赤道スナックではないですが(いま、命名しました)、ナッツを持ち歩くのは大事。
Plant basedにするとどうしてもカロリーが低めになります(本質的にはカロリーは考えないのですが、とりあえず便宜上便利なので、ここではカロリーという考え方を持ち込みます)。
人間のホメオスタシスはなぜかカロリーに反応し、高カロリーだと代謝が上がり、低カロリーだと代謝が下がります。ですので、想定よりも太らないし、痩せないのです。カロリーでのダイエットは難しい理由がここにあります。リーンゲインズの逆で脂肪が増えて、筋肉が落ちて、その上リバウンドするので最悪です。
だからこそ、赤道Clubでは「高カロリーダイエット」と言っています。
Plant basedでなるべく高めにカロリーをがんばって摂取することが最初期においては重要です。理由は菜食系はエネルギー密度が低いので、どうしてもカロリーが下がってしまうこと(これは代謝が落ち、筋肉が落ちるので良くありません)。そして、なるべく多品種少量を摂ることで、微量栄養素を補いたいからです。
ですので、赤道スナックを持ち歩きましょう(実はコンビニにもナッツは売っています。野菜スティックも。ムキ栗などもw)。
いわゆる低カロリーダイエットや少食という食養生ではないのです。赤道直下のように野菜や果物やハーブがふんだんに摂れるところのイメージです。
スリランカ料理の先生が「スリランカでは飢えない」とおっしゃっていたことを思い出します。街路樹にせよ庭にせよ、十分な植物があるからです。
ナッツは高カロリーという言葉を忘れて、むしろ高カロリーで良いと思って、しかしバリエーション豊かにしましょう。
慣れてきたら、アマゾンで大きな袋で買って、毎日ジップロックに詰めるというRayさんの方法を取るのが経済的です(コンビニの割高感は異常です。でも最初はコンビニもしっかり使いましょう。お腹を空かせないほうが良いです。僕等はカロリーだけを摂っている飢餓状態というのが、「まといのば」の現代人の定義です)。
ネックになるのは調理や料理だと思っています。
逆に料理というか、自炊ができるようになると、赤道化は加速します(赤道化って何だよ)。健康が加速します!
ここは大きな盲点ですし、僕自身も長年の課題でした。
そして大変失礼ながら、多くの尊敬する先生方にとっても同じではないかと思います。
Rayさんが紹介してくれた2年前の記事がそこらへんのことを丁寧に議論しています。
というか、リンクから記事へ飛ぶ人は少ないので(飛ぶ人は幸いです)、引用します。
ちょっと長いですが引用します!
というか、そこが問題なのです。
何の話かと言えば、「健康に良いものはまずくて、健康に悪いものは美味しい!」という現実です。
これを「まといのば」のメンバーの一人が「良薬口に苦し」と言いました。
まさにそのとおりで、「もしこの『良薬口に苦し』という前提が間違っているとしたら、、、?」というのが今回の切り口です。
いま戦時体制に入っているどこかの第三惑星では「贅沢は(素)敵だ」とか「欲しがりません勝つまでは」とか、灯火管制とか、隣組とかが復活しています。
同じく健康になるためには我慢をしなくてはいけないという洗脳も萬延しています。
もしもそれが全く間違っているとしたら、、、、。
贅沢は敵なのではなく、素敵であり、かつエッセンシャルだったとしたら?
「良薬口に苦し」ではなく、「良薬は、口に美味しい!!」だったら?
もっと先へ、話を進めます。
薬食同源というのは中国漢方の言葉で(日本語になったときに医食同源と変化しましたが)、これはユナニ医学というヨーロッパの伝統医学では「汝(なんじ)の食事を薬として、汝(なんじ)の薬を食事とせよ(ヒポクラテス)」となります。
薬食同源
と
「汝(なんじ)の食事を薬として、汝(なんじ)の薬を食事とせよ(ヒポクラテス)」
は、全く同じことを言っています。
もちろんアーユルヴェーダも食を大事にします。
アーユルヴェーダ食というか、いわゆるインド亜大陸のスパイス料理というのは、そのまま薬膳なのです。スパイスとは薬のことであり、そのスパイスからいかにアロマ(芳香成分、薬効成分)を抽出するか、そしてそれを美味しくいただくかが課題です。
「お茶を濁す」という言葉があります。
この「お茶を濁す」が今回のテーマの一つです。
いま我々が目にしている世界のほとんどの料理が実は「お茶を濁している」結果なのではないかというのが今回の切り口です。
「お茶を濁す」の対概念は「お茶を点てる」です。
「お茶を濁す」とは、お茶を点てることができないのに、知ったかぶりをして、お茶を点てることができるふりをしたことを指しています。知らないのに知ったかぶりをして、ごまかしたということですね。
もちろん我々は”Fake it, till you make it!”であるべきでしょうが、でも間違いは間違いです。
きちんと学ぶ必要があります。
きちんと「お茶を点てる」ことができれば、それは素晴らしい薬になるのに、大事なお茶を濁してしまったら、それは似て非なるものになってしまうのです。
精密で精緻なスパイス料理の科学を知ってしまうと、他の料理がいかにお茶を濁しているかが、くっきり見えてきます。
たとえばスパイス料理としてのカレーと、インドを植民地支配していたイギリスが作り出した欧風カレーは似て非なるものです。小麦粉を入れるというのはインド人もびっくりです(←これが言いたかっただけ)。
インド人は豆使いが猛烈にうまいですが(そして非常に美味しいですが)、それを真似したのか、お茶を濁したイギリス人の豆料理は世界に冠たる不味さです(僕も家族がイギリスのケンブリッジにいたときに、訪問して、食べた豆料理はちょっと驚かされました。母は料理は上手な人でしたが、あの豆料理はちょっときつかった記憶があります)。
ヨーロッパと言えばジャガイモを食べるイメージがありますが(特にドイツなどは、ジャガイモとソーセージのような)、ジャガイモを食べる人々と言えばゴッホの作品です。
これも単に蒸かして、塩で食べるのではなく、たとえば角切りにしてクミンシードをからめたら美味しいのにと思います。
料理というのはいわば錬金術です。
素材はきわめて大事ですが、素材をいかに活かすかも重要です。
調理方法が洗練されていると、素材を化けさせられます。
レクチンも同様です。
たとえば、ガンドリーが唯一認めているのは伝統料理です。
伝統料理はレクチンを構造的に破壊する方法論が組み込まれているのです。
南米の豆料理はレクチンが破壊されていると言いますし、パンであってもヨーロッパのパンであれば食べれると言います(ただし長持ちはしないので、昨日のクロワッサンを出すようなことはしないのです)。
インド亜大陸の食事文化圏では3000年の歴史の中でレクチンと闘い、そして勝利し続けてきたのです。それは頑迷に伝統を守るだけという姿勢ではなく、良いものは素早く取り入れる柔軟性も持ち合わせています。
たとえば、電気やガスよりも早く圧力鍋が全土に普及しました(牛糞が燃料でした)。
大航海時代によって、南米からもたらされた唐辛子はいまやインド料理のメインのようです。
トマトなども近代に入ってきたものですが、上手に取り込みました(それもレクチンを構造的に破壊する調理法で)。最悪なのは生野菜をサラダと称して食べることです。野菜のとり方としては最悪の「お茶の濁し方」です。日本でもGHQ以前にそのような野蛮な習慣はありませんでしたw。
その意味では、日本に多くあるインドレストランに出てくるあの不思議なサラダも、インド由来ではありません。ナンというパンはインドの一地方の郷土料理であって、メジャーなわけではありません。ナンを知らないインド人もいるそうです。
そんなことを差し引いて、ガンドリー博士の最新刊を読んでみてください。
*読むとしたら前半だけで十分。
*非常に僭越ながら、僕等はガンドリー博士が知らない情報源にアクセスできています。サプリメントは人の業です。自然は神の業なのです(たとえば柿前線を思い出してください)。
と思って柿前線について書いた記事を探したら、ほとんど無い(「柿前線」とは師匠の香取薫先生の造語)。
これも引用を載せますが、、、、しかし難解な書き方だ。全く不親切ですが、セミナーでは分かりやすく説明しているから、良いかと思っていました。
これも長めに引用します。できたらリンクから本文をぜひ!
遺伝子しか観ていないから間違ってしまうのです。いや、遺伝子を見ても良いのですが(その遺伝子だけではなく、共生生物も餌も観るべきで)、遺伝子のキメラとして個体を観るべきなのです(ミトコンドリアという古いバクテリアを細胞内小器官として持つ真核生物全体が全てそもそもキメラです)。
この話は、論理学を「まといのば」で教えていたころに(不完全性定理かな?)紹介したあるパラドックスを思い出させます。
一つ一つを観ると普通の文章なのですが、2つが組み合わさると、不思議なパラドックス(自己言及のパラドックス)になるのです(と、それを引用しようと思ったのですが、探すが面倒なのでまたの機会に)。
何が言いたいかと言えば、遺伝子が発現するのは組み合わせによると言うことです。「餌の遺伝子も観るべき」と上に書いたのは、柿前線や消化を助けるクミンや肝臓に効くウコン(ターメリック)のことを考えるべきということです。柿だけがただ熟れて地に落ちるだけならば(一粒の麦もし死なずばではないので)、微生物の餌になるだけです。でも、人間が適切な(旬の)タイミングで食べることで、なぜかピッタを抜いてくれるのです(黒いブドウも)。
この組み合わせの精妙さというのは、その遺伝子だけを見つめても見えてこないのです。ハンマーをまず床に転がさないといけません。
だからヒトゲノム計画は見掛け倒しだったのです。ゲノムの解析が終われば、福音が来ると思われていました。我々はただのAGCTのプログラムコードを手にしただけでした。それだけでは何も(パラドックス)も起きないのです。
視野を広げなくてはいけません。
細胞ではなく、細菌をも含めて自分を考え、細菌をバイキンだと思うことを止め(牛やシロアリを思い出し)、細菌だけではなくカビも仲間に入れ(最初の抗生物質はペニシリンという青カビの代謝物だということを思い出し)、カビや真菌類だけではなく、ウィルスも視界に入れ、そしてその小さな相互作用だけではなく、器官や臓器を超えた個体の生産性の変化(アーユルベーダで言うところ過剰なピッタを下げるようなこと)までも視野に入れたいのです。
長くなったのでここらへんで終わりにします!