いわゆる宇宙論というのがスタートしたのは、アインシュタイン以降です。正確には1915年の一般相対性理論以降です。アインシュタイン方程式をどう読み、どう解くかの範疇の中からいわば一歩も動いていないのが、現代の創世神話であるビッグバンです。
科学を神話というのは不敬罪な感じもしますが、科学というのはいつも暫定版です。人類が自分たちの愚かさにつぶされて絶滅することがない限り、我々は進歩していきます(無邪気な進歩観に見えますが、ときにおこる後退や停滞もただの誤差です。歴史の大枠で観る限りは単調におそらくは指数関数的に進歩していきます)。
ですので、100年後には科学は全く新しい様相を呈するでしょう。我々の現代科学は文字通り神話の仲間入りです。いや、図書館の中に埋もれるでしょう。しかし、まあそれは良いことです。
というわけで、現代科学の創世神話はアインシュタイン方程式を嚆矢(こうし)とします。
じゃあ、その前の宇宙創世神話は何だったのでしょう?
寺子屋「ビッグバン」ではアリストテレス(四大元素説)からスタートしましたが(まあ、対極的なデモクリトスの原子論もやりましたね)、スコラ哲学を駆逐したのがニュートン力学でしょう。
ニュートンの宇宙観を端的に言えば、ラプラスの魔となります。
決定論的な宇宙ですね。
ラプラスは『確率の解析的理論』(1812年)でこう書いています。
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。
宇宙という巨大なビリヤード台の玉の位置と運動量(速度×質量)をすべて知ることができたら、過去現在未来は一望のもとということですね。
ご承知のとおり、このアルゴリズムは非常にシンプルです。
もちろん、maと書くよりは、dp/dtと書くほうが良いでしょう。運動量の時間微分と。
アインシュタインは我々が考えるmが静止質量であり、運動質量はm(v)と書くべき、速度の関数であることを特殊相対性理論で示したので(まあ、端的に言えば、早く動けば重くなるということです。だからこそ、どんな物体も光速を超えられません。光速という制限速度を越えようとしたら、質量が無限大に発散するからです)。
ラプラスの魔は別名、全知の神です(全能性は保証されていませんw)。
これは単純なF=maの帰結です。たとえば宇宙という部屋にボールが1つしかなくて、ある瞬間のそのボールの位置と運動量がわかれば、その先の永遠の未来の運動状態は簡単に計算ができます。時間tの関数ですから、tを入れ替えればどんな時の運動状態も即座に計算できます。もちろん過去にさかのぼっても同じです。
ボールが2つであっても同じことです。衝突だけを考慮すれば良いですし、運動量の保存則だけを木にかければ、過去現在未来は一望できます。あとはその原子というボールを増やしても、計算量が増えるだけです。神様というスーパーコンピュータには、宇宙は一望できるのです。
これは人間にとっては、決定論であり、運命論です。もうすでに無機的な原子の運動によって、過去も現在も未来も決まっているのですから。
これはぞっとするような、宇宙大のビッグ・ブラザー支配です。ニュートン力学を学び、この決定論に絶望した人も多いのではないかと思います。宗教ならば逃げられますが、科学からは逃れられません。
この恐るべき神託から解放してくれたのもまた「科学」です。量子力学です。
ちなみに余談ながら、ファインマンという人は量子力学の人であり、ホーキングが量子力学は駆使しながらも、相対論の人であるのと対称的だと感じます。
ファインマンは相対論はニュートン力学の修正版とみなしています。
物理学に画期的革命をもたらしたと皆が考えている相対性理論(略)ところがニュートンの運動の法則が原子についてはぜんぜん当てはまらないということを指摘したこの量子力学の発見に比べれば、相対性理論の方はそれにごく小さな修正を加えただけのことでした。(ファインマン「光と物質の不思議な理論」p.5)
この主張自体はファインマン物理学でももちろん踏襲されています。F=maはいまだ現役であり(実際にそのとおりですし)、mがvの関数であるという修正が必要なだけと言います(質量は速度の関数。我々が認識する質量とは静止質量のこと)。
重要なポイントは相対論が大したことがない修正であるということではなく、本質的なパラダイム・シフトは相対論ではなく、量子力学であるということです。
それは、さておきニュートン力学での創世神話はシンプルです。
ラプラスの魔が支配する宇宙において、最初の一撃を加えたのが神です。
そのあとはニュートンの運動方程式がアルゴリズムとして仕事をするので、神様は暇なのですが、最初だけキューを持って、球撞きをしてもらう必要があります。
ビリヤード台のことを絶対空間と言い、そこに流れる時間を絶対時間と言います。
しかし、その時間と空間(Spacetime)を1つにして、かつ基準ではなく物理量にしたのがアインシュタインです。
そこから現代宇宙論がスタートします。
その先の話はご存知のとおりです。
気功もそうですし、科学もそうですが、学んでいて、そして教える機会に恵まれて思うのは、「新しい理論を理解することなどできない」という悪魔的響きを持つ先人の教えです。
「理解できません」とうそぶく生徒に伝えたい言葉でもありますw
もちろん理解はいらないから、暗記せよというような無茶を言っているわけではありません。理解はとても大切であることを前提とした上で、「新しい理論は理解できない」と知るということです。
ファインマンは自身の量子電磁力学を一般の人に解説するにあたって、「わかりっこないからといって、物理学を食わずぎらいに」ならないで欲しいと言います。第一にファインマン先生の物理学の学生だってほんとうにわかってはいないし、それはなぜかと言えば、自分もわかっていないからだと白状します。
ファインマン先生が言っていたように思うのですが、「新しい理論は理解はできない、ただ慣れるだけ」でしょう。
もちろん、自然がいかにふるまうかは説明できても、なぜ自然がそうふるまうかは我々には分からない、というお決まりのHowとWhyの問題に還元しても構いません。
ただポイントは頭で理解しようとしないで、全身で慣れていくことが大事だと知ることです。
「なぜ、なぜ?」と問う愛らしいこどもにも「だまってやれ」という瞬間が必要です(その意味で丸暗記でも教育効果が上がるのは、必然的に「慣れる」ことがあるからでしょう)。
慣れることです。慣れたとしても、同じ疑問を持つでしょうが、でも慣れない限りは世界は広がりません。
新しいゲームと同じです。なぜこういうルールなのかを問うても答えはありません。ともかくゲームで遊ぶことです。その中でゲームの本質が立ち上がってきます。その意味で気功も科学も人生も同じかと思います。