今、LINEマンガで「鈴木先生」を読んでいる。

 

凄い! 凄すぎる!

 

正直に言うと、彼の思想、信条と私のそれとは、かなり異なっているのだが、その点が「凄い」のではなく、彼が、「討論」に立ち向かう姿が「凄い」のである。

 

中学校の教師である鈴木先生は、一見すると、まわりから信頼の厚い、ただの「良い人」教師のようだ。

 

だが、違う。

 

とりわけ相手が中学生であったとしても、容赦なく、本気で怒り、本気で対話を行う。

 

誰だって経験があると思うが、自分よりずいぶんと年が離れている人間に対しては、どこか横柄にふるまう自分がいる。

 

しかし鈴木先生はそんなことはしない。

 

むしろ、これから大人になってゆくことを前提として、まだ未成熟である彼らをそのままでとことんつきあおうとする。

 

現実的にはそれほど簡単には、たとえば中学生のクラス全員が分かり合おうと努力しあい、討議を行える機会など、ありはしないし、それは子どもたちだけでなく、何歳になろうとも、むしろ、加齢すればするほど、むしろ討議の機会が失われている。

 

だからこそ、なのだ。

 

必ず意見の対立は起こる。そこで、その対立に対して、どういった向き合い方をするか、それこそが重要であることを、鈴木先生は教えてくれる。

 

それは、これまで哲学が、とりわけ鷲田清一が「臨床哲学」「聴くこと」を強調してきたように、現代社会に生きる私たちにとって、もっとも重要な「哲学」である、と私は考える。

 

すなわち、「哲学」とは、「~である」や「~でなければならない」といった、「認識論」や「倫理学」よりも先に、「私」がいて「他者」がいて、それで一緒に生きているけれども、どうやって折り合いをつけてゆくのか、といった次元こそ、「哲学」の起点となるべきだ、ということを意味している。

 

ソクラテスの「対話」は、本質的にはそれと近いが、彼の独特の「アイロニー」は、読み手にいろいろな負荷をかけてくるため、なかなかすんなりとは受け入れがたい。

 

他方、ハバーマスの「対話」もしくは「熟議民主主義」は、かなり的を得ていると思うが、一方で彼の述べていることになぜか魅力を感じない。

 

しかし、そうこうしているうちに、21世紀はすっかりと「対話」や「熟議民主主義」が困難な時代となってしまった。

 

「多様性重視」とか「LGBTQ理解増進法」とか、私たちが今生きている社会は、一人ひとりの個性や嗜好を尊重し、いわれのない差別がないように、お互いに気を遣って共に生きてゆこうとする努力を行っている。

 

このこと自体は、決して悪いことではない。

 

しかし、こうしたことが強調されることで、実は、もっと深刻な事態が発生している、と考えるべきである。

 

トランプ元米大統領の発言や、都民ファーストの会などに象徴されるように、一方で私たちは、きわめてエゴイスティックになっている。

 

いや、エゴイスティックであることが、悪いとは思っていない。

 

それは生存本能のようなものであり、生命が生きているうえでの、必然的な態度である以上、無碍にするつもりはない。

 

そういう次元ではないところで気になってしまうのは、そうしたエゴイスティックのぶつかり合いが、「政治」であるとしたら、結局は、もっとも数の多い主張が「正しい」ということになってしまうことである。

 

さらにもっと憂慮すべきなのは、お互いの主張を、形式上は聞いてみせているようで、結局のところ、何ら、互いに受け止めないで、ただ、数が多かったことで、その「主張」や「ポリシー」や「政策」や「政党」が「正当化」「正統化」され「普通」「常識」「正しい」「真実」となってしまうことだ。

 

鈴木先生の良いところは、こうした問題に対して、あらためて、「問い」をたて、相手との対話を可能にし、すくなくとも、相手の立場や考えを全面否定することなく、自分の考えがあくまでもさまざまな考えの一つにしかすぎず、場合によっては、それが多数の人と同じであることもあれば、まったくのマイノリティで、多くの人には受け入れがたいということもありうる、ということを知る機会がまだ存在しうるということを、示し出している点である。

 

そしてこのことは、私が所属している学会「比較思想学会」の理念とも相通ずる。

 

思想の比較とは、単にA(たとえば東洋)とB(たとえば西洋)とを比較して、その同一性と差異とを見出すことではない。

 

対話や討議の場所を確保したうえで、そこで、意見や思想の相違を相互に見つめ直す機会なのである。

 

自分の正当性を強化することが目的なのではない。

 

自分に共感してくれる他者を見つけ出し、その数を増やすことが目的でもない。

 

むしろ、自分の存在、自分の思考が、一つの、世界における「奇跡」として、自らも祝福するとともに、他者からも祝福を受けることである。

 

もちろんそれは、一方的に終わるものではなく、相手に対しても同様のことを行ってはじめて、意味をなすものである。

 

比較思想学会は、2023年7月1日(土)と2日(日)に、大正大学巣鴨キャンパスにて、非常に濃厚なシンポジウムを4本行う。

 

 

「鈴木先生:が参加され、実りある「対話」「討議」が行われることを夢見たい。