「あまみエフエム ディ!ウェイヴ!」は、「シマッチュの、シマッチュによる、シマッチュのためのラジオ」を謳い文句にしている。
「ディ!」は奄美大島のことばで「さあ、~しよう!」何か次の行動を促す、かけ声。発音は dei ではなくて di。
NPO法人ディ!は奄美の人たちが、もっと奄美のことを知るための手段、奄美での生活を便利にするための情報源、奄美を島内外へ向けて発信するメディアとして、2007年5月1日にラジオ放送を開始した。
NPO法人ディ!は、活動趣旨に賛同した会員による会費および寄付の収入と、あまみエフエムでのラジオCMスポンサーによる広告収入によって、運営されている。会員数は、島内外で1000人を超えた。
あまみエフエムで長年パーソナリティーを務める渡陽子さん。
高校を卒業後、鹿児島市内でのアルバイト生活を経て、東京の企業に就職。当時急成長していたIT業界に身を置き、やりがいを強く感じていた。
故郷のことを振り返ることもなく、多忙な毎日を過ごしていたが、奄美群島の日本復帰50年の年に、たまたま帰省した。
ちょうど、島の青年団などが企画するイベントが開催されていたので、軽い気持ちで参加した。
イベントを運営しているのは同世代の若者たち。出演者も、島で活動を続けるミュージシャンから、メジャーデビューを果たした奄美出身の著名人まで、一丸となって地元を盛り上げようとしていた。
奄美を想う彼らのエネルギーを目の当たりにし、ハンマーで頭をたたかれたような衝撃を受けたという渡さんは、当時25歳。渡さんが「島にいつか帰ろう」と感じたのは、この時だった。そして3年後に帰郷し、新たなキャリアを歩み始めたのだ。
帰郷後はビール会社の営業職で働き、奄美群島の飲食店を巡っていた。島ごとに言葉や気質の違いがあり、奄美にはまだまだ知らないことがあると気付かされた。
この時、移動中の車内でよく聴いていたのが、『あまみエフエム』。
島の内側から情報を発信することに興味を抱き、島ラジオで働きたいと感じた。
営業のノウハウを生かせば、島ラジオの運営に貢献できると考えた渡さんは、あまみエフエムに入社を直談判した。
入社できたものの、いきなり『しゃべって』と言われた。
経験ゼロからラジオパーソナリティーを始めたのだが、気取らないトークが評判を呼び、あまみエフエムの名物パーソナリティーになった。
あまみエフエムが開局したのは、2007年。
当時の奄美には、新聞やケーブルテレビはあったものの、交通情報などをリアルタイムで発信する地元メディアは存在しなかった。
台風が頻繁に訪れる奄美大島では、情報を即座に入手できないという問題は深刻であり、あまみエフエムの開局に至ったのだ。
全国区のテレビ局では、台風が近づく情報は発信されるものの、いざ上陸すると中継などが困難であり、島民は測候所に連絡するなどして情報を得るしかなかった。
停電も起こるため、テレビそのものが使用できず、携帯電話もバッテリーが持続しない。気象や交通、避難、物資の情報を常時発信できるラジオが求められていた。現在も台風の際には24時間体制で放送し、住民の方々から集まった情報を、安全の確保に役立てるように発信している。
このたびも台風10号が接近する中で、電話インタビューに出ていただいた。電話口からの明るい声にホッとした。
もう一つの大きな役割が、歴史や文化の共有だ。
奄美大島では多くの人が高校卒業後に島外へ進学・就職するものの、地元に対する理解が深まっておらず、歴史や文化を語れないケースも少なくない。
あまみエフエムは、文化を楽しく共有すべく、島で生活を営む人々の声を集めながら、日々和やかなムードで番組がつくられている。
集落のおばあちゃんから保育所の子どもたちまで、さまざまな人をゲストに呼んで、ありのままの生活を伝えてもらう。
奄美大島には151の集落があるが、自分の育った集落以外の風習や言葉は、意外と知らないものだ。そうした部分を比べながら発信するだけでも、面白がってもらえる。行事の伝承方法など、知恵を交換することで、文化の保存にもつながる。
特に最近、渡さんが力を入れているのが、世代を超えた声の伝承だ。かつて営まれていた先人たちの生活について、取材を通じて発掘していく番組づくりを行っている。
島で暮らす一人一人にはたくさんのエピソードがあり、番組で取り上げなければ表に出ないものも多い。
伝承していかなければ、いつの日か忘れ去られていく。
島唄も同様で、掛け合いの即興形式で成り立つ唄も多いため、単に音源を残せばいいわけではない。スタジオに来て唄ったり話したりしてもらったり、集落に赴いて収録したりして、できるだけ多くの人の声を届けるようにしている。
聴く人、話す人、伝える人が一体となり、多様な文化を共有しているあまみエフエム。渡さんが仕事をする上で大切にしているのは、常に人を探し“つながり”をつくることだという。
常に、人との接点を大切にしている。
おじいちゃん・おばあちゃんには自分を孫のようにかわいがってもらい、下の世代のみんなにも気軽に『陽子姉』と呼んでもらっている。
井戸端会議的なコミュニケーションの中で島での出来事が見えてくる。
こうした“つながり”は、災害時における重要なネットワークにも変わる。緊急時には特番に切り替え、役所など関係機関からの情報を発信するが、それだけでは量もスピードも足りないため、リスナーからの情報提供が欠かせない。
普段からつながりがあるリスナーの方々から、『○○で土砂災害が起こっている』『○○トンネルが停電している』などの情報を頂き、『リスナーの○○さんから寄せられた情報によると……』という形で発信している。日頃から話をすることで培った関係性が、島ラジオにとって大切な情報源になっている。
近年はソーシャルメディアで災害時の現地情報が投稿される世の中になったが、高齢者やドライバーなど、スマートフォンを使えない人も多い。電波に重要な情報をのせることで、救える命もある。そのためには災害時にラジオをつける習慣が根付かなければならないが、平時の番組でリスナーとの距離を近づけ、信頼関係を育むことがポイントになる。
「台風の形もさまざまで、『今回の台風は〇〇だから…』と、自己判断で避難するかを決めてしまう住民も多いです。たとえ何もなかったとしてもまずは避難することが重要なのであり、そうした空気と信頼をつくることが、島ラジオの役目だと考えています」
日頃からラジオで“つながり”を築きながら、いざという時に支え合う。渡さんの活動は、地域コミュニティーの維持に欠かせない存在になっている。
実は、2013年10月、おぺらぺらぺらコンサートで
奄美を訪れたとき、渡陽子さんの番組に出ていたのだ!