『富士山 地質的景観』 第4回 有史からの富士山②(江戸時代) | 奈良の鹿たち

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『富士山 地質的景観』 

第4回

有史からの富士山 ②

(江戸時代)

<江戸に灰を降らせた宝永大噴火>

今から300年以上前の江戸時代中期の1707年(宝永4年)、この年10月28日に東海道・南海道に大地震がありました。十数日前から地震活動が活発化、噴火の前日の12月15日には山麓でも有感となる地震が30回発生しました(最大規模はマグニチュード5程度)。

日本最大級の地震が始まった49日後の12月16日午前10時ころ、南東山腹(今の五合目付近の宝永山)で、大量のスコリアと火山灰を噴出した「宝永大噴火」が始まりました。富士山の一番最近の、そして有史以来もっとも激しい噴火で、黒煙、噴石、降灰があり、激しい火山雷があったと伝えられています。大音響とともに噴煙が20km以上の高さにまで立ち昇ったあと上空で西風に流され、途中で軽石を降らせながら江戸の方向に向かいました。

その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されていますが、記述から見て砕流も溶岩流も出ず、ひたすら火山灰、火山礫を噴き上げる爆発的な噴火が翌年1月1日未明までの16日間続いたものと推測されます。 この噴火は従来のハワイ式噴火ではなく、溶岩をほとんど流さず多量の火山灰や火山弾を放出したブルカノ型噴火でした。

宝永大噴火は地下20km付近のマグマが滞留することなく上昇したため、脱水・発泡・脱ガスがほとんどなく結果的に爆発的な噴火となりました。

富士山を静岡県側から見上げると、山体の右側に大きなくぼみがあり、その隣に小山が見えます。このくぼみは宝永火口、小山は側火山(寄生火山)である標高2693mの宝永山です。

  

宝永火口は第1火口、第2火口、第3火口の3つが北西~南東方向に並んでいますが、最初の噴火は最も高度の低い第3火口から始まりました。

この噴火により、駿東一帯は大打撃を受けました。富士山の東麓に点在する村々では降り注ぐ噴石や火山礫・火山灰で家や田畑が埋まり、特に噴火地点に近い須走村(現:静岡県駿東郡小山町)の集落は壊滅状態となりました。落下してくる大きな軽石から着火して炎上する家屋が数十軒に上りましたが、幸い死者は出ませんでした。焼け残った家も噴出物の重みで破壊され3mを超える降砂に埋没しました。軽石が数十cmほど積もった後、翌日には黒い軽石(スコリア)に変わりました。降ってくるものはスコリアに変わったものの、噴煙は噴火の続いた2週間を通して15kmの高さにまで達しました。須走に降った噴石は大きいものだと直径20mあり、火山灰の厚さは、須走で4m、御殿場から山北付近で約1mにも及んだといいます。

火山灰や火山礫が降り積もった地域では、田畑が全滅して作物を作ることができませんでした。重機もない時代ですから、多量の火山灰を取り除いて畑地を復元することなど不可能でした。このため、火山灰を溝状に掘り抜き、元の地面にまで達したところで、さらに溝を深く掘り込み、その底に火山灰と火山礫を埋めて、その上に掘り起こした元の地面の土を盛り上げ田畑を復元したのです。この方法は「天地返し」と呼ばれていますが、当時の土木技術としては精一杯の復興作業だったのでしょう。しかし、大変な作業ですから、このような天地返しが行われた田畑は限られ、農民の多くは田畑を捨て、流民化していきました。

山地の火山灰は放置されたままでしたから、雨が降るたびに土石流が発生し、河床を埋め、さらに洪水が発生しやすくなるということが繰り返されました。当時の土木事業の技術では、度重なる洪水を防ぐことができず、酒匂川流域は噴火後も数十年にわたって、洪水や土石流の被害に悩まされ、農業の復活は非常に遅れることになりました。

家も田畑も山林も失った住民たちは、窮状を打開するために、幕府に陳情を行いました。ところが領内が被災地となった小田原藩からは具体的な救済策が全く行われず、また幕府が施策を打ち出したのも翌年になってからでした。人々は食物もなく飢餓に苦しみ、ついには村を捨て、離散する人々もいました。

しかし、多くの死者や怪我人が出たとする記録はありません。これは、火砕流や溶岩流が村里に押し寄せなかったことと、冬季で富士講の登山者がいなかったことが幸いしたと考えられます。
<酒匂川の洪水> 

江戸時代の宝永噴火では莫大な量の火山礫・火山灰が噴出し、偏西風に乗って富士山の東側一帯に積もりました。これらの堆積物は河川をせき止め、小型の土砂ダムをいくつもつくりました。噴火の翌年8月、大雨でこれらのダムが決壊し、多量の土砂を含んだ洪水が発生しました。とくに酒匂川(さかわがわ)の洪水は大規模で、ふもとの足柄平野(あしがらへいや)を一面、泥の海に変えたといわれます。これによって河床があがった酒匂川は、以後頻繁に洪水を繰り返し、足柄平野は宝永噴火ののち30年以上も被害を受け続けました。

 <伊奈半左衛門忠順>

伊奈半左衛門忠順(いな ただのぶ)はこの噴火に対し、砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行と呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられ、主に川底に火山灰が堆積していた酒匂川の砂除け、堤防修復などに従事した。被災地に赴任した忠順は、被災民の出役により焼砂の排除に着手。疲労困憊した人々を励まし、極めて過酷な作業に取り組みました。
しかし、もっとも被害の酷かった駿東郡足柄・御厨地方へ小田原藩や幕府の支援が一切行われず、59ヶ村が「亡所」とされ、放棄され飢餓に苦しむ者が続出している悲惨な状況となっていた。忠順は酒匂川の改修工事に被害農民を雇い入れることで生活の安定を図り、農地を回復させるための土壌改良にも取り組んだ。被災した村々の田畑は自力で砂除けをすることが幕府の方針であったため、富士山東麓には飢餓に苦しむ被災民が続出。困窮は深まるばかりであり、多くの村から藩や幕府に救済を求める願いが出ていました。その様子を苦慮した忠順は、幕府の掟を破り、駿府紺屋町にあった幕府の米倉を開き、幕府貯蔵米1万3千石を被災民に分配しました。しかし幕府の禁を破った罪状により、忠順は取り調べの後にお役御免となりました。

忠順は復興開始から4年後、事業半ばで死去しました。

忠順の救済により救われた農民たちは、その遺徳を偲び慶応3年(1867年)に祠を建て、その後、須走村(現在の静岡県駿東郡小山町須走)に伊奈神社を建立し忠順の菩提を弔いました。伊奈神社には忠順の像も立っています。大正時代になって忠順の業績を称えて従五位下に叙せられています。

なお記録にはありませんが、「忠順は幕府の米倉を開き村々の飢民へ分配したことで、この無断行為を咎められ罷免され、後に切腹を命じられた。享年40」とする伝承が駿州御厨地方に残されています。

<宝永噴火の前ぶれとなった「宝永東海・南海地震」>

宝永噴火には、前兆と思われる異変が起こっていました。1707年(宝永4年)10月28日に、震源域が東海から紀伊半島、四国沖にまで及ぶ巨大地震が発生しました。宝永東海・南海地震と呼ばれ、マグニチュードは8.7と推定されています。 宝永地震の起きた頃から、富士山で怪しい鳴動や小地震が感じられるようになりました。地震から48日後の12月15日午後、ついに本格的な群発地震が始まり、夜に入って有感範囲を拡大していきました。翌日の16日には雷のような山鳴りと地震が、明け方からひっきりなしに続いたといいます。そして午前10時ごろ、強い地震と鳴動を伴って大噴火が始まったのです。

<江戸幕府の要人が記した宝永噴火>

江戸では同時刻頃、強い空震があり、夕方から降灰が始まりました。白灰色の灰が江戸では1cmぐらい、川崎では5cmくらい横浜あたりでは10数cm積もりました。18日には黒い灰が雨のような音を立てて降った。噴火は8日間激しく噴火し、以降次第に衰え、翌年1月1日の夜9時ごろ激しく振動して噴火が止みました。

江戸に降ってくる火山灰については、現在の両国付近で伊藤祐賢という旗本がじっくりと観察していて、「伊藤志摩守日記」にその様子を書き残しました。この日記によれば、16日の昼ごろ、灰色の灰が降ってきて、その後川砂のような黒いものに変わったとあります。灰が降り始めたのは噴火発生からほぼ2時間後の事でした。この日だけで降り積もった火山灰は2~3寸(6~9cm)程度に達し、その後も江戸市中の降灰は12月27日まで断続的に続きました。
新井白石の著書『折たく柴の記』にも、「よべ地震ひ、此日の午後雷の声す。家を出るに及びて、雪のふり下るがごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起りて、雷の光しきりにす。城に参りつきしにおよびては、白灰地を埋みて、草木もまた皆白くなりぬ」と、噴火の際の地震や降灰が江戸に及んだことが記されています。

<山頂周辺での噴気活動(江戸時代晩期~昭和中期)>

宝永の大噴火後、富士山では大規模な火山活動はありませんでしたが、江戸時代晩期から、昭和中期にかけて、山頂火口南東縁の荒巻と呼ばれる場所を中心に噴気活動がありました。この活動は1854年の安政東海地震をきっかけに始まったと言われており、明治、大正、昭和中期に掛けての期間、荒巻を中心とした一帯で明白な噴気活動が存在したことが、測候所の記録や登山客の証言として残されています。この噴気活動は明治中期から大正にかけて、荒巻を中心に場所を変えつつ活発に活動していたとされています。活動は昭和に入って低下し始めましたが、1957年の気象庁の調査においても50度の温度を記録していました。その後1960年代には活動は終息し、現在、山頂付近には噴気活動は認められていません。しかしながら、噴気活動終了後も山頂火口や宝永火口付近で地熱が観測されたとの記録もありました。

 

山頂で有感地震(1987年8月20~27日) 

富士山で一時的に火山性地震が活発化し、山頂で有感地震を4回記録しました。(最大震度3) やや深部での低周波地震の多発(2000年10月~12月及び2001年4月~5月)富士山のやや深部で、低周波地震が一時的に多発しました。

 

 

 

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次回は 第5回「富士山周辺①富士五湖・青木ヶ原樹海」

 

 

(担当G)

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