日本古代史 | 八海老人日記

日本古代史

 鉄や銅を、武器や稲作に使った好戦的な部族が、北九州から攻め上がってきて、ヤマトの地に侵入し、多くの豪族達を攻め滅ぼしたり、服従させたりして、遂に王権を樹立したのは、三世紀前後であったらしいと前に書いたが、それが魏志倭人伝という中国の古い歴史書を見ると判る。その勢力は邪馬台国と言われ、幾つかの有力な豪族の集まりで、そのリーダーは、卑弥呼という女性で、新興宗教の教祖の様な存在であったらしい。天照大神は卑弥呼だという説もある。こうして出現したヤマト政権も、卑弥呼の死後、反乱が起きたりして存立を脅かされた時期もあったが、ヤマトタケルなどが現れて瓦解を免れた。


 八世紀になって、天皇の命により、初めて古事記、日本書紀などの史書が編纂されたとき、この国は、天から神が降ってきて、千年も前の神代の頃から、神の子孫であ天皇家が治めてきたのだとサバを読んだ。近世になって、色々の文献や考古学的調査の結果、ウソが段々ばれて、ヤマト政権が中央集権的体制を確立するようになったのは、漸く三世紀後半の頃らしいということが判ってきた。「トヨアシハラノチエホアキノミズホノクニハ コレワガウミノコノキミタルベキノクニナリ イマシスメミマユキテシラセ サキクマセ」と作文して、神からのメッセージとした。その頃の日本の国はアキツ(トンボ)シマと呼ばれた。とんぼが一杯いたらしい。


 五世紀から六世紀にかけて、天皇をないがしろにして、各地の豪族達が互いに争い、天皇家の系譜が大いに乱れた時期があった。その頃、大伴、物部、曽我などの軍事族によって担ぎ出されたのが継体天皇である。継体天皇には謎が多いが、出自は、百済からの渡来系の息長(おきなが)族である。越(北陸)から近江にかけて大きな勢力を持っていた。仁賢天皇の娘の婿に入ったことにより、天皇家の血筋に連なる権利を手に入れたという。


 継体21年(西暦527年)、北九州の豪族、磐井がヤマト政権に対して戦争を仕掛けてくる。磐井は新羅の力をバックにして百済系のヤマト政権を潰そうとしたらしい。磐井対ヤマトの戦争は、朝鮮半島の政治情勢が絡んでいたようだ。結局、大伴、物部、曽我などの軍事族の結束によってヤマト側の勝利に終わり、磐井の主は殺された。それ以来、ヤマト政権内では、曽我の勢力が天皇を凌ぐほど強くなり、やがて壬申の乱へと動いて行く。