大和三山(やまとさんざん)のひとつ
畝傍山(うねびやま)です。
大和三山ではもっとも高く
標高198・8メートル
だといいます。
耳成山(みみなしやま)
とおなじく
瀬戸内火山帯に属する
火山の名残りであり、
火山活動によって生まれた
火山岩が浸食されてできた山
とされるようですね。
火口部がないので
火山そのものではない
といいますが、さてどうでしょう?
ただし、古代では
火山とされたようで
「火がうねる」という意味の
「畝火(うねび)」から
「畝傍(うねび)」になった
ともいうようですね。
初代・
神武(じんむ)天皇が
即位してひらいた都
白檮原宮(かしはらのみや)
があったことから、
畝傍山の南には
橿原(かしはら)神宮が
あるようです。
また、畝傍山の北には
神武天皇陵がありました。
畝傍山には、ほかにも
歴代天皇の陵や古墳が
おおく残っているといいます。
しかし、歴代天皇の陵は
江戸時代以降に定められた
といいますし、
橿原神宮の創建も
明治時代以降ですから
歴史としては
比較的浅いようですね。
平安時代につくられた
『延喜式(えんぎしき)』
という法令集には、
各地の神社をまとめた
「神名帳(じんみょうちょう)」
があるのですが、
延喜式にのこる神社を
「式内社(しきないしゃ)」といい
平安時代以前から存在した
由緒の古い神社とされるようです。
畝傍山には、そんな
平安時代以前からあったとされる
式内社がふたつあるといいます。
東大谷日女命(やまとおおたにひめ)神社
と
畝火山口(うねびやまぐち)神社
です。
橿原神宮の北参道から
畝傍山にのぼってゆくとすぐ
東大谷日女命神社
があります。
ご祭神は
神武天皇の皇后・
姫蹈鞴五十鈴媛命
(ひめたたらいすずひめ)
だといいます。
時代によっては、
伊弉冉尊(いさなみ)
や
だったこともあるようです。
おそらく、もとは社名どおり
東大谷日女(やまとおおたにひめ)
を祀っていたのでしょう。
「大和(やまと)」の
「大谷(おおたに)」にいる
女神という意味でしょうか。
気になるのは、
「大谷」という地名は
畝傍山をはさんで
西にある
畝火山口神社の地
だといいます。
「山口(山の入り口)」
にある神社ということから
もともとは、山の神・
大山祇命(おおやまづみ)
を祀っていたといます。
延喜式神名帳には
『畝火山口坐神社』
とあるようですね。
畝傍山のふもとにあった
のですが、
室町時代にいちど
畝傍山の山頂に遷座した
といいます。
そして、明治時代に
橿原神宮が創建されるさい
ふたたび、ふもとに
遷座したようですね。
もともと、ここ
「大谷」の地にあったとすれば
畝傍山口神社と
東大谷日女神社は
ともに祀られていた
また、もしかすると、いま
東大谷日女神社のある地が
畝傍山口神社の
もとの鎮座地であり、
2社のあいだで
鎮座地が入れ替わった
のかもしれません。
東大谷日女神社は、もう1社
飛鳥の地にもあるらしく
いずれ訪ねてみたいですね
どなたかを考えるときに、
畝傍山の「大谷」ならば
久米氏の関係者かもしれず、
ホツマツタヱにいう
イスキヨリヒメ(笹百合姫)のこと
かもしれませんね。
畝火山口神社の
ご祭神は
気長足姫命(おきながたらしひめ)[神功皇后]
豊受日売命(とようけひめ)
表筒男命(うわつつお)
だといいます。
もしかすると、この
「豊受日売姫」が
「東大谷日女」の名残り
なのかもしれませんね。
表筒男命は
住吉三神のひとりであり
住吉三神を祀る
創建したのが、
神功皇后だといます。
表筒男命がおひとりで
祀られているのは謎ですが、
畝傍山と
住吉大社のあいだでは
『埴使(はにつかい)神事』が
いまでも行われているといいます。
住吉大社では、
祈年祭と新嘗祭でもちいる
土器をつくるために
畝傍山の頂上まで
土をとりにゆくのだそうです。
土をとる使いのものを
「埴使(はにつかい)」
というようですね。
河俣(かわまた)神社で
禊をしてから
畝火山口神社で
祭祀をおこない
畝傍山山頂の土を
埴使神事が、
いつからはじまったのかは
よくわからないそうですが
畝火山口神社で
神功皇后や表筒男命が祀られる
理由のひとつではあるようです。
畝傍山の山頂には、
畝傍山口神社の跡地が
残っていました。
耳成山の
「山口」は、
「山の入り口」ではなく
「皇居の用材調達地」だった
といいますが、
畝傍山もまた
皇居の用材調達地だった
のかもしれませんね。
畝傍山の山頂では、
埴使神事の地も
祀られているようです。
こちらも、土というよりは
神籬(ひもろぎ)としての
木を祀っているようにもみえます。
この柵のなかの土をとって
祭器をつくるのでしょうか?
もちろん、この神事は
土をとって祭器をつくった
神武天皇になぞらえてのこと
だといいますが、
なぜこれが
住吉大社でおこなわれるのかは
よくわかりません。
神功皇后を、史上初の
女帝(女性天皇)とするから
なのでしょうか?
とても心地のよい場所でした。
眺めがよいのもありますが
ここをとおる風もまた
とても清々しく感じられました。
ところで、第38代・
天智(てんぢ)天皇こと
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は
大和三山について、このような
歌を残しているといいます。
『
香具山は 畝火ををしと
耳梨と 相あらそひき
神代より 斯くにあるらし
古昔も 然にあれこそ
うつせみも 嬬をあらそふらしき
』
「
香久山と耳成山は
畝傍山を得るために
相争ったといいますが、
古のむかしからそうなのですから
いま争うのもしかたないでしょう
」
「香久山」と「耳成山」を『男』
「畝傍山」を『女』にたとえて
三角関係を詠んだとされ
「中大兄皇子(天智天皇)」が、弟・
「大海人皇子(天武天皇)」の妻である
「額田王(ぬかたのおおきみ)」に
横恋慕したことをいっているのでは?
とされるようです。
しかし、
ホツマツタヱからみるならば
「香久山」というのは
カグヤマ親王とされる
クシタマホノアカリであり、
「耳成山」を
オシホミミの世継ぎ子
ニニキネのことだとすれば、
「畝傍山」という
大和の地をもとめて
クシタマホノアカリの後継・
ニギハヤヒと
ニニキネの後継・
神武天皇が
争ったということ
なのかもしれませんね。
ですから、天智天皇は
「
ご先祖様がそうなのだから
兄弟や親族が争うのも
しかたがない
」
と詠んでいるのかもしれません。
「嬬(つま)」というのも
女性という意味の
「妻」だけでなく
パートナーという意味の
「つま」だとすれば、
「味方する氏族」のこと
かもしれません。
天智天皇は
蘇我氏をほろぼして
中臣氏(藤原氏)と近づき、
天武天皇は
藤原京の地をえたのでしょう。
やはり、大和の統治には
三輪山に眠るとされる
2代目・大物主クシヒコ
深く関わるようですね。
初代・神武天皇による
『日本』の建国の地であり
天武・持統天皇によって
近代国家にかわった地でも
ありますが
よくみれば、そこには
日本のはじまりの地が
大和国の三山めぐり ~終~
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☆三山めぐり全記事リスト☆
大和国の三山めぐり① ~耳成山~
大和国の三山めぐり② ~藤原京~
大和国の三山めぐり③ ~鴨公神社~
大和国の三山めぐり④ ~畝傍都多本神社~
大和国の三山めぐり⑤ ~天香山神社~
大和国の三山めぐり⑥ ~天香久山~
大和国の三山めぐり⑦ ~久米寺~
大和国の三山めぐり⑧ ~久米氏~
大和国の三山めぐり⑨ ~橿原神宮~
大和国の三山めぐり⑩ ~神武天皇陵~
大和国の三山めぐり⑪ ~綏靖天皇陵~