小唄
今度の小唄の会で、市川三升作詞、吉田草紙庵作曲の芝居小唄「上野の鐘」を唄うことになった。芝居は、ご存知河竹黙阿弥作「天衣紛上野初花」(くもにまごううえののはつはな)又の名「天保六花撰」。稀代の悪坊主、河内山宗俊が登場する芝居で、小唄は、直侍と遊女・三千歳の濡場を唄ったもの。歌詞は、「上野の鐘の音も凍る 春未だ浅き畦道に 積もるも恋の淡雪を よすがに辿る入谷村 門の戸ぼそに橘の 忍ぶ姿の直次郎」。宗俊と組んで、強請り騙りの悪事を散々重ねてきた直次郎が、江戸を高飛びする前に、入谷の大口屋の寮に養生に来ている遊女・三千歳に一目逢いたいと、蕎麦屋で出会った按摩の丈賀に文を持たせてやり、まんまと忍び込む様を唄ったものである。直次郎は、十五世羽左衛門の当り役であった。
この唄を作詞した市川三升(みます)というのは、十代目市川団十郎その人である。彼は俳句をよくし、また、無類の小唄好きで、数多くの小唄を作詞した。昭和29年に彼が亡くなった時、親しかった伊東深水らが彼を偲んで「夜雨会」(《夜雨》というのは団十郎の俳号)という小唄の会を立ち上げて今日に至っている。今年は10月27日、三越劇場で公演の予定と聞いているが、もしかしたらこの会に出さしてもらえるかも知れない。
小唄「上野の鐘」が昭和13年5月、新富町の料亭で、草紙庵の糸、本木寿以の唄で開曲された時、聞役だった羽左衛門が、「よすがに辿る入谷村」という所まで唄がくると、やにわにすくと立ち上がり、三升の作詞に無かった直次郎の台詞、「思いがけなく丈賀に出会い 渡してやったさっきの手紙 もう三千歳へは届いた時分 門の締りは開けてあるか 角からそっと当って見ようか」を即席で挿入し、見得を切ったという。それ以来、この唄は台詞つきで唄う人が多い。だが折角の名台詞も、羽左衛門の声色でやらなきゃ格好がつかない。そこへゆくと上村幸以先生は堂に入ったもの。