小唄人生 | 八海老人日記

小唄人生

 仮名手本忠臣蔵五段目、山崎街道の場の「定九郎」を唄った小唄が三っもあったなんて知らないで失敗した話を、6月12日のブログ「こうた浚い」に書いたが、7月22日(土)「胡初奈浴衣浚え」でもう一度チャレンジすることになった。三っの「定九郎」とは、一つ目、明治期の作で、昭和33年頃流行った「当った当った・・・」、二つ目、平井承知庵作詞作曲の上方小唄「五十両」、三つ目が小野金次郎作詞、中山小十郎作曲の舞踊小唄「破れ傘に」(やれがさに)である。


 忠臣蔵のお芝居は、幾度か観て分かった積りでいたが、実は分かっていないことが多い。赤穂浪士の討入りが実際に起きたのは、元禄十五年十二月であるが、歌舞伎の芝居ではこれを室町時代の事とし、浅野内匠頭が塩谷判官、吉良上野介が高師直、大石内蔵助が大星由良之助などと変名が使われている。だいいち、何で仮名手本なのかというと、いろは四十七文字と討ち入りした義士の数が四十七人との数合わせ、もう一つは、芝居が出来たのが事件が起きてから四十七年目という数合わせ。しかし、本当の所は分からない。


 どんなに客が少ない時でも、忠臣蔵をやれば、必ず大入りになったと言う。特に五段目の山崎街道の場は上演回数の多い場で、真っ暗闇の舞台で無言劇(だんまり)が演じられる。娘のお軽を売った金子五十両を懐に、与市兵衛が夜道を急いで帰る途中、稲むらで雨宿りする所を、追剥に落ちぶれた定九郎の白刃でばっさり殺される。懐から出た五十両を数えていう科白が「五十両」、ニッタリと思いいれ。そこへ手負猪が駆けてきて、追ってきた勘平が二つ玉(倍の大きさの弾丸)の鉄砲でズドンと一発。これが猪に当らず定九郎に命中。仕留めた獲物を勘平が闇の中で探ると、「こりゃ人!」と科白。お金の要る勘平はねこばばは悪いと知りながら五十両を握り締め一目散に逃げ帰る。科白は定九郎の「五十両」と勘平の「こりゃ人!」だけ、あとはだんまり。


 「破れ傘に 黒紋付や落し差し 半身隠せど隠されぬ 身の置き所白波の 山崎街道夜働き 稲積の陰の白刃に与市兵衛 殺めて縞の皮財布 貧すりゃドンと二つ玉 猪の身代わり しょんがえ」


 この 「定九郎」の小唄は、十一世市川団十郎が海老蔵時代に扮した定九郎の舞台姿を唄ったもので、蛇の目の破れ傘、黒羽二重の古小袖、白の博多帯、朱鞘大小の落し差し。この型を考えたのは初代中村仲蔵であるが、団十郎はこの型を演じて大当たりを取ったという。「破れ傘に黒紋付や落し差し半身隠せど隠されぬ身の置き所白波の」迄は、痩せ浪人でも武士のはしくれ、武張った唄い方。「夜働き」は恐ろしげに、「稲積の陰の白刃に」は、闇に光る白刃の如く物凄く、「与市兵衛」はあわれ断末魔の苦しみ、「殺めて縞の金財布」は、殺ってしまったと縞のをかける。舞踊の場合は此処で立方が金を数える所作に「五十両」と科白を入れる。あとは、「貧すりゃドンと二つ玉 猪の身代わり しょんがえ」としゃれのめす。