日光街道 うどんの俵屋~古河駅 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

鶴峯八幡宮を出て1キロ程歩くとー

うどん屋さんがありました。(↓ストリートビューから)

地図を見るとこの先には 焼肉屋 うなぎや と 御馳走系のお店があるみたい・・・。/ (ついさっき駅前の喫茶店でモーニングセット食べたばかりなんですけどねー) 今 軽めにおうどんを頂く、か もっと歩いて御馳走を頂く、か。// で コインを投げて~ うどん屋に入る事に 決定!


・・・ お店は思いのほかに混んでました。(私達の前に 4組お待ちだったのです)/ しかし 他のお客さんから「このお店は おいしいからー」と言われ 期待して待つ事に。


程なく呼ばれ テーブル席についたアタクシタチ。
↓メニュー。



注文したのは_
私がてんぷらうどん(温)、リーダーが「俵屋ランチ(鶏唐つき)」の冷たいうどん、Yさんと亭主は「カレーうどん」。(あ、亭主はご飯と鶏唐のついた「ランチのカレーうどん」に 単品の「天ぷら盛り合わせ」つけてましたわー^^;)

まずは「乾杯」~♪
(リーダー、熱燗。Yさんと亭主はビール_ 私は水、で)

それから「頂きます」。

う・ま~い。 /特に 冷たい「もり」を上がられたリーダーは 「グミ感の強いもちもち麺だね。冷たいおうどんにして正解だったわー」と 喜んでました。/ なるほど。次回(?)のため 覚えておきましょう。
(余談ながらこちらのうどん、すごく長くて、もりを召し上がってたリーダーは 「きゃー 長くてうどんがつゆの器に入らないよー 脚立がいるよー」なんて言ってました。(笑))

あー おいしかった、楽しかった、御馳走様でした^^)

(↑あんなに混んでたのに。私達が食べ終わった頃は すっかり静かになってた店内_)

では行程の残り半分、を歩きましょう。

(↑俵屋さんのお店の前のバス停「中田踏切北」から 中田踏切を見たところ_)
(↓古河方向)

さて、この辺りの道脇には松の木が植えられていました。単に「街路樹として松が選ばれたんだねえ」なんて思ってましたが 違いました。

車屋さんの前に「中田の松原」についての説明板があったのです。

中田の松原
 いま中田町となっている通りは、江戸時代は、『中田の松原』と呼ばれたうちに入っていて、それは、これから北へ古河の原町入口までの訳一里(約4キロ)余の間の呼び名であった。
 この間には、中田新田の顕正寺、茶屋新田の中の茶屋立場(タテバ)や名物の一本松(一葉一包の珍種)、原町の一里塚などがあり、また松並木を越して、藤井松平氏の建てた坂間の碑、鴻巣(コウノス)の桃林、そして古河城の三階櫓も望まれる景勝の地であった。
 幅五間(約9メートル)の道の両側は一段と高くされ、そこに松並木を植えたのは、寛永七年(1630)、古河城主永井尚政のときであったという。注意して見ると、『左右に松並木が続き、道は広く、東海道にもこのように、まっすぐで、平らで、きれいなところはない』とある記録に記されているおもかげは、かつて茶屋新田村の中心で、高札場もあったこのあたりに、今もわずかにしのぶことができる。
 平成元年三月
  古河市教育委員会」

更に、その先の 香取神社横の公園の隅に・・・


又別の説明板がありました。

茶屋新田の松並木の由来について
(前略)
安政二年(1855)八月、幕末の志士清川八郎は旅中記につぎのことを記している。
「ここから古河までは一里半の道のりで仙台道中最もきれいな松並木である。」
(中略)
昭和13年(1938)秋、道路拡張のため樹齢300年の松の木が次々に伐採され、また戦時中その根元は掘り上げられて、松根油の製造に使われたので、現在は松並木の面影はまったくない。
(中略)

日光街道松並木を復元
 県道 原・中田線 JR日光街道踏切から北へ600メートルを平成6年から三ヵ年の継続工事にて歩道整備を実施、歩道部分に植栽桝66箇所を設け、「黒松」71本を植樹した。
 植樹された「黒松」は、茨城県産が主であり高さ約4.5メートル、葉張り約メートル、目通り(太さ)約30センチである。なかには、夫婦松もある。
  平成9年3月27日
   古河市長 小倉利三郎」
(補足/ 文中街道名が「仙台道(センダイドウ)」になったり「日光街道」になったりしていますが、これは 街道が 重なっているから、ですね。/ 日光街道は江戸から宇都宮までは奥州街道(奥州道中)を通ります。つまりこのあたりは「日光街道であり奥州街道でもある」んです。 仙台道は、正確には奥州街道の終点-白河宿からその先 仙台まで の呼称ですが 上の文の「仙台道中」はもちろん 江戸から仙台までの道のりを示しています。)

_つまり 今ある松並木は かつて「中田の松原」と呼ばれた 街道の中でもとりわけ美しかった松並木を偲び復元したものだった、んですねー。

↓「中田の松原」の説明板の横に置かれていたスタンプ。(左右反転させています)


復元された松並木は 香取神社の先の感応式交差点で終わっており_
その先の街路樹は銀杏、になりました。

(全部松並木にするのは大変なのかしら? 松は虫に弱いから?)

その銀杏並木も終わった先に

古河宿の一里塚跡、がありました。


(↑ストリートビューから)
↓古河第二高等学校の校庭の隅にあるのがそれ、だそう。

(↑コンクリートのブロック塀の上のフェンスの間から ネットと有刺鉄線越に撮った絵^^; もうちょっと簡単に見せてもらえないものでしょうかー)

一里塚の手前の鉄塔下にあったスタンプ。

(↓拡大+左右反転)

↑見にくいけれど 下に「一里塚」と記されていました。
↓さて、その横に 月待塔(ツキマチトウ)がありました。


↑十九夜塔です。(月待塔は色々ありますが、十九夜って 私初めて見ましたよー)上に彫られているのは如意輪観音ですね?

更に行くと_
日光街道と公方通りが交わる「台町三叉路」に出ました。


↓コーナーに植えられた松のそばの説明板。

↑「松並木のある風景 日光街道
 江戸時代 ここには松並木が整然と続き、数ある街道の中でも、もっとも美しい景観のひとつとして評されていました。
 高低差のない平らなこの区間、松並木の間から見える白壁の古河城、そして富士山や筑波山、浅間山や男体山などは、多くの文化人や画家たちの漢詩、紀行文、絵画に表現されています。
 当時の松並木は、現在地よりも400メートルほど南を起点におよそ5キロメートルにわたって続いていましたが、今ではその風情を伝えるものは残されておりません。
 失われた景観を惜しみ、その歴史が未来に語り継がれることを願い、ここに松の植樹を行いました。
  平成17年3月吉日
   日光街道街並み景観づくり推進協議会」

引き続き旧街道を進みます。

公方通と合流してからの街道は 歩道が広くなり、がぜん歩きやすくなりました。

又通り沿いに商店が増え 「駅前~」な感じに。


観光客向けの 味わい深い案内板も色々立っていましたよ。





おお、次の角を曲がると古河駅のよう。


到着~。




最後に駅前のビルのパン屋さんVIE DE FRANCEで水分と「糖分」を補給~。
「おつかれさまー」

(↑亭主はコーヒー、私はバナナスムージーを注文。真ん中に写っているのは ハロウィン仕様のクッキー。(二枚セットで売られてました)

今回は涼しかった事もあり 楽に歩けましたー。/ 次回は十一番目の宿「間々田(ママダ)」まで歩く予定です^^) 訂正!十二番目の宿-小山(オヤマ)まで行くそうです!