日本古代史 | 八海老人日記

日本古代史

日本古代史についての勉強を始めてから1年4ヶ月ほどになるが、お陰で色んな事が少しづつ判って来た様な気がする。日本古代の歴史については、まだまだ解明されていないことが多く、学問的には未成熟と言われている。考古学などの進歩で、これから段々と瞭かにされて行くことだろうが、教科書問題、靖国問題、教育基本法改正問題など、事ある毎に、「皇国史観」の亡霊が息を吹き返すのではないかと気になる。


 古代史の研究が学問的に遅れている一つの原因は、古代国家成立時における偽装の問題である。日本に文字がまだ無かった頃、語り部という口伝えを職とする者達がいた。しかしそれらの者達は、権力者のサポーターであって、必ずしも真実を伝える者達ではなかった。権力者の気に入るように偽装が行われたことは想像に難くない。弥生時代には各地に有力な王国が幾つもあって、出雲王国、吉備王国、大和王国などが、勢力争いを繰り返し、最後に大和王国が覇権を握り、3~4世紀頃から漸く国家としての体制を整えて行くのであるが、律令国家が成立し文字が導入され、稗田阿礼の伝承による「古事記」が記されたのが漸く紀元712年のことであった。更にこの後「日本書紀」が公の歴史書として編纂された。その際大きな偽装が施されたのみならず、それと矛盾する文書はすべて焼却させられた。


 もう一つの原因は、戦前における学問の自由への弾圧である。森鴎外が明治45年に発表した「かのように」と言う妙なタイトルの小説がある。彼はこの小説の中で、真実という壁に直面した歴史学者の苦悩を画いている。主人公は、五条秀麿という若い貴族で、帝大卒業後ベルリンに留学し、歴史学を学んで帰国後

学者として立とうとするが、記紀を読んで神話は歴史ではないことを知る。しかし、それを日本史について説くことの危険を知って苦悩する。その挙句、「かのように」の哲学に到達するという話である。


 秀麿が到達した「かのように」の哲学とは、神話は歴史ではない、神は事実ではない、天皇に忠節を尽くす義務など存在しない、しかしそれを敢て言うことは、極めて危険であるから、三猿主義に徹するに限る、ということで、鴎外は秀麿の考えということにして小説に書いたのである。今考えると、欧外ともあろう者がこの自嘲とも取れる卑屈な態度はどうであろうか。しかし、その訳は、記事が長くなるので割愛するが、明治43~44年に起きた大逆事件、南北朝正閏問題など当時の社会情勢を振り返ると、鴎外の心中も分かる様な気もする。


 森鴎外は、軍医少将と言う職業軍人で、しかも小説家で、娑婆っ気の多い人物だから「かのように」主義でよいかも知れないが、れっきとした歴史学者で、敢然と権力に立ち向かったのが、前にも記した津田左右吉博士であった。津田博士は鴎外より十一年下で、大正2年に「神代史の新しい研究」を刊行してから、記紀に関する新しい研究結果を次々と発表し、5,6世紀頃までの記紀の記述は偽装された部分が多いことを明らかにした。まっしぐらに真実を追究した博士に危険が降りかかってきたのは、昭和15年、「紀元は二千六百年」奉祝の年に、国家主義者・蓑田胸喜(みのだむねき)の告発により裁判所が博士と出版した岩波茂雄を起訴したことである。


 政府はこれによって、博士の著書は総て発売禁止処分にした。現在、博士の著書は、一橋大学の書庫の中に眠っている。昭和17年5月に、裁判所から有罪の判決が出て、博士が禁固三ヶ月、岩波は同二ヶ月、共に執行猶予二年。判決理由は、「畏れ多くも神武天皇より仲哀天皇に至る御歴代天皇の御存在につき疑惑を抱かしむる虞ある講説を敢てし奉り、以って皇室の尊厳を冒涜する文書を著作しまたは発行した」ということであった。このような目にあった学者は津田博士一人には止まらなかった。


 戦後、新憲法が出て、学問の自由は快復されたが、戦前の真実追及の遅れは取り戻せたとは云えない。それどころか、またぞろ、日本国民を危険な方向に導きかねない、おぞましき「皇国史観」が復活しそうな空気が感じられる昨今である。