前回の記事からかなり時間が空いてしまいました。

その間に千葉県は水害の被害がありました。

中々お天気も晴れず、気持ちもどんよりしがちですが、こんな時こそマイペースに小さな幸せを数えながら過ごしていきたいなと思います☺️


今回は、ずっと自分のブログにも残しておきたいなと思っていた、千葉県木更津市に伝わる民話です。

この民話だけはスケールが大きく他の民話とは一線を画しています。国生み神話に相当するようなお話です。


本当はこの民話の考察まで自分の考えをまとめて記事にしたかったのですが、私にはどうもそこまでまとめ上げることが難しそうです😅


民話を共有して、色んな方に千葉の歴史を知っていただき、色々なご意見をいただけたら幸いだなと思い、共有したいと思います。






 ​大法螺貝の話(千葉県木更津市)



 

むかし、むかし、木更津沖の一ノ瀬と、その先にある中の瀬という隠れ洲の間に、一匹のとてつもなく大きな法螺貝が棲んでいた。



その一の瀬と、中の瀬の間というのは、どのくらい深いかわからない程で、何でも東の鹿野山の山脚が、そこまで下がっていて、

西の方は富士山や、箱根の山脚が、また、南の方は大島の三原山の山脚が、そこまで下がっていて、此の方からは常陸の筑波の山脚がというように、四方からそれぞれ山脚が此の間に落ち込んでいるので、丁度、海が擂り鉢状になっている所でした。

 






そこに棲んでいる大きな法螺貝は、寝返りを打つと地震が起こり、あくびをすると嵐が吹き起こり、いびきをかくと海鳴りがし、くしゃみをすると津波が怒るというので、内湾の漁師たちは、この法螺貝を内海の主だと言って怖れていた。

 

むかし、ある日のこと、この法螺貝が、ふと竜宮見物をしたいものだと思った。そして法螺貝が、いよいよ出かけようとしたところ、あいにく自分の住処が四方の脚で塞がっていたため、容易に出ることが出来なく困っていた。

 

そして、しばらく思案のあげく法螺貝は東北の方に、ほど良い足がかりの場所のあったのを見つけ少々骨が折れるが、ここから這い出てやろうと言いながら、なんとかこうにかやっとのことで立ち上がることができた。

 

そして、やがて下総の印旛沼にゆき、そこから常陸の霞ヶ浦から抜け出て竜宮へ行こうと思い定めた。








そこで先ず印旛沼まで行ってみた。ところが、この印旛沼に、沼の主である大蛇が棲んでいた。

大変なことにこの大蛇が、木更津の法螺貝のことを伝えきいて、なんとか竜宮へゆかせまいとしたので、法螺貝と大蛇は大けんかしてしまった。

 





さあ、大変です。

双方とも名代の剛の者ですから、必死で勇気をふるいともに戦いました。それがなんと七日七晩の間もつづき、そのあげく法螺貝は最後の力を振り絞って地面ぐるみ大蛇を持ち上げ、エイとばかりに内海目がけてほうりつけてしまった。

 

ほうりつけられた大蛇は、命に別状はなかったが、とんでもないところまでほうられたものです。

相模の金沢沖までほうられ、そしてそれが一つの島となってしまった。その島が長い長い年月の間流れ流れて、あの横須賀沖の猿島がそうだということです。

 


猿島



さて、さて、思わぬ邪魔者にでっかかった法螺貝は、余計な時間を費やしたものだと、ブツブツ言いながら予定通り霞ヶ浦へと入っていった。

 


霞ヶ浦は竜宮の裏門の所へゆく道で、表門へ行く道は近江の琵琶湖

だと言われたので、

法螺貝はここまで来ればもう安心だと、二日、三日、霞ヶ浦の主の所で遊んでいた。



竜宮とはどこか?

霞ヶ浦が裏門になるのは潮の流れと関係があるのか?



そして、今日竜宮へ出発という時になった。そうしたら、またまた、ゆく手を立ち塞いでいる者があった。

それは要石という名代の怪石で、それが道いっぱいに広がり、なんと言っても通してくれません。


ですから法螺貝はまた邪魔者かと考え、持ち前の癇癪を起こして、エエ、面倒だと印旛沼の主と同じように投げ飛ばしてくれようと、イキナリ要石に手をかけて、ウント力を入れてみましたが、いかに怪力の法螺貝を持ってしても、要石はびくともしませんでした。

 


それもそのはずです。むかし、むかし、神代の大昔から、ずうっとここに根を張っていたので、底の奥底が知れず、さすがの地震でもこの石一つに押さえつけられていた程だったので、いかに怪力自慢の法螺貝でもどうにもなりません。

 




そこで、法螺貝は三日三晩思案をこらしたが、別段これという名案も浮かんでこなかったので、残念だったが、せっかくの竜宮行きも一時よすこととして仕方なく木更津沖の住処へ帰ってきたということです。

 



中の瀬は平成20年に工事が終了して形がなくなっているようです。→参考ページ




話変わり法螺貝のために投げ飛ばされて、今ではわずか名ばかりの猿島となった印旛沼の大蛇の話。

 

その後、猿島となった大蛇は、毎日淋しく横須賀沖の海中に暮らしていたが、どう考えても残念でならなかった。それに故郷恋しさも日に日に増してゆくので、なんとかならぬものか、なんとかしなくてはいけないと、毎日毎日考えていた。

 

しかし、目の前に、あの大きな法螺貝がひそんでいるので、大蛇もうかつに他所に行くこともできずに、ただ口惜しさに泣いてばかりしていた。

 





ある日、猿島となった大蛇は、そうっと伊豆大島の三原山を訪れて、その口惜しさの一部始終を語り、どうか助けてほしいとひたすら頼んでみた。

 


大島の三原山は、世間に名高い同族が七軒もあるが、みんな、とびとびに離れて暮らしているので、内心淋しく思っていた矢先でしたので、これ幸いと手近な所に手頃な味方をこしらえてもいいと考えた。


だから三原山はすぐに猿島のいうことを承知し、その上色々慰めて帰した。

 



伊豆大島




頼まれた三原山は、さっそく中の瀬の法螺貝に戦いを挑んでいった。ですから、さあ、大変な‥‥となった。

 天地は荒れ、嵐は起こり、大波は立ち、山は鳴り、地は振動して、その迷惑は溜まったものではありません。

 

これをみた鹿野山と筑波山は、ある日、そろって、まず中の瀬の法螺貝の所へゆき仲裁話を持ち込んだ。






すると、法螺貝は、

「この戦は、もともと三原山の方からけしかけたものだから、彼の方から退けばいつでも止める、ただその場合、条件がある。時に頭の上で怒鳴ったり、うす臭い煙を吐き散らさぬようにしてもらいたい」


と申し入れた。

ですから、鹿野山と筑波山は、今度三原山に当たってみた。


すると、三原山は、

「なんの、なんの、ダボラなどに熱を吹かれてたまるものか。どうしても、あいつを踏み潰して、猿島のやつを元の下総へ帰してやりたい。そうしなきゃ、わしの男がたたないよ」

 

といい、その話を断ってしまった。これではどうにもなりません。せっかく一時止んでいた戦いも、また再び元のように当たり散らすこととなってしまった。

 



悪久留王の伝説が残る鹿野山(君津)



ですから、せっかく仲裁に入った鹿野山と筑波山は、駿河に富士山を尋ね、その事情を話してみた。


富士山は、元来このような争いごとはあまり好かないタチで、いつもただ静かに青雲の外に立って世間のことなどには、なるべく関わりたくないと想っていたが、今度の争いの相手は、同じ山仲間のことであったので、いく分気が進まなかったが、このまま捨てても置けないと考え、引き受けることにした。

 



麗しの富士山



四方の山には、この話を伝え聞いて、この裁きはどうなるかと、みんなが固唾を飲んで見守っていた。が、どうしたことか富士山は別段これという事をしないで、ただジーっと双方の様子を見ているばかりであった。

 

当の三原山と猿島は、富士山が仲裁にかって出たということを聞いただけで、どうしたことか、だんだんとその争いも遠慮気味となり、やがていつの間にかあれほど荒れ狂っていた天地も、すっかり穏やかになってしまった。

 


富士山が仲裁を引き受けてから数日過ぎた。

けれども富士山はまだ一言も話を切り出そうとはしなかった。

そして、なおもそのまま静かに双方を眺めているだけだった。


また、四方の山々も、仲裁は今か今かと待ち遠しく思っていたある日、富士山は突然頂上から吐いていた白い煙をパッタリと止めてしまった。

 


これをみていた山々は、なんであんな事をするのかと、あやしんで眺めていたところ、内海の水面に、富士山の影が、以前にもまして美しく、そして、鮮やかな姿を静かに映していた。それは言いようもないほど神々しい姿であった。

 





三原山も猿島も、この富士山の神々しい姿に心を打たれたのか、喧嘩どころではなくなり、恥ずかしいな、決まりが悪い思いがしてきて、晴れて大空を仰ぐこともできず、いつの間にか引き下がってしまった。

 

とうとう富士山は、一言も口を聞かず、柔和な光と無言の力を持って、此の大変な争いを永久に沈めてしまったということです。

 

(木更津市 原話「木更津郷土史」)









いかがでしたでしょうか?

私なりの拙い考察は次回に。


それでは、涼しくなったり蒸し暑かったりと、お天気荒れ模様なので、お身体にはお気をつけてお過ごしくださいね花




Shiori