信州と私 | 八海老人日記

信州と私

 蓼科は、私にとって最も懐かしい自然である。特に白樺湖を中心に霧が峰、車山辺りは思い出が深い。冬のスキー、春秋のハイキング、夏の登山など、三井山荘を根拠地にして、思う存分歩き回った。中でも多く訪れたのは、冬のスキーであろう。雪の便りを待ちかねてはよく出かけて行った。今みたいに宅急便の無い頃である。長いスキーを列車に持ち込み、それを担いで登った。その代わり帰りは、茅野の駅まで滑って降るのが快適でだった。山荘の裏山のゲレンデでよく滑った。偶には蓼科温泉から八子ケ峰(1832m)を越えるツアーをしたり、車山(1925m)を越えて、一気に白樺湖へ滑降したりすることもあった。


 昭和24年の7月下旬、浅沼さんがガイドで、中村キミさん、田中敏子さん、山田裕子さん達と一緒に、上諏訪から和田峠へ向かって登り、初めて霧が峰へハイキングに行った時の思い出は、鮮烈である。上諏訪から和田峠越えの道は、未だ乗り物が無く、歩いて登るのに結構汗をかいた。和田峠へ着いて一休みし、そこから右霧が峰、左美ヶ原の道標に従って右折し、15分くらい歩いて霧が峰の稜線に出た時、眼の中に飛び込んで来たのがニッコウキスゲの大群落。あの時の感激は、忘れることが出来ない。しばし呆然とその感激に浸っていた。それからニッコウキスゲの黄色い海を踏み分けて白樺湖に辿りついた。あのとき一緒だった中村キミさんも去年あの世に旅立ってしまった。


 あの頃の霧が峰高原や白樺湖畔には、未だ何も無く、ホテルやヒュッテが出来始めたのは、昭和27年頃からではないだろうか。三井山荘の対岸の万仁武小屋も息子の両角喜久治氏の代になってホテルに改築され、ニックネームをそのまま雷ホテルと名付けられた。三井山荘も、交野さんが本社に帰り、その後、元学校の校長先生だった方が管理人になった。その人は、山荘に若い人たちのグループが泊まりに来ると、必ず一列に並ばせて訓辞をするので、誰も名前を呼ばず校長先生と呼んでいた。私などは、交野さんや浅沼さんの友人ということで特別大事にされた。


 蓼科山(2530m)へは、大河原峠を通って二度登った。一回は千葉さんと一緒だった。もう一度は三井化学山岳部のメンバーと登った。蓼科山は姿のいい山で、頂上付近は岩場だった。山頂からは、すぐ近くに八ヶ岳連峰、晴れた日には、美ヶ原の向こうに北アルプスの槍、穂高、北には浅間山、草津白根、南に甲斐駒、仙丈、北岳などの山々を見ることが出来た。私は、もう年で、山に登る力は全く無くなってしまったが、あんなに元気だった千葉さんもすっかり駄目になってしまった。今は、あれもこれも、みんな半世紀も前の昔の夢と化してしまった。それに昔の思い出を互いに語り合う友も少なくなった。


 世の中が高度成長期を迎えて、霧が峰高原にもビーナスラインが敷かれ、車がどんどん入って来るようになった。昭和40年代になると、私も人並みにゴルフをやるようになった。同窓生で蓼科に別荘を建てた三井不動産の岩崎さんに誘われて、私と太田さんと印牧(かねまき)さんとで、毎年春、夏、秋、三井の森ゴルフクラブ及びフォレストカントリークラブでゴルフをするようになった。春は桜、夏は涼しく、秋は紅葉と、八ヶ岳連峰をバックにして、景色も空気も最高だった。そのゴルフも、岩崎さんが軽い脳梗塞、太田さんが緑内症、私が大腸癌で、すっかり足が遠のいてしまった。