『富士山 地質的景観』
第3回
<有史からの富士山 ①>
(平安時代)
<噴火を繰り返す富士山>
奈良時代~平安時代ころ(8~11世紀)の富士山は、その活動が有史以来最も激しかった時代で、数十年に一度程度の噴火記録が残されています。
富士山の火山現象に関する歌は、柿本人麻呂の『柿本集』に収められており、当時は、山頂からたえず噴煙が上がっていたことを物語っています。
「ふじのねの たえぬ思ひを するからに 常盤に燃る 身とぞなりぬる」
『柿本集』に載るこの和歌が、今知られている限り、富士山の活動を詠んだ最古の作品であるらしい。人麻呂が盛んに歌を詠んでいた時代から推測すれば、7世紀末~8世紀初頭の作とされています。
8世紀後半までに編纂されたと考えられる歌集『万葉集』にも、富士の山頂から火柱や噴煙の上がっている光景を思わせる歌が複数みられます。
平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述があります。
月からの迎えの車に乗って、かぐや姫は月へと帰っていくのですが、その時、姫は帝(みかど)への置きみやげとして不老不死の霊薬を残していきました。しかし、寵愛していた姫に去られた帝にしてみれば、そのような霊薬など何の価値もない。そこで帝は、不老不死の霊薬を駿河の国にあるという高い山の頂に持って行き、火を付け燃やすよう勅使に命令しました。不死の霊薬を焼いた煙が今も立ち昇っているのが、富士山の噴煙なのだと言い伝えているのです。
平安時代中期の『更級日記』には、噴煙を上げている富士山の姿が描かれています。
作者は、当時12~13歳の少女でしたが、新雪をまとった富士の姿と山頂から絶えず噴煙が上がり、夜には赤々と燃え立つさまが巧みに描かれています。恐らくこれは火映現象であろうと考えられます。もしそうであるならば、山頂火口にはマグマが満ちていて溶岩湖になっていた可能性もあります。
噴火の年代が考証できる最も古い記録は、朝廷によって編纂された『続日本紀』です。781年8月4日(天応元年7月6日)「駿河の国からの情報として、富士山が噴火して火山灰が雨のように降り、灰の及んだ所では、木の葉がすべて枯れてしまった」と記されています。
<史書に記された延暦大噴火>
平安時代初期の延暦19年~21800年~ 802年)に発生した「延暦大噴火(えんりゃくだいふんか)」については、噴火による被害の状況など、平安時代初期に編纂された勅撰史書『日本後紀』に記されている。要約すると、「富士山が自ら燃え、夜も火の光が照らし、雷灰が落ち、山下の川水は紅色になった」とある。
『日本後紀』には、「昼は噴煙によって暗くなり、夜は火光が天を照らし、雷のような鳴動とともに、火山灰が雨のごとく降り、山麓を流れる川の水が紅色に変わった」との記載がある。このときの大噴火による噴出物で相模国「足柄路」が埋没したため、5月19日から翌年の1年間は、箱根路を新たに開いたという記述も出てきます。
もう少し詳しい記述が『日本紀略』の中に残されています。それによれば、噴火は4月11日から5月15日(旧暦3月14日から4月18日)までほぼ1ヶ月間続き、噴煙のため昼でも夜のように暗くなり、火山灰が雨のように降ったということです。また、2年後の802年(延暦21年)1月8日にも噴火の記録があります。
<山麓の地形を変えた貞観大噴火>
今から1300年前、平安時代初期の貞観6年(864年)6月中旬に富士山北西の一合目から二合目付近にかけての斜面約10km(現在の長尾山)から大きな割れ目噴火やスコリア噴火が起こりました。866年までの2年間にわたって大量の溶岩を流した「貞観大噴火(じょうがんだいふんか)」です。数箇所から真っ赤な溶岩流があふれ出し扇状にひろがり、ふもとの湖にも流れ込んだ。流れ出た溶岩の一部は当時あった富士北麓にあった広大な湖「剗の海(せのうみ)」を埋めて、現在の精進湖と西湖は、剗の海が溶岩流によって東西に分断されました。大部分の溶岩は「青木ヶ原溶岩」とよばれ、斜面を幅広く流れ、その上に育った森林は、1100年余りの間に「青木ヶ原の樹海」という広大な森となりました。
864年の貞観大噴火の時に流れ出した溶岩(玄武岩)によって、富士山の周辺で見られる風穴のほとんどが作られました。そして、今までに100を超える風穴(洞穴)が発見されています。
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(担当G)
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