ざっかん記
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川崎、




井﨑正浩氏の棒、戸塚区民オケ公演、済む、演目は、楽聖《フィデリオ》の序曲、クヮルテット、っおよびフィナーレの一部、っそして同《㐧9》である、ソリストは、女声は飯田みち代、山下牧子両女史とこないだのマーラー《復活》公演とおなじで、っこれはもうかたほうの井﨑氏の《復活》公演でもそのようである、男声は鈴木准、青山貴両氏、コーラスはいつものコール・ミレニアムである、

戸塚区民オケは、前回の平塚でのドヴォルザーク《新世界》においては、平素のやや頼りないアンサムブルを返上してみごとに雄渾の響を上げられ、今次の公演への期待も高まったのだが、っきょう《フィデリオ》の序曲が開始すると、っまあわりにいつもの彼等の姿だ、全体に非力なので、大音場を満々と鳴らし切るというわけにはゆかなくていられる、っけれども、絃がそれのみでたっぷりと量を発しえないことから、木管の音彩がフレッシュに感ぜられる得点もある、っけっしてわるい音ではない、

っところで、っその絃の配置は、両翼、セロ・バスは左であったが、っここはいつもそうだったろうか、っいつもはふつうにストコフスキー配置だったとおもうのだが、っきょうは古典派であり、《㐧9》もブライトコプフでなくもっとさいきんの版を採用していたので、配置まで拘りがあったかしれない、っが、っそのような立場で不可思議といえば不可思議なのは、っきょうもそうだったのだが、声楽は現代のドイッチュの発音で唄うのである、可能のかぎり往時の演奏文化を再現したいというのならば、言語も旧いドイッチュで唄うべきではないのか、っぼくはもちろん、erをエルで唄う《㐧9》がすきである、

っとまれ、《㐧9》を待たずして前プロからソリスト、コーラス綜出の《フィデリオ》のほんのハイライトは、ソリスト連は好いティーム・プレイ、コーラスは年齢層の高いアマチュアなので、男声女声ともに音量の豊富、発音の明晰、高音の張り、中声の深み、っいずれにおいても難ありといえども、フィナーレ終局は、楽聖一流の緊密な筆致にも助けられ、っおまけで満足したと云ってもよい、

《㐧9》は、版がさいきんのものだとわかったのはフィナーレで声楽が入ってからで、1楽章ではあれやこれやのへんてこな音がせなんだはずなので、っあるいは、井﨑氏のご判断で、っそれらはむかしながらのブライトコプフの音符へ戻して、フィナーレのみを新しい校訂の音で奏したのかもしれない、

1楽章からテムポは速い、冒頭、トュッティで主題の全貌を提示するまでからして、演り方は人毎に阡差萬別で、井﨑氏は1stの動機の片鱗を完全にノン・ヴィブかつシャギーな倍音を効かせてまったく歌われず、音量を出せないオケであれば、結果的にソット・ヴォーチェ然とし、っそれはまさしく、世界の誕生以前、宇宙塵の浮遊のごとである、

っついに至るニ短調のトュッティは、硬いマレットのティムパニを伴なって、剛毅であるよりは骨っぽく尖ったひびきで、っしかし、欧州の、ピリオド楽器、っないしモダン楽器でもピリオド奏法を採用せるやや小型の楽団の同曲演奏では、っそこまでびしばしアンサムブルのピントを合わせず、っざっくりと解れた奏楽で全体を通すこともよく行なわれており、っそういうものだとおもえば、っきょうのかかるやや脆弱な合奏も、演奏上の致命的の瑕疵とまではおもわなくて済む、っここでも、各種木管がカラーフルに息衝く音色の魅惑は健在である、っそれがあってこそ1楽章は、音色音色の交錯が怪しげなぎらつきをさえ発し、初めて眞に波瀾萬丈たりうるのである、再現におくクラリネット、ファゴットを中心とした和音の苦しさについては、っなにをか謂わむや、

っけれども、っこの楽章も核心へと接近すると、っやはりどうしても絃各声部の力不足の憾は否めない、っもっと2ndが、Vaが、Vcが、っそれぞれに鋭く切り込んで来てくれないと、命を刻む本格の争闘の楽は具現しない、

以降も基本的にはこの難は解消せず、2楽章のトリオ終盤など、Vaとトロムボーンとが双方の音色効果をもっと十全に発揮してこそ、フィナーレの歓喜を予感せる神韻も聴こえようというものだし、3楽章のトゥーバ・ミルム後の2ndにしても、っさらにさらに深い音色が出せなくてはなるまい、

っけれども、一定時間を經過して特有の細身のひびきに対して好感が育っているのも事実で、飽和へ達せず、音場がゆとりを有って楽音をうけとめるため、隨所で残響のうつくしさが実感せられもする、3楽章全体も、っゆたかに満ち溢れない清潔な音響を、っしずかな祈りの反映と好意的に取ることも可能で、っじっさい、両主題とも、っその歌のうつくしさへあらためて出逢い直すよろこびがあったし、トゥーバ・ミルムは、っそれほど絶叫せしめず、快音の部類で行なわれても、っなお鮮烈に眞なる歓喜を求むるこころを激励したものである、

声楽陣は3楽章後に長く休みを取って迎え入れる、コーラスの入場に際して客席から拍手が起こらなんだのは偉とすべきなのだが、っのち、っお馴染みの長髪のコン・マス氏が起立されて器楽の再テューニングとなり、っぼくとしてはそのさなかにソリストに入ってしまってくれたいとおもうも、テューニング後の入場、袖から拍手で送り出されるため、っお客も拍手をしてしまう、声楽の入るシムフォニーで中途で彼等を入場せしめる際にも、っけっして客席から拍手が起こらない方法を検討してくれたいというのが、っぼくの変わらぬ所望である、袖から拍手で送り出すなぞ、っもってのほかであろう、楽章間であろうと演奏はつづいている、拍手は全曲の終止後に限るべきである、っありとある楽曲の演奏は、綜て崇高な儀式なのだ、っぜったいに中途で緊張を解消してはならない、っだからぼくは、ったとい楽章間であろうとも、派手な咳払いはしない、客の一個として演奏がより理想的に成立してくれたいと望むのならば、っとうぜんの態度であろう、

フィナーレ冒頭の不協和音は、音量音圧を犠牲に供してでも、敢えてトロムペット、ティムパニを頼まず、木管群をひびきの主体に据える行き方で、っある意味ではきょうの井﨑氏の音響設計として象徴的の場面とも云える、相対的にセロ・バスの存在感が増し、レチタティーヴォはよく喋った、

絃を加えた不協和音からの青山氏のソロは、管絃の最終音へ重ねるようにして彼氏を飛び出させられるという井﨑氏の差配、造形はよく練られている、レチタティーヴォの最後は、アド・リビトゥムの指示を眞に受けての記譜を外れた一芝居、っわるくない、

歓喜主題の1連目、主題原型は、コーラスの最後、Wo dein sanfter Flügel weilt、っを弱音かつドルツィッシモへランディングせしめるというのは、コバケンさんとおなじ演り方である、井﨑氏はたしか、90年代あたりには日本フィル協会唱のコーラス・マスターをお務めでいられたはずで、っその際にコバケンさんと協業で同曲を演られ、っその造形へも接しられていよう、っきょうのここは、っその顰みに倣われたともかんがえられる、コバケンさんとしては、sanfter、っという詞へ応じた表現のお心算であろうが、っただ、記譜としては、っべつに同個所へは弱音の指定も表情のイタリィの指示もなかったはずで、っぼくのこのみとしては、テノールの張りのある高音を中心に覇気を訴える演唱こそが望みである、っここは宇野さんも、コバケンさんのどれかの音盤での同様の表現に対して難を示され、つよく唄うべきだ、っと主張されていたと記憶する、

ソリストは、《フィデリオ》でも《㐧9》でもオケの背面、舞台上最後列へ居並ぶが、ア・ラ・マルチアまでは女声が両脇の男声が内側、左からソプラノ、テノール、バス、アルトという順で、っそのあとに通常のソプラノ、アルト、テノール、バスという順へ更新、徹底的に配置へは拘っていられる、

オケの音量に不足することから、相抱き合え、幾百萬の人々よっ、以降はコーラスの発色に勝れ、相応の偉容も実感せられる、ドッペル・フーガにおく井﨑氏の辣腕ぶりもけだしおみごとだ、

前後するが、例の、跪拝せるか、幾百萬の人々よ、っを迎えるVaとクラリネットとの楽聖畢生の筆致や、Sの中途で速度を喪い、コバケンさんがヴィーンで同曲の自筆譜をご覧になることがあった際、泪の雫がつづいているように視えた、っとおっしゃる1stの下降句では、っともにこちとらおおきに目頭を熱くし、ソリスト連のカデンツは各位、音楽的のふるまいへ徹して我を振り撒かれず、プレストへと逢着せる、

っそのプレストは、新しい楽譜ではメトロノーム記号がどのように解釋せられているのか識らないが、ラトル氏をはじめとして、っみなプレストにしてはいやに遅い速度である、井﨑氏も同様で、っまず絃の動機からしてゆっくりとしかもテヌート気味に奏せしめらる、っここでのコバケンさんはスタッカートかつ最弱音で音楽をして瘠せ衰えしめてしまうのがむかしっからの悪弊で、っきょうはその点で遙けく好印象である、っまた、コーラスに力がないと、俊速のプレストでは音符の細かい彼等が管絃に押されてまったく聴こえないというのもあり勝ちの失態だが、っきょうの速度ならばその心配もない、

天楽よりの乙女、っでいったん打楽器による賑やかしを喪ってもイン・テムポで、最後の歓喜の高唱もそのままの速度で突っ切り、管絃のみのプレスティッシモへ遷移して形式上は速度が倍遅くなったことになるという行き方もラトル氏ほか新しい楽譜を採用せる人たちと同断、っあれが速度としてプレスティッシモに聴こえるかと云われれば返答に窮するが、っそのほうが管絃がぎしぎしと軋り、聴きでがするのはたしかで、追い込みの打楽器の痛打も炸裂、っなかなかのフィニッシュであった、

アンコールにふたたび《フィデリオ》の終局を演って幕、

井﨑氏のマーラー版の同曲では、テムポ他、基本の造形はきょうと同様となるのか、っはたまたまったく別様となるのか、ったのしみにその日を待つとせむ、



川崎東口へは王将が2軒あるが、っいつもの駅の階段を降りた脇の店舗は改装中で、初めてもういっぽうの同店を訪れる、っほぼ満席だのに、厨房はすばらしくスムースで、調理も安定していられる、



っさて、っお次は金曜、神成大輝氏の桜木町での公演かとおもう、っその日は日中は三鷹の試掘で、っおそらく丸1日は掛からなかろうが、帰社する心算はなく、帰宅に好適との事由から稲城長沼辺に駐車場を予約し、南武線、川崎經由で器へ向かう、



っところで、《㐧9》といえば、昨年末、佐藤雄一氏のそれを整理券へありつけずに聴き逃したが、っいつもこの楽団は音声のみの公開であるところ、っこんどは動画もupせられて、音質も好く、っうれしく視聴す、

コーラスはこちらも地方の年配者のアマチュアで、曲趣に必須の覇気がまるで得られないのはざんねんだが、器楽は素朴な快い合奏で、楽聖の威風を叶えるうえでの最低限の条件は整っている、

佐藤氏のテムポは井﨑氏とは好対照中の好対照で、クレムペラーほどではないにせよ、ベームへは優に比肩さる、っそのわりに全奏が80分凸凹とおもったほど長大でないのは、3楽章をむしろあっさりと快速に構えられているからである、

バリトンのソロは昨年、大井町でモーツァルト《ツァウベル・フリュート》ハイライトでみごとな演唱へ接した藪内俊弥氏でいられ、っここでは、野太いバスの威厳は望めない代わりに、レチタティーヴォも主題も明瞭に音程を聴取しうる歌い口で、っすばらしく好印象である、っこのとくに前者は、バスでは高音を張り上げるせいで音程が不明確になり勝ちであり、っといって、バリトンでは最後の最低音でひびきが浅くなってしまい、っなんとも痛し痒しなのだが、藪内氏は最も理想的にその両難を逃れられている、っさらに主題へ遷ると、っあのモーツァルトのときと同様に、っやや気障な歌い口で、っその表情的の演唱がまた耳にうれしい、発音は旧いドイッチュだ、

佐藤氏の造形もたいがいである、ア・ラ・マルチアでは冒頭から放埓なテヌートかつコントラ・ファゴットの大々々強奏で、っぼくもおもわずに吹き出す、

歓喜の大合唱部では、トロムペットのファンファール様の動機をちゃんと強奏せしめてくれていて大感動、

っけさその動画から音声を抜いて、っやや音量が細いかとおもったので編集ソフトでゲインを上げてiPhoneへ遷したのだが、っほかに、っいつかに期間限定公開となっていたレーベンスルスト・フィルなる楽団の公演全編動画も落として、っずっと視聴しないままで、っついでに同期してきた、演目は、っこれは劈頭はヴァグナー《ローエングリン》1幕前奏かな、ったぶんそうとおもうが、次いでリスト《レ・プレリュード》、っそしてサン=サーンス《オルガン》である、音声のみなので定かには知れないが、ったしか棒は藝大出のあの若い下膨れの女の子で、藝大指揮科の女学生というのは、松尾葉子女史もそうだが、っああいう顔の造作の人を採るというのが伝統なのか、っというのはわるい冗談として、オケもそれなりに巧く、っこれは器はたぶん所沢で、ったっぷりと濡れた長い残響のまことに麗しい音がしている、オルガンの渋みのある分厚さも関東一円のほかのどの器の同楽器にも敗けず、っしたがって《オルガン》も堂々たるものである、最後の最後でトロムペットが音が揃わず、っあのポリリズムの妙がよく活きていないのはざんねんだが、



王将の卓へワイヤレス・インナー・ヘッド・フォンを置き忘れて退店し、事後トイレへ寄って出たときにそれへ気附き、取って返して、っちゃんと店員さんが保管していてくださって、無事に回収す、

っもう花粉も飛んで、暖かい日も増えてきたというのに、っきょうは寒の戻りでめっぽう冷え込み、っいままだ川崎の喫煙スペイスで、手指も悴まむばかりである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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荻窪、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル公演、済む、演目は、芥川也寸志《交響管絃楽のための音楽》、同団の信末碩才氏のソロでシュトラウス《1番》コンチェルト、っそしてストラヴィンスキー《火の鳥》45年版スートである、ソリストにはなにか同《ティル、、、》っぽい動機をくりかえすアンコールがあったが、本演目後にはなく、1時間半ほどであっさりと済む、っこれならばなにかもう1曲あるか、オケにもアンコールがあるか、っあるは《火の鳥》を全曲版で演ったにしても時間としてはちょうどよいくらいであった、

っきょうは15時と開演が遅いので、午前は仕事をとおもっているも、っいまはとくに急ぎの作業もなく、っついとろとろと睡ていてしまって、っそのまま休む、揚句、午ころ起きて身支度はやや慌てているという、

っここ荻窪は日フィルの本拠で、容積は中規模の部類でもあり、っふだんとはちがう文字通りアット・ホームな雰囲気を味わう、っただ、プリンシパルを指揮台へ戴く公演としては、っやや空席が目立ったようにおもうが、

っいま、終演後に例の環8のところでシガレットを2、3本服み、駅へ向かわむとして器の楽屋口の前を通るに、カーチュン氏がお出になってお客からのサインの求めに応じていられた、っぼくは、っむかしはコバケンさんにサインをいただいたことが2度か3度かあったとおもうが、っもう大の大人なんだし、っここ20年くらい、誰のサインももらわない、っいつも云うように、演る側も聴く側も音楽を巡って対等なのであり、主客の関係ではない、演奏に対して恆にクリティカルでいたいとしんから念じ、っそれこそが音楽鑑賞の唯一の立場だとおもえば、誰を相手にも、サインをもらいたいという発想にはならない、

っふだんここではアマチュアばかり聴いていて、後期浪漫派の4管大編成みたような楽曲が掛かっても、鳴りすぎてうるさいとかぼわぼわしてしまうという印象を有ったことはないが、っきょうはなにしろパワーフルな日フィルなのであり、っけれども、彼等はまいにちのごとこの舞台上で練習を熟していられるのだから、っまさかに、無法にぎゃんぎゃんしていても知らんぷりで鳴りまくるなどということはなかろうと踏んでいた、

っそのとおり、芥川からまことに快音がす、っつい先週、森口真司氏とフライハイト響との演奏を聴いたばかりの同曲で、っあちらもあちらですばらしかったが、っそこはやはりプロフェッショナルの奏楽の解像度で、カーチュン氏の譜読みにしても、っこんな至ってシムプルそうにみえる楽曲でも、あ、そこでその声部へそんな動きがあるのか、っという新鮮な驚きを何度となく與えてくださる、

シュトラウスでは、一回りちいさくなった編成が小気味よい、若書きの筆も、っこの時点ではいまだへんてこな音を頼ったりせず、っずっと健全な和音が並ぶ、信末氏は、っさいしょに最ハイ・トーンへ上がるときこそかすかに吹き損じられたが、っその後はすっかり本調子でいられ、っきょうは、オケ中で吹かれるときのごつごつとした逞しさよりも、っいかにも滑らかな耳融けの歌い口が終始一貫していた、っそれが約しいオケと相俟つ様は、人為的の奏楽による既成の楽曲の再現であるというよりも、っもとより風の間に間に吹き漂う仕合わせを、っつい一寸切り取ったかのごとであった、

《火の鳥》は、細部のアルティキュレイション、オーケストレイションの異同という点で、っきょうの45年版こそがカーチュン氏の棒へ最も相応わしかろうとおもっていたが、っまさに的中、演目によってはというのか、ったまさかそのときの気分によってはというのか、表現が煮詰まらないまま全体がやや薄味に流れてしまうこともある彼氏で、っこの《火の鳥》などはそのリスクの多分にある曲想かと惧れていたが、芥川と同様、っいつもの彼氏の、楽曲を構造として視せることと情緒として魅せることとの両立を、絶妙の塩梅で達成さる、っごく細部では、っぼくももっとかかる音を聴かされたいであるとかの不満を有ったが、っそれよりも、そこはそんなふうにフガートなのかよ、っとかと目から鱗の落ちる快感のほうがずっと勝り、終曲が済んでうんと唸らずにいなんだ、



っさて、っあすは、川崎かな、井﨑正浩氏の楽聖《㐧9》である、っことしの井﨑氏は、マーラー《復活》のみならず《㐧9》も2度お振りになる機会があり、っあすはスコアはオリギーナルだが、2度目はマーラー版による演奏とのことである、同版は来月にカーチュン氏も日フィルと演奏され、っおそらくスコアはおなじものではないだろうが、っぼくも委細はまったく識らないのだけれど、っなんでも、編成からして4管となっているとのことで、大音場での楽聖演奏では、絃、金管に対して木管の主張が相対的によわくなることをいつもざんねんにおもっているぼくからすると、っまずそれだけでもおおきに期待が膨らむ、井﨑氏のその公演の同日には、奇しくも坂入健司郎氏も慶應ヴァグネル・ソサエティ綜出の同曲公演を振られ、っそちらへ行けないのはまことに無念なのだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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ギロッポン、




川本貢司氏の棒、慶應ヴァグネル・ソサエティ公演、済む、演目は、ヴェーバー《魔弾の射手》序曲、シュトラウス《ドン・ファン》、っそしてマーラー《5番》である、

開演は18:30と早く、聖蹟別棟で17時に終業してその時間にサントリーへいるのは、不可能ではないがかなりにぎりぎりである、っそこで、っきのうきょうのはずの狛江の試掘を、っきょうがこんな天気だからというのできのう1日で了わらせてしまって、っきょうまだ社用車をぼくが有っているので、16:30前ころ、聖蹟本棟へ寄って直帰する、っと石川サユリストさんに嘘を吐いて、下の倉庫で私服へ着替えて、本棟へなぞ行かないで多摩センの近くへ¥200の駐車場を予約してそこへ停め、16:46の小田急へ乗る、っぼくは、現場のときは1時間前には現着するようにしているが、別棟のときは、9時始業のところ室の玄関を出るのが8:40とかで、尾根幹からチャリンコをぶっ飛ばして多摩センの駅へ降り、っそこからえっちらおっちら立ち漕ぎで一山越えて会社まで15〜7分くらい、出勤時間は8:57とかなので、気が差して平素より、20時ころまで会社へいて19時まで、21時ころまでで20時まで、っと残業代を申請しており、ったまのこんな早退けくらいよかろう、っこないだの旗日潰しの徹夜作業にしても、っそのとおり申請するとぜんぜん労基案件になってしまう合計時間だったので、半分以上サーヴィス残業としたばかりだ、っま、デスク・ワークだととちゅう睡くてぜんぜん仕事にならないこともしばしばだから、トータルでは、っちゃんと覚醒して作業をしている時間と申請している勤務時間とはとんとんくらいか、っすこしく会社が損をしているくらいではないか、っなーんつって、っこないだのICU現場など、調査面積のわりに目立った遺構は縄文時代の集石1基のみだったので整理作業はあっさりとしたもので、社長からは、ここけっこういいお金取ってあるから、っと事前に云われていて、先方が大学とか大きな企業とかだと見積もりも膨らまし易いということかとおもうが、納品を済ませたあとたのしみに原価計算してみたら、ったしかに、こ、こんなに稼いじゃっていいのかよ、、、っというような数値であって、っそんなことがあるとそのあとしばらくは、あっこであんだけ稼いだんだから、一寸くらいのんびり仕事させてもらってもいいじゃん、っとかとついつい何日かぼんやりとしてしまったりする、

っさておき、っこんやの堂内では、片山杜秀氏と遭遇するのはまあわかるとしても、休憩で雨のなか外でシガレットを服んで戻ると、ジャーナリストの井上和彦氏と往き合ったのが意想外だった、クラッシックをお聴きになる方なのだろうか、っこれまでにお姿を見掛けたことは1度もなかったが、っあるいは、っどなたかお知り合いに誘われてたまさか附き合いでとかということかもしれない、

マーラー《5番》は、っおもっていたよりはしゃびしゃびと水っぽい薄味ではなかった、っそれでも、っやはり最後の最後にはあれではぼくにはつまらないのだが、あ、好い音がしているな、っとおもわせる場面もそれなりにあった、

川本氏の棒へは初めて接する、っゆたかなロマンス・グレイというか、っほとんど眞っ白な頭をされているが、っまだそれほどのご年配ではなかろう、振り姿は、っどこかデュトワ氏をおもわせるところがある、悠然ともされれば、熱烈な叱咤もまたおありで、心技体に充実せる仕事人でいられた、

オケは、っとくに絃がこの川本氏の棒とよくスウィングされ、16型60名から、マーラーではさらに18型70名ほどの大所帯となっても、恆に全員が指揮者と一心同体であられた、

対して管はどうしても粗が目立つが、っぼくは個別のエラーを論うよりも、アンサムブル全体にもっと若気に発する果敢さを求めたいきもちがつよかった、っいかにも偏差値の高い学生さんの集まりらしく、一定程度は得られているテクニークが、悟り澄ました落ち着きのほうへ作用してしまっている嫌いがややある、っそうすると聴いている側としては、落ち着き払ってもらってよいほど巧いというのではもちろんないから、や、内輪へ収まらずに、もっとがんがん攻めてゆこうよ、若いんだから、っとおもわなくもないのだ、っもしかしたら、っそのむかしに聴いた彼等のマーラー《夜歌》なども、っそういう膚合いの合奏であったかもしれないし、っあるいは、ヴァグネル・ソサエティではなく慶應学内の別楽団を前身に有つはずの坂入健司郎氏の東京ユヴェントス・フィルも、っわるくするとその種の音を出され勝ちではないか、ん、や、悟り澄ましてよいほどの巧さじゃないよ、お高くとまっていないで、もっと汗掻きべそ掻き必死こいてカッコわるい音楽してよ、カッコわるいってことがカッコいいんだからさ、っという、音が綺麗すぎるんだな、汚ない音だって十全に遣い熟せなきゃ、っもちろん本格の音楽じゃない、

っそれでも、《ドン・ファン》のホルンのテーマが再現してそれを絃が引き継いでゆくあたりなど、っちゃんと胸いっぱいの音がしていたのだが、クラリネットへ出るさいしょの女性性のテーマをすぐにVnが追い掛けてそれが高く高く上がるところ、っあそこなどは、っあの程度の澹泊な音の練り上げでは、世に眞に眞底から女のなかの女を求むる男のみぞ知る孤独の苦味は、聴き手へは届かないんだな、音盤だと、フルトヴェングラーのここはすごいね、っやっぱり流石なんだよ、っそしてカラヤンはぜんぜん奮わない、スコアのいったいなにをどう見ていたら、あんなにも大事な個所でそんなにもへぼな音っきり出さないで満足なのさ、っと不可思議なくらいに、ベルリン・フィルはまっっっっったくつまらない音っきり鳴らしていない、

っできょうのマーラーだが、ファンファールは緊張からくる創を伴ない、っこちとらしても同情を禁じえない、っしかし川本氏の棒は快い個所もおおく、っとくに2楽章冒頭からなどは、長い音符は音価の間ちゃんと音を保ってっ、っという意志が振り姿にも明確に表われ、っそれはぼくの趣味にも適う、

っただ、フィナーレの大団円からコーダの疾走へと遷って、っあそこは10人中9人、っや、100人中99人までの指揮者はああなってしまう、走る速度だけが聴こえて、対位法が聴こえやしない、最後まであんなにぎっしりと書いてくれてあるんだから、っぼくは速度などべつにのんびりしていてくれてよく、っそれよりも、高絃はこう、低絃はこう、木管はこう、ホルンはこう、トロムペットはこう、トロムボーンはこう、ティムパニはこう、っとぜんぶの要素を完全に並び立たせて、なにこれーーーっ、ぜんぶの音がちゃんとぜんぶ聴こえてんじゃーーーんっ、っというふうに聴かせて聴かせて聴かせつづけて最後の1音を結んでくれたい、アッチェレランドとか、そんな余計なことしないでください、ってなものだ、っま、っそれはコバケンさんが音盤で叶えてくだすったからなあ、



っさて、っお次は土曜、カーチュン・ウォン氏と日本フィルとの、彼等の本拠、荻窪での公演だね、翌日には同プロの、池袋かな、桜木町、っちがうか池袋か、っでの公演があるが、っその日はぼくは井﨑正浩氏の《㐧9》を聴かねばならないので、っこちらを撰んだ、っちょくちょく行っている荻窪だが、っあそこでプロフェッショナルの奏楽を聴くのは、っかなりに久方ぶりだ、っそれこそ、上岡敏之氏の同フィルとの《アルペン》を聴いて以来ではないのか、、、っそこまでは遡らないか、っわからない、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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荻窪、




金山隆夫氏の棒、カラー・フィル公演、済む、19:40開演の、演目はマーラー《夜歌》1曲のみ、済むと金山氏はすぐさまパート毎に楽員への起立答礼を促され、カーテン・コールはいちどもなくすぐにハネてしまう、

浅草橋では待たずに王将へ坐れて、っきのうの保谷の店舗よりも厨房は広いようで、書入れ時でも料理の提供はいたってスムース、安心して最後に炒飯を頼むが、っなぜかそれはなかなか出て来ず、退店して乗った総武線は検索したものよりも数本遅かった、荻窪へ着いたのがちょうど開場時間あたりで、5分くらいで器へ着いて階上へ昇ると、2階正面最前列へはまだまだ空席があり、右ブロック左端部はすでにして誰かさんの外套で塞がっていたが、云ったようにそこでは手摺がやや視界へ障るのでぼくははなから所望でなく、っそのふたつ右側の両側とも空席の位置へ背嚢を置いていったん喫煙へ出る、っきょうは1曲のみで間へ休憩がないので、開演前にその左端部の人へすみませんと云って前を通してもらえばよいだけであり、っしかも結果として喫煙後、開演直前に戻ってもまだその人は自席へ来ていなんだので、っぼくは誰とも接触せずに自席へ着くことができ、っさらには両側の席も空席のままで、っまことに快適な音楽鑑賞が叶った、

っちなみに、っこことか、錦糸町や初台もそうだったとおもうが、っつまりシュー・ボックス型の器の通弊として、階上正面席両側ブロックの、各外側端部もまたダメである、っなんとならば、っそこから前方へ伸びている各バルコニー席が邪魔になって、舞台の自席側の端部がやや死角となるからである、っせっかくに正面席へ坐しているならば、っやはり舞台の全貌を観ながら聴きたいものである、っこれはサントリーでいえば、RCの下へ向かって降りてゆく通路の外側においてもまた同断で、っその通路よりも内側を撰ばねばならない、

っさておき、自由席の公演でかくして開場時間よりも前から列へ並ばずして良席が得られたというのは、っそれだけでも幸先がよい、土台、っなにか店でもこうした演奏会でもそうだが、列へ並ぶというのがまず気分が好くない、我先にとさもしいことをしているようで、、、現にそうなのだが、っこころが腐る、っというよりも、毎度の繰り言で、世のありとある催事は、綜て指定席で切符を売ってくれたい、っみな自由という字面の麗しさに拐かされているのだ、っそれはぜんぜんこのもしい意味での自由なぞではない、良席を得むとすれば早くに現着して列へ並んでいねばならないという点で、自由席とは、っお客お客の人生の時間時間を奪う、っいたって非人道的の切符の売り方だと断じられねばなるまい、世の綜ての演奏会よ、指定席で切符を売ってくれ指定席でっ、

っさてもさておき、席を確保して外出し、っここではまともに喫煙しうる場所もなく、っいつも脇の一通の路地を環8へ出た歩道橋の袂のところでこそこそ服むのだが、っかなりの頻度で、器の1階へ入っているレストランだかカッフェだかの店主とみられる、側頭部を短く刈り込まれ、頭頂部の髪を後頭部で結っていられる小太りの男性も出て来られて、っいっしょに、っといっても互いに気遣ってやや離れた位置でだが、煙草を服むこととなる、っこんやもそうだった、勤務中にアルバイトの方へ、頼むねー、っと云って休憩しに来られるのだろう、っぼくは声を掛けたことも掛けられたことも、目を合わせたこともないが、っもうだいぶん何度も遭遇しているので、っあるいは向こうさんも、この人しょっちゅういるよなあ、たぶん演奏会の客なんだろうなあ、っくらいにぼくのことをご認識かもしれない、っその店で飲食したことはこれまでにいちどもなくてまことにすまないが、

っさてもさてもさておき、9日間11公演の心算がきのう1公演殖えて都合12公演の掉尾、主任中の大主任の金山氏であったが、っいやあ、っすばらしかったねえ、っきょうは午の森口真司氏もたいへんな大演奏で、っこのレヴェルの当たり籤を1日のうちに2度も引くというのは、っそう滅多にあるものではない、

マーラー《夜歌》といえばぼくには、音盤ではまず超絶ゲテモノのクレムペラー大先生であり、っそして朝比奈さんである、前者はよほどか気合いを入れねば附き合い切れず、っめちゃくちゃ渋い場面もたくさんあるので、っそういつもいつも聴きたい代物ではない、朝比奈さんのものは、魁夷さでは優にクレムペラーに比肩され、っきっちりしたスタジオ録り仕上げのクレムペラー盤に比してライヴのハイ・テンションを望めるので、聴いてひたすらたのしく、っその点では同曲の㐧1候補としてなんら過分ではない、81年の大阪フィルはだいぶん下手くそだが、知ったこっちゃない、

実演では、っあれもう10年くらい前か、っや、っきっともっと前だな、15年くらいか、上野での佐藤久成氏リサイタルから梯子して、サントリーで慶應のヴァグネル・ソサエティのものを聴いたのが初めで、指揮者はもう誰だかわかんないなあ、っわりと体格のよい、っそのころ中年風体の男性だったが、っもしかしたら、近年数多にアマチュア楽団の公演を聴くようになって、知らないうちにおなじ人の公演へも触れていたりするかもしれない、演奏内容は、っそのころはぼくもまだよく楽曲へ馴致していなかったこともあり、定かには記憶しない、っが、っいかな名門で腕利きとはいえ一般大学の学生オーケストラであり、各部の意味附けが水っぽくてよく凝らないまま、時間だけが先へ流れてしまうというふうだったとおもう、プログラムの楽曲解説はたしかセロのメムバーの男性が書していられたとおもうが、っいかにも背伸びをしてインテリゲンチャを気取りたい青年らしく、多言を弄した矢鱈な長文だったのを憶えている、っそのことを想い返しては、っひょっとしてあれはセロを弾かれる坂入健司郎氏の解説文であったりはしなかったのだろうかと勘繰るのだが、ったぶんそれはちがう、氏ご自身の公演の挨拶文とか、っあるはときおり音盤のライナー・ノートなども書されたりするが、っそれらを読んでも、衒学趣味というか、若いころにそれにかむれましたという風は露なく、っそれを封印していまではちゃんと萬人に読める日本語の文章を書くようにしていますという風ですらなく、っふつうに綺麗なただの日本語の文章だからである、若くときにすこしくでも厄介な文章を書くことの快感を知った者は、長じてそれを自制したにせよ、っまだなにがしかへんてこなところのある文章を書いて、っみずからよがろうとするものである、

っのちきょうまでに、っその坂入氏のもの、っそれとネコケン氏、ジョナサン・ノット氏の井上キーミツ代演、ケント・ナガノ氏、森口氏、っこれでぼくが聴いている同曲演奏の綜てだとおもうが、っまだあったかな、沼尻竜典氏、、、っそれはちがう、東京フィルとの音盤か、ったぶんこれで全部で、演るだけでもむつかしい曲だのに、ノット、ナガノ両氏のように、楽団がプロフェッショナルであったときほどダメで、新日本フィルも読響も、ネコケン氏のときの千葉フィルの、多少とも下手かもしれないが、全編これめくるめくごと鳴り渡ってくれた勇姿の好印象に遠く遠く及ばない、坂入氏は、っきょうの公演事前にぼくは、小細工を弄したこの曲の演奏が嫌いだと云ったが、っまあ小細工と云ったら彼に失礼だけれども、っいつものごと丁寧な仕事仕事で全編を乗り切ろうとされて、っところがその差配が実際に鳴る音としてはいつまでもまるで効果をあげずに、いろいろとやられているのについに雑然とした印象を脱しられないまま全曲が済んでしまった、っというふうである、森口氏はその点、全曲ずっと、たしかにいま俺はマーラー《夜歌》を聴いている、っという篤い実感を與えつづけてくれたが、っいかんせんオケが辛かった、4楽章でずっと休んでいられるにも拘わらず、フィナーレ冒頭の時点でトロムペットが全員へろへろで、音型の輪廓をちゃんと示せないし、誰ひとり高い音へ上がれずにしまったのは、目立つ個所だけに痛恨である、学生さんの若さゆえの気負いがエラーよりはうまみに繫る、っという舞台上の幸運に惠まれれば、客のこちとらにとってもなお麗しい記憶として永く遺ったろう、っそれでも、っついに最後1楽章の主題へ全員で凱旋する大団円では、っぼくも居ても立ってもいられない胸の高鳴りをおぼえたものである、坂入氏のときは、っほかの誰よりも溜めに溜めてそこへ入られたにも拘わらず、っどこか空々しいというのか、全体の音圧や音力、音色の性格がこの曲に適したものに成り切っていないように聴こえ、っざんねんながらぼくの胸はまるで震えなんだ、

前置きが長いが、っきょうの金山氏はその、ずっとマーラー《夜歌》のひびきを出しつづける、っということがおできだった、彼氏のばあい、川崎で聴いたみなとみらい21響との同《3番》もそうだった、っいずれもオケはテクニークとしてプロフェッショナルほど萬全でないのはとうぜんで、綻びはそこかしこなのだが、っしかしずっとずっとその曲の、っその曲だけの独得のひびきがしつづけるのである、っほかのどんな作家のどんな作でもそうだろうが、曲が鳴り出した瞬間から、そうだ、これがこの曲のひびきだ、っと納得させてくれる演奏とそうでない演奏というのが、っよのなかにはある、っその点ではノット、ナガノ両氏など、っさいしょの1音が鳴り出した途端に、っぼくにすれば、や、これこの曲のひびきじゃないよ、ってなもので、っその後ずっと附き合ってもその悪感情は拭われず、っぜんぜんつまらないというか、音楽を聴いている意味がまるでなかった、

金山氏の棒と語りとはあいかわらずとんでもなくざっくりざっくばらんで、っきょうも、そこはもうちょい丁寧にやってよ、っというこまかな註文ならば、っぼくもいくらも附けられる、ギターとマンドリンとを1stの最後列舞台前面、ハープも含めて撥絃楽器で固めた配置は奏功、っうちギターについては、器は中規模とはいえけっして狭くはないのに、っあんなに小さな楽器の発音でこんなにも音場の空気全体がゆたかに震動するのかと瞠目したが、マンドリンにはもっと音量を出してくれたかった、

っその4楽章では、後半の1stのフラジオレットで、繊細さのために最弱音が馳驅せられるのだが、っぼくとしてはそれよりも同音連続の音型を、ヒーーーーーーーー・ヒヒヒヒヒヒヒ、っとちゃんと聴き取りたかった、

フィナーレでは、管の動機へ重なるグロッケン・シュピールを、っもっとがちゃがちゃやかましく鳴らしてくれたい個所があった、っその奏者は大団円ではカウ・ベルをご担当だったが、観ていてもやはり大人しすぎ、管絃の音響の坩堝を貫いてこの楽器の特殊な音質が聴こえているというバランスが得られずにしまった、っここなどは、舞台ではなくそのためだけに川崎のオルガンの前の席をぜんぶ潰してそこここへ何人も奏者を配され、数多の同楽器を滅多打ちさせられた坂入氏とは大違いだ、

っけれども、っぼくの種々の不満を散逸せしめるほど、っきょうは魅惑や美点がいかにも豊富だった、っいままでまったく知らなかった対位がいくつもいくつも、っそれもどれも極めて効果的に耳へ飛び込んで来たし、ティムパニはとても巧くていられ、フィナーレ冒頭にしても、っその号砲をみごとに打たれるのはとうぜんとして、っしかしホルン連ほかを招じ入れたら、はい、あとよろしく、っではなく、っその後もずっと存在感を主張しつづけられる、っああいうのはほんとうにうれしい、

1楽章へ戻れば、っことのほか感銘が深かったのは再現冒頭附近で、主題は絃バスが弾き、ファゴットだのロウ・ブラスだのグラン・カッサだの、低音楽器ばかりが鳴っているという陰惨な場面だが、金山氏はじっくりとしたテムポでそれらひとつびとつを鷹揚に見護られる、大家の風格だ、っそしてこの場面ではやがて、テノール・ホルンとコール・アングレとのユニゾンという、複雑多岐の全曲中でもとりわけ特殊な耳当たりの音色がする、マーラーも、実際の試奏を經ずして、っさいしょっからあれを書いたのだろう、っよく書いたものである、っあのとくべつなひびきをちゃんと、ほらっ、こんなにもとくべつでしょっ、っと聴かせてくれないとしたら、っその指揮者はすなわちへぼだ、金山氏が練習でこのユニゾンをたいせつに扱われたのか、舞台を観ていてもよくはわからないのだが、っでもきょう、っその2者はなんとも形容し難いうらぶれた色で虚空を染められたものだ、っそんな楽器組成はほかの楽曲にはまるでないのだからあたりまえだが、っあんな音は独りこの曲からっきり聴くことはできない、

っふたたびフィナーレだが、っところどころ厄介な変拍子なので、演奏がノッているときほどむしろタテの乱れがコワく、っきょうもどこかで事故が発生した、っそのときにだ、コン・ミスの若い女の子は楽器を高く掲げて後列へ見せるようにして弾かれながら、ズレてる、ズレてるけれどもうこのブロックはこのまま突っ切るから、みんな迷わずあたしに附いて来てっ、っというふうで、っその音楽への篤い献身、女だてらのリーダーシップに、トラブルさえこころ温まる名場面に変じたものである、

ってなわけで、ネコケン氏と並んで、実演ではとてもとても深い満足を與えられた同曲演奏のひとつであった、



次はなんだろう、っすぐあさってかな、っそれこそヴァグネル・ソサエティの演奏会だろう、っまたマーラーじゃないのか、《5番》かな、《5番》はダメだよ、っよほどの楽団でもどうしても線が細くなる、っその時点でもうぼくがこの曲に聴きたいひびきじゃないんだ、っだけれどよのなかのほんとうに大半のこの曲の演奏が、っそういうカッコよくてスポーティな風采をしている、っみんなあれで満足なのかなあ、演るほうも聴くほうも、っぼくはイヤだよ、っのたうち回って、済んだときに泥だらけ血だらけの半死半生になっていないと、マーラー《5番》を眞底から味わったとおもえない、っそんなのは、っきょうまでに実演ではいまだ聴けていないとおもう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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錦糸町、




森口真司氏の棒、フライハイト響公演、済む、

っけさは、週明けが現場なのでまたチャリンコが室になく、っいまだ多摩センの駅までの徒歩の所要時間を精確に把握できていないために、後半1/3くらいは走って、暖かいので、っどうとか京王へ乗るころには汗だくになってしまう、

御茶ノ水で中央線から総武線へ乗り換える際には、降りるとおなじ車輛の隣の扉から新日本フィルのビルマン聡平氏が出られ、目が合って、咄嗟のことにぼくも心内でつい、あ、え、ビルマンじゃん、っと呼び捨てにしてしまう、っきょうどこかで本番でいらっしゃるのだろうか、Vnケイスとステイジ衣裳とみられるスーツ・カヴァーとで両手が塞がっていられた、

先の日曜か月曜あたり、急に暖かくなった日から、っそれまでもいくらか予感はあったが、っいよいよ花粉の飛散も多量となるようで、耐え切れずにぼくも抗アレルギー薬を購った、っきのうなどはしかし、っあさ1錠服み、夕にもう1錠服み足しても丸1日ぜんぜんだめで、演奏会の間もけっこう辛かった、っところがきょうは、1日大量に飛ぶとそれで一定量を使い果たして翌日は小康状態にでもなるのか、っだめな日はあさ顔を洗うときに眼の辺りへ触れるっきりでもう痒くて痒くて堪らなくなるが、っさほどでもないので服用せずに外出して、器まで来る途次から前プロを聴いている間くらいは鼻がぐじゅぐじゅだったが、眼は平気で、鼻のほうも、休憩で喫煙へ出たころからわりに症状が落ち着いた、快適である、

っきょうの演目は、芥川也寸志《交響管絃楽のための音楽》、プロコフィエフ《キージェ中尉》スート、っそしてハチャトゥリアン《ガヤネー》のボリショイ劇場版というのを抜萃で、っぼくはこの曲の全曲の經緯を識らないが、抜萃と云う条、っきょうはかなりに数多の楽曲が演奏せられた、レニングラード劇場初演版ときょうのエディションとの差異というのもとうぜんわからないが、ったしかに、辛うじて識っているいくつかのナムバーで、あれ、ここもっとくりかえしがあるのじゃなかったか、っとか、ん、こんなオーケストレイションじゃなかった気がするが、っとかとすこしくおもった、

っそれにしても、っいやはやっっっ、

っゆうべ、コーラスでは名うての団体ならば綜ての瞬間を精緻な音響で充しうるのに対し、オーケストラの奏楽ではほとんどのばあいそれは達成しえない、っと云ったが、っそのゆうべのきょうで、っまさしくさようの演奏へ邂逅す、っもちろん、楽団はテクニークとして完全に鉄壁というのではないが、殊にメイン・プロの《ガヤネー》では、開始からひびきがぴたりと定まり、オケは曲を追う毎にますますのびのびと羽搏き、っやがては、っそれが現実の楽器群によって人為的に発せられた物理音なのだということをさえ忘れさせてしまう、っもはや向かうところ可成らざるはなしで、っほんの歌い口が、っほんの強弱が、っほんの楽器楽器のバランスが綜て、そうだっ、そう聴きたかったっ、っといちいちこちとらをして感激せしめる手応えでぴたりぴたりと的の中心も中心を射当てまくる、オーケストラというものが本調子中の本調子を発揮したときというのは、っこうしたことが可能となるのである、何度も悪口を吐いて、、、ワルグチヲハイテじゃなくアッコウヲツイテね、申し訳ないが、っおとついのN響は、っなぜこれができなんだのだろうか、本邦を代表せる名楽団、っとの称揚は、っぼくはその奇蹟を具現せる打率の高い団体へこそかむせたい、

《ガヤネー》の我が国での初演者はヤマカズさんで、っそれはあれかな、全曲ではなく抜萃でいらしたのかな、最晩年にもほんの数曲のハイライトを新星日響で振られていて、っそれは音盤にも成っているが、っおなじくヤマカズさんは、ストラヴィンスキー《ハル・サイ》の本邦初演者でもいらっしゃる、っきょう《ガヤネー》がさようになにものにも遮られることなく天高く翔けってゆくのを見届けながら、よのなかにはなんとたのしい音楽が存在することかっ、っとの感動でぼくは胸がいっぱいになってしまう、《ハル・サイ》は、バーバリズムと云う条その實あきらかに、現代から遡及せる原始のイミッジの高度に知的の再構成再現前といういでたちをしており、っそこへこそあの曲のおもしろみがある、《ガヤネー》は、っもちろん近代的の緻密な管絃楽法に一貫せられているにはちがいないが、っしかしもっとほんとうにプリミティヴであり、民族的の力感の解放においてもっとずっと眞率で屈託がない、っより人間の生理へ直接に訴えるのはじつはこちらなのであり、っゆうべのコーラスに対して客席から手拍子が起こってしまうのを憾みにおもったぼくであるが、っきょうのこれこそ、身動ぎひとつせず黙って傍観しているのでなく、手を叩き、雄叫びを上げ、っともに踊りながら味わうべき、人間の根源的のエトワ゛スを捉ええた音楽ではないか、、、ワに濁点で1ボディの活字がこの入力フォームにはなく、っどこかからコピ&ペでは持って来られるが、っそこのみフォントが変わってしまうので、妥協して濁点で1字分使用した、

芥川もプロコフィエフもすばらしかったが、後者は薄いオーケストレイションで細密な意匠を凝らさねばならない場面もおおく、後半からすればオケの手附きもまだまだ強張っていた、っそれだけに、枷の解けた《ガヤネー》での飛翔が一層映えたものである、



っさて、例によって江戸博、国技館の脇を通って、っいま大川河川敷で喫煙中、っこれから浅草橋の王将で食事をしての荻窪行、っよるも遅から金山隆夫氏とカラー・フィルとの公演、演目は大作マーラー《夜歌》である、っぼくはあの曲へちょこまかと小細工を弄して臨む演奏がすきではなく、金山氏のざっくりとした語りがおおらかに音楽の核心を謳歌するのであってくれたい、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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保谷、




アヴィップ・プリアトナ氏の指揮、バタヴィア・マドリガル・シンガーズ公演、済む、

開幕にあたって、同団の来日を歓迎して森田悠介氏の指揮で此地のスカートラ・ディ・ヴォーチェなる団体の演奏、ラトヴィアのウギス・プラウリンシュという作家がアンデルセンの童話へ取材した《ナイティンゲイル》から数曲で、っまったくの偶然だが、午にマーラー《復活》を聴き、っかくしておなじ日にふたたび夜啼鶯の声を聴こうとは、っこちらでは太田光子女史が3本のリコーダーを吹き分けられてそれを表現、技巧としてはマーラーのフリュートやピキェロを遙けく上回り、っそれとコーラスとの複雑な交錯で魅せる、客席の前方3、4列くらいへは、彼地の団体が陣取ってそれを聴かれている、

交代していよいよ当夜の主役連のご登壇となるが、インドネシアでも指折りの混声合唱団で、欧州での受賞歴も多数とのこと、プリアトナ氏はヴィーンで学ばれたようで、1曲のみ、ピアニストと連弾で高い方を弾かれたが、っその指術もなかなかのもの、振り姿は端然として、っしかし音楽性満点、

前半はメンデルスゾーン、エルガー、フォーレの作を含むクラッシックなステイジで、っほんの㐧1声から高度も高度、最高度の錬成はまったくあきらかだ、4声各10名前後という編成のところ、1声部が1人で発声しているのかというような完璧な統制、ソプラノは圧力を掛けて無理押ししなくともまったくブレずにぴたりとハイ・トーンへ飛翔しうるという、っつまり世に最も勝れたコーラスの姿である、言語は英語、ラテン語、仏語もあったかしら、独語はなかったかな、っあと現地の民謡と、っそれから日本語もあったが、っぼくはそれらすべての言語の正しい発音を詳らかに識るわけではないけれども、不馴れな発音で唄っていると聴こえた曲はひとつもなかった、

後半はロックやポップスも含み、ピアノ以外に、団員の方がカフォンやタムブリン等のリズム・セクションをご担当、踊りも交えたステイジとなる、曲によっては客席から手拍子が起こってしまうが、っここでも精巧な工藝品のごと音の密度はいささかも揺るがず、圧倒され通しであった、

最後に開幕時の団体と合同で此地の《ふるさと》と彼地の早口ことばみたような民謡とを演って終演、

っふだんオーケストラの公演へ数多に通っていて、ったまにかようの演奏を聴くと痛感するのだが、オーケストラの演奏藝術というものがこんやの合唱のごと刻一刻と完全に目の詰んだ音の連続として成立しているのを聴く機会へなど、100の公演へ通ったとしても、っまあただの1度だって出逢いはしない、1,000回に1度あるかないかくらいの割であろう、っどんなプロフェッショナルの楽団といえども、長いシムフォニーのどこかはまずかったがそれを別のどこかで取り返して全体としてはまずまずの水準へ乗せてくるとか、っそのように奏楽を行なっており、当人たちもそれで事足れりとしているように見受ける、

同団は、っあすは池袋、東京音大のキャムパス内での公演で、っきょうとは別プログラムを披瀝されるという、っぼくは錦糸町で森口真司氏を聴いているので行けないが、っよっぽど、森口氏を蹴ってそちらへ浮気をせむかとおもうくらいである、

っで、っぼくはあすもよるにもう1公演だね、月曜が現場になっちゃったもんだで、っあさが早くて疲れるのだが、っまた狛江なので、っまあぼくの室からはわりに行きよいのが救いだ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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ギロッポン、




井﨑正浩氏の棒、三菱UFJ管公演、済む、演目は、ヴァグナー《トリスタンとイゾルデと》前奏と飯田みち代女史の歌唱を伴なって〈愛の死〉とと、飯田、っおよび山下牧子両女史のソロ、コール・ミレニアムの合唱を加えてマーラー《復活》とである、午前のみ仕事をしてから出向く、

っゆうべのN響公演などより、っよほどかゆたかなオーケストラの音響を味わったという感慨がふかい、っそれに、っなにがどう違うとそうなるのか、井﨑氏の棒にあっては、下野氏のごと、っただ拍の裡へ音型音型が並ぶのみという無機的の感触はほんのかたときもしない、っこうでなくては、演奏会の客席へいる意味はなかろう、

懸案は楽団の技倆の程度であったが、っほぼ杞憂といえ、ヴァグナーの前奏が漸増してくると、っちゃんと奔流が迸出し、退潮して〈愛の死〉へと移行すると、っそのセロ・バスのアルコの最弱音はとても好い音がしている、

同曲の演奏中、オルガンの前の席へはお客がいくらかいるので、あれ、これでコーラスはどこへ入るんだ、っとおもうが、休憩で喫煙して戻るとそこへは人っ子ひとりいなくなり、っおそらく、コーラスのメムバーのうち希望者は私服姿で客席で前プロを聴かれていたのかとみられる、

マーラーも、個別のエラーがあっても合奏全体は絶えず腰がつよい、っもっとも、複雑なスコアでも余裕綽々で音にできるというほど腕が立つわけではなく、平時というのか、っなんでもないところの進行中は音量が太いよりは細い方へ寄っていられるが、っそれだけに、1楽章の再現直前やフィナーレの要所要所など、全力をふりしぼった際の気魄たるや、っこちとらを戰慄せしめてあまりある、

井﨑氏の造形には一点の曇りとてなく、っぼくらが《復活》という楽曲に夢見ている名場面名場面をそのとおりに過たず叶えられる、っこないだ、その曲のその曲らしい再現などぼくには呼びでない、っと云ったが、要は、音楽的の態度として、凡庸かつパッシヴで、絶えず創意に衝き動かされているということがないから、なんとなくもっともらしい表現へ落ち着いてしまうのか、果敢に攻めた結果として、誰にも有無を云わせないスタンダードを摑むのか、っそのちがいである、っそれに、っある演奏をただスタンダードあらしめるっきりでも、っじつのところ指揮者には熟さねばならない責めが無数にある、世のそれらしさがつまらなさでしかない演奏とは、単にそれらの責め責めをまるで果たしていないということにすぎない、

コーラスは、最後、オケに押されずにもうすこしく張り合えるとなおよかったか、ソリストは、飯田女史は〈愛の死〉の㐧1声こそはなかなかの存在感でいられたが、っこまかい音符でよく声を届けてくれずに、オケにある程度以上の音量を出されると消され勝ちになるのがややざんねんであった、山下女史は、カーチュン・ウォン氏が日本フィルのプリンシパル就任披露で同《3番》をなすったときのソロが彼女で、、、っあれ、っここで何度かそのことに触れているうちに、っどこかで記憶ちがいをして坂本女史と書いてしまったことがあったかなかったか、正しくは坂本朱女史ではなく山下女史であるが、っそのときにはやや曲趣にそぐわない唄い口のように聴いたが、っきょうは〈原光〉もフィナーレもすばらしかった、



っさて、っいまは保谷へ移動して、っこのあとバタヴィア・マドリガル・シンガーズなる団体の公演である、っきのうつい切符を衝動購いした、器は西東京市の複合施設で、仕事の納品だか打ち合わせだかではいちど行ったことがあるが、音場へは入ったことがない、っいまは駅前の王将へいるが、書入れ時で、オーダーした品が一向に出てこず、っやややきもきしている、っま、開演までには食事を了えられるとおもうが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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池袋、




下野竜也氏の棒、N響公演、済む、演目は、っすぎやまこういち《DQⅣ》スートである、っこれ1曲のみでは2時間にだいぶん足らず、下野氏は〈序曲〉が済んでお客からの拍手を許され、マイクを取られてすこしく話されるので、ああ、何曲か毎に話をされる心算なのか、っとおもうが、っそれ以降は間に休憩を挿んで全曲が通奏せられた、アンコールは《同Ⅴ》の〈結婚ワルツ〉で、っこれは先回の《同Ⅲ》公演でもおなじであったので、っなにか別の曲を撰んでいただきたかったか、

仕事のあと多摩センまで来ると、人身事故で京王が遅れており、っややはらはらしたが、っどうとかイン・タイムで池袋まで来る、

演奏内容は、っほぼ昨夜に予期したとおりであったとおもう、っやっと〈栄光への戦い〉から〈導かれし者たち〉にかけてそれなりのグルーヴが得られたが、っそれはプロフェッショナルならば演奏会の開幕から発揮できてとうぜんの威風であったはずだ、前者については先回公演の前プロでも抜萃して演られたが、っその際には旧いスタジオ録り音盤のとおりに通常戦闘曲の両主題のリピートが為されたところ、っきょうはさいしょからリピートなし、先の演奏では複数個所における恣意的の強弱の操作をいずれもなくもがなと聴いたが、っきょうはまだしも自然な表現に更新せられていた、っほかに、〈コロシアム〉中のホルンの動機で、N響盤とロンドン・フィル盤とでオクターヴ違って吹かれる部分があるが、演奏に対する興味をさして有てなんだため、っきょうのそこが上下どちらで吹かれたのかは意識して聴いていなんだ、

っあいかわらず、っこんにちのN響というのは、コンディションというか演奏文化として、っなんともむつかしい境遇にあるとおもわざるをえない、〈序曲〉からして、絃の鳴りのわるさにはこちとらすでにして抵抗があり、っのち、〈勇者の故郷〜馬車のマーチ〉で休憩へ入るまで、っとくに前半の出来のわるさは、天下のN響がぜんぜん下手に聴こえるレヴェルである、

っそれは、アンサムブルの生硬さと、下野氏の造形の不首尾や不徹底との、負の相乗効果である、〈王宮のメヌエット〉は、先回《Ⅲ》〈王宮のロンド〉みたように編成を縮小せず、絃のフル・メムバーで奏されたのはまだよいが、演奏は、バロック・シュピールで、スラーの架橋せられない音符での完全なレガート忌避はわかるものの、っそれにしてもありとある音がいかになんでも無機質に拍子の箍に嵌りすぎている、っごくかすかにでも、このフレイズのためには音価を破り、ほかで辻褄を合わせて、っという伸縮から、リズムに弾力を加え、っもって音楽に活性を與えないものだろうか、っむしろ努めて機械的に奏さむ機械的に奏さむという音が鳴り、っぼくには虚しい音の羅列に聴こえる、

っいったん気になり出すと、っとくに中速以上のテムポの楽曲にはすべてその弊を感ずる、〈ジプシー・ダンス〉も〈ジプシーの旅〉も〈街〉の同音タンギングによる主題前半部も、っとくにリズムのうまみという点で、っまったく音楽が死んでいる、

各管楽器のソロもぴりっとせず、〈楽しいカジノ〉にはスマートなポップスの感触などまったく望めない、

っかくして、全体の音色はぱっさぱさに乾いており、っまるで潤いに欠ける、

例外的に、あ、いい音だ、っとおもう個所があったとしたら、〈コロシアム〉の中途でほんの一節〈街〉の主題がフリュートとグロッケン・シュピールとのユニゾンへ顕われる際の両者の音色の睦み合いとか、〈謎の城〉の長原氏のソロへ合わせる藤森氏のセロの存在感くらいである、トロムペットに対するホルンの音勢バランスは、っぼくの趣味からすればぜんぜんよわく、っそればかりか、1番の今井氏は、〈不思議のほこら〉の主題の頭へ還る手前のシンコープみたように、重要な個所にかぎってエラーを晒され、っかなり印象がわるい、

っすぎやま作品は、必要最小限の要素から成立しており、オーケストレイションもごく薄いので、っほんの手抜かりでももう音楽が破綻する、っどこかのよわみをべつのどこかでカヴァーするということがまるでできず、っぜんぶバレてしまうのだ、っきょうはその悪見本のようであり、っあらためて、ロンドン・フィル盤の傑出を噛み締める一夜であった、



っさて、っあすは午前のみ仕事をして、午にサントリーにて井﨑正浩氏の、っことし2度ある彼氏のマーラー《復活》の1度目である、っそれのみにせむとおもっていたが、っきょうになって、夕のもう1公演を衝動購いす、っどんな団体だかまったく未知数である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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飯田橋、




上岡敏之氏と読響各位とによるチェムバー公演、済む、演目はエネスコ《絃楽のためのインテルメッツォ》2曲、《チェムバー・シムフォニー》、《Pfクウィンテット》である、っまったく知らずに来たが、っまさかにオール・エネスコ・プロだなどとは露おもわず、

エネスコといえば、っなんといってもまず《ルーマニアン・ラプソディ》であり、っそして彼自身の奏楽になるかのバッハの無伴奏ソナタ音盤である、後者とは、っいつかに渋谷ライオンへ入店した際にちょうど掛かっており、っそこで出逢った、曲がバッハらしいということはわかったが、っそれにしてはこちとら脇腹を擽ぐられてぞわぞわするごと無類に人懐こい奏楽であり、っすぐさまAmazon.で検索するが、当時は発売の旧い中古盤がプレミア価格で取引されている状態で、入手に及ばなんだ、っのち、去年だかおととしにめでたく復刻が成り、常時再生しうるようになった、

っほかに、ロズージェストヴェンスキー氏の同シムフォニー全集を購ってみたが、《ルーマニアン・ラプソディ》みたような聴き易い曲調をおもっていたところ、3曲ともよーわからんままで、っあまり熱心に聴けなんだ、

っきょうの3曲も、っやはりよーわからん曲想で、辛うじて主題を主題として認識しえたのは《インテルメッツォ》の1曲目と《クウィンテット》の2楽章くらいで、っあとは動機もその展開の構成もほぼ把握不能であった、

っただ、茫然と聴いていても和音や音色の拮抗はたのしく、飽きは来なかった、《チェムバー・シムフォニー》は、絃もいるが大半の時間でひびきの主体を管が担っており、主題はわからなくとも、絶えず十全に成立したひとつの音響世界を実感しつづけた、

《クウィンテット》は、1楽章が鳴り出して、っじきに自分がいまどこのなにを聴かされているのかまったく不明になり、っかなり長時間に亙って音が鳴りつづけるので、気附かぬうちにどこかからアタッカで次の楽章へ遷っているのかとおもったくらいだが、っそれが1楽章で、2楽章へ入って音に動きが出て、緊張感を有って終結を迎える、



っさてあすは、池袋で下野竜也氏とN響とのすぎやまこういち《DQⅣ》公演かな、去年だか、っおととしくらいだったか、《同Ⅲ》公演があったが、っそうだなあ、っぼくは下野氏の要所ほどびしっと音を揃えに来るあのひびきの作られ方にはもうひとつ馴染めず、っその《Ⅲ》公演も、眞の眞にはたのしめなかったかなあ、っせせこましくなるんだよ、オケの鳴り方が、っだからあすも期待薄ということで、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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ギロッポン、




川瀬賢太郎氏の棒、名古屋フィル東京遠征公演、済む、演目は、五藤希愛女史の語り、大田智美女史のアコーディオンで武満徹《系図》、っそしてシュトラウス《ヘルデンレーベン》である、コン・ミスは同フィルの小川響子女史でいられた、

堂内にあっては、指揮者では新田ユリ女史や米田覚士氏、オケ・マンではきょうは降り番でプライヴィットで来場されたらしい名フィルにも籍を置かれる山本友重氏、っほかに、日本フィルのVnの女性なども見掛けた、

武満作品には疎いぼくで、っきょうの作を聴いても史上においてこの人の作のなにがどう重要なのかはよくわからなんだが、っぞんがい素直な旋律美を望めるし、っわるいきもちはせなんだ、名フィルもすばらしい合奏だ、

シュトラウスは掛け値なしの本気印、去年のマーラー《トラギッシェ》にしてもそうだったが、指揮者もオケも、東京のお客お客というのか楽壇というのかへ果たし状を叩き附けむというばかり意気軒昂でいられ、っきょうも乗っけから、弾き姿としても日本人のオーケストラとしては珍かなほど全楽が眩ゆい積極性に耀く、

鳴る音としてはしかしいささかの過剰も蛇足もなく、鳴りすぎたオーケストラの皮相な空騒ぎの憾とはいっさい無縁だ、小川女史のソロもまた日本人離れがし、っその蠱惑的の訴えは、っきのうたんまりと佐藤久成氏を聴いたぼくへもまるで不満を與えなんだ、



っさて、桜上水へ戻って、っこれからハイ・エイスで帰る、っあすは狛江現場の重機と資材との撤収で、現場は一般開放せられている市の施設内であり、開場時間は8:30ころ、早いとその直後には駐車スペイスへ一般利用者が訪れてしまい、我々の工事車輛が進入不能となるというので、8時ころにはお役人が来られてゲイトを解錠、っぼくらもすぐに入ってちゃっちゃとダムプへ重機と資材とを積んで退散というわけである、っあすはあさから降雨していようが、っま、作業時間はものの5分か10分だ、

っやっとあすは仕事のあと眞っ直ぐ室へ帰れる、っお次は木曜よる、上岡敏之氏と読響各位とのチェムバー公演かな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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《きりむすぶ》(執筆中・脱稿時期未定)


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