『富士山 地質的景観』 第2回 新冨士火山 | 奈良の鹿たち

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『富士山 地質的景観』 

第2回

<新冨士火山>

 

 

③新富士火山の時代(約1.5万~7千年前)

最終氷期が終了したおよそ1万数千年前から、富士山の新しい活動が始まります。新富士火山の誕生です。このため、これ以前の富士山を古富士火山、これ以降を新富士火山と呼んでいます。これが現在の富士山へと続いていきます。新富士火山は古富士火山の山頂よりはやや西寄りの場所から溶岩を大量に噴出しました。富士山の東側では新富士火山の溶岩流が少なく、西側ではたくさんの溶岩流が重なっていることからも分かります。山頂噴火では爆発的な噴火と成り、山腹割れ目噴火では溶岩流を噴出させる。また、岩屑なだれ、山体崩壊、火山泥流も生じている。縄文時代には二つの富士山が並び、縄文人たちはそれを見ていたわけです。

新富士火山の噴出物によって、古富士火山はほぼ覆われてしまいました。その後、古富士火山の山頂が新富士火山の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2900年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」後述)を起こして崩壊しました。これが最後の大規模山体崩壊でした。東側の山頂付近から大きく崩れて岩屑なだれが発生し、これが堆積して出来た緩やかな斜面の上に発達したのが、現在の御殿場市なのです。この時には噴火が知られていないので、富士川河口断層帯での地震によって崩壊したと考えられています。山体崩壊によって山頂近くが大きくえぐり取られたはずなのですが、その傷跡は、数百年のうちに次々と起こった活発な噴火活動で埋め立てられてしまいました。

古富士火山があったことは、その後、古富士火山は活動を停止し、植生も進み古富士火山の表面に腐葉土を育んでいきました。古富士火山の山体は宝永山周辺等富士山中腹にかなり認められます。

新富士火山では山頂火口からも、山腹にそのつど新しく作られる火口からも、噴火が発生していました。ところが、今から2200年前の噴火を最後に、山頂火口からの噴火は途絶えてしまいます。この噴火は激しく爆発的で、東方に大量のスコリア(黒い軽石)を堆積させましたが、現在みられるような山頂付近に急峻なスロープを持つ端正な形を完成させた噴火でもあったのです。その後も富士山は40回以上の噴火を繰り返しているのですが、いずれも、山腹に新たな火口を造っては噴火を起こし、次には別の場所に火口を造るという噴火を繰り返しているのです。
富士山の噴火は、規模も様式も一定ではありません。あるときは数kmに及ぶ割れ目火口から、大量の溶岩が比較的静かに流れ出します。マグマのしぶきを噴水のように噴き上げて、落下したスコリアを火口の周囲に積み上げて、こんもりとした丘を造り上げることもあります。時には、そのふもとから細長い溶岩流を流し出す噴火となることもあります。また、激しい爆発に伴って噴煙を1万m以上も噴き上げ、大量のスコリアや火山灰を広い地域に降らすような噴火をすることもあります。山頂近くの急斜面に降り積もったスコリアが崩れて、火砕流となって斜面を駆け下ることも起こります。このように、さまざまなタイプの噴火が起こることから、富士山は「噴火のデパート」と呼ばれることもあるくらいです。噴火の規模もさまざまですが、調査が進んでいる最近3200年間の噴火を規模ごとの回数で表現してみると、圧倒的に大部分の噴火は噴出量が溶岩換算で2000万㎥以下の小規模噴火であることが分かります。後に述べる貞観大噴火や宝永大噴火のように、数億立方メートルを超えるような大噴火はめったに起こらなかったのです。火山噴火や地震などの自然現象では、大規模なものほど発生頻度が低いのが普通です。

2013年、産業技術総合研究所は、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あったとしている。

このような富士山の歴史を振り返ってみると、図1のように現在の富士山の下にはいくつかの古い火山が埋もれていることになります。最近まで、小御岳(こみたけ)、古富士(こふじ)、新富士(しんふじ)火山の3層構造だと考えられていましたが、2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳火山の下に別の火山の噴出物が300m以上の厚さ存在していることが分かりました。この火山は数十万年前の更新世にできて30~20万年前ころまでは活動していたことが分かりました。安山岩を主体とするこの第4の山体は、小御岳よりも古いという意味で、先小御岳(せんこみたけ)火山と呼ばれるようになりました。

したがって、現在の富士山は4階建ての火山であるということになります。

 

紀元前1万5千年頃~紀元前6千年頃(約1万7千年~8千年前)までは、富士山の噴火の形態が大きく変わり、山頂噴火と山腹噴火を繰り返し、断続的に大量の玄武岩質溶岩を噴出した。これは流動性が良く遠くまで流れる傾向がある。1万7千年~1万4千年前におこった富士相模川泥流は、噴火した溶岩は最大40kmも流れており、南側に流下した溶岩は駿河湾に達している。

現在でも新富士火山の溶岩流の跡は観察できます。

約1万1700年前の三島溶岩流はJR三島駅付近が流れの終着駅でした。JR三島駅近くには、溶岩風景の観光地として楽寿園(らくじゅえん)や鮎壷(あゆつぼ)の滝があります。

約8500年前、桂川を下り大月付近にまで達した猿橋溶岩流は20km以上も溶岩が流れました。

3000年前の縄文時代後期に4回の爆発的噴火が起こりました。これらは仙石スコリア、大沢スコリア、大室スコリア、砂沢スコリアとして知られています。富士山周辺は、通常西風が吹いており噴出物は東側に多く積もりますが、大沢スコリアのみは、東風に乗って浜松付近まで飛んでいます。
※ スコリアとは、鉄分の多い黒っぽいマグマが発泡しながら固まったもの

最後の大規模な山体崩壊は、紀元前1500年頃~紀元前500年頃(3500~2500年前)に起こりました。噴火様式が「山頂・山腹からの溶岩流出」から「山頂山腹での爆発噴火」に移行した。

紀元前1300年頃の噴火で大室山と片蓋山などの側火山が形成されました。

  

富士山の火山上の特徴は、側火山(そくかざん)が非常に多いことです。

富士山には山頂部から山腹にかけ半径約13kmの範囲に側火山・側火口が70以上あります。

側火山とは、大きな火山体をもつ火山において、山頂火口(中心火口)以外の山腹や山麓で噴火が起きた場合につくられる小火山のことです。
 富士山の側火山の多くは、お椀を伏せたような形をしています。これは、噴火の際に火口の周辺にスコリア(気泡をたくさん含む暗色の火山れき)などの火砕物が積もってできた山で、火砕丘(スコリア丘)と呼ばれます。このほか、はっきりした丘にならずに帯状の盛り上がりや溝のような窪みの地形としてとして認められるもの、火口だけが列をなしているものなど、さまざまな形の側火山があります。

  

富士山の側火山の半数以上は、北北西-南南東方向に偏って分布しています。さらに、富士山の山体そのものも、上空から見ると北北西-南南東方向に伸びた楕円形をしています。これらの方角の偏りは、富士山の地下にかかる力の向きと大きく関係しているのです。
伊豆半島の土台は、今よりもずっと南方の海底で噴出した火山群によってできています。この海底火山の高まりがフィリピン海プレートの北上に伴って北進し、約100万年前に日本列島と衝突し、富士山が乗っている大陸プレートを南南東方向から北北西方向へ向かって押しつづけています。このため富士山付近では北北西-南南東方向との直角方向に引っ張られる力が作用するため、地下深部では北北西-南南東方向に割れ目が発生し、この割れ目に沿ってマグマが上昇し、噴火の発生が繰り返されたものと考えられています。富士山のマグマが上昇する際につくられる割れ目も、北北西-南南東方向のものができやすく、結果として側火山の配列も同じ方向のものが多くなっているのです。こうした分布の偏りをもつ火口から溶岩流がくり返し流れた結果、北北西-南南東方向に長径をもつ楕円形をした富士山の山体がつくられました。

紀元前900年頃(2900年前)、風化が進んだ東側の古富士火山の山頂部から大規模な山体崩壊がおこり、古冨士は新富士に呑み込まれた形になりました。

岩屑なだれおよび泥流が発生し東側の山麓を埋めつくしました。崩壊発生から200~300年間は二次泥流が続き、雨が降るたび土石流が発生して御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って相模湾や駿河湾まで流れ込みました。これが堆積して出来た緩やかな斜面の上に発達したのが、現在の御殿場市や小山(おやま)町一帯なのです。「御殿場岩屑なだれ」とか「御殿場泥流」と呼ばれています。山体崩壊が発生した原因は、当時顕著な噴火活動がなかったこともあって、富士川河口断層帯での大規模な地震によるのではないかと考えられています。山体崩壊によって山頂近くが大きくえぐり取られ、大崩壊の直後の富士山は,今の姿からは想像しにくい醜い形をしていたと思われます.

その傷跡は、数百年のうちに次々と起こった活発な噴火活動で埋め立てられてしまい、ふたたび富士山を典型的な成層火山として美しい円錐形の火山に変えてくれました。

(御殿場市や小山町一帯の堆積物)

  

新富士火山の噴火は古富士火山の噴火と違い、溶岩流を流す火山でした。古富士火山の噴火は爆発的な噴火(ブルカノ式噴火)ですが、新富士火山の噴火はマグマのしぶきや溶岩が連続的に流れ出る非爆発的タイプの噴火(ハワイ式噴火)です。

しかし、新富士火山の噴火の全てがハワイ式噴火ではありませんでした。時には噴出物を大量に出すストロンボリ式噴火(間欠的で比較的穏やかな爆発を伴う噴火ですが、火山礫・火山弾が数百m程度の高さに達する噴火)とハワイ式噴火を繰り返していることも事実です。

富士山火山特徴のひとつとして、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄武岩マグマを多く噴出することである。

「お鉢(はち)」とも呼ばれる富士山の山頂火口は,直径が700mもある巨大なもので,過去数100回もの激しい噴火をくりかえしてきました.しかし,どういうわけか2300~2200年前に起きた大噴火を最後に,山頂火口は目立った噴火をしなくなって現在に至っています。

新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1000年前~8000年前の3000年間と、約4500年~3200年前の1300年間と考えられている。

山頂火口の内部にみられる美しい地層の積み重なり.赤や黒の一枚一枚の地層が,山頂火口から起きた噴火の歴史を物語っている.一番上にのる赤い地層は,山頂部からの最後の爆発的噴火で発生した火山礫層である。

宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山に区分されている。

 

 

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次回は 第3回「有史からの富士山①平安時代」

 

 

(担当G)

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