20年も前に亡くなった義父の本棚には、以下の本が並んでいた。

 

イスラエルとパレスチナ

和平への接点をさぐる

立山良司

中公新書

1989年

 

30年前の本だが、関係性や論点はそれほど今も変わっていないように思われる。

 

大きく変わったのは日本の両者へのかかわりかもしれない。

 

というのは、1970年代にハイジャック事件や襲撃テロなどを起こし、PLOと深くかかわりのあった集団が日本にいたことが、今ではすっかりと忘れ去れていることである。

 

また、当然のことながら、現在世界で起こっている出来事(特にガザ地区におけるイスラエルとパレスチナの紛争)を俯瞰してとらえるきっかけを与えてくれる。

 

ラディカル・ヒストリー

ロシア史とイスラム史のフロンティア

山内昌之

中公新書

1991年

 

ロシアにおけるギリシア正教(ビザンツ)的なものと、モンゴル的なものとの併存、さらには、イスラムに対する共存を前提とした尊重観など、現在のロシアの思惑の根底にあるものを理解するうえで必須。

 

また、私たちが一般的に理解する「東西文明」は「西欧ー東洋

」であり、東洋とは、ルーツとしてはインドや中国を念頭に置いていると思うが、ルーツではないものの、ここのところ1000年以上の経緯を考えるうえで「アジア」と言えば、むしろ、「イスラム」「ロシア」という2つのキーワードこそ、無視できないものであることを思い出させてくれた。

 

マホメット 

ユダヤ人との抗争

藤本勝次

中公新書

1971年

 

50年以上前の本であるが、コーランの原点に立ち返り、その聖典におけるユダヤ教との確執を丁寧にたどっている。

 

しかし、イスラム教とユダヤ教とのあいだには、根源的な相違はないはずであるが、唯一、難題はユダヤ教が「選民思想」を持っており、マホメッドを預言者とは認めていないことが気になるところではあるが、しかし、イスラム教にとっては、ユダヤ教よりもキリスト教のほうが相いれない。

 

 

観た映像作品

セルゲイ・ロズニツァ《戦争と正義》 シリーズ

破壊の自然史

キエフ裁判


The Natural History of Destraction

The Kiev Trial

by Sergei Loznitsa

2022

 

セルゲイ・ロズニツァは、ベラルーシで生まれ、ウクライナで育った映画監督。元々は人工知能の研究をしていた。

 

2作いずれも「アーカイヴァル・ドキュメンタリー」、すなわち、過去に撮影された映像をもとに編集・構成した作品。

 

2022年に公開されているということは、要するに、ロシアがウクライナに侵攻しているさなかであり、2つの作品は、この現在進行形の状況と深くかかわっていることは想像に難くない。だが、どういうふうに私たちはこの2作と向き合えばよいのだろうか。

 

「破壊の自然史」は1940年代に行われた、英米がドイツに対して行った都市への空爆攻撃の模様を中心としつつ、その前後のイギリス、ドイツの様子を、さまざまな映像が組み合わされて描かれている。

 

「キエフ裁判」は1946年にソ連(ウクライナ)で行われたドイツ軍人たちを被告とした、戦争裁判の記録映像をもとにしている。

 

いずれも「重たい」作品である。

 

「破壊の自然史」は途中にチャーチルの演説など、明確な発話のシーンがいくつか差し挟まれてはいるものの、大半は爆撃音などが中心で「セリフ」がほとんどない。

 

ワーグナーの「ジークフリート・マイスター」がフルトベングラ―の指揮によって演奏されているシーンもあるが、全体は、ともかく「破壊」のさまを「自然史=博物誌」のように、映像と音声によってひたすら語りつくそうとしている。

 

一方「キエフ裁判」は裁判のあいだ、ロシア語がドイツ語に通訳され、また、ドイツ語がロシア語に通訳されるさまが、くどいくらいに繰り返され、「発話」にまみれている。

 

被告の発言の大半は、原稿が用意されており、それを杓子定規に読んでいるが、時折発露される戸惑い、怒り、悲しみの感情、そして、一瞬言葉につまるさまなどが、むしろ、この作品が強調したいところであるだろう。

 

ハンナ・アレントが「凡庸な悪」として論じた「ニュルンベルク裁判」と同じように、この裁判でも「罪を認める」者たちは、その者たちだけが戦争の責任をとっているかのように、その供犠の生贄にされているかのように本作をとらえることが可能であるだろうけれども、はたして、それでよいのかどうか。もう少し検討する必要があり、それは後日の課題としたい。

 

以下では、「破壊の自然史」について、少しだけ、これから考えるべき文脈をつくっておくにとどめておきたい。特に「自然史=博物誌」という言葉を手掛かりとして。

 

この作品のタイトルの由来は、ドイツのW.G.ゼ―バルト 「歴史と自然史のはざまで─文学による壊滅の描写について」 にあると言われている。

 

ゼ―バルト「新版 空襲と文学」の解説 「破壊に抗する博物誌的な記述」 を書いている細見は、アドルノが初期の作品「自然史の理念」から晩年の「啓蒙の弁証法」に至るまで、生涯追求してきた思考の核が「自然史」であることをベースに、本作を読み解くことができるだろう。また、類似した論点の論文はいくつかある(例えば、鈴木賢子「歴史と自然史のはざまで─文学による壊滅の描写について」 実践美学美術史学会(25) 2011.3)。

 

さらに、この「自然ー歴史」(NzturーGeschichte)はアドルノと同時期に生きたウィトゲンシュタインにとっても大きな課題であったとされている。もちろんベンヤミンにおいても「自然史」概念は抜き差しならぬものであった(例えば、山口裕之「ベンヤミンの自然史の概念 : 『ドイツ悲劇の根源』におけ. る「内在性」をめぐる概念連関」大阪市立大学 人文研究. 51 巻 8 号, p.181-203.)。

 

さらに言えば、これはフランス語文化圏に顕著だが、「自然史」は同時に「博物誌」といったほうが通りやすい学問の一分野としてビュフォンを中心に17世紀、すなわちデカルト以降の当時の学問状況において興隆したものでもある。

 

「破壊の自然史」における「自然史」は、上記のような思想的背景と無縁ではなく、とりわけ、本作をとらえる際に、「自然史=博物誌」と読み替えることは、きわめて重要なポイントであると思われる。

 

ここでフーコーの一節を引用したい。

 

「古典主義時代は、記述(イストワール)にまったく別の意味を賦与する。すなわち、物それ自体にはじめて細心な視線をそそぎ、ついで視線の採集したものを、滑らかな、中性化された、忠実な語で書き写すという意味である。この「純化」の過程で最初に成立した記述(イストワール)の形式が、自然の記述(イストワール)であったことは頷けるであろう。」(ミシェル・フーコー『言葉と物』154ページ)

 

この文章を通して「破壊の自然史」をとらえるならば、「破壊の自然史」とは、「破壊」というものを「物」としてとらえ、この「物」に細心な視線をそそぎ、採集し、滑らかな、中性化された、忠実な語で書き写す試みである、と言えるだろう。

 

戦争というあまりにも人間の感情が渦巻いている対象を「物」として取り扱い、昆虫採集がそうであるように、いろいろな意図で撮られたはずの映像をそれぞれ順番に配列して「標本」とするさま、それが「自然史=博物誌」である。

 

「(標本という)そこでは、いっさいの注釈や附属的な言語(ランガージュ)から解放された諸存在が、その可視的な表面をこちらに向けて一列にならび、その共通の特質にしたがって比較されそのことによってすでに潜在的に分析され、もつべき唯一の名を提示しているのだ。」(同、154ページ)

 

その「名」が「破壊」であるのだろう。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、LINEマンガで「鈴木先生」を読んでいる。

 

凄い! 凄すぎる!

 

正直に言うと、彼の思想、信条と私のそれとは、かなり異なっているのだが、その点が「凄い」のではなく、彼が、「討論」に立ち向かう姿が「凄い」のである。

 

中学校の教師である鈴木先生は、一見すると、まわりから信頼の厚い、ただの「良い人」教師のようだ。

 

だが、違う。

 

とりわけ相手が中学生であったとしても、容赦なく、本気で怒り、本気で対話を行う。

 

誰だって経験があると思うが、自分よりずいぶんと年が離れている人間に対しては、どこか横柄にふるまう自分がいる。

 

しかし鈴木先生はそんなことはしない。

 

むしろ、これから大人になってゆくことを前提として、まだ未成熟である彼らをそのままでとことんつきあおうとする。

 

現実的にはそれほど簡単には、たとえば中学生のクラス全員が分かり合おうと努力しあい、討議を行える機会など、ありはしないし、それは子どもたちだけでなく、何歳になろうとも、むしろ、加齢すればするほど、むしろ討議の機会が失われている。

 

だからこそ、なのだ。

 

必ず意見の対立は起こる。そこで、その対立に対して、どういった向き合い方をするか、それこそが重要であることを、鈴木先生は教えてくれる。

 

それは、これまで哲学が、とりわけ鷲田清一が「臨床哲学」「聴くこと」を強調してきたように、現代社会に生きる私たちにとって、もっとも重要な「哲学」である、と私は考える。

 

すなわち、「哲学」とは、「~である」や「~でなければならない」といった、「認識論」や「倫理学」よりも先に、「私」がいて「他者」がいて、それで一緒に生きているけれども、どうやって折り合いをつけてゆくのか、といった次元こそ、「哲学」の起点となるべきだ、ということを意味している。

 

ソクラテスの「対話」は、本質的にはそれと近いが、彼の独特の「アイロニー」は、読み手にいろいろな負荷をかけてくるため、なかなかすんなりとは受け入れがたい。

 

他方、ハバーマスの「対話」もしくは「熟議民主主義」は、かなり的を得ていると思うが、一方で彼の述べていることになぜか魅力を感じない。

 

しかし、そうこうしているうちに、21世紀はすっかりと「対話」や「熟議民主主義」が困難な時代となってしまった。

 

「多様性重視」とか「LGBTQ理解増進法」とか、私たちが今生きている社会は、一人ひとりの個性や嗜好を尊重し、いわれのない差別がないように、お互いに気を遣って共に生きてゆこうとする努力を行っている。

 

このこと自体は、決して悪いことではない。

 

しかし、こうしたことが強調されることで、実は、もっと深刻な事態が発生している、と考えるべきである。

 

トランプ元米大統領の発言や、都民ファーストの会などに象徴されるように、一方で私たちは、きわめてエゴイスティックになっている。

 

いや、エゴイスティックであることが、悪いとは思っていない。

 

それは生存本能のようなものであり、生命が生きているうえでの、必然的な態度である以上、無碍にするつもりはない。

 

そういう次元ではないところで気になってしまうのは、そうしたエゴイスティックのぶつかり合いが、「政治」であるとしたら、結局は、もっとも数の多い主張が「正しい」ということになってしまうことである。

 

さらにもっと憂慮すべきなのは、お互いの主張を、形式上は聞いてみせているようで、結局のところ、何ら、互いに受け止めないで、ただ、数が多かったことで、その「主張」や「ポリシー」や「政策」や「政党」が「正当化」「正統化」され「普通」「常識」「正しい」「真実」となってしまうことだ。

 

鈴木先生の良いところは、こうした問題に対して、あらためて、「問い」をたて、相手との対話を可能にし、すくなくとも、相手の立場や考えを全面否定することなく、自分の考えがあくまでもさまざまな考えの一つにしかすぎず、場合によっては、それが多数の人と同じであることもあれば、まったくのマイノリティで、多くの人には受け入れがたいということもありうる、ということを知る機会がまだ存在しうるということを、示し出している点である。

 

そしてこのことは、私が所属している学会「比較思想学会」の理念とも相通ずる。

 

思想の比較とは、単にA(たとえば東洋)とB(たとえば西洋)とを比較して、その同一性と差異とを見出すことではない。

 

対話や討議の場所を確保したうえで、そこで、意見や思想の相違を相互に見つめ直す機会なのである。

 

自分の正当性を強化することが目的なのではない。

 

自分に共感してくれる他者を見つけ出し、その数を増やすことが目的でもない。

 

むしろ、自分の存在、自分の思考が、一つの、世界における「奇跡」として、自らも祝福するとともに、他者からも祝福を受けることである。

 

もちろんそれは、一方的に終わるものではなく、相手に対しても同様のことを行ってはじめて、意味をなすものである。

 

比較思想学会は、2023年7月1日(土)と2日(日)に、大正大学巣鴨キャンパスにて、非常に濃厚なシンポジウムを4本行う。

 

 

「鈴木先生:が参加され、実りある「対話」「討議」が行われることを夢見たい。

 

 

 

 

 

読んだ本
新しい人間、新しい社会 復興の物語を再創造する 災害対応の地域研究
清水展、木村周平 編著
京都大学学術出版会
2015.12

 

ひとこと感想

災害後の建て直しは常套句で「復興」と呼ぶが、本書のタイトルが物語るように、単なる「原状回復」ではなく「再創造」が求められている。事例が幅広く各国から選ばれているのが本書の持ち味。国内では神戸、阪神淡路大震災、男鹿半島、東日本大震災、復興ツーリズムがとりあげられている。

 

***

 

いずれも興味深い論考が並んでいるが、以下、本書の第10章 復興ツーリズム(山下晋司)のみをとりあげる。

 

福島県への観光客は「3.11」を境に大きく減少した。

 

「とくに福島県の場合、原発事故の影響で修学旅行客が戻ってきておらず、とりわけ原発事故避難地域を含む浜通りは依然として厳しい状況にある。」(330-331)

 

観光(ツーリズム」という観点から東日本大震災からの「復興」を考える場合、以下の点がキーワードとなる。

 

 ・ボランティア → ボランティアツーリズム

 ・まなび → スタディツーリズム

 ・つながり → ソーシャルツーリズム


観「光」とはいうが、これらのツーリズムは「影」の部分にも光をあてることにほかならない。それゆえ「ダークツーリズム」という言葉も嫌がられながらも使われている。特に井出明はダークツーリズムのことを「悼む旅」(井出2013:145)とみなしている。


ただし、こうした大枠は、基本的に「東日本大震災」に対して向けられており、「フクシマ」にはそれほど比重がおかれていない。

 

それどころか、どこまで現実味があるのかわからない東浩紀たちの観光化「計画」を次のように書いたりしている。

 

「福島においては、事故から25年後の2036年に向けて福島第一原発を観光地にしようという計画もある」(344ページ)

 

いや、今のところ、ない(何らかの「観光地化」が目指されるのは必然だと思うが、これを安直に全面に打ち出すことは、かえって反発があることは想像に難くない)。

 

また、楽観的に次のようにも書いている。

 

「ヒロシマが平和観光のシンボルになったように、フクシマが原発事故の記憶とそこからの復活のシンボルとなる日もくるだろう。」(344ページ)

 

いや、今のところこれも、少し違う。果たして本当に「記憶」のシンボルになるだろうか。「復活のシンボル」となるだろうか。このあたり、ある種の「匙加減」が難しい。

 

ただし、次の一文はきわめて重要である。

 

「東日本大震災における震災・津波、原発事故というネガティブな経験は、新しい観光(ツーリズム)概念を生み出すきっかけになるかもしれない。」(344ページ)

 

この指摘は、きわめて重要である。そして、必要なことだ。

 

だが、実際はどうか。

 

ふくしま観光復興支援センター(現ホープツーリズム推進課)では「来て見て知ってふくしま」という冊子を刊行している。

 

第1号 2013年7月 特集=福島を語る人に出会う旅

第2号 2013年10月 特集=ふくしま復興ツーリズムガイドブック
第3号 2014年8月 特集=県内での視察やお話のコンテンツを紹介します

第4号 http://ふくしま観光復興支援センター.jp/file/plan/574b86b253aa0.pdf)

 

本論考は、こうした「フクシマ」における「復興ツーリズム」にのみ焦点をあてていればよかったように思われる。他の事例とともに語られると、今ひとつ「フクシマ」の問題が見えにくくなるからである。

 

***


公的制度に規定された日本の復興事業は被災者の創造力を奪っていないか?国内外の被災地を見てきた研究者が災害対策を現場から捉え直す。災害を生みの苦しみに転換する。


目次      
第1部 紡ぎ出す、読み替える

先住民アエタの誕生と脱米軍基地の実現―大噴火が生んだ新しい人間、新しい社会 清水展

現場で組み上げられる再生のガバナンス―既定復興を乗り越える実践例から 大矢根淳

復興の物語を読み替える―スマトラの「標準の復興」に学ぶ  山本博之

 

第2部 忘れる、伝える

神戸という記憶の“場”―公的、集合的、個的記憶の相克とすみわけ 寺田匡宏
プーケットにおける原形復旧の一〇年―津波を忘却した楽園観光地 市野澤潤平

制度の充実と被災者の主体化―生活再建をめぐるせめぎあいの二〇年 重川希志依

トルコ・コジャエリ地震の経験の継承―私の声が聞こえる人はいるか? 木村周平


第3部 作り出す、立ち上がる

小さな浜のレジリエンス―東日本大震災・牡鹿半島小渕浜の経験から 大矢根淳

アートによる創造的復興の企て―保険に支えられた移動/再建 大谷順子

復興ツーリズム―震災後の新しい観光スタイル 山下晋司

 

 

 

 

 

 

「エヴァ」「進撃に巨人」いずれも傑作ではあるが、両者の間には根本的な違いがある。

碇シンジとエレン・イエーガーの違いである。

二人は、ある意味、母親の死を引き金に、それぞれ、エヴァンゲリオン、進撃の巨人といった、大型の器に組み込まれ、得体の知れない「敵」と戦い続ける。

シンジの父はゲンドウ、母はユイ。

ユイの死を最も悲しんでいるのは、ゲンドウである。

シンジは亡き母への思いよりも、生きている父に自分を認めてもらうことのほうが、関心が高い。

しかしゲンドウはシンジには冷たい。

その結果、シンジは不貞腐れて、エヴァンゲリオンにおける闘いも、なかなか完遂しない。

他方、エレンの母の死は、エレンが引き受けている。

エレンの父は、自らの命(力)を息子に託している。

そのため、エレンは父とある意味同一化しており、父よりも母への思いに執着している。

その結果、シンジは常に内向きであり、他人とのかかわりも下手で、社会において生きてゆく術を持てずにいる。

エレンはその正反対。常に外や他者に関心があり、自分と敵対するものすべてを「駆逐」する覚悟や意志を持っている。

しかし、そうは言っても、シンジも、レイやアスカ、ミサト、ほかの他者と、共に生きる努力を惜しんではいない。

エレンはむしろ、周りの他者(ミカサ、エルミン、クリスタを除いて)には、非情に向き合うこともある。

 

一方、アスカとミカサとの対比も興味深い。

 

アスカはある意味シンジと同じように、親に対する心的葛藤をかかえつつも、シンジとは全く異なって、あくまでも一人で強く生きようと決意をしている。しかし、なぜかシンジに対する固執があり、そこから逃れることができずにいた。

 

ミカサは親(の死)に対する葛藤をあえて避けて、エレンのために強く生きることを決意する。しかし、エレンは彼女に固執(依存)させないように常にふるまうことになる。

 

****

 

全然別の話のようではあるが、突き詰めれば、自己と、自分が守るべき他者と、それからそれ以外の他者もいる世界と、どう向き合うのか、ということがテーマになっている、という意味ではきわめて似たような話であるように思えてくる。

 

しかし、エレンとシンジは表出の仕方は、全く正反対であるものの、こうしてみてみると、妙な共通性のほうが際立っている。

 

 

 

 

 

 

 

今から随分前の話である。まだ十代のころ、ある日突然、見知らぬ人から電話があった。

 

「あなただけに特別に、価値ある英語教材を紹介したいので、お会いできないか」というものである。

 

翌日、そのオフィスに行ってみると、優しそうな若い男性が待っていた。

 

話を聞くと、しっかりとした内容の教材のようであり、しかも月に1回、ネイティブの人と会話を楽しむサロンが開かれるという。

 

少々高額であるが、月払いにすれば払えないことはない。

 

何よりもそれで実力がつくのであれば、充分元はとれるはず、と思い、即決で契約書にサインをして意気揚々と帰路についた。

 

しかし、帰ってから冷静になってみると、とにかく高い。

 

しかも4年間も支払が続く。

 

――次の日、電話でおそるおそるキャンセルをした。

 

あれこれと文句を言われたが、頑なに断ったところで「クリーンオフ」となった。

 

ほっとした。

 

しかし、あのとき、そこでキャンセルしなかったらどうであろうか。

 

中身の良し悪しはさておき、自分がお金を出して使っている以上、人から聞かれれば「よい教材」と主張することだろうし、下手をすると別の人に勧めて買ってくれれば自分にもリベートが入ってくるかもしれない…というように、良くない方向に進んだに違いない。

 

自分が買ってしまったことはもう仕方のないことだとしても、それを他人に「よい」と言ったりしてしまっては、「詐欺」商法の片棒を担ぐことになるのではないだろうか。

 

万が一、その教材の中身がよかったとしても、そういう教材を肯定的に評価することはできないのではないか。

 

場合によっては、「評価」するという土俵にあげないほうがよいのではないか。

 

世の中には、こういった事例と似たようなことが無数にある。

 

さまざまな商売においても、一見純粋そうにみれる学術世界においても、そして、信仰の世界においても。
 

 

 

 

 

観た映画作品

100円の恋

2014年11月
武 正晴(監督)

安藤サクラ(主演)

 

 

ひとこと感想

なんというか、非凡すぎた。ちょっとカワイイとか、目立つ顔立ちとか、そういうのではなく、存在感、そして、役への没頭ぶり。溜息しか出てこない。

 

***

 

本作では、ひたすら「ダメ」な人間が登場する。

 

嫌になるくらい、「ダメ」である。

 

救いようがない。

 

安藤サクラも、あくまでも、その一人である。

 

しかも、ほかの「ダメ」な人間たちに「ブス」と言われ続ける。

 

「ダメ」な人間のなかでも、さらに「ダメ」出しをされている、それが本作における安藤サクラである。

 

だが、彼女は、立ち上がる。

 

「生きようとする」と言い換えてもよいのだろうか。

 

しかも、見事すぎるくらいの立ち上がりぶりを見せてくれる。

 

年齢制限ギリギリであるにもかかわらず、ボクシングにのめりこむのである。

 

しかも「勝ちたい」という一心で。

 

いや、だが、実際には「勝つ」ことはできない。

 

「勝ちたい」という思いは強かったが、叩きのめされる。

 

いや、それでも安藤サクラは、「負け」たことを背負ったことによって、はっきりと、一歩前に進むことができた。

 

結局は「勝ち」「負け」ではなく、「手ごたえ」「くやしさ」「生きている感」等をつかみとれた思うこと、それが得られたことのほうが大きいのであろう。

 

作品の冒頭から前半に登場する安藤サクラ。

 

後半にボクシングに打ち込む安藤サクラ。

 

この両者は、まったく別者に見える。

 

家に引きこもりゲームばかりしているモサモサした前半の安藤サクラ。

 

どのくらいトレーニング(練習)したのか、驚異的に機敏な動きを見せる後半の安藤サクラ。

 

この両者のギャップに萌え、愛おしく思えてしまう。

 

何ともストレートに肉体に響いてくる佇まい、語り、まなざし。

 

桃井かおりとやや近い存在感であるが、彼女よりももっとダウナー系で、「実存」の泥臭さが安藤サクラの魅力ではなかろうか。

 

稀有な役者である。感謝。

 

 

 

 

 


 

これは、私の家ではなく、私の母、すなわち実家の話である。

 

昨年の秋に保護猫を迎えていたのだが、その猫ちゃん、名前はグルにゃんと言うのだが、晴れて1歳の誕生日を本日迎えた、と実家から連絡があった。

 

元々、にゃんともネットワーク北海道の譲渡会で母が見染めた黒猫ちゃん。

 

とても元気に育ち、去勢手術を行うために病院には一回行ったが、それ以外は今のところ病院にお世話になることなく元気で暮らしている。

 

元々、多頭飼の崩壊からレスキューされた母猫から生まれたグルにゃん。

 

おそらく猫よりも人間との暮らしのほうがデフォルトになっている。

 

 

母は、元々動物が大好きであるが、高齢のため猫と暮らすことに躊躇していたが、何かあっても子供が何とかすると説き伏せたことで、今に至る。

 

母も、グルにゃんも、良かったと思う今日この頃である。

 

 

 

 

 

 

: Voix et voies de la décroissance
Les liens qui libèrent
2010

 

読んだ本

セルジュ・ラトゥーシュ

Serge Latouche(1940- )

〈脱成長〉は、世界を変えられるか? 贈与・幸福・自律の新たな社会へ

中野佳裕訳

作品社

2013年5月

 

ひとこと感想

本書はイバン・イリイチの「脱~論」の延長線上にあることは間違いない。私はイリイチの所謂「脱学校論」「脱医療化論」「脱自動車社会論」等を学生時代に知り、今なお問い続けているが、こうした論述にふれられること自体、良い刺激ではある。しかし。


***

 

1960年代後半、フレイレ、イリイチらが、社会における「学校教育」のあり方について、問いを投げかけた後、世界的に「脱学校」論が大きなうねりをつくりあげていったが、その際、イリイチは「脱」ということに用心深くあるべきだととらえていた。
 

英語では「脱学校」は「deschooling」であるので、少し丹念に言うのであれば、これは「脱学校教育」である。

「schoolong」(学校教育)に対して、イリイチは「deschooling」という語を用いた(正確には出版社がこの言葉を書名にするよう促した)。

 

de-schooling とは?

 

私は、この「de-  」とは、端的に、ジョン・レノンが「イマジン」で「天国」や「国」や「所有」がないということを想像してみてほしい、と歌ったあの「Imagine no ~」と同じ意味合いだと思っている。

 

イリイチは自ら「詩人」であると言っているが、同時に「歴史家」とも言っていた。

 

すなわち、この「歴史家」とは「物語作家」に近いと思われる。もしくは本質的な意味での「詩人」ということである。

 

したがって、その後彼が、「開発」や「経済成長」に対する批判を展開していった際にも、端的に「脱」という言葉を用いることに用心深かった。

 

さらに言えば、この「脱」とは同時に「de-   」のみならず、「ポスト post」の意味合いをも含むゆえ、どうしても、現状批判に対する、これからの指針を打ち出す際に、ごく自然に用いられている(結局のところ「de-   」はデリダの言う「脱構築」を意味することになる)。

 

それゆえ、このラトゥーシュの言う「脱成長」という言葉に私は、最初は、そのまま素朴に肯定的に受け取ることができなかった。

 

本書には「補論」として、「"décroissance"という単語の翻訳について」が挿入されている。そこでは成長を前提とした経済の縮小を目指すのであれば、同時に、経済成長という価値観の信仰をやめる、という意味合いが、「croissance」によって(すなわち「信仰 croyance」との近似性から伝わるが、英語やゲルマン語系に置き換えるのは難しいとされている。

 

近いところで「decreasing growth」や「shrinking」「shrinkage」が提案されているが、ラトゥーシュは「declining」や「decreasing」ではないため、やむなく「degrowth」を受け入れている、ということのようである。

 

不勉強だったせいで今まで気付かなかったが、この後、ラトゥーシュは、Alain Caillé, Marc Humbert, Serge Latouche, Patrick Viveret, De la convivialité : Dialogues sur la société conviviale à venir, ouvrage collectif Paris, La Découverte, 2011.という共著も出している。

 

はっきりと、イリイチの遺した思索の延長線上に、「脱成長」の新たな社会を構築しようという強い意志が見いだされる。

 

本書はこの、イリイチに加え、ジャン=ピエール・デュピュイやコルネリュウス・カストリアディスの思索が大きくとりあげられている。

 

また、アンドレ・ゴルツや、マーシャル・サーリンズ、ジャン・ボードリヤール、カール・ポランニーはもとより、ギュンター・アンダースやハンス・ヨナス、ローマクラブなど、ところどころに登場する人物や組織名もなじみのあるものばかりである。

 

それでは、ラトゥーシュの言う「脱成長」とは何か。

 

「経済成長優先社会、つまり経済成長のために経済成長を行う以外の目的を持たない経済によって構築されている社会との決別の必要性を主張するために発明さえた論争的なスローガンである」(57ページ)

 

ただし、こう定義した後で、ラトゥーシュは、この言葉が必ずしも「良い」ものとは言えないとしている。

 

意図されているのは、ともかく、経済成長や経済発展から抜け出すこと、である。

 

「抜け出す」すなわち「脱」は、「言葉」(表象)の次元と「物」(具体的現実)の次元の両方において求められている。

 

「持続可能な発展」という語も、当然、「撞着語法」「冗語法」として問題視される。

 

「発展は持続可能でも維持可能でもない」(61-62ページ)

 

具体的には、8つの「R」というものを提唱している。

 

・再評価する

・概念を再構築する

・社会構造を再構築する

・再ローカリゼーションを行う

・再配分を行う

・削減する

・再利用する

・リサイクルを行う

 

これらによって、「コンビビアルな」脱成長運動が始動可能だとしている。

 

ただし、これだけではなかなかどっぷりと「成長」のなかに生きている人たちには伝わらないとして、10の政策案を2007年にフランスに対して提案している。

 

1 持続可能なエコロジカル・フットプリントを回復させる

 

2 適切な環境税による環境コストの内部化を通して、交通量を削減する

 

3 経済、政治、社会的諸活動の再ローカリゼーションを行う

 

4 農民主体の農業を再生する

 

5 生産性の増加分を労働時間削減と雇用創出に割り当てる

 

6 対人関係サービスに基づく「生産」を促進する

 

7 エネルギー消費を1/4まで削減する

 

8 宣伝広告を行う空間を大幅に制限する

 

9 科学技術研究の方向性を転換する

 

10 貨幣を再領有化する

 

どうであろうか、この10の「指標」は、受け入れられるだろうか。

 

なお、「コンビビアリティ」について、ラトゥーシュはマルセル・モースの「贈与」論との近似性を指摘している。

 

「社会的交換の中に贈与の精神を再導入し、アリストテレスの定義するフィリア(友愛)と結びつく」(120ページ)

 

「楽しみと分かち合いにあふれる生活をつくる道具」(120ページ)が「コンビビアルな道具」であり、具体的には、自転車やミシンが挙げられている。

 

何よりもイリイチからいろいろなことを学んできた私にとって、こうしたラトゥーシュの言述は、素朴に諸手を挙げて受け入れられるものではないとしても、十分に、共感をもって受け入れられるものではある。

 

とはいえそう簡単にこうした発言が何かを変えられるかどうか、その点においては、非常に悲観的にとらえざるを得ないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

観た作品

 

 

 地球最後の男
1964年

 

ひとこと感想

コロナ禍においてはじめてこの作品にふれた。いろいろと別な意味で考えさせられた。結局は他者との向き合い方が問われている。

 

この作品のポイントは、以下のようにまとめられる。

・新種ウイルスの感染によって主人公を除く全人類が死滅
・ただし、感染者は死亡後、「ゾンビ」となる
・そのため、埋葬はせずに直ちに火葬に付す
 (死体からの感染を防ぐためという説明があるが、他方で、「ゾンビ」として活動するのを防ぐためとも考えられている)
・主人公はかつて蝙蝠に噛まれたことがあり、それにより抗体がある

本作における「ゾンビ」は、以下のようなものとして描かれている。

・ニンニクが苦手
・鏡が苦手
・日の光が苦手(夜しか活動ができない)
・絶命させるには心臓に杭を打たねばならない
・十字架も苦手(ややあいまいに描かれている)

以上の性質は、「吸血鬼」と共通しているため、本作の「ゾンビ」は、「吸血鬼」の一種と言える。

言い換えれば、「人が死んで、また、生き返る」という「吸血鬼」を科学的、20世紀的に説明しようとすると、「新種ウイルス」のせい、ということになるのだろうか。

ロメロの「ゾンビ」との大きな違いは、「放射線による突然変異」ではなく「ウイルス感染」によって生み出される点である。
情報通信環境としても、本作では、回想シーンで新聞やテレビで世界の異変について知らされていることと、「国際周波数」を使った無線通信で、全世界に呼び掛ける設定になっている。

ラジオや電話は登場しない。

それはさておき、本作における「ゾンビ」は、微妙に「知性」もしくは「認識能力」と「言語活用能力」がある。

・相手を名前で呼ぶ
・遠くから自分が住んでいた家まで戻ってくることができる
・「家に入れてくれ」とか「いるんだろう?」と訴えることができる
・道具を使って車や窓ガラスを割ることができる
・車の座席シートを運ぶなど、それなりの力仕事もできる

新型コロナウイルスによる感染が拡がる今であれば、むしろ、本作のほうが、示唆に富む。

・ヨーロッパ由来で風に運ばれて拡散
・当初、化学者である主人公は、世界に蔓延するとは考えていなかった
・このウイルスは新種で、どんな方法でも死滅させられない
・周囲に感染者が出た場合、早急に保健所に連絡し、外出は控え、"密"にならない様に
・症状として、失明がある
・突然死に至る

作品のなかで、注意を引くのは、「お願いだから、ちゃんと埋葬させて」というセリフである。

もちろんこの映画作品を手掛けている文化圏では、慣習として今でも埋葬が多いことは承知しているが、ここまでこだわりがあるということに驚かされる。

少なくとも、この点においては、私が暮らしている文化圏との違いがある。

感染者の拡散を増やさないようにするためにも、埋葬よりも火葬のほうが安全性が高いことは、攻守衛生上の常識であるだろう。

にもかかわらず埋葬にこだわるのは、むしろ「復活」や「審判」を前提としているからであることは、わかるが、それでもやはり解せなくはある。

また、本作において、物語に深みがあるのは、主人公が「地球最後の人間」であるとしても、同時に、感染したにもかかわらず、ワクチン接種によって生き延びている人間もいることである。
そちら側からみると、主人公は、自分たちの仲間を毎日杭を打って殺戮する存在である。

なお、原作は、以下のとおり。

I Am Legend
Richard Burton Matheson
1954

本作以外にも、上記原作をもとにした映画が作成されている。

The Omega Man 地球最後の男オメガマン
1971年(アメリカ)

I Am Legend アイ・アム・レジェンド
2007年(アメリカ)