日本の文化ナショナリズム
前回、一つ書き忘れたことがある。それは、明治政府が西洋化の一環として、それまでの太陰暦を廃止し太陽暦を採用したが、その際、列強に倣って建国記念日を設定しようと言う事になり、神武天皇即位の日、即ち皇紀元年(西暦の660年前)2月11日を以って建国記念日(紀元節)と定めた。しかし、皇紀元年2月11日というのは神話の時代であり、全く発明された歴史であって、日本の歴史は西洋の歴史より古いことを内外に示すのが目的であった。紀元節は、第2次大戦後、神話に基づくナショナリズムとしてGHQから否定され、廃止されたが、1967年に「建国記念の日」として復活した。
日本の古代史については、8~9世紀の頃、古事記や日本書紀が編纂されたが、古事記は、稗田阿礼という語り部の伝承を安倍安麻呂が漢文で記述し天皇に献じたもので、語り部というのは、時の権力者のお抱え集団であったから、伝承の内容について偏りがあったことは、想像にやぶさかでない。各豪族たちが持っていた史書で古事記の記述と矛盾するものは悉く焼き捨てさせられたという。日本書紀は、古事記の177年後に舎人(とねり)親王が天皇の命により、古事記などをテキストとして編纂したもので、王権を正統化するため更に粉飾されたものであることは想像に難くない。
その後長い間、日本の古代史については、日本書紀が公の史書とされて来た。降って鎌倉時代、二度に亘り元寇という国難を切り抜け、ナショナリズムが高揚。しかし鎌倉幕府は、財政破綻と論功行賞の失敗から、地方武士や御家人の信望を失い、足利尊氏に滅ぼされる。尊氏は光明天皇を擁して京都に入り、自ら征夷大将軍となって室町幕府を開き、後醍醐天皇は吉野に遷って南北朝時代という争乱期に突入(1336年)。北畠親房が「神皇正統記」で大日本は神国なりと書き起こし、吉野南朝の正統性を説き、児島高徳、新田義貞、楠親子、北畠顕家などの武将が南朝を支えたが、次第に足利軍の武力に圧倒されて南朝は衰え、足利義満の代になって南北両朝は和解し、60年に亘る動乱の幕を閉じた。
徳川時代になって、古事記にフットライトを当て、その価値を見直させたのは本居宣長(1730~1801)
である。宣長は、30年も古事記を研究史し古事記伝44巻を著したが、天照大神を宇宙の神とし、日本を神国とする徹底的ナショナリズムの信奉者であった。宣長のナショナリズムは、平田篤胤(1776~1846)、
頼山陽(1780~1832)、吉田松陰(1830~1859)らに受け継がれてゆく。一方水戸藩では、光圀の大日本史編纂などで次第に神がかり的国体論に傾いて行き、やがてペリーに鎖国の夢を破られた幕府の開国政策に反対、桜田門外の変を起こす。こうして世は尊皇攘夷→王政復古→倒幕→明治維新と動いて行く。(つづく)