ボードリヤールは1970年後半に書き1981年に刊行した「シミュラークルとシミュレーション」において、すでに「核」に対する明解な認識をもっていた。

まず彼は、「核の抑止力」に着目する。つまり「核」とは実際に用いられた場合におけるその破壊力の凄まじさを私たちがよく知っているという前提をたてたうえで、ただそれを「所持」しているだけで、その力において「敵対国」に対する「脅威」となるわけだが、彼はこのことが逆に、「実在する核でさえ問題外」(46ページ)になるという逆転現象が起こっていると指摘する。

つまり、「核」とは、そのままそれを使用することに目的があるのではなく、その「存在 Being」もしくは「所持 Having」における効果が、すべてなのである。

そしてこの「効果」とは、すなわち、「管理」である。「いまだかつて見たこともない最高の、管理システムの完成」(47ページ)である。

もちろんこれは、軍事レベルだけでの話ではない。

「それがどこであろうとも、非可逆的な管理システムは拡がり、あらゆるところで安全性という概念は強固になり、どこにあっても安全性の規格が、過去の法律と暴力(戦争も含めて)の装備にとって代わる。」(47ページ)

「高度な安全性と抑止にかかわる、同じ成功確実なプログラムのモデルが、今、拡がりゆく社会体を支配する。これこそ本物の核物質の降下、影響だ。つまり技術の綿密な操作が社会体の綿密な操作のモデルに使われる。」(48-49ページ)

「核は利用可能なエネルギーの頂点であると同時に、あらゆるエネルギーを管理するシステムの極限でもある。」(50ページ)

このように、ボードリヤールは、「核」という場合、原発をも指し示している。この時まだ、チェルノブイリも起こっていないし、セラフィールドは知られておらず、あるのは、ヒロシマ、ナガサキである。

実は本書は、ハリスバーグでの事故、つまりスリーマイル原発事故の直後に刊行されており、それが「4章 チャイナ・シンドローム」で言及されている。

「チャイナ・シンドロームとハリスバーグとは切っても切れない仲だ。だがそれは偶然にすぎないのだろうか。シミュラークルと実在の間にある不思議なつながりを検討するまでもなく《実在》するハリスバーグとシンドローム無関係でないのは明らかだ。因果律からではなく、実在とモデル、実在とシミュラークルをつなぐ感染と無言のアナロジー関係を見ればわかることだ。つまり映画の中でテレビが核を誘発したことと、映画がハリスバーグの核事故を誘発したこととは、気がかりなほど明らかに符合するのだ。実在より映画が先行することの不思議さ、その驚くべき場面であるカタストロフの性格も含み込んで、抑止という観点に立てばこれこそ本質的なことだ。つまり実在は、映画に似せて、カタストロフのシミュレーションを作り出すためにうまく手筈をととのえたのだ。」(71ページ)

おそらく私たちにしても、すで、この20年以上の歳月をかけて、次第に、メディア、特に、テレビが流す映像に現実をみているのか、テレビがその現実を生み出しているのか、分からなくなってきていた。

ちょうど本書(原書)の刊行と同じくして、豊田商事殺傷事件が、報道陣を前にして発生する。つまり、テレビカメラの前で、殺人が行われたのだ。おそらくこれが、「何か」が新しくはじまったきっかけだった。そしてその「何か」をボードリヤールは的確に指摘していた。

また、実はまったく当時(意図的に)何も知らないでいたのだが、三浦和義の「ロス疑惑」が発生したのも1981年。彼の場合、「事件」そのものはテレビが生み出したわけではないが、「殺人容疑」をかかえる人間に密着することにより、テレビは、彼の発言や行動を伝えるための「メディア」と化していたのではないか。

さらに、オウム真理教はかなり意図的にテレビを利用していた。数え上げればきりがないが、特に、1995年には、オウム真理教の幹部の村井が、テレビ特番のまさしく終了間際に、それまで出演した番組のなかで刺殺された。まるで金曜8時のプロレス生中継で、最後のコマーシャルが流れているあいだに猪木が逆転して勝利の雄叫びをあげているとの同じような「演出」を、私たちは見させられたこともある。

しかし、さらに遡るが、小松左京は1973年に「日本沈没」を発表し、この地震の多い国がいつか大地震によってカタストロフに至るであろうことをシミュレーションした。そしてそれは、20世紀末には、ノストラダムスの予言とともに、「起こりうる」ものとして、誰もが不安を抱きながら生きた。前述のオウム真理教に関連すでる出来事や阪神淡路大震災はその系譜において心性化された。しかし21世紀はやってきた。

その後2006年に「日本沈没」が再映画化され、2011年には大地震と原発事故が日本で起こる。これは、ある意味では「日本沈没のシミュラークルになっているが、とはいえ、原発事故は、想定外であったはずだ。実際に映画においても放射性物質のことはふれられていない。そう、私たちは、この「透明な悪」の透明性のために、すっかりと忘却していたのである。本当にボードリヤールを読み続けている人ならば、1980年代から30年のあいだ、この「透明な悪」への感受性を維持できたのではないか。それが、日本では誰ひとりとて、いなかった。ここにこそ、「知性」の役割、責任、義務、というものがあるような気がしてならない。

「だがこの連鎖反応は、決して核による連鎖反応ではなく、シミュラークルとシミュレーションによるものだ。劇的な核爆発ではなく、持続し眼に見えぬ内破の中に実在の全エネルギーが吸い込まれる。その内破こそ、今日われわれがむなしく待ちこがれているどのような爆発より、致命的な様相をおびているのかもしれない。」(72ページ)

間違ってはならない。東電や政府が非難し打倒すべき「悪」なのではない。私たちの「実在」=「現実」がすべて「透明な悪」にさらされていることが、私たちを蝕んでいるのだ。

*なお、「シミュラークル」は、「オリジナルなき複製文化」という無理のある意訳を付しているが、何か良い言葉はないものだろうか。以前私は、「主体」に対して、「浮遊化する主体」という言葉を使ったが、それで言うと、主体も客体(物体)も他者も全てが「オリジン」も「オリジナル」もなく浮遊化し、増殖しているさまである。


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