むきだしの愛、むきだしの言葉 〜「最も小さい者のひとり」と蜘蛛の糸〜 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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コリント人への手紙13章は「愛の讃歌」として知られ、チャペルであげる結婚式で神父や牧師が引用することも多い一節です。

しかし、蓮如の御文もそうですし、親鸞の手紙もそうですが、パウロもまたこの満島ひかるさんのような絶叫であったのではないかと思います。心の叫びとして書かれ、静かに読まれたのではないかと。

理解しあえないもの同士が、理解し合える(かもしれないという)奇蹟を想って絶叫するときに言葉が生まれると思います。


昨日に続いての再掲で恐縮ですが、映画「愛のむきだし」からコリント書の愛の讃歌(さんか)の長台詞(ながぜりふ)のシーンを載(の)せます。

*2分目あたりから、コリント書です。以下にスクリプトを載せます。

(動画を入れ替えました。2014年12月2日追記)

コリント書とはコリント人への手紙です。新約聖書のパウロの書簡(お手紙)の一つです。
聖書に限らず、古典は発話され、耳で聞くものです。シェイクスピアは演じられて耳で聞き、目で見るものです。ギリシャ神話も同様。平家物語も琵琶法師が歌い聞かせました。聖書も神父や牧師や司祭や父母が兄弟や先輩が読み聞かせてきて、命が吹き込まれてきました。

(引用開始)

コリント書の第13章を知ってるか?

(主人公:「知らない・・・」)

最高の道である愛
たとえ人間の不思議な言葉
天使の不思議な言葉を話しても
愛がなければ私は鳴る銅鑼(どら) 響(ひび)くシンバル

たとえ予言の賜物(たまもの)があり
あらゆる神秘 あらゆる知識に通じていても
愛がなければ私は何者でもない

たとえ全財産を貧しい人に分け与え
たとえ賞賛(しょうさん)を受けるために自分の身を引き渡しても
愛がなければ私には何の益にもならない

愛は寛容なもの
慈悲深いものは愛
愛は妬(ねた)まず、昂(たか)ぶらず、誇らない
見苦しい振る舞いをせず 自分の利益を求めず
怒らず 人の悪事を数(かぞ)えたてない

愛は決して滅びさることはない
予言の賜物ならば廃(すた)りもしよう
不思議な言葉ならばやみもしよう
知識ならば無用となりもしよう

我々が知るのは一部分
また預言するのも一部分であるゆえに
完全なものが到来するとき
部分的なものは廃れさる

私は幼い子供であったとき
幼い子供のように語り
幼い子供のように考え
幼い子供のように思いをめぐらした
ただ 一人前のものになった時 幼い子供のことはやめにした

我々が今見ているのは ぼんやりと鏡に写っているもの
そのときにみるのは 顔と顔をあわせてのもの
私が今知っているのは一部分
その時には自分がすでに完全に知られているように
私は完全に知るようになる

だから 引き続き残るのは 信仰 希望 愛 この3つ
このうち もっとも優れているのは 愛


(引用者注:以上、コリント書13章1節~13節)

お前はこんなセンテンスも知らない
あんな色欲牧師と一緒に暮らしていたから
聖書のことですらちゃんと把握してない

わかる?

神様のことなんも知らないってことだよ!


(引用終了)


余談ながら僕自身のささやかな体験から言えば、たかだか小さなカルトからの脱洗脳だとしてもこの程度の修羅場は覚悟すべきかと思います。必ず起こるという話ではなく、覚悟が必要ということです。覚悟していれば不要な修羅場は避けられます。

この映画のトレーラー(予告編)です。



愛という言葉を「神」と置き換え(ヨハネの第一の手紙)、「言葉」と置き換え(ヨハネ1:1)、存在論における関係と置き換えるならば、聖書の理解は大きく変わるのではないかと思います。

我々は自分が知っている「愛」や「神」にひきつけすぎて、鳥もちにからめとられた鳥のように不自由になっています(ホッブズ)。正確な理解が必要です。


それを見るために、寺子屋「聖書学」では「サマリア人(びと)の譬え」を中心にして、ヨハネの第一の手紙を読みました。

この寺子屋の「聖書学」の議論の全体は「まといのば」でも繰り返し述べてきたことです。目新しさはありません。それにいつもながら僕のオリジナルでもありません。僕自身が大学で講義を受けた八木誠一先生のパクリです。


イエスはそもそも律法学者の観念的な世界の中には神はいないと言っているのです。
はじめにルールがあり、律法の定義があり、それに自分をあわせようという安易な律法主義者の宇宙(世界)の中には「神はいない」のです。観念的な決定論の世界に神がおわす場所はないのです。

そうではなく、強盗におそわれて、傷ついた姿を哀れに思い、気の毒に思って介抱したサマリア人の中に神があらわれます。神の愛はその関係の中に立ち現れるということです。

祭司も憐れみはもったでしょうが、面倒だと考え、その場を立ち去りました。レビ人(びと)も同様です。逆説的ですが、そこに我々の「自由」があります。神の支配からの自由です。愛の支配からの自由ということです。

善きサマリア人の行いを考える上で、我々に馴染み深い言い方では惻隠(そくいん)の情というのがあります。井戸に落ちた子供をみて、その子供が自分の子供か他人の子供か関係なく、あわれに思って「私」を忘れて、駆け寄ってしまうのが惻隠の情です。自分の中から起こる情動であるにかかわらず、自分より偉大なものの働きかけを感じる、そのときの偉大なものを「神」と名付けたということです。
誰かを愛する時、誰かを助けたいと思った時に、思わぬ力が出ることがあります。それを神の愛とイエスは(ユダヤ・キリスト教の言語空間では)名付けたということです。

「もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」(ヨハネの第一の手紙4章12節)

それを踏まえて、コリント書の愛の讃歌を読むと、なぜ「愛がなければ私は何者でもない」と言うのか分かります。愛がなければ、我々は生きていないのです。肉体が生きていても、生きていないのです(逆に言えば、肉体が滅びようと、肉体が代謝しようと、チェシャ猫のニヤニヤのように「愛」や「関係」や「言葉」を永続するのです。イエスや釈迦と我々がいまだに言葉を交わしているように)。

サマリア人の譬えで、「永遠の命を得るためにはどうすれば良いですか?」という律法学者の安易で悪意に満ちた質問に対して、イエスは律法(聖書)には何と書いてあるかと(いつもながら質問に質問で)応えます。
そこで律法学者は隣人愛を律法から引き、イエスはそれを是とします。

強盗に襲われて傷ついた同胞を見捨てた司祭はそのとき命を失い、哀れに思い介抱した敵対するサマリア人は永遠の命を得たのです。

しかし、これは永遠に永遠の命を得るというおめでたい話ではありません。
その瞬間が永遠になるという感覚です。その瞬間の生は「永遠の命を得る」ということです。

「すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。」(ヨハネの第一の手紙4章7節)
(ちなみに、パスカルは聖書の影響だと思いますが、自身の手紙に節を振っていました。あとで参照しやすいように。Google以前のGoogleです。Googleもすべてに番号を降ってINDEX化しているるという点では同じアルゴリズムです)

瞬間、瞬間に我々は生まれ変わり、もしそれを外から眺めるなら(眺められるなら)、ある時刻では「永遠の命を得(え)」、ある瞬間は「永遠の命を失う」のです。

(芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の主人公の)カンダタはエゴが発動したために、蜘蛛の糸が切れたのです。その糸は自分のものではなく、下から上がってくる仲間たちは自分(の一部)であると見做せれば糸は切れなかったということです。

ちなみにエゴとは愛の対概念です。ただイエスはエゴを否定せず、エゴが昇華したものとして、愛を考えています。すなわち対概念であり、順序集合ということです(だから厳密には対概念とは言えないということですが。対概念に見えます)。エゴの抽象度を上げていけば愛となるという論理構造です。

それが端的にあらわされるのが、「『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」という善きサマリア人の譬え前に出てくる律法の言葉です。『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』であり、自己を犠牲にしてではありません。


神は人間を支配するわけでもなく、お釈迦様も人間を支配しません。
人がその支配に身を委ねると自由に決めたときに、神の支配が私にあらわれます。
神の支配こそが律法であり、律法に従うとは、自らの心に従い、自由の発露として愛を示すことということです。この論理構造を見ぬくことが重要です。

神は人間を支配せず、お釈迦様も人間を支配しません。人間が神の支配に従わない場合は、お釈迦様は無力に蓮の池のふちで「悲しそうな」顔をするしかないのです。神もお釈迦様も万能でも無謬でもなく、静かに待っているだけで、蜘蛛の糸にせよ、チャンスにせよ、神の愛にせよ、神の力にせよ、それを使うかどうかは我々に委ねられているということです。それが「自由」ということです。

我々は神からもそもそも自由とイエスは主張しています。その自由を行使して、サマリア人は神の愛に自分を委ね、祭祀はその愛を拒絶したということです。

その神の愛に自分をゆだね(すなわち気の毒に思ってかけより介抱する)ことが律法に従って生きるということです。律法が命じるから介抱したのではなく、自己と他の区分が無いからこそ駆け寄ってしまったその在り方が律法に従い、神の支配に服従する生き方ということです。

神は支配しているのではなく、神の支配に従うか従わないか、愛として生きるか否かは一瞬一瞬我々に委ねられています。神は無力です。同様にお釈迦様も無力です。「悲しそうな御顔をなさりながら」ぶらぶらと歩き始めるしかないのです(引用は青空文庫

(引用開始)
 御釈迦様(おしゃかさま)は極楽の蓮池(はすいけ)のふちに立って、この一部始終(しじゅう)をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。

(引用終了)

このイエスの主張が見えると新約聖書の風景が変わると思います。

たとえば、昨日も紹介しましたがマタイからの引用です。少し長いのですが、結論はシンプルです。
『わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』(マタイ25章40節)ということです。
マザー・テレサがカルカッタの貧民にイエスを見たのはこれゆえです。

(引用開始)
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。25:34
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、25:35
裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。25:36
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。25:37
いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。25:38
また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。25:39
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。25:40

(引用終了)

「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれた」。これは善きサマリア人の譬えを思わせます。

しかし気の毒な強盗の被害者が神であるなどとサマリア人は思いません。ただ気の毒に思い人として当然のことをしただけです。善行を積めば天国に行けるなどということがよぎることもなかったでしょう。ましてやその相手が神(の化身?)だとは思ってもいません。

主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。

だからこそ「いつ」と聞きます。

それに対して神はシンプルに回答します。

あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。


仏教においては、この「最も小さい者のひとり」の中に、蜘蛛も含まれるということです。

(引用開始)
人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛(くも)が一匹、路ばたを這(は)って行くのが見えました。そこでカン陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗(むやみ)にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
(引用終了)

ここに我々は善きサマリア人を見て、マタイ25章を見ます(「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」)。


「愛がなければ私は何者でもない」という映画「愛のむきだし」のむきだしの言葉に身を委ねながら、我々は引き続きイエスの絶叫に耳を傾けたいと思います。


【参考書籍】

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そして監督による小説版です。面白いです。
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