「ふと、日本語の抽象度が上がって臨場感が下がりました。」 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

四ツ谷にありますバレリーナ専門の気功整体「まといのば」のブログです。
気功師から見たバレエとヒーリングのコツを公開します。
「まといのば」では、バレエ・ヒーリング・美容の各種セミナーを行っております。

*2013年8月22日のアメンバー記事をアメンバー解除しました(2017/08/09)

寺子屋シリーズをヴァーチャル受講されている方から受講の感想(フィードバック)をいただきました。

ヴァーチャル受講というのは、セミナー当日に会場に来ることが難しい方のための音声受講のクラスです(いままだ直近の2講座分の音声教材が編集中です。お待たせしておりますm(_ _)m)

ちなみに寺子屋シリーズのコンテンツはすべて「寺子屋」水準です。未来の小学生が理解するであろう水準におさえてあります。子供のための一般教養というのがテーマです。また講座内容に関しては順次、講座前後にブログで公開しています。

というかブログの方がむしろ情報量は多いです。レジュメが何枚にもなると読むだけで2時間経ってしまいます。レジュメは簡潔すぎるほど簡潔にしています。その周辺の情報はブログで補ってもらっています。

なぜかと言えば、セミナーの相互情報量を最大化するためです。
具体的には、そのためにブログでセミナーのコンテンツをすべてブログなどで公開するのが合理的です。

その背景にはコンテンツがプライスレス(というか無料に漸近する)という前提があります。なぜ無料になるか(もしくは広告モデルのようにマイナスになるか=お金を払って情報を提供するか)と言えば、流通コストが下がったからです。

情報の獲得コストが高いことと、その情報が高い値段で売られることに因果関係はありません。
流通コストが下がれば、値段は下がっていきます。流通とは口伝からパピルス紙、竹簡、和紙、製紙、テレビ、ラジオ、インターネットが媒介します。いまは電子書籍と呼ばれているものが、すぐに書籍と呼ばれるでしょう(電子メールがメールになったように)。

シャノンの情報理論で我々が学んだのは、情報の伝達(通信)には情報量のビット数だけではなく、相互情報量をどう最大化するかがポイントだということです。というか当たり前です。シャノンの偉大さはその当たり前なことを形式化したことにあります。形式化(数式化)すれば計量可能になります。
逆に言えば、単なる情報の量の多さが重要ならば、電話帳を丸暗記すれば賢者になれます(そのような科挙のようなシステムをいまだ我々は採用していますが。しかしまた自身の情報の質をあげていくことを、考えると大量の暗記をするのが合理的なことも事実です)

ユーゴーが自身の作家生命を賭けた作品である「レ・ミゼラブル」の売れ行きを編集者に聞いた時、その手紙には簡潔に「?」と書いてありました。非常に少ないビット数です。
編集者はものすごい反響と売れ行きをユーゴーに答えて「!」と回答しています。世界一短い手紙ですが、相互情報量が少ないわけではありません。というかシャノンも真っ青の最大限の効率での通信です。

すべてのビットは相等しいのですが(セス・ロイド)、そのビットが命令として、宇宙全体に(もしくは言語空間に)機能して、どう他の関数を動かすかが情報の質と呼ばれるものを決めます。それを我々は漠然と「意味」と呼びます。

そのパラダイムで考えると、相互情報量を最大化するようにデザインするのが合理的です。
なぜなら情報は物理に根ざしており、情報通信にはコストがかかるからです。我々は無限の生命でも無限の資源を持つわけでもありません。短く簡潔に誤解(エラー)を最小限に(復元できるように)が理想です。

ということは、講座のコンテンツも含めて事前・事後的に受講生と共有するのは合理的な判断となります。

もちろん人は新奇なもの以外に興味を示さないので、どう新奇さをデザインするか、すなわちどのような切り口を用意するかは講師としては大切です。しかしその切り口も含めて公開しようとしているのが「まといのば」の方法論です。

それがおそらくは唯一の加速学習の方法ではないかと考えるからです。

というわけで、そんな寺子屋シリーズのフィードバックをいただきましたm(_ _)m
ご本人からブログへの掲載の許可をいただきましたので、掲載します!


(引用開始)
寺子屋シリーズ、「はじめてのラテン語」を聞き終えてのフィードバックです。

といっても、ヴァーチャル受講の気軽さからどうしても他のこともやってしまい、しっかり手を使って作業しながら聞くということが出来なかったので、また他のテキストなど眺めつつ改めて聞いて、ワークし直します。

気軽とはいっても、ヴァーチャル受講でも聞き終えてから静かな興奮がずーっと続いて寝付けないのです。遠隔気功を受けた後のフィードバックみたいになってしまうのですが…自分の感覚が満足感や充実感、わくわく感で満たされて内に外にどんどん広がっていきます。しかも翌朝の肌が白くてやわらかくてびっくりする、ということが起こります。でも考えてみれば確かに、学ぶことは気功ですね。

先日「哲学」を学んだ後から、本の読み方が変わってきました。それぞれの本のキャラクターによって変わっていくし、五感で読んでいる、景色を見るように読んでいる、作者の臨場感をもって読んでいると思います。

今回は「始めに時間をかけてすごく丁寧に」「増やすと争わない」「ひたすら、始めと終わりをカッチリ」「言語は生き物」「日本語の抽象度が上がる」など、特に入ってきました。

音もよく入ってきます。講座を聞き終わって日本語の文章が目に入ってきたとき、愛おしいような気にふとなりました。自然に分節で切って文字を見たことによって、動き回る助動詞や文章を支える助詞のたくましさや賢さを見たような…そんな、言葉のキャラクターを感じたように思います。

自分が日本語に近過ぎて、言葉の表面的なものにばかりとらえられてしまうようで何かしんどい、と感じる面があります。自分が身体に近過ぎて、自分が肉親に近過ぎて…全部同じで、何か、自分の身を守るためにかその感じ方をクローズアップし過ぎる傾向があるということだと思うのですが、ふと、日本語の抽象度が上がって臨場感が下がりました。臨場感を求めていたんだと思います。自分に関わるもの、自分の見方、自分自身を理解したかったけれど、あくまでも自分の枠の中で理解したかったんだな、と思いました。

すごくおもしろいです。ありがとうございました!

(引用終了)

フィードバックありがとうございます。

ポイントとなる点はいくつもありますが、寺子屋ではあえて伏せている気功との関連について鮮やかにフィードバックをくださいました。

「気功」とは情報操作のことです。強いて言えば共感覚を用いた情報操作です。認知科学における内部表現と呼ばれる集合を操作します。内部表現とは強いて言えば「心と身体」です。ここで言う心と身体は区別されるものではなく、異なる濃度で連続的に存在するようなものです。抽象度が高いと心と表現し、物理的な臨場感が高いと身体と見なします。このパラダイムにおいては、心と身体に境目はありません。

気功とは情報操作であり、我々の思考と呼ばれる計算はすべて情報操作です。
ですので、考える人は(動物は)すべて「気功をしている」のであって、それ以外はありえません。もちろんそう定義すれば、気功という概念自体がチェシャ猫のように消えてなくなります(が、それで良いと僕は考えています)。

逆に言えば、そう見做せないレベルで「気功」を語るのは危険だなと思います。
目隠しをして車を運転するようなものだからです。目を閉ざしていて運転しても良いのはGoogleカーくらいなものです(未来はそれが普通になって欲しいですし、その未来がはやく来て欲しいものです)。

ゲーテは外国語を知らないものが母国語を知らないと言いましたが(ここで言う外国語とは古典語を含みます)、実際に外国語を知ることで母国語に対する蒙(もう:スコトーマ)が啓(ひら)けます


ふと、日本語の抽象度が上がって臨場感が下がりました。臨場感を求めていたんだと思います。自分に関わるもの、自分の見方、自分自身を理解したかったけれど、あくまでも自分の枠の中で理解したかったんだな、と思いました。

という気付きが素晴らしいです。

寺子屋受講生たちは「自分の枠の中」という言葉にフレームやパラダイムという概念を読み込むと思います。なにかを理解するということは、ささやかな自分のパラダイムが転換するということです。

寺子屋で手にした概念同士が勝手につながって、意味が浮かび上がってくる面白さを味わってください。

次回は一般相対性理論です。
今回は時間と空間について考えます。
宇宙観の変遷を見ながら、一般相対性理論を浮かび上がらせましょう。

具体的には、デモクリトス、アリストテレス、ユークリッド、ニュートン、カント、ガウス、アインシュタイン...と見ていきます。もちろん最も美しい方程式と呼ばれるアインシュタイン方程式も見れたらと思います(難しいか...)。

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