また毎年かつてのシベリヤの戦友たちと「戦友会」を催し、箱根に一泊旅行をされてきたが、6年前の戦友会のとき不慮の事故で急死された。今年は7回忌に当たるので、奥さんを囲んで生前親しくして頂いた山の友達が集まって織さんを偲ぶ会を催すことになった。私は、織さんを偲ぶ会を催す度に、織さんがかつて若かりし頃、シベリヤの収容所からの捕虜奪還に命を掛けた「プロジェクトX」を思い出すのである。
休暇村・富士
11月17日18日と、一泊二日で静岡県富士宮の休暇村・富士へ、囲碁同好会の5人で旅行した。行きは、Y君夫妻とT君の3人は、東京発10時で甲府回り。私とO君は東海道新幹線東京発11時23分のこだま号へ乗車。時刻表に依れば、目的地の富士宮には同時刻に着く筈である。社中でO君と早速ビールでいい調子。車中食を取り、時間通り13時45分に着いたら、甲府回りの3名とばったり鉢合わせ。200キロも走ってきて1分と違わないのだから、日本の鉄道は優秀だ。
14時30分頃宿へついて浴衣に着替え、風呂に入ってのち早速碁盤を囲む。Y君と3子で2局打って貰ったが2局とも勝てなかった。O君とT君はいい勝負だったらしい。6時から食事。ここは夕食も朝食もバイキング。料理の品数は多く味も美味しかったが、O君のように目がよく見えない人はバイキングは苦手のようだ。食事が終ったらお部屋でウイスキーと焼酎で2次会。
翌朝、7時頃まで寝ていたら、Y君に「いい天気だよ」とおこされた。窓のカーテンを開けるとナント快晴で目の前に秀麗な富士の姿えで感動。逆光でこれが夜明けだったらダイヤモンド富士が見れるところだ。8時に朝食を取り、O君夫妻は付近をウオーキングして、ここで昼食を食べて帰ると言うので、あとの3人は10時10分のバスで降りることにし、途中白糸の滝を観て行こうということになった。白糸の滝はカメラマンで一杯だった。滝壺まで降りて眺めたが、幾筋もの滝が岩壁を落ちる景観は素晴らしい。
加賀・能登の旅
10月11日から2泊3日で、友人4人と加賀・能登を旅行しました。3日間とも晴天に恵まれ、能登の海
の眺めを満喫しました。以下旅のポイントについてのコメントです。
兼六園
金沢は、時間が無かったのと、初めての人がいたので、訪れるのは兼六園だけにしたした。私は兼六
園は3度目ですが、正門から入ってすぐ左方向に日本尊(ヤマトタケル)の立像があるのに今まで気が
つきませんでした。解説を読むと、明治10年の西南の役で官軍(歩兵第7連隊)に従軍し、薩摩の西郷
軍と戦って戦死した約600名の郷士の霊を慰めるために建立されたと記されてありました。日本尊は、
古代、この地方の豪族達を武力で制圧して、大和政権の勢力を広げた勇者で、その顔が西の方を向い
ているのは、遥か西国・薩摩の地に思いを馳せているらしい。近くに冬桜が三分咲きで、枝先に赤とんぼ
がちょこんと止まっているのが面白かった。
輪島の朝市
能登半島の入り口、和倉温泉に一泊。翌朝、奥能登巡りの観光バスで、先ず輪島の朝市。観光客
で賑わう朝市には、魚の干物など安くて美味しいものが沢山あったが、荷物になるので買わなかった。
見附島
海の真ん中に大きな船の形をした岩がそそり立っている。こんな大きな岩がどうして海の中にある
のだろう。不思議な自然の造形だ。
千枚田
海に向かって落ち込んで行く傾斜地を開墾して、沢山の田が出来ている。千枚田というけれど、実
際はその倍位あるらしい。地主さんが年を取って耕作が出来ないので、今は観光資源の一つとしてボ
ランティアの人が稲を育てているらしい。
郷土料理の宿「さんなみ」
1日3組しか泊まれない郷土料理の宿「さんなみ」は、能登町矢浪という辺鄙な所にあり、旅館らし
くない旅館。海の眺望が素晴らしい。新鮮な魚貝類や自家製の無農薬野菜を、「いしり」(烏賊と塩だけ
で造った魚醤油)を使って調理した、能登でしか食べられない伝統的郷土料理は圧巻でした。(http://
能登の歴史
能登の歴史を紐解いて見ると、縄文・弥生時代から記紀万葉時代、奈良・平安時代、源平時代、
鎌倉・室町時代、戦国時代、豊臣・徳川時代、明治時代と日本の歴史を通して見ても、あまり表舞台
に躍り出ることも無く、なんとなく地味な存在ではあった。弥生時代の頃から水稲耕作が盛んになるに
つれ、人口が増加し、集落が出現した。やがてそれを支配する豪族達が現れたが、次第に強大な大
和政権に飲み込まれてゆく。8世紀半ばには、万葉歌人として名高い大友家持が能登の国司に任ぜ
られた。源平時代には、平家から年貢と使役で痛めつけられ、木曾義仲に加担して鎌倉に疎まれ、
室町時代には畠山しが応仁の乱の一方の旗頭となり、戦国時代には七尾城に立て籠もって、上杉
謙信上洛の前に立ちはだかり、やがて信長が出て能とを平定し、これを前田利家に与える。利家が
一時柴田勝家に与して危なくなったが巧くしのいだ。幕末でも徳川方に着きそうになったが、危うく官
軍に味方して助かる。
以上が能登の歴史の概要ですが、なんとなくうろちょろしているところが親しみが持てる感じ。現在、
七尾地方に残っている鬼面踊りは、戦国時代、上杉の2万の大軍に対し、僅か2千で七尾城に立て籠
もった能登の兵が、妖怪の面を付けて上杉軍を驚かせたという故事から由来していると云う。
変わった食べ方
誰でも普段食べているありふれた食材ですが、一風変わった食べ方をいくつかご紹介しますから試してみてください。1.2.は八海老人のオリジナル、3。4。は、湯島の小花さんのオリジナルです。
1.牛乳飯
急いでいるとき、時間が無いときに好都合です。
〔材料〕ごはん、牛乳、生卵、辛子明太子、塩鮭、佃煮など、調味料はお醤油
〔造り方・食べ方〕
①丼にご飯(冷凍でも良い)を入れ、冷凍ご飯のときは、1分半ほどチンをして解凍する。
②ご飯にひたひたになる位の牛乳をかける。
③生卵を解いてお醤油を大匙一杯入れてかき混ぜておく。
④牛乳を掛けたご飯を2分ほどチンをし、その上に生卵をふりかけ、もう一度2分ほどチンをして出来上
り。
⑤辛子明太子、塩鮭、佃煮などをおかずに、スプーンと箸で食べる。
2.刺身にマヨネーズ
刺身はお醤油とわさびで食べるものというのは、誰でも持っている先入観念。試しにマヨネーズで食べて ごらんなさい。目から鱗。
3.いとこ納豆
湯島の小花さんという小料理屋さんで教わった食べ方です。栄養価の高い納豆を湯豆腐の上に乗せ て、かつぶし、ねぎのみじん切り、七味唐辛子などと一緒にかきまぜると乙なあじです。
4.トロタク
マグロを使って簡単に作れる手料理で、これも小花さんから教わったものです。歯ざわりがよく、酒の肴に絶好です。
〔材料〕2人分 ○マグロ中トロブツ100g ○大葉 1枚 ○ねぎ2cm ○七尾たくあん1cm ○焼き海苔
1枚 ○醤油 適量 ○わさび 少々
〔造り方・食べ方〕
①大葉とねぎはみじん切りにし、小さめのボールに移して置く。
②マグロのブツを包丁で叩き、大葉、ねぎのみじん切りと混ぜて和える。
③たくあんは細く切って皿に移す。
④和えたマグロに細切りたくあんを添えて適当に切った焼き海苔で巻く。
⑤わさび醤油を付けて食べる。
小唄
銀座8丁目にあった普茶料理の店「一好」へ行きだしたのは、いつ頃か定かではないが、今から四半世紀以上前であることは間違いない。私を一好へ連れていったのは、大学同級生で小唄仲間のS氏である。S氏が師事していた鶴村派の寿々敏師匠のご主人が、お店を手伝っており、美人で小唄好きのママがいると言う。私はその頃、西独の有名な化学会社・BASFと組んで九州の大牟田で染料工場を建設する仕事の財務担当で、関係先を接待するのに手頃な店を探していたから丁度いいと思った。ママはかって若かりし頃、伊東深水画く美人画のモデルになったり、週刊誌サンデー毎日の表紙を飾ったりした和風美人で、小唄は始め田村派、後で菊地派に変わったが、よく師匠をお店へ連れてきて、お店で小唄の会をやったりした。一好の常連で私の記憶に残っている中に、相山武夫氏、悠玄亭玉介師、ドイツ人のペーター・バロンなどがいる。ママは残念なことに、昨年、若くして膵臓癌で亡くなった。お通夜で遺骸と対面したtが、化粧を施した死顔の美しさにはうたれた。
相山武夫氏は、大阪の枚方カントリー、神奈川の川崎国際、相模の相武カントリーなど名門ゴルフ場のオーナーで、静かな酒を嗜む紳士だった。私より5歳ほどの年長で、菊地派の小唄会のとき、時々私の小唄を聴きに来てくれた。本当はママの小唄が目当てだったとは、後で判った。その後自分でも小唄を習い始めたが、瞬く間に巧くなって、春日とよ栄芝さんの会で、屡々、朝丘雪路の小唄振りの地方(じかた)を勤めた。惜しいことに、7,8年前、癌で亡くなった。
悠玄亭玉介が一好へ来るのは、いつも仕事帰りの9時半頃である。昼間は閑なせいか、小唄の会にはよく聴きに来てくれて、「待ってました」とか「大当たり」とか大向から声をかけてくれた。11月のお酉様の日には、お店が終わると、従業員一同を引き連れて、浅草へ熊手を買いに行った。その帰りに深夜営業の鉄板焼ステーキの店へ寄って、一杯やって帰るのが決まりであった。或るとき同じ熊手屋で、石原慎太郎氏にばったり出会ったことがある。一緒に一杯やりませんかと誘ったが、弟が悪いんでねと断られた。そのときの慎太郎氏の悲しそうな顔は今でも忘れられない。今にして思えば、丁度裕次郎が亡くなる少し前のことであった。
ドイツ人のペーター・バロンは、私の知る限り小唄を唄う唯一人の外人であった。彼がドイツの銀行の支店長で、私の会社がその銀行から工場の建設資金を借りることになって、彼が挨拶に来た。私が彼に、貴方のご趣味は何ですかと聞いたら、小唄をやっていますと云うのでビックリした。それから時々一好へご招待するようになった。彼の小唄は、権九郎、上げ汐、山中しぐれなどの大曲を日本人よりも巧く唄った。着物を着て袴を着けて演舞場に出たこともあり、菊地派の家元と一緒にテレビに出たこともあった。一旦ドイツに帰り、5年ほどして再び東京に戻って来たが、今の彼は、在日ドイツ商工会議所会頭とバイエリッシェ・ヒポ・フェラインスバンク東京代表と二つの肩書を持ち、毎月のように日独間を往復し、超多忙で、小唄をやる暇など全く無いと、先日工業倶楽部で一緒に食事をしたときに云っていた。