観た映画作品
Night of the Living Dead ナイト・オブ・ザ・リビングデッド
George A. Romero ジョージ・A・ロメロ 監督
1968年10月

ひとこと感想
「ゾンビ」映画は、この作品より以前にも現れているが、ゾンビに食われた人間もまたゾンビとなる、という、所謂「ゾンビ映画」のオリジンが本作である。ただし、ここでは「ゾンビ」という言葉は用いられず、「リビング・デッド」と言われている。「リビング・デッド」が放射線の影響により生み出されたのではないか、という設定がなされている。

 

 


ロメロは、「ゾンビ」シリーズとして、本作を含め6編をこの世に出している。

1 Night of the Living Dead (1968) ナイト・オブ・ザ・リビングデッド
2 Dawn of the Dead (1978) ゾンビ
3 Day of the Dead (1985) 死霊のえじき
4 Land of the Dead (2005) ランド・オブ・ザ・デッド
5 Diary of the Dead (2007) ダイアリー・オブ・ザ・デッド
6 Survival of the Dead (2009) サバイバル・オブ・ザ・デッド

 

40年間、ゾンビ映画を作り続けた、骨太である。

しかし、気になるのは、1作目が「リビング・デッド」だったのが、2作目以降は「デッド」となっていることだ。これでは単に「生者」に対する対立項としての「死者」に「ゾンビ」を収めることになってしまう。

 

「リビング・デッド」すなわち「生ける屍」という矛盾した表現が何とも、たまらない。

 

それはさておき、この1作目が公開された「1968年」とは、どういう時代だったのか。

 

「プラハの春」「キング牧師暗殺」「パリ五月革命」「ケネディ暗殺」「三億円事件」などが、出来事として並ぶ。

情報通信関連の環境はどうだったのか。
 

作品内では、自動車にはラジオが取り付けられており、家には電話とラジオとテレビがある。当然パソコンやインターネット、スマホはない。

ラジオやテレビは有益な情報を提供するが、あくまでも一方向である。世の中で何が起こっているのかを理解するためには役に立つが、自分のまわりで起こっていることを他者や世の中に伝えることはできない。肝心の、双方向でやりとりができる電話は、不幸にもつながらない。

登場人物たちは、一軒家に隠れるが、結局、外部とのやりとりができず、ゾンビに囲まれる。しかも、人間どうしも互いに信頼関係が結べず、対ゾンビの協力もしあえない。

すなわち、7人の人間たちは、「リビング・デッド」によって滅ぼされるのではなく、「リビング・デッド」をきっかけにして、自分たちの共同体の共同性の脆弱性によって敗北するのである。

 

おそらく、「ゾンビ」映画への関心の高さは、こうした、人間どうしが不信感を抱いて共存しているという現実に対する不安が根底にあるように読める。

この不安感に対して、そうした「他者」を同じ「人間」とみなしたくない、理解したくない、受け入れたくない、殺してしまいたい、という無意識の欲望が垣間見られる、と言うと言い過ぎだろうか。

 

ともあれ、ゾンビと向き合う人間とその社会が問われているのである。

 

ところで、本作に登場する「リビング・デッド」の特徴は、以下の通りである。

・挙動はゆっくり
・人間と意思疎通ができない
・人間を食べる
・火が苦手(身体は簡単に燃える)
・頭部への銃撃により活動が止まる

 

その後多数生み出されるゾンビものは、これらを基本としながらも、さまざまなバリエーションがある。

 

しかし、ここで注目したいことは、ゾンビの性質や本質よりも、彼らがどうしてこの世にあらわれたのか、その、生み出された原因である。

作品内のラジオやテレビで流された情報によれば、金星に向けて発射された探査衛星が地球に帰還する途中でNASAによって爆破された結果、高水準の放射性物質が地上に降り注ぎ、その結果、死体が「突然変異」を引き起こして、動き出したのではないか、と推定されている。


死者が突然変異を起こすのであれば、生者にも起こっていてもおかしくない、というつっこみは、ここではしないでおこう。

 

ともかく、死者が放射能によって突然変異を起こし、ゾンビと化したのだ――これは、一体どういうことだろうか。


1960年代後半、世界は、米ソ対立により大量の核兵器が用意され、それらがいつ用いられるか分からない恐怖に怯えていた。1968年に暗殺されたケネディも、一度は核兵器のボタンを押しそうになったことがあった(1962年、キューバ危機)というほど、緊張が続いていた。

 

それに伴い、映画やアニメ、漫画といった表象の世界においては、核戦争や放射能やその他による人類や地球の滅亡がたびたび語られていたが、それと同時に、放射線の影響で「突然変異」「奇形」「ミュータント」を題材とした作品も現れていた。

 

放射線による被曝は、遺伝子レベルで影響を与えうるが、短時間における低線量の照射など、条件によっては、結果的にはっきりとしたダメージとならない場合もあることが、現在では知られている。

 

しかし、広島や長崎における原爆被害や各地で行われた核実験、さらにはTMIやチェルノブイリ原発事故が起こった当時は、さまざまなことが言われた。

 

核に対する恐怖は、単に、死に至るかもしれないという、けた外れの破壊力というだけでなく、生存者にも、その胎児にも、深刻な影響を及ぼすのではないかという懸念があった。

 

今のように、放射線の健康被害が明確に数値で示すことができなかった時代があった。その時には、だが、その後の調査からは、はっきりとした影響がある、という結論には至っていない。

 

それゆえ、科学的には、「放射線」と「突然変異」は今では、結びつきにくくなっている。

 

しかし、当時jは、この両者は、結びつきうる懸念があった。

さらに言えば、もう一つ、気になる映画作品がある。

 

邦画で、関川秀雄の「ひろしま」である。これは、「被曝者」と「ゾンビ」との近似性を描いている、と言える。

 

 

 

 

表象の世界では、このように、ある種の「歪曲」をもって、放射線に対する恐怖心が、「ゾンビ」を生み出したと言える。

人間が人間を食らう、という「禁忌」を破るふるまいが、いわば、放射線がもたらす「影響」ということになるのかもしれない。

すなわち、放射線は、人間社会が形成してきた「禁忌」を踏み越えるのである。

その後、「ゾンビ映画」もバリエーションが増え、寄生虫、ウイルス感染など、さまざまな理由によってゾンビが生み出されるに至り、必ずしも「放射線」でなければならないということはなくなってゆく。

しかし、他方では、ロメロ以外にも、「放射能」を原因とした作品は作られ続けている。

Incubo Sulla Cittá Contaminata ナイトメア・シティ
1980

 

 

「ゾンビは放射線の影響により異常に身体能力が向上した人間であり、壊れた赤血球を補充するために血を求めて人を襲い、さらに感染していく」(Wikipediaより)

SOLAR IMPACT ディープインパクト セカンド・クライシス
2019

 


「隕石の放射線を浴びた人体のDNAが突然変異して凶暴化し、その感染者が爆発的に増殖」といった内容のようである。

なお、ゾンビ映画に関しては、数多くの研究があり、それらを参照したうえで、もう少しきめの細かい考察もしてみたいものだが、残念ながら本稿は今回はここまでにしておく。

 

 

 

 

 

 

一期生のSくんは偉い。普段はシニカルにあれこれ言っていたが、実習地の一つである箕輪町で今は働いている。

 

二期生のAさんも偉い。地道に一年の時から公務員試験対策講座をやり続け、やはり実習地の一つである益田市で働く内定をとった。

 

もちろん他にも、実習地延岡で今は働いているOくん、大学院に通いながら地域起こし協力隊として活動するHくん、登米市の地域起こし協力隊をやりながらあちこちで活動しているTくん、長井で実習をして今は群馬の地元で働いているMくん、佐渡で実習をし秩父の民俗文化を研究してやはり地元で働くSくんをはじめ、書ききれないほど、大正大地域創生学部の学生は、地域を好きになり、地域にかかわり、地域に恩返ししたくなる人間になってゆく。

 

そんなさなか、二年生は今年の実習活動は現地に行けず、オンラインマルシェを企画運営した。

 

それももう、あと数日を残して時間切れとなる。

 

どこの地域も頑張ってほしいが、私が特に関わっているのが、岐阜県中津川市。そして今年から担当となった山形県長井市。

 

ほか、


長野県箕輪町
兵庫県淡路市
島根県益田市
鹿児島県奄美市

 

も頑張っています。

 

どうかこれを読まれた皆さん、このリンクからどこか一地域、何か関連性のある地域の物産を”自分お歳暮”としてご購入いただけないでしょうか?

 

21世紀は地域を愛する時代になると確信しています。

 

レディーフォー 大正大学 で検索をお願いします。

 

最後のお願いでした。

 

 

 

 

 

ふだんはとてもおとなしいんです、我が家の猫、コロコロちゃん。

 

元々、外猫だったのです。出会ったのは、4年8か月前、そのときは、まだ生まれて6か月くらいと思われます。

 

うまく室内飼いにできたのが3年4か月前。

 

ただ、そのあと、けっこう苦労が多く、スプレー多発、尿が排せつできなくなり、夜間病院に駆け込んだり。

 

ただ、そのあとは、比較的順調で、ごはんも決められたもので、分量も正確に毎日45グラム。

 

 

かなり安定していたのですが。

 

本日、たまたま仕事が休みで、朝から自宅にいると、何度もトイレに駆け込んでいました。

 

おかしいな、と思いつつ、猫砂をチェックすると、少量ずつ、おしっこはしていました。

 

夜間病院に駆け込んだ時は、朝からトイレに何度も駆け込むものの、排せつできず、しかも、いかにも辛そうな表情でしたが、今回は、そのときほどではありませんでした。

 

とはいえ、心配になり、夕方にかかりつけの病院に電話すると、やはり、連れてきたほうが良いとのこと。

 

これまで外に連れ出せたのは2回だけ。いずれも私の手は流血、コロコロちゃんはスプレー攻撃。えらい目に遭いながらでした。

 

今回はうまくゆくのだろうか。と考える時間もなく、どうやって連れてゆくのか、勘案。

 

これまではキャリーバッグでしたが、なかなか入ってくれない。そこで、小さめのケージがあったので、何気なく用意。

 

 

コロコロちゃん、まだ寝ていました。ぼーっとしているところを抱きかかえ、一気にケージに入れました。入った!

 

扉を閉めたところで、ようやく事態を把握。ふーっとお約束。

 

ケージ上にタオルケットをかぶせると、それほど騒がず。

 

トラップインに成功しました。

 

もう一度病院に連絡を入れ、これから向かいますと伝え、続いて、三和交通のわんにゃんタクシーに連絡。動物病院送迎に配慮いただけるありがたいタクシーサービス(運賃と送迎料金以外追加はありません)で、病院に迎う。

 

1時間ちょっとしてから、診断の結果、今回は膀胱炎とのこと。膀胱炎は、侮れないが、おしっこが出ないよりはまし。

 

ついでながらにワクチン接種、検査のための尿採取。

 

帰りもわんにゃんタクシーに来ていただき無事に帰宅。

 

今後も、いつどうなるかはわかりませんが、今このとき、無事でいられることに、感謝します。

 

ともあれ、本日、たまたま仕事が休みだったことと、たまたま一発でケージに入ってくれたから病院に速やかに連れてゆけたけれど、それ自体が僥倖でした。

 

 

 

 

 

(画像説明)新横浜公園(横路浜スタジアム横)の多目的遊水地。

これによって、昨年の大雨は氾濫を防いだ

 

専門家や科学者、学者と言えば、とりあえず、その発言に一定程度以上の信頼があると想定することに、異論をはさむわけではない。だが、2020年のコロナ禍においても、そして、2011年の原発事故においても、彼ら(の一部。すべてではない)の立ち位置と彼らに何かをお願いする人たちの言動に疑念を抱く機会が多くあり、それでは一体、専門性とは何なのか、科学とは何なのか、学問とは何なのか、そうした反省は今も、そして、これからも避けられないだろう。

 

しかも、コロナ禍における「専門者会議」のありようは、「政治」に振り回されっぱなしで、いかに「専門家」というものが脆弱な立ち位置にあるのかを露呈させた。ただし大事なのは、彼ら専門家は、この問題点を表舞台に出した、ということである。

 

専門家は、直接的であれ、間接的であれ、何か発言したり、社会的責任を負おうとした場合、必ずこうした「政治」との絡みが発生する。そのことは避けられない。では、そうした中で一体何ができるのか。何を言いうるのか。

 

***

 

ところで、科学と学問はほぼ同じような意味で現在では用いられる一方、科学は、場合によっては自然科学に絞って指されることもあるし、他方では科学技術として、技術との連動性が前提となることもあり、少々厄介である。

 

専門家と言った場合、科学者や学者のみを指すのではなく、その道に習熟している人を指すため、科学や学問にかぎらず、広い。

 

適応される範囲としては、

 

専門家>学者>科学者

 

となるかもしれないが、そのこと自体はさして重要ではない。

 

以下では、ややあいまいに、これら、専門性、科学性、学問性、場合によっては、技術や哲学という言葉で言われているものも含んで語るが、それというのも、科学が歩んできた今日までの歴史が生み出したものがそうさせているということである。

 

議論の参考にした書物は、村上陽一郎『科学の現在を問う』(講談社現代新書、2000年)である。これは、ちょうど現代新書シリーズの1500番目にあたり、出版社や編集担当者が相当気合を入れた一冊であると考えられる。

 

著者はちょうどサバティカルの年であり、当初は海外を回る計画をたてていたようだが、近親者の死によって、国内にとどまることになり、その間に生まれたのが本書であるようだ。

 

しかし、2020年の読者としては、むしろ、本書の発行された年が2000年であったことに注目をしたい。

 

他の書においてもそうであるし、本書においてもそうであるが、村上は、1999年に起こった東海村の臨界事故を「科学の現在を問う」際の具体的事例の一つとしてとりあげている。

▼過去の関連記事

 東海村臨界事故への道(七沢潔)、を読む

 

 

おそるべき裏マニュアル~東海村臨界事故への道 その2

 

*この記事は2013年にアップしてから今日に至るまで地味ではあるが継続的に読まれている

 

本書ではそのほかに、JRの新幹線のトンネルのコンクリート壁が剥落するという事故、三番目が、H2ロケットを使った発射実験の失敗、をとりあげている。

 

しかし、こうして並べてみると、臨界事故のインパクトが格段に大きい。なぜならば、ここから10年少したって、原発事故が起こっているからである。

 

新幹線に関しては、その後も深刻な事故は起こっておらず、ロケット開発についても、当時の失敗の後にはコストダウンや純国産にこだわらないなどの方針転換を行ったことによって順調に開発が進められて現在に至っていることをふまえれば、1999年に起こり、その後にも大きく影響を及ぼしたのはやはり、東海村の事故だったと言えるのではないだろうか。

 

また、本書の構成であるが、全体としては、科学と技術をつなぎ合わせて「現代科学技術」を問題にしており、特に、1)安全性(のちに村上は「安全学」を提唱する、2)医療(臓器移植、クローン)、3)情報、4)倫理(科学者の社会的責任)、5)教育(大学における理工学部)、と言ったテーマに各章をあてている。

 

1)に関しては、上記で少し述べたように、3つの事故をもとに論じているが、残念ながら、事象的な、否、現象的な所感を述べるにとどまっている。

 

もちろんそれは、東海村の臨界事故が、原子力における高度な科学力や技術力の直接的な敗北ではなく、現場の無知、現場における「裏マニュアル」による過失にすぎないとみなすことも、できなくはない。

 

しかし、むしろ、この場合、現場で作業をしていた人たちが、そんなことも知らずに働いていたという、これまでの理科教育の不備を問題にしてもよかったであろうし、また、組織における、現場と本部(本店)との温度差というものも、もう一度、検証すべきでもある。

 

しかも後者の組織、制度の逆生産性的な過失は、何もここにおいてはじまわったわけではなく、阪神淡路大震災や酒鬼薔薇事件、オウム真理教によるサリン事件などとの対比のもとに議論されねばならないはずであるが、今ふりかえって本書を見ても、そうした歴史的プロセスが見えにくい。

 

そして何よりも、原子力に対する私たちの向き合い方を、その時点でもう少し問うべきであったろう。

 

もう一点としては、情報に対する見通しであるが、おそらくこの20年間のめまぐるしい進化は、村上の想像を超えている。パソコンはもとより、スマホでどこでも情報を受け取ったり、やりとりをおこなったり、その影響が国政を変えるほどにまでになるとは、きっと思いもよらなかったであろう。

 

しかし、すでにボードリヤールは1981年に「シミュラークルとシミュレーション」を発表しており、将来のネットワーク社会の構図を見通していた。

 

原発事故とシミュラークル(オリジナルなき複製文化)

 

 

 

 

 

本書で繰り返し主張されているのは、「科学者」の特性のようなものである。19世から現在に至る科学者というものの性質を一言でまとめると、「好奇心のかたまり」ということになる。

 

それ自体は目新しい主張ではないが、これを芸術家と対比させているところが興味深い。

 

芸術家もまた、自らの喜びを得ることに基づいているとすれば、対象は異なれども、科学者も同じようなものであるととらえられている。にもかかわらず、芸術家はよほどのことがなければ生活できないが、科学者は比較的それなりの数の人たちが大学や民間研究機関などで働き、生活ができている。

 

もっと言えば、科学者は、一方では自らの活動は「純粋な知的活動」であるとみなしている。すなわち、社会や他者に役に立つかどうかといった基準で研究しているわけではないということを主張し続ける。

 

村上は、こうした二面性を問題視する。

 

とりわけ、原爆開発にかかわった科学者たちのことをふまえて、そこに「科学者の社会的責任」というテーマを突き付ける。ここにおいて、純粋な知的欲求で研究していた、という言い訳を封じ込める。

 

これは、技術者の場合にはそうはならない。技術者は「ものを制作」することにおいて、必ず他者や社会とかかわるため、「社会的責任」から逃れることができないことが大前提となっている。

 

にもかかわらず、「科学」者は、そうした直接性がないか、意識されないか、はたまた、意識しないようにしているのか、いろいろな次元はあるにせよ、直接的な責任が問われないかのような距離感がある。

 

そう考えてみると、現在において、たとえばコロナ禍においてメディア(テレビであれSNSであれ)で発言する人たちは一体何なのか、と考えてしまう。

 

最初にあえて「専門家」「学者」「科学者」という3つの言葉を持ち出したのも、こことかかわるからだ。

 

彼らに求められているのは、明らかに「専門性」であり、「学問的裏付けのある発言」であり、「科学者としての社会的責任を自覚していること」であると、考えられる。少なくとも私はそうしたことを要求するし、それがクリアされていることを前提として発言に耳を傾ける。

 

それぞれの専門領域において活動し、その領域における共有事項をふまえ、かつ、その領域において一定程度以上の信頼が得られている人が、一種の「代表」として語る、というのが理想であるはずだ。

 

ところが、現状はそうではない。

 

むしろ、その外部にいるか、そうした領域内におけるマイノリティがあたかもその領域を「専門家」と称して代表してしまっている。

 

いや、何もそういう人が発言すべきではないと言っているのではない。また、そういうポジションが悪い、と言いたいのでもない。

 

自分がどういったポジションにあるのか、その領域ではどういった闘争が行われているのかを含めて述べてゆくべきだと、私は思う。

 

 

 

エドガー・アラン・ポー( Edgar Allan Poe, 1809-1849)の初期短編「ペスト王」(King Pest, 1835)を読んだ。創元推理文庫版で、翻訳は、英文学者でジョイスやシェイクスピアなども手掛けている高松雄一である。

作品が発表された1835年と言えば、天保6年、江戸後期であり、滝沢馬琴が「南総里見八犬伝」を書き続けていた頃であり、1837年には大塩平八郎の乱が起こる頃でもある。

ポーと言えば、私はなんとなく20世紀初頭くらいに活躍したかのようなイメージを持ってしまうが、もっとそれ以前である。

また、マルクスがちょうどボン大学に入学したとき、アンデルセンが「即興詩人」を書いたとき、でもある。考えてみれば、アンデルセンの作風とポーのそれとは、当時の時代や土地の風情のようなものの類似性を感じるし、マルクスがドイツのイデオロギストたちをこき下ろすときの皮肉めいた口ぶりとの共通性も感じる。まあ、そういう時代の作品である。

一方で、ポーと言えば、私にとしては、フランスの精神分析家ジャック・ラカンが「盗まれた手紙」を題材にして議論をしていた(「≪盗まれた手紙≫についてのセミネール」ことが、今でも親しみを覚えるきっかけとなっている。

 

 

外見が似ている2つの手紙があるとして、その両者のうち、いずれが自分にかかわるものなのかを知っていることと、知らないこと、そして、その2つは取り換え可能であるかのように、見えていること。これは、ラカンが別のところで、すなわち、「公衆トイレの2つの扉」においても、同じ扉でありながら、形と色の異なる「記号」の表示により、人は、自分が入ることを許される扉を選ぶことができる、という議論と同様に、「記号」(「言語」でもよいし「象徴秩序」でもよい)の持つ特性を言い当てている。

 

もっと一般的に言えば、これは、「隠す」「隠される」ということが、できるだけ凡庸であればあるほど、うまくゆく、ということを意味している。人間の認識は、あたりまえに見えるものや、堂々と隠されていないかのように見えるものほど、よく見えておらず、よく見ようとしない。そういった人間の心理の「くせ」に対する洞察を、この作品から読み取ることができる。

しかし、それでは他の作品はどのくらい面白みがあるのか、と言われると、それはかなり好みが分かれるところかもしれない。

実はこれを書いている時点では、私はまだ、創元推理文庫「ポオ小説全集I」を読んでいる途中であり、初期作品以外では、モルグ街の殺人や黄金虫、黒猫、アッシャー家の崩壊、などを除けば、読んだ記憶があまりない(なぜならばポーの作品集を読んだのは小中学生のとき以来であるから)ために、以下で述べることは、あくまでも、「ペスト王」というこの作品そのものの描写を切り取るだけにしたい。

「ペスト王」は、副題が「寓意を含む物語」となっている。

全体的に、無茶苦茶で、グロく、何やら知識の力で煙に巻くように見える傾向は疑いえないが、それでもなお、さすがポオだ、という印象をもつ作品である。

「ペスト王」の舞台は、エドワード三世の治める時代というから、14世紀、まさにペスト(黒死病)が蔓延していた頃のロンドンである。

「この波瀾に富む物語の当時、またその前後多年にわたってしばしば、英国全土には――特に首府ロンドンには――「疫病だ!」という恐怖の叫び声が鳴り響いていた。」(347ページ)

オランダとイングランドを往復している商船の乗組員水夫2人が、船から降りて、ロンドンの酒場に入るところから、物語ははじまる。

さんざん飲み歩き、金がなくなったため、店から脱兎のごとく逃げ出したところ、いつのまにか、危険な場所へと入り込んでゆくが深酒をしている2人は全く無頓着である。

「王の命によってこの界隈は禁制の地とされ、その陰鬱な静寂を犯すものは何人たりともすべて死刑に処されることになっていた。」(167 ページ)

言ってみれば、ここは、すでに住む者もなく、ロックアウトされた地区ということになる。

当然のことながら、こうした地区では、建物に残された貯蔵品や調度品は、略奪の対象となっていたので、荒れ果てた風景が目に浮かぶ。

それでもその荒くれの2人は、酒の勢いを借りて、さらに奥へ、奥へと、進んでいった。

彼らはある建物のあたりで躓き、その家には、ないはずの「人気(ひとけ)」があった。

そこは元葬儀屋だったところのようで、しかも家に忍び込んでみると、とても広い酒蔵をもっていることが、ただちにわかった。

しかも、その「人気」はとても「人」のものとは思えないほど、不気味な連中が、食卓を囲んでいた。

ここで6「人」に容貌の記述に入るわけだが、それぞれが容姿に唯一無二の特徴を持っている。詳細は割愛するが、グロテスクな世界である。また、葬儀屋という場所柄なのか、骸骨や棺桶が部屋中を装飾している。

「一座のおのおのの前には頭蓋骨のかけらがおいてあった。盃のかわりに用いるのである。」(174ページ)

2人の水夫の存在に気付いたその「連中」は、この珍客に対して礼儀正しく自己紹介をするが、なんとその代表格は、「ペスト王」を名乗り、「全王国」を統治しているという。

しかも彼らの企ては、酒を利用して推し進められるものであるが、その「企て」とは、「われらのすべてを司る無限の王国の君主、あの超自然界の王、「」のまことの繁栄をおし勧め」(176ページ)ることのようである。

ここには、「死」と「酒」との近接性が土台となって、物語が構成されているが、「酒」は「死」への第一歩であるかのようにみえるが、その逆で、むしろ、あたかも「生への意志」の象徴であるかのように描かれている。もう少し丁寧に言えば、「生」と「死」とをつなぐ重要な契機となっている。

ただ2人の水夫は、自分たちの「快楽」のためにのみ酒を飲みたい。しかし、ペスト王は、「予が王国の繁栄を願ってこれを飲みほしたならーーひざまずいて一息に飲むのだぞ――おのおのの好むところに従って、ここから出ていこうと、あるいはとどまってわが食卓に列する光栄を受けようと、お前たちの勝手次第だ」(177ページ)という、かなり譲歩したつもりの提案を行う。しかし、水夫の1人は、全面的に拒絶する。

この「拒絶」こそ、「生への意志」である。提案を拒絶し、ひと暴れして、水夫たちはこの場から立ち去るのだった。

ただ、それだけの話である・・・。

新型コロナウイルス禍のさなか、こうした物語にふれても、別段、何か教訓を得るわけでも、役に立つわけでもない。しかし、まるで「疫病」も「死」をあざ笑うかのように「酒」に溺れて暴れまくるその姿には、強い生命力を感じる。

これをある種の「皮肉」や「批判」と考えるならば、そういう意味では、単なる「肯定」や「否定」と異なり、他者(疫病も含む)を巻き込みつつ、もしくは、他者(疫病も含む)にからめとられそうになりながらも、「生き抜こう」とする姿が描かれている、と言えるかもしれない。

残念ながら、私の洞察はここまでである。

ちなみに、ポーには「赤死病の仮面」(The Masque of the Red Death, 1842)という作品もある。何か述べることができるものがあれば、こちらについても、いずれふれる機会があるかもしれない。また、本全集には小林秀雄や2/3を訳し、残りの部分を小林の文体に沿って大岡昇平が訳した「メルツェルの将棋差し」という作品も含まれている。本書のなかではこの訳文がもっとも優れた訳文ではなかろうか。

 

 

 



20世紀後半に活躍したフランスの哲学者、ミシェル・フーコーの初期の代表的著作である『狂気の歴史』の第1章は「阿呆船」というタイトルである。

 

この章では、最初に、ヨーロッパ中世の「らい病」に対する人びとの関係のとり方の経緯が探られている。

 

「中世初期から十字軍時代のおわりまで、らい施療院はヨーロッパじゅうにその呪われた区域をふやしていた」(21ページ)

 

フーコーは各国の具体的な数字を挙げている。フランスのみならず、イングランド、スコットランド、ドイツの状況を示しつつ、14世紀には急速に「らい施療院」の数と患者数が減っていったと述べる。

 

その理由として、長期にわたって「隔離」を行ったこと、近東との交易や交流が減ったことなどを挙げる一方で、数の減少が医学による勝利ではないことを、さり気なく書き込んでいる。

 

フーコーが気に留めるのは、そうした「らい患者」の数が減少した後に残された「痕跡」や「イメージ」である。言い換えれば、ある人たちを「隔離」「監禁」「排除」するという、社会における「構造」(システム)というべきものが、ここにおいて生み出された、とみなすのである。

 

実際に、その後、「貧乏人」「放浪者」「軽犯罪者」「気がふれたもの」が「らい病者」と同じような役割を果たすようになる。

 

もう少し厳密に言えば、15世紀末、「性病」が「らい病」のあとに猛威をふるうが、性病は前述したようなシステムに乗ることなく、その後、医学の対象となり、当面は、医療空間の内部に留置されることになる。

 

そして、17世紀に入って、「性病」は「狂気」とともに「監禁」や「排除」の対象として定められるに至る。

 

では、その間、すなわち、15世紀から17世紀のあいだ、「狂気」はどのようにして、「らい病」の後継者的な位置を担ったのか――ここに登場するのが「阿呆船」である。

 

 

 

 

「阿呆船」とは何か――それは、ある都市からある都市へと、「狂人」たちを運んだ船のことである。15世紀頃、小説や絵画のテーマにしばしばなる。

 

20世紀に寺山修司の演劇にも同じタイトルがつけられた作品があるが、おそらく寺山はフーコーにインスパイアされたと思われる(なぜなら、邦訳が出たのが1975年、寺山の戯曲の発表はその翌年であることから)。

 

 

 

 

当時は、必ずしも「狂人」全般が「阿呆船」に乗せられたわけではない。多くの「狂人」は都市空間もしくはその外部を「放浪」していた。しかし、他国の「狂人」については、そのかぎりではなく、船に乗せられることもあったという。

 

イメージが沸くだろうか。

 

要するに、各地から、「狂人」たちを次々と集めて、船に乗せてゆき、とある都市で放逐するのである。これはある種の「巡礼」であり、ある種の「浄化」の営みとみなされた(これによって「水」といえば「狂気」といったつながりが生まれた)。

 

だが、と、フーコーは問う。どうして、「阿呆船」は、この頃に芸術の題材としてしばしばとりあげられるようになったのか。

 

「その理由は、この船が、中世末期のころヨーロッパ文化の地平ににわかに起こった一つの不安をそっくり象徴するからである」(30ページ)

 

「一つの不安」ーーそれは、「狂気」と「狂人」が、「人間」や「理性」というものに対して、ある種の「力」を及ぼしてしまうのではないか、というおそれである。

 

ただし、ここでもまた、フーコーは繊細に記述を施している。単純に「阿呆船」の表象が頻出したのではない。まず、「死の舞踏」からの移行について検証する。

 

 

 

 

15世紀初頭にはペストや宗教戦争の影響を受けて、「死」を主題とする作品が数多く現れた。「死の舞踏」すなわち肉体をそぎ落とした骸骨が踊る「ダンスマカブル」は、そのなかでももっとも代表的な表象形式であった。

 

これが15世紀後半には、「阿呆船」へと関心が移ってゆくことになるが、これは、単純に「死」から「狂気」へ移行、とまとめることはできない、とフーコーは考える。そうではなく、「狂気」のなかに「死」を見ていることなのだ、とフーコーはとらえる。

 

「狂気はすでに到来しているの姿である」(32ページ)

 

言うなれば、「死者」や「死体」「遺骨」などにおいて「死」を想起するのではなく、「まだ」生きている「狂者」の「狂気」が「死」と連接しているという考え方が人びとのあいだで広まりつつあったのではないか、と考えるのである。

 

「狂気の主題が死の主題にとってかわったということは、両者の裂け目よりもむしろ、同じ不安のなかでの一つのゆがみを特色づける」(32ページ)

 

ここで言う「死」は、言い換えれば「虚無」であり、「狂気」はその「死=虚無」に至る兆候とされる。

 

一般的には中世から近代への移行期と言われる15世紀だが、文化や「知」の次元、すなわち、絵画や彫刻、版画、そして文学など、さらには祭りや演劇などにおいては、「狂気」が、きわめて魅力的な素材として扱われた時代だった。

 

「15世紀の人間には、自分の夢想の、おぞましくさえある自由と、自分の狂気の幻影のほうが、生身の欲望をかきたてる現実よりもはるかに多くの魅力があった」(36ページ)

 

もう少し厳密にみると、狂気には、大きく分けると2つの考え方があった、と言える。

 

1)動物をはじめ、自然のもつ不思議な力と関連している

2)世界の終末など、一般常識を超えた知を体現している

 

だが、同じ時代でありながら、そのほかに、また、別の形で、文学や哲学、道徳においては、狂気がとらえられている。つまり3)の考え方があるのである。

 

それまで中世においては、狂気は「」の一つとしてとらえられていた。あくまでも「悪」という概念の範疇に収められうるとされていたが、ルネサンスには「悪」全体の上位概念へと位置づけを変える。

 

「悪全体の上位概念」というのは、要するに、人間の悪徳すべての根源に「狂気」がある、ということである。ただし、だからといって、はっきりとした支配的な力を行使するということではなく、あくまでも「人間とその弱点、その夢想、その幻想に関係」(40ページ)するにすぎない。

 

つまり「狂気」は「人間」以前の「動物」が持っている気質みたいなものが「人間」においても現れた(1)とか、「世界」の根本に宿ってきた原初的な力のようなものである(2)とか、そういう考え方ではなく、一人ひとりの人間の内部にある「特質」(3)として、とらえられるようになるのである。

 

たとえば「自惚れ」のような「自己への愛着」や「自己執着」「傲慢」こそ、最初の狂気のしるしである、とフーコーは言う。すなわち、自分のことを正しく認識・理解しない結果生まれる「ゆがんだ鏡」のようなものだ、ということになるだろうか。

 

そのために、「狂気」は「道徳」の領域とのかかわりを深くする。人間の「不正」がすべて「狂気」と重ねられる。

 

少しまとめると、15世紀ヨーロッパという同じ時代であっても、演劇や絵画と文学や哲学では、狂気に対して異なるかかわりを見せてていた、ということである。

 

狂気体験に対して、ブリューゲルやデューラーは、自分自身がそこに巻き込まれてゆくような近さがあるが、エラスムスの場合、距離をとり、遠方から眺める対象としてとらえられているといった違いがある、とフーコーは説明する。

 

その後、「阿呆船」に対するとらえ方も、「悲劇的経験」と「批判的意識」の2つに分かれる。

 

「文芸復興期の初頭、狂気について感じられ形づくられたすべては、批判的意識と悲劇的経験のこうした対決によって活気づけられている」(44ページ)

 

ところがその後100年のうちに、すなわち「近代」というものの意識のなかで、こうした構造は消えてなくなってゆく。具体的には、「批判的意識」がさらに強まる一方で、「悲劇的形象」の姿が見当たらなくなるのである。

 

例外は、ゴヤやサドの作品、また、その後、ニーチェ、ゴッホ、フロイト、アルトーがこの部分を掘り起こしているという意味で、別格であるとされる。

 

「悲劇的な形象」は消滅したのではなく、思索や夢想、そして「夜」のうちに密かに残り続けることになるが、フーコーにとって、「狂気」とは、他人事ではなく自分事であり、外在的なものではなく内在的なものであり、批判的な意識である以前に悲劇的経験として自ら抱え込んでいるものとしてとらえられている。

 

デカルトの「我、思う、ゆえに、我在り」に代表されるように、「西洋近代」とは、全面的に「狂気」を「理性の欠如」ととらえる。しかし、デカルトの一歩手前では、たとえばカルヴァンにおいては狂気とは人間が独自に持っている尺度である一方、「理性」とは「神」に付帯するものであった。エラスムスにおいても、クーザヌスにおいても、ほぼ同様の理解がある。

 

すなわち、「狂気」はあくまでも「理性」というものの絶対性を前提とした対立物とみなされたのである。もっと言えば、人間は「狂気」を本質としているからこそ、「理性」を欲し、「理性」を崇高のものとして奉ったということである。

 

また、やや別の考え方もその時代にはあった、とフーコーは細かく指摘する。「狂気」は「理性」の一つのパターンにしかすぎない、というものである。ここではモンテーニュやパスカルが引き合いに出されている。

 

他方、文学においては、狂気はどういた形象をとっていただろうか。セルバンテスがそうであるように、

 

1)空想的な同一化による狂気、

2)無益な傲慢から生まれた狂気、

3)正当な懲罰を加える狂気、

4)絶望せる情念による狂気、

 

などである。いずれにせよ、アルトーに言わせれば、ルネサンスの「人間主義」は、「人間の拡大ではなく減少」(45ページ)なのだ。

 

狂気は、このあと、大きな位置変容を起こす。「阿呆船」から「施療院」へ、である。端的に言えば、狂気は単なる「」の一つとして医療的知と技術の世界に委ねられることになるのである。

 

このように、フーコーの論点は、狂気とは一体何であるのか(何であったのか)ではなく、どうして、狂気は「悲劇的な経験」から「批判的意識」へと、その意味合いや社会的な「役割」を変えていったのか、そして、こうした変化がいかにして起こったのか、にある。

 

そしてまた、フーコーは、自らの内にある狂気と、社会における狂気の取り扱いとの間のギャップを問題にしている。狂気は他人事にはならないのだ。また、健康や理性と対置され、ネガティブな視点でとらえられるものではなく、ポジティブなもの、常に一つの可能性としてとらえられていることが、何よりも重要である。

 

ニーチェは、哲学の領域の、ぎりぎりの縁で「超人」について論じたが、フーコーは、こうして、もう一度、人間のもつ「力」としての「狂気」に私たちがどう向かい合うつもりなのか、挑戦状をたたきつけている。

 

コロナ禍の初期において、私たちは「阿呆船」とは言わないが、少なくとも、700名以上の感染者を出した「船」、ダイヤモンドプリンセス号を横浜の港に停泊させて、その対応に苦慮したことを、決して忘れ去ってはならない。

 

この船に乗っていた人たちの感染や死については、当初は、あいまいなままにしていたが、6月1日前後を境にして、厚生労働省は、各国の数値と独立させて「ダイヤモンド・プリンセス」というカテゴリーを新たに用意した。

 

こうしたことが何を意味しているのか、今後もこのフーコーの『狂気の歴史』を参照しつつ、考え続けてゆくべきであろう。

 

 

 

 

 

2011年3月11日以降も、数年にわたって、大変な日々があった。

 

はっきりとした被害のあった方、あっという間に命を奪われた方が身近におられた方はもちろんのことであるが、のみならず、そうではない人たち、つまり、ある種のカタストロフィーが、自分も他人事ではなく、どうこの事態と向き合えばよいのか、問われたのだった。

 

そして、2020年3月11日、その前後から、新型コロナウイルスの感染が、大きな脅威、深刻な脅威となっているが、これもまた、他人事ではない。

 

いつのまに、事態を傍観している自分がいるかもしれないが、ただちに当事者になろう。

 

すなわち「観戦者」ではなく「感染者」であるかもしれないという自覚を持とう。

 

かくいう私は、ここのところ、微熱が続くとともに、のどの痛みがあある。

 

微熱というのは36.9度にすぎない。しかし、平熱は36.0度なので、1度近い「高熱」となっている、とも言えなくもないが、控えめに「微熱」と言っておく。

 

そもそも政府から出ている指標は「37.5度以上」ということなので、こんな私は、ただの便乗詐欺みたいな扱いなのであろう。

 

ともあれ、私が本当に感染しているか否かはさておき、こんな状況、こんな事態で、一体、どういったふるまいをしてゆけばよいのか、少し考えてみた。

 

まわりからも、「今このとき」を生きることに対して、厳しい反省、問いかけを行っている人がいる。

 

タレントの志村けんさんのみならず、誰もが、わずかな期間で死に至る場合もあることを、もう一度、思い出そう。

 

それぞれ、「我がこと」として、受け止めよう。

 

これは、ふりかえれば、メメントモリ、すなわちヨーロッパ中世末にペストの蔓延などに対して人びとが抱いたメンタリティ、「死を想え」である。または、鎌倉時代を中心に広まった「無常観」とも相通ずる。

 

ほか、ハイデガーに偉そうに言われるまでもなく、私たちは、たえず、「死」と隣あわせに生きている。

 

人生100年時代、とか言われているが、それだけ長く生きる人ももちろんいるが、そうでないこともあり、自分がどうなるかなど、なかなかわかるものではない。

 

私は、50年以上生きてきたので、それなりに、もう、人生というものに満足している、ということをここに告白しておく。

 

後悔はないのか、やり残したことはないのか、と言われれば、ないはずはない。だが、かと言って、明日、いや、今この瞬間に命が途絶えようとも、かまわない、と思える。要するに、いろいろな意味で、自分の人生というものに対して「満足」感を抱いている。

 

だから、死を恐れることはないし、いつ死ぬかわからない不安もない。ただ、今、いのちがあることが愛おしいばかりである。

 

とはいえ、繰り返すが、志村けんさんが亡くなったことの衝撃は、やはり大きい。

 

自分も明日は、同じことが起こらないとはかぎらない。

 

コメディアンとは、人生の悲劇(つまり死や苦しみ、悲しみ)をあたかもないかのようにふるまおうとする達人のことだ。

 

そのコメディアンが死んでしまうということは、ある種の「裏切り」ではないか。

 

いつまでも「喜劇」を演じてほしかった。それが、正直な気持ちである。

 

・・・そう考えると、結局、一体何がいちばん大事なのか、今、何をしなければならないのか、はっきりしてくる。

 

大事なもの、それは、あらゆる「モノ」とは関係ない。「モノ」はすべて不要、もしくは二の次でよい。

 

大事なもの、それは、自分がともに生きている人たち(私の場合、妻)と動物や植物たち(私の場合、猫)である。

 

他に何があるというのだろう。

 

そういう気持ちである。

 

また、今、何をしなければならないのか、に対しても、答えはシンプルである。

 

これまでの日常を淡々と、続けること、それ以外にない。

 

何か特別なことをする必要はない。

 

ただ、なだらかな時間がすぎれば、それでよい。それこそが、もっとも大切なことなのだ。

 

だから、あらためて何かを言うこともないし、何かをすることもない。

 

だが、それこそが、いちばん大事なのだ。

 

・・・というのが、私の遺言だ。

 

 

 

 

 

東京は今日も40件ほどの感染が確認されており、この1-2週間が正念場になると思われますが、北海道はここ13日の間、発生数が低く抑えられ続けています。

3月15日付 4件
3月16日付 4件
3月17日付 0件
3月18日付 2件
3月19日付 3件
3月20日付 1件
3月21日付 1件
3月22日付 3件
3月23日付 0件
3月24日付 1件
3月25日付 4件
3月26日付 1件
3月27日付 1件

明日も同じような推移であれば、いったん北海道の動向をお伝えするのをやめて、以降、東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県の状況に焦点をあてようと思います。

くれぐれもお気を付けください。

 

 

 

 

東京は今日も40件以上の感染が確認されており、この1-2週間が正念場となるはずです。

一方、北海道はここ12日の間、発生数低く抑えられ続けています。

3月15日付 4件
3月16日付 4件
3月17日付 0件
3月18日付 2件
3月19日付 3件
3月20日付 1件
3月21日付 1件
3月22日付 3件
3月23日付 0件
3月24日付 1件
3月25日付 4件
3月26日付 1件

このまま少しずつ、平常に戻れればよいのですが・・・

一方、首都圏は今、最大のピンチです。できるだけ拡散しないように、抑えられれば、早期に見通しも立ってくると思うのですが、正直言って、オリンピックの開催問題がひっかかって、対応表明が1-2週間遅れてしまったのが痛手になるのではないかと危惧します。

くれぐれもお気を付けください。

 

 

 

北海道はここ11日間、発生数が下がってきています。

3月15日付 4件
3月16日付 4件
3月17日付 0件
3月18日付 2件
3月19日付 3件
3月20日付 1件
3月21日付 1件
3月22日付 3件

3月23日付 0件
3月24日付 1件
3月25日付 4件

確実に「今」「北海道」は抑えられてきています。

しかし、3連休のあいだにずいぶん、多くの人たちが外出していた様子をみていると、再び悪化するおそれもあります。

実際、東京都などは大きく数字が伸びています。

くれぐれもお気を付けください。