夏の間お休みしていた「日光街道を歩く会」(←亭主の仲間の~)、爽やかな秋風に誘われ 再開 です。
今回は(前回の続き_)「栗橋(七番目の宿)~古河(九番目の宿)」を歩きました。
↓集合場所の栗橋駅。
まずは東口の喫茶店「ハーモニー」でミーティング。
わーいモーニング やってるー^^)
~という訳で_
私と亭主は「B」、他の方は「A」を頂きながら、今日のコースを確認 しました。
前回「この続きを歩きましょう」 のメアテにしていた 栗橋宿の「栗橋駅入口」交差点。
では次の宿「古河(コガ)」を目指して 出発。
んー???堤防で工事が行われています・・・。
リーダーSさんもガイドブックを見ながら「道が変わってる?」と言う_。
↑今回の出発点(下の白ポイントマーク)から利根川橋へのルートがこの工事で 八坂神社を回るようになってるんですねー。(350m程大回り、に)/ 話はちょっとそれますが、地図の右手 ゴルフ場の中に「旧鶴峯八幡宮跡」が見えます。これはちょっと 覚えておきましょう。
(↑八坂神社の下、を歩いております。)
↓今回お訪ねはできておりませんがー
↑こちらの八坂神社は 元栗橋(江戸時代初めに栗橋の町を作った人々の 元々の居住地、現-五霞町)に鎮座していたそうですが 慶長年間に起こった洪水で こちらに遷座となったそうです。そして寛永年間に栗橋の宿が現在地に作られると この神社は 日光街道唯一の関所である栗橋の「総鎮守」に。以来人々の篤い信仰を集めてきたといいます。
利根川の堤防に上がります。
左手の 川上側に架かるのはJR宇都宮線の鉄橋。
右手(川下側)には国道4号線の利根川橋。
利根川を渡ります。
親柱(かなあ?)の橋名。
その先のフェンスに「埼玉県の鳥 シラコバト」の透かし彫り。
時にこの橋は県境をまたいで架けられてましてー
茨城県側には「茨城県の鳥 ヒバリ」の透かし彫りが~
~あったのですが 撮り忘れたので これはストリートビューから貰いました^^;)
やっと(!)渡り切りました。
(利根川橋は長さ641m。歩き甲斐がありましたよ)
国道と別れ、旧日光街道に入ります。
道脇に説明板。
↑「房川渡(ボウカワノ/ボウセンノ ワタシ)と中田(ナカダ)御関所跡
江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光道中の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。
利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(理由は所説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には『栗橋の関所』の名で知られていた。
四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治二年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船(チャブネ≒瀬取船)を操る船頭たちによって、およそ四十間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。
平成元年三月 古河市教育委員会」
少し先の半鐘のそばにはー
日光街道八番目の宿「中田宿(ナカダジュク)」の説明板。
↑「中田宿
江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並みとなったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成させたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を一五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
本陣・問屋(トイヤ)や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲(カネ)の手(=L字)に折れながら現在の堤防下まで、延長530mほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは能かとの兼業であった。
天保14年(1843)の調査では、栗橋宿404軒に対し、中田宿69軒となっている。ただし、118軒とする記録もある。
平成19年1月 古河市教育委員会」
説明板のそばに小鳥の巣箱?のような物がありました。中には・・・
↑スタンプが。(↓上下左右反転。/昔からここには半鐘があったんでしょうね?)
↑おー、これ(スタンプ)集めて歩くのも楽しそう~^^)
半鐘の少し先_「中田自治会館前」バス停近くにあった掲示板。
(↑「日本一きれいな町づくり宣言」って すごいなー)
鳥居が見えてきました。
鶴峯(ツルガミネ)八幡神社 、ですって。/お参りしましょう。
鳥居には「正八幡宮」「正一位香取宮」、二枚の扁額が掲げられています。
社号標横の由緒書。
↑「抄/ 1180年の富士川の合戦の折~ 頼朝側の兵が参集した利根川左岸の「頂上にお稲荷様が祀られていた小高い山」で 勝利を祈願。見事戦に勝つ。神徳を感じた頼朝は 翌1181年、鎌倉の鶴岡八幡宮をそこに勧請して『鶴ヶ峰八幡宮』とし、神職には 鶴岡八幡宮初代祀官の次男を定めた。 1234年には香取宮を勧請し相殿の神としている。 (中略)」
「江戸末期から 洪水対策、河川改修工事のための移転、明治の(社寺)上地(=上知令)、社寺政策により、破壊、放火、宝物盗難などにあい、一度は存続する事も危かったとされる、が、縮小されつつも近郊の氏子崇敬者等の尽力にて、再建され存続する事ができている。」 _ だそうです。(Wikiによると 盗難・火災~ は江戸末期の百姓一揆によるものもあるよう...)
地図を見ると 現社地から南に800m程の地点(ゴルフ場の中)に「鶴峯八幡神社 旧社地」が表示されますが、そこが元々の「頂上にお稲荷様が祀られていた小高い山」でしょうかね?
参道を進みます。
右手に「鶴峰八幡宮遷座記念碑」と刻まれた石がありました。「庚辰冬」の文字があります_明治13年(1880)、ですかね?(昭和40年(1940)とは思えないので)
右手に手水舎。
奥側に小さな唐傘が沢山飾られていて 面白く かわいらしかった^^)
社殿の方へ。
↑破風の上の飾り瓦には五七の桐。 軒瓦には三つ巴(八幡様の紋)。
↓幕にも五七の桐と三つ巴。
↓奉納されたお酒_。
主祭神は、
・(八幡神)誉田別命
・(その母)神功皇后
・(香取神)経津主命
・(最初に祀られていた)倉稲魂命
の四柱。
_みんなで ご挨拶。
境内を回ります。
↓左手に神楽殿。(ですかね?)
その奥に、
古色を帯びた狛犬に守られる 足踏み祈願社。
↑脇の札に御祭神として_ 水神社、八坂神社、浅間神社、道祖神社、琴平神社、の五社が記されています。
その先の鳥居の向こうには_
↓熱田、鹿島、三輪、若宮、雷電、高良、松岡、日吉、諏訪、愛宕、白旗、古峰 の各神社を祀る小社_
↓そして 鶴岡八幡宮から勧請されたという丸山稲荷神社がありました。
お稲荷さんの右手に見えるのは 拝殿奥の神殿部分。
ありがとうございました。
すぐ隣に「光了寺」というお寺があったので寄ってみることに。
こちらは静御前ゆかりの品 (神泉苑に於ける雨乞いの儀式で舞った際に後鳥羽院より賜ったと伝わる「蛙蟆龍の御衣(アマリョウノギョイ)」) を守っていらっしゃるそうです。
元は高柳にあった天台宗のお寺で「高柳寺」といったそうですが、鎌倉時代初期に浄土真宗の「光了寺」となり その後 五代目の住職の時に栗原に、六代目の時にここ中田に移った、との事。(前回 栗橋の駅の近くで静御前の墓と伝わる場所を見ましたが あそこが「栗橋」時代の光了寺があった場所、だったのでしょうか。)
↓門の横木の上の蟇股に山号「岩松山」が記されていました。
↓いきなり左手に大きな木。
↓ヒバだそうです。
本堂。
寺号が記された扁額。
阿弥陀様がいらっしゃる・・・はず。/合掌。
ありがとうございました。
引き続き 街道を歩きます。/ つづく