大和国の三山めぐり⑧ ~久米氏~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

久米寺(くめでら)の南に
久米御縣(くめのみあがた)神社
があります。

 



もとは、久米寺の

鎮守社とされていたようで

明治時代の
神仏分離政策によって
社地がわかれたようですね。

 



ただし、創建は
久米寺よりも古く

久米御縣神社が衰退したのち
久米寺がおこり

久米寺の鎮守社として
復興したようですね。

どうやら、ここはもともと
久米(くめ)部といわれた

古代氏族・久米氏の
本拠地だったようです。

 



古事記によれば、

天照大神の孫にあたる
瓊瓊杵尊(ににぎ・ニニキネ)
高天原(天上界)から降りてきたとき、


地上の先案内をしたのが


天忍日命(あめのおしひ)
天津久米命(あまつくめ)

だといいます。

矢筒を背負い
大刀をさげ
弓矢をもっていた
 

といいますから
武人のようですね。

 

つづけて、


天忍日命
此者大伴連等之祖

天津久米命
此者久米直等之祖也


とあることから、

天忍日命は
大伴(おおとも)氏の祖であり

天津久米命は
久米氏の祖とされるようです。

天津久米命は、日本書紀では
『天槵津大來目(あまくしつおおくめ)』
と記されるようですね。



やがて、この子孫が
神武東征(じんむとうせい)
活躍したといいます。

神武一行が、紀伊山地を越えて
宇陀(うだ)の地にはいったとき

敵対していた
ウカシ兄を討ったのが、


大伴連等之祖
道臣命

久米直等之祖
大久米命


大伴氏の祖にあたる
道臣命(みちのおみ)

久米氏の祖にあたる
大久米命(おおくめ)
だったようです。

 



そして、ウカシ兄との戦の
勝利を祝して詠われたのが
 

「久米歌(くめうた)」

だといいます。

これは、いまでも
大嘗祭などの宮廷儀礼で


「久米舞(くめまい)」という

歌舞として奉納されるのだそうです。



宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留
うだの たかぎに しめなわはる


とはじまる、長唄であり
勝利をたたえる歌が

何首もつづくようですね。


なかには、


美都美都斯 久米能古賀
みつみつし くめのこが

久夫都都伊 伊斯都都伊母知
くぶつつい いしつついもち

宇知弖斯夜麻牟
うちてしやまむ


など、

「久米の子」が「討つぞ」と
くり返されるようです。


また、久米氏は
膳夫(かしわで)という
調理人でもあったらしく、

敵を饗宴にさそい
油断したところを討った
ともいうようです。

戦うコックさんラブというのが

久米氏かもしれません。

ともあれ、

久米氏は神武東征の

功労者のようです。



さらに、古事記では
神武天皇が即位したのち

后となる
イスケヨリヒメとの
仲人をしたのも

大久米命(おおくめ)
だといいます。

イスケヨリヒメは、
大久米命が目のまわりに
入れ墨をしているのをみて


阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米
あめつつ ちどりましとと などさけるとめ



どうして鳥のように
目に墨を入れているのですか?


と聞いたそうです。

「さけるとめ」は
「黥(さ)ける利目(とめ)」で
「目に墨を入れること」だそうです。

すると、大久米命は


袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米
をとめに ただにあはむと わがさけるとめ



美しい乙女を見つけだすために
するどく見開いているのです


と答えたそうです。

大久米命の仲人によって
神武天皇とイスケヨリヒメは
結ばれたといいます。

 

(このくだり、

ホツマツタヱではまったくちがう

というのは後述しますキラキラ

 



これらの功績によって
日本書紀には、


道臣命宅地
居于築坂邑



使大來目
居于畝傍山以西川邊之地
今號來目邑


とあり、

道臣命(大伴氏)は
築坂村をたまわり

大久米命(久米氏)は
畝傍山(うねびやま)の

西の川辺たまわったといいます。

そして、そこを
久米村といったそうです。

久米寺や

久米御縣神社があるのは
久米村の地なのでしょう。

 



さて、気になるのは
大伴氏と久米氏の関係です。

日本書紀には


大伴氏之遠祖道臣命
帥大來目部 奉承密策


とあり、

大伴氏の祖である
道臣命は

大久米部を率いて
密命をうけていたといいます。

久米氏は大伴氏の
下部組織だったというのです。

また、第11代・
垂仁(すいにん)天皇の世には

久米村に、歴史上最初の
屯倉(みやけ)」をおいたといいます。

食料倉庫をおいたり

食料調達をするための

天皇の直轄地のこと

 

とはいいますが、どうやら
屯倉を置くということは

 

その地の氏族を、
天皇直属の近衛兵団とする

意味もあったようですね。

 


久米氏は、
大伴氏の実動部隊であり

あわせて、
膳夫(調理人)でもあったから


屯倉をおくのに

最適だったのでしょう。

 



では、ホツマツタヱでは
どのように記してあるかというと

まず、
天照大神の孫の時代には
登場しないようです。

古事記で
大伴氏の祖とされる
天忍日命といえば、

ホツマツタヱでは
ハタレ根(反乱軍の首謀者)として

出雲の地
ソサノヲとイフキドヌシに
討たれています。

 

大伴氏や久米氏とは

まったく関係がありません。

ですから、ホツマツタヱでは
神武東征からの登場になるようです。

 




あすかみち いくさひきゆく
みちをみが みねこえうだの
うがちむら


とあるように、
 

飛鳥へつづく道の

軍の先陣をきっていた
ミチヲミ(道臣命)が

紀伊山地を越えて
宇陀のウガチ村に
だとりついたようですね。

 



宇陀では、記紀とおなじく
ウガシ兄ほかおおくの敵を
討ったようです。

また、
天香久山の土でつくった器
天照大神・豊受大神を祀ったのも
ミチヲミ(道臣命)だといいます。

さらに、記紀にのこる
「久米歌」にあたるものは
ホツマツタヱには1首だけ


かんかせの いせのうみなる
いにしえの やえはいもとむ
しただみの あこよよあこよ
しただみの いはひもとめり
うちてしやまん


とあり、これは記紀にも
ほぼ同じものがあるようですね。



こうして大和を平定し、
神武天皇が即位のさいには

ミチヲミ(道臣命)は、

「日の臣」として神武天皇に

神璽を納めた
「璽の御箱(しるしのみはこ)」を
手渡す役をたまわったようです。

これは、
天照大神の代役というような
大役だったようですね。

さらに、ミチヲミ(道臣命)は
「ミヤコトリ(都鳥)」の歌を

詠ったといいます。

天孫・ニニキネが

三種の神器をたまわるさまを

詠んだもので、

神武天皇の正当性と
統治者としての心得が
詠みこまれているようです。



神武天皇が即位したとしの

大嘗祭では


みちをみくめと みかきもり


とあり、

ミチオミ(道臣命)と

クメ(大久米命)は
場内警備にあたった
といいます。

これが、ホツマツタヱでの

『クメ』の初出のようです。

さらに、神武東征の
功労者への褒賞として


みちをみは のぞみのままに
つきさかと くめのところお
たまふなり


とあり、

ミチヲミ(道臣命)は望んだとおり
「築坂」と「久米の所」を
たまわったといいます。



どうやら、ホツマツタヱでは
「築坂」も「久米」も

 

ミチヲミ(道臣命)が

たまわったようですね。

ですから、もしかすると
「ミチヲミ(道臣命)」と

「クメ(大久米命)」は

同一人物かもしれませんし

ミチヲミ(道臣命)の

率いていた集団のことを
「久米(くめ・組)」といっていた
のかもしれないようです。



さらに、ホツマツタヱでは

神武天皇の后となる
タタライスズヒメ(蹈鞴五十鈴媛)と

イスケヨリヒメ(伊須気余理比売)は
別人だといいます。

神武天皇は、正后
タタライスズヒメをさしおいて

若い妻・イスケヨリヒメを
迎えようとしたたところ
正妻に止められたそうです。

くわえて、イスケヨリヒメを
神武天皇の息子である

タギシミミが奪おうとして、いよいよ
話がこじれてしまったようです。

 




あめつつち とりますきみと 
などさけるどめ



天香久山の土をとって
天皇として即位した君との仲を
どうして割こうとするのですか?

 

イスケヨリヒメは、

「ツヅ歌」という19音の

特殊な呪力のこもった歌を

詠んだといいます。

「娶(めとる)」を逆さにした
「るとめ」まで詠みこまれていて

神武天皇に操を誓う

イスケヨリヒメヒメの姿が
詠われているといいます。

それに対して、横恋慕した

皇子・タギシミミ


にやおとめ たたにあはんと
わがさけるどめ



美しいあなたとただ結ばれるため
父に身を引いてもらったのです


と返したそうです。

古事記の話とは

ずいぶんと違うのに

 

歌はほとんど同じで

意味がぜんぜん違うというのも

とても興味深いです。

 


さらに、おもしろいのは

ホツマツタヱでは

 

イスケヨリヒメの父親が

クメ(大久米命?)だというのです。


くめかこの いすきよりひめ 
おしもめに めせはきさきに
とかめられ

 

クメ(久米)の娘・イスキヨリヒメを
乙下侍(おしもめ・内侍)に召したところ

后(タタライスズヒメ)にとがめられた



くめかやの いすきよりひめ
かしはてに みけすすむれは
すめらきは これおめさんと

 


クメの館に泊まったところ
膳夫として給仕にあらわれた
イスキヨリヒメをひとめみて

神武天皇は召そうとおもった


もし、これがうまくいっていれば

クメ(久米)氏は

 

初代天皇の義理の父

となっていたかもしれませんし、

 

その子が皇位を継いでいたら
歴史は違うものになっていたでしょう。

 



ホツマツタヱには、

「ミチヲミ」も「クメ」も
祖先や子孫については

はっきり書かれていないようです。

 

そこで、

久米御縣神社の祭神である

 

高皇産霊命(たかみみすび)
大来目命(おおくめ)
天櫛根命(あまつくしね)

 

から想像してみます。

 

なかでも、天櫛根命は

「久米氏の祖神と関係の深い神」

と由緒にあるものの

 

よくわからない謎の神のようです。

 


「天櫛根命」を、
6代目大物主の「アタツクシネ」

とする考えもあるようです。

 

たしかに、

天皇の精鋭部隊・久米氏と

軍事をつかさどる大物主・物部氏は

関わりも深いでしょう。

 

けれども、ほかに
天孫・クシミカタマホノアカリとともに
大和の地に降り立ったという

「アマノミチネ(天道根命)」

のことだとすると、

 

「アマノミチネ(天道根命)」の子孫が

「ミチヲミ(道臣命)」となるのかもしれません。

ミチヲミが
宇陀周辺の土地に通じていたのは
 

アマノミチネ以来

この地に暮らして居たから

なのかもしれませんね。

 

アマノミチネは

タカミムスビの一族ですし

 

弟のムラクモ(アメフタヱ)

伊勢の祭祀もになっています。


 

もしかすると、


祭祀をになう氏族が

「ミチオミ」となり

 

御食をになう氏族が

「クメ」となったのでしょうか?


これが、のちの
大伴氏や久米氏となった

のかもしれませんね。

 

久米氏の

「クメ」は「組」であり


大伴氏の

「トモ」は「共」だとすれば

どちらも、
「集団」に通じる名のようですね。


飛鳥時代のおわりには
すでに久米氏が衰退しており
大伴氏が繁栄していたのもあって

古事記・日本書紀には
大伴氏と久米氏が別系統のように
えがかれたのかもしれません。

 

とてもとても気になる

久米氏に思いを馳せてみました。

 

 

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