今川観泉寺の歴史 | 八海老人日記

今川観泉寺の歴史

 今年の4月から毎朝6時に起きて30分、家の周辺を速足で歩き、それが終るとインスリンの注射、それから朝の食事ということになっている。少しくらいの雨でも休まない。お陰で体調は頗る良い。歩くコースは大体決まっていて、先ず家を出て真っ直ぐ北へ行く。早稲田通りにぶつかって左へ曲がる。観泉寺北の信号から左折して南へ向かう。観泉寺横からお寺の正門前に出る。参道を下って荻窪病院の手前を左へ曲がり帰路に着く。


 このコースを選んだのは、観泉寺というお寺の前を通るからである。私が荻窪に住み着いた昭和25年頃は、いかにも東京の郊外という感じで、早稲田通りから北は広い田んぼで、その中に地主の住む屋敷森が点々と散らばっていた。屋敷森は武蔵野の特色と言われる地主の住む森で、藁葺の家を囲んで南側には欅、北側には杉をぎっしりと植え、夏は欅の陰で涼しく、冬は杉が風を防いでくれた。我が家の周りは、畠や雑木林で、少し低いところに小川が流れていた。主な通り以外はアスファルトでなく、地面を掘ると浅井戸ポンプで地下水が汲めた。その頃の観泉寺は荒れ放題で見る影も無かった。この寺に興味を持ったのは、偶々墓地を散歩していて今川家累代の墓という古びたお墓を発見した時からである。


 文献を読むと観泉寺は、正式には曹洞宗、宝珠山観泉寺と言い、江戸時代初期の創建になり、今川家十二代目今川氏真以降代々のお墓が在る今川家の菩提寺である。なんでこんな所に今川家のお墓があるのかと不思議に思ったtが、文献を読んで判った。かの戦国時代、駿河の大大名・今川義元が信長に討たれてから、その子の氏真は家康に仕え、家康は氏真に十万石の格式と二千五百石の所領及び高家の地位を与えて厚く遇した。高家とは大名達の礼儀作法の指南役である。格式と所領がマッチしないところに問題があり、氏真はそのギャップを大名からの賂(まいない)で埋めた。世が降って元禄時代になると。高家の身分は、賂を取るしきたりと共に吉良上野が引き継ぎ、勅使下向の春弥生、接待役を命じられた浅野の殿様が世事に疎かったため松の廊下で吉良上野に刃傷に及ぶという悲劇が起きた。忠臣蔵という文化遺産の遠因がこんな所に転がっていようとは!!!


 観泉寺のある今川町、青梅街道にある八丁、八丁から北へ入る仲通りなどの地名は、皆今に残る今川家と関わりのある名である。夜遅く荻窪へ帰ってきてタクシーに乗ったとき、運転手に行く先を「八丁の信号を右へ行って下さい」と告げ、ついでに乗っている間に八丁の名の由来を、昔今川家の御家人の屋敷が長く連なっていたので「八丁」、その真ん中の通りを「仲通り」というのだと話してやると運転手に感心される。今川家は明治二十年、二十三代で絶えたが菩提寺観泉寺だけが残った。