大和国の三山めぐり⑪ ~綏靖天皇陵~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

神武天皇陵
すぐ北にあるのが、

第2代・
綏靖(すいぜい)天皇の
陵墓とされる

『桃花鳥田丘上陵
(つきだのおかえのみささぎ)』

です。



神武天皇陵とおなじく

綏靖天皇陵も

 

中世以降ながらく

所在不明だったのですが、

明治11年(1878年)に
治定されたといいます。

それまで、ここは
「塚山」や「塚根山」という
遺跡だったそうです。



神武天皇陵とおなじく
こちらも、古墳かどうかさえ
疑わしいものだったようですが
 

近年の調査では、
古墳である可能性が高い
とされるようですね。

比定地は、ほかに
畝傍山の西の

「スイセン塚古墳」が

あるといいます。

 

なんにせよ、

綏靖天皇の陵も
畝傍山の周辺には

違いないのでしょう。



さて、ここからはそんな

綏靖天皇について


ホツマツタヱから
みてゆこうと思います爆  笑キラキラ

 



まず、綏靖天皇は

カヌナカワミミ(神渟名川耳)

といったようですね。

斎名(諱・本名)は
『ヤスキネ』
だといいます。



父は、初代・

神武(じんむ)天皇
であり

母は、皇后の
タタラヰソスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)
ですね。

綏靖天皇(カヌナカワミミ)は

三男(末っ子)だったといいます。


ほかに、腹違いの
長男・タギシミミ(手研耳命)
 

同母兄の
次男・カンヤヰミミ(神八井耳命)

いるようです。

 

お名前が長いので

ここからは、


長男・タギシ

次男・カンヤヰ

三男・カヌナカワ

 

としますね。


 

長男・タギシは、権力欲が強く
問題も多かったようです。

父・神武天皇が

皇后・タタラヰソスズヒメ

をさしおいて、

 

若妻の

イスケヨリヒメ(百合姫)を

迎えたときには、

 

長男・タギシは

イスケヨリヒメに横恋慕して
じぶんの后にしようとしたといいます。

 

これが、いまでも

「るどめ」の歌として

残るようですね。

 

しかし、この恋慕は、

失敗に終わったといいます。

 



やがて、父・
神武天皇が亡くなると


たきしみこ ひとりまつりお
とらんとす


長男・タギシ皇子は

父・神武天皇の葬儀もさせず

じぶんひとりで
政治をとろうとしていた
といいます。さらに、


たきしみこ ふたおとおたつ
うねひねの さゆのはなみと


長男・タギシ皇子は、
ふたりの弟を断つ(討つ)べく

畝傍山の
サユ(笹百合)の花見に

誘ったそうです。

笹百合といえば、
長男・タギシが横恋慕をした
義母のイスケヨリヒメも

 

百合姫」という称え名があり

笹百合にゆかりのある方だった

といいますから、
 

長男・タギシにとっては

因縁のある花のようですね。



しかし、

長兄・タギシの策略を

 

亡き父・神武天皇の皇后・
タタラヰソスズヒメは

見抜いたといいます。

 

そこで、実子である

次男・カンヤヰと

三男・カヌナカワに
和歌をおくったそうです。


さゆがわゆ くもたちわたり
うねびやま このさや
かぜふかんとす



笹百合の川には
雲がたち渡り

畝傍山には
木の葉がさやさやと騒ぐような
風が吹こうとしている



うねびやま ひるはくもとゐ
ゆふされば かぜふかんとぞ
このさやぎる



畝傍山には
昼には雲がかっていますが
夕がたには去るでしょう

(そんな雲をはらう)

風が吹くのを知らせるように
木の葉がさやさやと騒いでいます


この歌には、もちろん

隠された意味があり

「クモ(隈・災い)」がせまり
「ハ(刃)」が「キ(斬)り」かかるという

不穏な空気を伝えているようです。

 

「クモタチ」は、ソサノヲ

八雲断つ」にも通じるのでしょう。

 

また、2首目のほうはどうやら
「やられる前にやりなさい」

というような指示にも見えてきます。



三男・カヌナカワは、

母の歌によって

立ち上がったようです。


むかしきさきお
おかせしも をやこのなさけ
うちにすむ いまのまつりの
わかままも とみにさづけて
のくべきお またいらふこと
いかんぞや あにがこばみて
おくりせず われらまねくも
いつわりぞ これはからんと



むかし、
イスケヨリヒメに恋慕して
親子のあやまちを犯したのも

父(神武天皇)の情けによって
うちうちに済ませていたのだ。

いまもまた、政治において
わがままを通していて

本来なら、大臣にまかせて
退いていればいいものを
干渉しているとはどうゆうことだ!

また、長男・タギシ皇子が
拒むばかりにいまだ
父(神武天皇)の葬儀もできていない!

われらを花見に招いたのも
偽りであり、謀にちがいない!


そういって、
弓矢で武装すると

次男・カンヤヰと
三男・カヌナカワは、

長男・タギシのいる
カタオカムロ(片岡室)へ
のりこんだといいます。



三男・カヌナカワが
戸をあけて押しいり、

次兄・カンヤヰが
弓を射るという

計画を立てたのですが、

いざ飛び込むと
次兄・カンヤヰは怖気づいて
弓を射ることができなかったといいます。

そこで、
三男・カヌナカワが弓をとり

第1矢を胸に
第2矢を背中にあてて
長男・タギシを討ったそうです。


おもむろお ここにおさめて
みこのかみ


長男・タギシの亡骸は
片丘室の地に納めて
「皇子の神」として祀ったそうです。

 

「片丘室」は、一般的には

北葛城郡の「片丘」のあたり

とされるようですが、

畝傍山の4キロ北に
皇子神命(すめみこがみのみこと)神社

があるようです。

また、次男・カンヤヰは
討てなかった自分を恥じて、


といちにすみて
いほのとみ みしりつひこと
なおかえて


十市県に暮らして
斎臣の「みしりつひこ(身知りつ彦)」と
名をかえたそうです。

 

「身の程を知った男」

ということでしょうか?

亡き長男を弔うなど
神事を司ったといいます。

 

それが、

多坐弥志理都比古(おおにますみしりつひこ)神社

のようですね。

 

皇子神命神社は、

多坐弥志理都比古神社の

摂社だといいます。

 



こうして、
三男・カヌナカワは


にいみやこ かだきにたてて
みやうつし


新しい都を
葛城に遷したといいます。


あまつひつぎお
うけつぎて かぬがわみみの
あまきみと たかおかみやの
はつこよみ



天照大神からつづく
日嗣を受けついで即位すると

カヌカワミミの天君(綏靖天皇)となり
都を「高丘宮」とさだめて

(綏靖)元年としたようです。

いまでも、
「綏靖天皇葛城高丘宮跡」
として残るようですね。

 

葛城高丘宮は、

鴨公(かもきみ)神社でみつけた

ライン上にあるようです。




ながつきの そふかつみゑに
おもむろお かしおにおくり


九月十二日に、父・
神武天皇の亡骸をようやく
白檮尾(橿原の尾根)の地に

葬ったといいます。

すると、このとき
神武天皇をしたって


おいまかるもの みそみたり


神武天皇の

あとを追って亡くなるものが
33人もいたといいます。

33(ミソミ)という数字も
厄年に通じるのでしょう。

そしてこれが、のちの世に
天皇が身罷ったさいには

家臣もともに生き埋めにするという
悪習へつながるようですね。

第12代・景行天皇の世に
埴輪が代用として埋められるまで
続いたといいます。



綏靖天皇の皇后は
ミスズヨリヒメ(五十鈴依媛命)
だといいます。

このかたについては
出自がよくわからないようです。

ただ、
母・タタラヰソスズ(媛蹈鞴五十鈴媛)
とも名前が似ていることから


大物主クシミカタマの娘
という説もあるようですね。

 

日本書紀では、

母・媛蹈鞴五十鈴媛の

姉妹とされるようですね。

 

さて、ここまでは

古事記・日本書紀にも
ほとんど同じようなことが

書かれているのですが

 

ここからさきは、

ホツマツタヱのみの

記述のようです。

 

綏靖天皇には、
妻としてほかに

磯城県主クロハヤの娘・
カワマタヒメ

久米県主アタツクシネの孫・
アタオリヒメ

春日県主アウエモロの娘・
イトオリヒメ

葛城国造ツルギネの娘・
姉・カツラヒメ
妹・カツラヨリヒメ

斎瓮臣アメトミの娘・
キサヒメ

が迎えられたといいます。

 



また、三輪山に眠るという
クシヒコ(初代事代主)をはじめ

クシヒコ・ツミハ・クシミカタマを
「三輪の神」として祀り、

クシミカタマの子で
6代目大物主・久米県主
アタツクシネに

「オオミワ(大神・大三輪)」の
姓をたまわったといいます。

 



さらに、

筑紫(九州)が長雨によって
稲がイモチ病で傷んでしまうと
 

アメタネコ(天種子命)を派遣して
イナムシ祓い『カセフの祭』を
おこなったといいます。

これによって、稲も若返り
よみがえったといいます。

そうして、
アメタネコが身罷ったときには
アメタネコの子・ウサマロに


「ミカサ(三笠・御蓋)」の姓を
たまわったといいます。

 

このように、

重要な古代氏族のおこりが

残されているのも

 

ホツマツタヱの

おもしろいところのひとつです。

 

 

こうして、


みそむほさつき 
そかねなと すへらぎまかる
やそよとし


即位36年5月10日に
綏靖天皇は身罷ったといいます。
享年は84歳だったようです。

記紀にはあまり残されず
欠史八代ともいわれ

実在性が薄いとされる天皇ですが、

とてもとても、

気になるかたです。


大和国の三山めぐり⑫ へ つづく

 

 

 

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