大和国の三山めぐり③ ~鴨公神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

大和三山(やまとさんざん)
かこまれた

藤原京(ふじわらきょう)
中心部には

大極殿(だいごくでん)があり
天皇がみずから政治や儀式を
おこなっていたといいます。

 



大極殿の跡地は、いま

すこしばかり土が盛られた高台となり
鴨公の森(かもきみのもり)という
ちいさな森が茂っています。

その森のなかにあるのが、
鴨公(かもきみ)神社跡です。



神籬(ひもろぎ)のような

木が1本だけ祀られています。

 

かつてはここに、

社殿があったのでしょうか?

祭神は、
事代主神(ことしろぬし)
だといいます。



とてもとても
居心地がよい場所でおもわず
踊りだしたくなるほどです。

大和三山の見えない力が
ここに集まっているようで

聖地やパワースポットのひとつ
だと感じました。



大和三山の頂上をむすんだ
三角形の垂心(すいしん)
[各頂点からおろした垂線の交点]は、

大極殿・内裏で
交わるようですね。



そもそも、
大和三山がえがく三角形は
二等辺三角形だといいます。

畝傍山から耳成山の距離と
畝傍山から天香久山の距離が
おなじようです。

一説には、それぞれの山の
山頂に墳墓をきずくなどして

頂上の位置を調整した
ともいうようですね。

天然の山をベースにした
ピラミッドという説もあるようです。

 



奈良・平城京や

京都・平安京のように
都の北側に宮を築くのではなく

飛鳥・藤原京が
都の中央に宮を築いたのも
大和三山によるのでしょうか。

 


鴨公神社というように
鴨(かも)氏が祀った神社
だといいます。

平城京へ遷都したあと
藤原宮の大極殿の地には
鴨氏が暮らしていたようです。



大和国の鴨氏といえば
三輪山(みわやま)
奉斎した氏族であり、

三輪山に大物主を祀って
三輪(大三輪・大神)氏の祖となった
大田田根子命(おおたたねこ)

孫・
大鴨積命(おおかもずみ)に
はじまる氏族だといいます。



大田田根子の祖先が
事代主や大物主であることから
鴨氏は事代主神を祀るようです。

大鴨積命は、鴨の地に
鴨都波(かもつば)神社をたてて
事代主神を祀ったことから

「鴨君(かものきみ)」という
姓をあたえられたそうです。

 



ホツマツタヱでは

初代・大物主=オホナムチ
初代・事代主=クシヒコ

であり、

三輪山に祀られているのは
初代・事代主から
2代目・大物主となった
クシヒコさまのようですね。


天照大神の弟・
ソサノヲ(素戔嗚尊)にはじまる
大物主・事代主の系譜は
代々朝廷につかえていたといいます。

 



だからこそ、鴨氏は祖先である
事代主神クシヒコの系譜を祀るのでしょう。

古事記・日本書紀の
もとになったといわれる
ホツマツタヱも、

5代目・大物主クシミカタマが
前半をまとめ

クシミカタマの子孫・

大田田根子(おおたたねこ)が
後半をまとめたといいます。

ですから、
カモ氏はホツマツタヱとも
つながるのかもしれません。



大鴨積命が祀ったのは
2代目・事代主ツミハらしく、

鴨都波神社では
積羽(つみは)八重事代主神
として祀られていました。

三輪山との関係から
大神(おおみわ)神社
別宮ともいわれるそうです。

鴨都波神社では、
弥生時代の遺跡もみつかり
鴨氏の地とされるようです。

 



面白いのは、

三輪山の山頂と
藤原京大極殿(鴨公神社)と
鴨都波神社が

一直線にならぶということ
でしょうか?

ここにもなにか
強烈な意図を感じます。

 



さて、
藤原宮の跡地に暮らしたという
鴨君足人(かものきみたりひと)は

奈良時代に編さんされた
万葉集(まんようしゅう)に
こんな歌を残したといいます。


天降付 天之芳来山
(あもりつく あめのかぐやま)

霞立 春尓至婆
(かすみたつ はるにいたれば)

松風尓 池浪立而
(まつかぜに いけなみたちて)

櫻花 木乃晩茂尓
(さくらばな このくれしげに)

奥邊波 鴨妻喚
(おきへには かもつまよばひ)

邊津方尓 味村左和伎
(へつかたに あぢむらさわぎ)

百礒城之 大宮人乃
(ももしきの おおみやひとの)

退出而 遊船尓波
(まかりでて あそぶふねには)

梶棹毛 無而不樂毛
(かちさをも なくてさぶしも)

己具人奈四二
(こぐひとなしに)



これを
文字どおりに訳せば


天から降ってきたという天香具山では
霞たつ春になると
松風によって池に波がたち
桜の花が木陰にひろがる。

(池の)沖では鴨が妻をよび
(池の)岸では巴鴨が群れて騒ぐ。

宮仕えをしたおおくのひとが
去ってしまうと (池の)遊覧船に
舵も棹もなくさびれているのは
(舟を)漕ぐひともいないからだ

 

となるようです。

 



平城京に遷都すると
藤原京はさびれたようですね。

ひとびとが楽しんだ池も
いまでは鴨がなくばかりで

残された舟だけ
朽ちてゆくのがもの悲しい
と詠っているようです。

ただ、これは
表向きの意味であって

ここには、鴨氏の歴史が

詠みこまれているようです。



『あもりつく あめのかぐやま』

初代・神武(じんむ)天皇が降りたち
天香久山(あまのかぐやま)の土をとって
大和を討ち治めたことでしょうか?

ホツマツタヱ的には
飛鳥の地に降りたった
天孫・クシタマホノアカリのこと
ともとれそうです。

いずれによ、
日本統治において重要な地だ
といっているのでしょう。



『かすみたつ はるにいたれば』

平城京のある春日(かすが)の地は
春日(はるひ)の霞(かす)が
といわれるようですね。

平城京に遷都したことを
いっているようです。



『まつかぜに いけなみたちて』

「まつ(待)」と「いけ(行)」
にかけて

飛鳥に残ったものと
遷都について行ったったものを
いっているのでしょうか?

 



『さくらばな このくれしげに』

天照大神の孫・
ニニキネ(瓊瓊杵尊)は、

妻・木花開耶姫(このはなさくやひめ)
謝罪の歌として


おきつもは へにはよれとも さねとこも
あたわぬかもよ はまつちとりよ


と詠んだといいます。

 

ここでの「カモ」は、

「鴨舟」という船のことであり

 

「上下(かも・かみしも)」という

天地・陰陽の関係のことでもあるようです。

 

また、「ハマツチトリ」は

「浜を行ったり来たりする千鳥」

のことだけでなく

 

天香久山の土によって皇位継承される

「土取り(つちとり)」の意味もあるといいます。

 

 

さらに、「このくれしげ」を

「子孫ののちの繁栄」と読めば

ニニキネとサクヤヒメの孫が
ニギハヤヒ(饒速日命)であり、

 

ニニキネの兄・
クシタマホノアカリの養子(跡継ぎ)となって
 

ニギハヤヒは

大和を治めていたようです。

 

ニニキネの代から

朝廷はふたつにわかれていて、

 

神武天皇の代で

ニギハヤヒをくだして

朝廷は統一されたといいます。

 


『おきへには かもつまよばひ』

すこし離れた葛城の地に
鴨都波(かもつば)神社を創建して

鴨(かも)の名を
たまわったことでしょうか。

ニニキネの歌の「おきつも」にも
かかっているようです。



『へつかたに あぢむらさわぎ』

「あぢ」は「巴鴨」ではなく
味耜高彦根命(あちすきたかひこね)」の
「味(あぢ)」でもあり

高鴨(たかがも)神社では、
迦毛大御神(かものおおみかみ)として
祀られています。

おそらく、大和・葛城は
出雲のアチスキタカヒコネ
妻のシタテルオクラヒメ
暮らした地なのでしょう。

おふたりはここで
カモイト」を結んだといいます。

カモの一族のおこりは
アチスキタカヒコネとオクラヒメ
だったのでしょうか?

不思議なのは、
耳成山と畝傍山の直線上に
高鴨神社があるようですラブ



『ももしきの おおみやひとの』

第10代・崇神(すじん)天皇は
磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)
を築いたといいますが、このとき

天照大神の御霊を
皇居の外に遷したといいます。

そのときに詠ったのが

宮人の おおよすがらに いざ通し
ゆきのよろしも おおよすがらに

だそうです。

崇神天皇の
「磯城(しき)」や「宮人(みやひと)」が
かかっているのでしょう。

面白いことに、これもまた
畝傍山から垂線をのばすと
崇神天皇の磯城宮あたりを

通るようです。

 



『まかりでて あそぶふねには』

ホツマツタヱによれば

船の一族の祖・
シマツヒコは

鵜が朽木にのって川を下る姿から
「筏(いかだ)」と「棹(さお)」を
考案したといいます。

また、
子・オキツヒコは

鴨の泳ぐ姿から
「櫂(かい)」を考案して
「鴨舟(かもふね)」をつくったといいます。

この鴨舟によって救われ
産まれたのが

天照大神の玄孫・
ウガヤフキアワセズであり
斎名(本名)を

カモヒト」というようですね。



ホツマツタヱでは、

鴨の歌をうたった
ニニキネを祀るのが
京都・

上賀茂(かみがも)神社であり

カモヒトといわれる
ウガヤフキアワセズを祀るのが
京都・

下鴨(しもがも)神社のようです。

どちらも、京都の
賀茂(かも)氏が奉斎しています。

ウガヤさまの義父は
カモタケツミ(賀茂建角身命)といい

このかたが、
京都の賀茂(かも)氏の祖
ともいうようですね。




かちさをも なくてさぶしも


シマツヒコの棹や
オキツヒコの櫂も忘れられて

船の一族がのこした
鴨舟も忘れ去られてしまった
ということでしょうか。

カモタケツミ(賀茂建角身命)は
船の一族ですから

京都の賀茂氏は海人族系であり

 

アチスキタカヒコネは

ソサノヲに連なるものですから

大和の鴨氏は出雲系でしょうか。


ホツマツタヱによれば、

 

京都の

上賀茂神社・下鴨神社を

再建をしたことから
 

大鴨積命は

「鴨」の名をたまわったといいます。

おそらくこのときに、


奈良にも

上鴨神社(高鴨神社)

下鴨神社(鴨都波神社)

創建したのでしょう。

とすると、この
大鴨積命(おおかもつみ)が

バラバラだったカモの系統を
ひとつにまとめたのかもしれません。




こぐひとなしに


大鴨積命によって

統合された鴨氏だったのですが


平城京の世では、

活躍できなかったのかもしれません。

先導(船頭)する鴨氏がいないのに

皇室はどうするつもりなのか、という

憤りもあったのでしょうか?




このように、
鴨公足人は歌のなかに
鴨氏の歴史を詠んだ
のではないでしょうか?

そして、この歌によって

大和三山の位置関係をしめし

 

藤原京の造営には

鴨氏が関わっていたのだと

遺したのではないでしょうか?

 

 

さらにいえば、この地は

天孫・クシタマホノアカリが都をひらいた

飛鳥の地なのかもしれません。

 

藤原宮造営のさいには

古墳もいくつか破壊された

といいますし、

 

藤原宮の遺跡のしたには

弥生時代の遺跡も見つかっている
といいます。

 

また、耳成山から

畝傍山と天香久山を結ぶラインの

二等分線をのばしていくと

 

天孫・クシタマホノアカリを祀る

櫛玉命(くしたまのみこと)神社へ

ゆきあたるようです。

 

 

大和三山のつくりだす

不思議なラインはほかにも

いくつもありそうですね。

 

たとえば、この当時

遣唐使船は大阪の

住吉大社(すみよしたいしゃ)から

出発していたといいますが、

 

天香久山から

二等分線をのばしたさきに

住吉大社があるようです。

 


まあ、これまでやると

さすがに偶然な気もしますが

 

船の一族つながり

という気もします。

 

鴨公足人は
この歌のほかにつづけて
3首詠んだといいます。

 

どれも深読みできそうな

面白いものばかりですが

それはまたいずれ!


藤原宮の鴨公神社は
 

式内社の
高市御縣坐鴨事代主神社に

比定されるともいいますが

 

さて、どうでしょうか?


ちかくには、

河俣(かわまた)神社や

天高市(あめのたけち)神社など

事代主を祀る神社もおおいようです。

 

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