ざっかん記
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川崎、




坂入健司郎氏の棒、東京ユヴェントス・フィル公演、済む、演目は、リゲティ《ルーマニアン・コンチェルト》、石上真由子女史を招いてシマノフスキ《1番》コンチェルト、っそしてブルックナー《3番》である、

坂入氏のブルックナーといえば、っなんといっても音盤に聴く東京ユヴェントス・フィルとの《9番》であり、っぼくは間抜けにも公演情報をスルーしてしまっており、実演を聴き逃して口惜しいおもいをした、っのち、彼氏はタクティカート・オケなる団体ともフィナーレ補筆完成版の同曲を演り、っそれも音盤と成ったが、ブルックナーについては、っまず楽団がその独得の音響構築について十二分に馴致している必要があり、っその点で同団は東京ユヴェントス・フィルほどの適性は示さず、無二の感銘は与えられなんだ、東京ユヴェントス・フィルについては、前回公演の主演目が同《7番》であり、っさっぱりとした川崎のアコースティックを纏って透明なひびきが一貫し、上から下まで、全声部のロールが等しく眼に映るような、っごく純度の高い秀演であった、

っきょうの《3番》についてもすべての楽章で、造形といい、っひびきの色といい、っその厚みと鋭さとのバランスといい、っまるで間然するところがなく確信を有って語り進められ、っぼくは、あの《9番》もかかる覇気の充溢する時間時間であったか、、、っとの羨望を嘗めつ、感歎とともに聴き入った、

長大なシムフォニーを演るのに、前プロもたっぷりとしているのが彼等の公演の定番、っきょうはその2曲もほんとうに目が詰んでおり、2時間半になんなむとする全時間が充実していた、

リゲティは、っのちにはコンテムポラルな作風へと分け入り、っその時代の彼氏の作品をぼくはよく識らないが、っこの《ルーマニアン・コンチェルト》の時分はいまだ素朴な筆で、コンチェルトと銘打つほどコンチェルトコンチェルトしている曲ではなかったが、っいちおう4つの部分に分かれていたらしい最後の部分では、裏拍へ乗ってコン・マスがソロを披瀝、っそこなどはあきらかにエネスコ《ルーマニアン・ラプソディ1番》とおなじ匂いがしてたのしかった、彼の地のフォルクロリックなダンスのリズムなのだろう、

シマノフスキは、ピアノやチェレスタも加えて細密な心象を展開、佐藤久成氏の音盤のどれかにこの作家の曲が収録せられてあったはずで、っときおりそれとおなじ感触がするなとおもっていると、ソリスト・アンコールは石上女史がオケ中のピアノの前まで行かれ、コンチェルトでチェレスタを弾かれていた方のピアノでその曲を演られる、チェムバーではあの曲が代表作なのだろう、っいずれも堪能した、

ブルックナーでは石上女史が1stの3プルト裏で乗られる、以前にメインが楽聖かなにかのときの公演でもそんなことがあったか、っここでは、っすべての声部がいわば淡々としている、指揮者にしてからがそうだ、熱量に不足するというのじゃない、曲を信用し、無理なことはなにひとつする必要がない、っという一種の悟達を得ている頼もしさがあるのだ、

全体に、腰を据え切ってしまわない速めのテムポが快い、坂入氏は、っおなじブルックナーでも《8番》では概してたっぷりじっくりと語られていたものだが、今後は同曲にもきょうのような先へ先へと生き急ぐ感触を持ち込まれてもよいのじゃないか、っきょうの1楽章では、展開後半のトュッティの連続においてなお狂騒的のまでに加速する苛烈さが痛快であった、全楽章について云えることだが、金管、っそしてティムパニの絃に対する音量バランスはまことに最適で、っその質感がまた硬軟を噛み分けて最高であった、

2楽章もひびきを肥らせずさばさばと進んでこそ、一寸した音の動きや和声が潤いに繫がる、3楽章は後年の作からするとまだ単純な構成だが、っそれが爽快である、㐧2稿のノヴァーク・ファッスングとのことで、っその要諦は同楽章のコーダの有無、ブルックナーであるから、スケルツォは提示も再現もそっくりおなじ、コーダはなしで主部のトュッティで事切れるというほうがらしい気がしたが、っそのコーダはまたも鬼気迫る加速で手に汗握らせる、

フィナーレは開始の絃の音型からわくわくさせる、《8番》の同章開始などは天体天体の軌道などをおもわせるまさしく気宇壮大、っつまり宇宙それ自身が鳴る様をおもわせるところ、っこのフィナーレの開始は、往時、っいまだ開発されざるスペイス・シャトルへでも搭乗して、っさあ大宇宙へ飛び出してゆこうかという心象におもえる、人智の側から宇宙の驚異をみている感触である、道中は質朴な地上の歌と1拍ずらしフーガも酔狂なコラールとの対比を軸とし、っとつじょ、ファンファールが鳴り渡ってコーダへ至るアイディアは、作家本人としても快心の筆致であろう、演奏はやはり先を急ぐが、っそれがほんとうに音楽に活性を与えるのに最適の速度で、無窮動のうちに、っついに彼方に天啓を聴くここちであった、



っさて、っお次はこんどの日曜、っなんだか山梨でコバケンさんの演奏会、オケはセミ・プロくらいなのかなあ、マーラー《巨人》がメインだが、近年の彼氏の静謐かつ濃密な語りを体現せられたいので、指揮者が手ずからばたばたと煽動しないで、っそれこそきょうのように、フィナーレの最終音まで淡々としているふうを期待したい、

、、、っところで、っこないだネコ・ケン氏をかようにナカグロありで表記したが、っぼくはコバケンさんをずっとこう書いてきたので、ネコケン氏もこれでよかったのか、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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桜木町、




井上キーミツと神奈川フィルとの最期の共演、済む、演目はキーミツの我儘放題といったところで、シャブリエ《スペイン》に始まり、女声に東混を招いてドビュッシー《ノクテュルヌ》で休憩、後半は打って変わって伊福部昭で、松田華音女史を招いて《リトミカ・オスティナータ》、っそして《jpラプソディ》である、最後者は〈ノクテュルヌ〉〈祭〉から成るので、っいちおうは前後半の連関がかんがえられているともいえるが、っこの同名同名の両曲両曲はしかし、っともにいかにも遙けく隔たる膚合い風合いであることだ、

っきょうはあさから東新宿で健康診断だった、バリウム、下剤を飲むので、っなるたけ早く済ませたいとおもい、開始は9:00からと案内状にあったが、8:30ころ受附へ上がってみるとそのまま通してくれ、っしかしいつもよりも混んでいたようで、ったっぷり2時間くらい掛かってしまう、事後、ファミ・レスへいてお通じを待ち、新宿三丁目から副都心線へ乗れば、っみなとみらいへは1本である、っそうか、っだから降りた駅でいえば桜木町ではなくみなとみらいである、

シャブリエは札響、ドビュッシーは京響で聴いたのだとおもうが、っこんかいの神奈川フィルの質感はより印象的である、前者はぐっと腰を落として各部を確乎と意味附けつ進むので、絶えず栄養価の高い音が運ばれてき、っとはいえ余分な力は入れておらず、発音発色は清冽、絢爛たる音響である、

ドビュッシーは、両端曲における纏綿たる中弱音といい、㐧2曲における振り切ってしまわない、っそれでいて角を矯めてもいないほどよい強音といい、っありとある楽器のありとある強弱が地上を遊離し、人智を超脱するようで、2階正面最前列と、っひびき切ったあとの音を聴くような位置だったこともあり、っしばしば現実のオーケストラの物理音を聴いているとは信じ難い時間が流れた、東混の女声は下手側の遙けく階上へ陣取っており、っそのため、舞台上のオケはべつに変に萎縮して音量を絞っていたわけではないが、っちゃんとコーラスが活きるようなバランスだった、っそしてこれがまた人声でありながら人声に非らず、っかすかかすかな色調の差が無限のグラデュエイションを展開し、っやがては女性という性、人間という身体さえ忘れてしまう、

伊福部《リトミカ、、、》は、っあれではダメだ、っもっとオケの全員が、っあの曲を演るということの特殊さを把握し切っていないのでは、眞なる成功には程遠い、っとくにアレグロにおいては、ソロもオケも、誰1人として興に任せてテムポを揺らすべきではない、1人残らずが精確なイン・テムポを刻む機械を志向すべきである、機械になっていることが重要なのではなく、っそれを志向していることが、っである、アムプロヴィザシオンの精神が寸分も要らない、っなどと云っていない、その発散のための代表的の方途であるテムポやフレイズの伸縮はしかし、この曲においてだけは峻拒せられねばならない、っと云っている、っさいしょの急の部分は、ソリストが主題の1周目で加速し切って定めたテムポをもっと完全に全員が共有し、っその箍の内へもっともっと全員がかちっと嵌まってしまわねばならない、っきょうはたとえば、トロムペット連が初めて音を出すときに、っぜんぜん、っまったく拍へ嵌まって来られない、ブーだ、声部声部が揺れ、声部間ではほどよくタテがブレる、っそのことが快いというのは、っほかのどの曲ではありえても、っこの曲の急速部では禁忌であり、っというよりもただの失敗である、拍へかちっと嵌まりにゆく、っそのことにもっと本気で、命懸けで臨んでくれなくてはっ、中間部でも誰かが走り、誰かが遅れということが起こったが、っあるいは本格のミュージシャンにとってほど、機械的のまでにイン・テムポで奏する、っというのは屈辱に当たるのかもしれない、っもちろんそうだろうとも、っけれどもこの曲は、っこの曲だけはとにかく、っその屈辱の甘受こそが成功へのゆいいつの道なのである、プロフェッショナルでも演奏の機会が増えつつある同曲ではあるが、っこの認識までが汎く滲透せむことを希ってやまない、

《jpラプソディ》はその失地をみごと回復、キーミツは以前よりこの曲に2曲ともゆっくりとした足取りで歩くという趣味を持ち込まれているが、っそれもきょうが最期の実践でいらしたのだろう、以前にN響との共演を聴いた際には、㐧1曲のVaのソロが曲趣よりは奏者の顔が浮かんでくるようなほとんどナルシスティックな唄い方に聞こえ、乗れなんだが、っきょうの奏者は万感おもい入れながらもひたすらに森閑たるよるの風情を伝え、中間部の濃密に感銘もまたあらた、再現ともなると、主題のVnは弱音、管や打のアクセサリーのほうがものを云い、っとりわけ多種多様の質感をしずしずと振り撒く後者は、っなにかもうそうした厳粛な儀式が執行せられるごと、作家自身さえ、っあそこまでの深遠な手応えを期待していたのかどうか、

㐧2曲は、先陣のクラリネットにはあっけらかんと先を急がせるが、トュッティが爆ぜるやどすんと腰を落とし、っそのまま事切れるまで横綱相撲、《リトミカ、、、》ではタテが乱れることで各楽器の音色、質感まで安定を逸する嫌いがあったが、っここではすべての声部がきらきらと宵の賑わいに煌めき、っどんなに狂騒の態を帯びても粗暴な直接音の乱打と堕さない、

っこの曲、っとくにこの㐧2曲は、声部の拮抗の多様なアイディア、各楽器の質感の繊細な噛み分けにおいて、っときに後年の《交響譚詩》や《シンフォニア・タプカーラ》を凌いでいるとさえ聴こえる、同様の手応えは、っむしろ《土俗的三連画》などにより煮詰まったかたちで昇華せられていよう、っきょうの演奏では、途中、光の綾が飛ぶようなVnのフラジオレット、っさいしょのクラリネットのテーマが管群へ再現するときのやはりVnの合いの手と、指揮者がぼんやりしていてはぞんがい埋没してその効果を上げないロールがいずれもみごとに活かされており、っこの曲がテンション頼りの単細胞な1作ではないことを実地に證明していた、



っさて、っあすは川崎にて坂入健司郎氏の公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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紀尾井町、




井﨑正浩氏の棒、オルケストル・デ・ベルなる団体の公演、済む、

〈俺のブラームス〉と題して、年1回、っすべて井﨑氏の棒で、ブラームスのシムフォニーをコンチェルト等と組んで番号順に全曲演奏せむという企画らしく、去年の㐧1回で《1番》を演奏、っその公演の存在は事後に気附いたので、聴き逃してしまった、っことしの㐧2回は《2番》をメインに、劈頭は《悲劇的序曲》、近年高名にして、井﨑氏ともハンガリーにおいてご共演済みという髙木凛々子女史をソロにそのコンチェルト、パンフレットの曲目解説は井﨑氏ご本人が書していられ、っそれは彼氏の公演ではしばしばあることだが、っこんかいは相当度に詳細に亙っており、っお蔭で開演前に読み切らず、休憩中は外へ喫煙に、出られずにしまったのか、出なくて済んだのか、《Vnコンチェルト》も1楽章はかなり長大であり、シムフォニーも、っふだんは1楽章提示のリピートを割愛されているという井﨑氏が、〈俺のブラームス〉などと銘打つからには、っときょうはそれを敢行、っさらにソリスト、オケともにアンコールがあり、14時開演で、っやっとハネたのは16:20すぎ、

8型くらいの絃のオケは、ホルンなどがときおりかすかに吹けなかったりするが、っしかしとても巧く、小中規模器たる紀尾井町に悠然たる響が充ちる、

っきょうの演目は、序曲がニ短調、コンチェルトとシムフォニーとがニ長調とニ調で統一せられていたが、っそれ以外にも、井﨑氏のご指摘にある通り、全曲を通してブラームス一流の拍の凝り様、コンチェルトにおく、ハンガリー出身のヨアヒムを意識したジプシー風情、っおなじニ長調の楽聖の同楽器コンチェルトへの敬慕の匂い、っさらに遡ってバッハの影、っすべてが実践としての演奏を通してこちとらにも諒解せられた、

井﨑氏も恆に勝る入魂ぶりで、2階正面席から聴いていても、歌謡主題と声を合わせて唄う彼氏の声がしばしばはっきりと聴こえた、彼氏の《2番》は一般大学の学生オケとの演奏も聴いており、っそれも清涼ですばらしかったが、オケに勝れるとここまで細部細部にまで拘るのか、っときょうはじつに一驚を喫した、

髙木女史の奏楽は初めて耳にしたが、凛然たること名に負うごと、濃密なオケと相俟ちつあらゆる場面で曲の魅惑が全開し、っとくに変化に富む重厚な構造の1楽章では、再現の㐧2テーマあたり、ああ、いい曲だなあ、、、っとしみじみと実感せられ、っひとりでに泣けてきてしまう、っぼくもだいぶんおっさんになってきたので、っさいきんは泪脆くていけない、



っさて、っお次は土曜、井上キーミツと神奈川フィルとの公演であるが、キーミツのご体調は大丈夫であろうか、っもう引退まで半年となって、っいまさら残る公演へ代役を立てるというのは、彼氏としても痛恨どころではなかろう、ドクター・ストップが掛かったとしても、死んでもよいからやるっ、っとおっしゃりたいところだろう、客ごときのこちとらとしては、死んでもよいからやれなどとは云えないのであるが、っどうとかお元気なところを拝見できればとおもう、、、っところで、っその日の午前は健康診断でねえ、バリウムを飲まねばならないので、っなるたけ早めにクリニックへ行って済ませてしまい、余裕を有って下剤が下ってくれますように、、、汚ない話で恐縮、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




東貴樹なる、フランスでバス・トロムボーンを学ばれた70手前くらいの方の棒、フィルハーモニア・ブルレスケなる、早稲田大フィルのOB・OGから成るという団体の公演、済む、演目はヴェルディ《運の力》序曲を演って休憩し、マーラー《復活》、

オケはことしで結成20年を迎えるというが、っそのわりに大半が若い人たちで、母体となる学生オケからまいとし卒団者を迎えているのかもしれない、っそのテクニークたるやじつに盤石で、ヴェルディから絃のこまかい音符がぜんぶかちっと入る、漸強弱もアスリートの妙技を観るようにスリリングで、っほとんど殺気立っているくらいだ、

棒の東氏は猫背、撫で肩のひょろひょろしたおっちゃんで、振り姿も蛸踊りみたようで世辞にもカッコいいとは云えないが、っそのヴェルディ冒頭は、っすこしくも力まずに振り始められ、っじつにノーブルな覇気がサントリーの空間を震わす、っあの原田/関西フィルの乗っけからの威嚇的の騒音が麗しからざる記憶として遺っていたところ、っみごとに払拭せられた、

っかようの小品が出色でも、複雑、長丁場のシムフォニーとなると瑕疵が目立つ、っというのがアマチュアの通り相場というものだが、っきょうの彼等はかなりの水準を維持したまま全曲を踏破してみせた、っまた音量の豊富なことといったらっ、

っただ、コーラスはこの名楽団と渡り合うにはやや精度を欠き、音量も足りないので、フィナーレの大団円では、っそれまでの雄渾に輪を掛けて全力を振り絞るオケに押され、最後の復活の高唱の場面などは声楽はほぼ聴こえない、

ソロではアルトが、っふかい音色を出そう出そうとするあまり、っかえって醉漢が駅のホームで、おえええっ、っと嗚咽しているような発声となってしまう嫌いのあるこのパート旧来の通弊を逃れ、音域が低いだけで、音色としては清浄な歌手であり、そうこなくてはっ、っとおもう、



っさて、っあす連休最終日、紀尾井町で井﨑正浩氏公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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市川、




ネコ・ケン氏の棒、千葉フィルで、シベリウス《春の歌》、マーラー《夜歌》、済む、

高名なるネコ・ケン氏も、っはや70代も半ばでいられる、っご登壇はみじかい歩幅でややよたよたとされており、高めの指揮台への昇降も愼重にゆっくりとというところ、振り姿はじつに静かに拍を示しつづけられ、っときおりアゴーギクにおいて分割を行なう程度、個別声部へのキューは滅多に出されない、

っしかし、千葉フィルというオケは元気いっぱい、テクニークとしてもまずまずで、昭和のスポ根奏楽といったところだ、っぼくは恆頃よりそうした楽音をじっさいの会場で聴きたいとしんから希っているので、っきょうシベリウスが鳴り始めた瞬間から、っもううれしくてしかたがなかった、

っそれでもマーラーはさすがに煩瑣な書法に応接し切れないかと危ぶむのも杞憂、絹漉し豆腐よりは木綿豆腐という肌理の粗いごつごつごわごわとしたすばらしい歯応えの音塊が全曲を一貫し、っひたすらにたのしかった、

っこの曲はちかぢか井上キーミツと新日本フィルとの演奏を聴くこととなるが、っそれがぼくにとってはプロフェッショナルの演奏では初めての機会ではないか、っちがうかな、っどこかで聴いたかな、アマチュアでは数度聴いており、10年以上前、ったしか上野小器の佐藤久成氏リサイタルから梯子したサントリーにおく慶應のヴァグネル・ソサエティのもの、っそして坂入健司郎氏と東京ユヴェントス・フィルとのものと、奇しくも慶應閥が揃っているが、っざんねんながら、っそれらはオケのひびきが薄く、1音1音をもっとスルメみたように噛み締めに噛み締めて味を出してこようという執念に乏しく、っぜんぜん印象に遺らない凡演であった、

っその点できょうは、ネコ・ケン氏の棒はここでも淡々としたものだが、オケの面々の気骨が縦横に発散せられ、痛快の極みであった、市川市文化会館の容積、アコースティックとしても、っそうした汗臭いオーケストラの音を受け止める器としてむしろ最適といえ、っすべての時間をこころゆくまで堪能することが叶った、



っさて、ギロッポンへ移動中、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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大船、




井﨑正浩氏の棒、戸塚区民オケ公演、済む、

っきょうは、っいま終演してすこしくお湿りもあり、っわりに涼しく、歩っていて汗だくということはない、

演目はフンパーディンク《ヘンゼル、、、》序曲、チャイコフスキー《ロメ&ジュリ》、楽聖《パストラール》で、っいわば標題楽の系譜を遡行するかたちだ、っそしてフンパーディンクはボンの生まれとのことである、

っこのオケはやや非力なので、っそれほど高い期待は有っていなんだが、楽聖の終章などは、衒わない誠実な奏楽が曲の魅惑を曇りなく伝えた、

アンサムブルとしては、フンパーディンク冒頭からホルンは澄明なハイ・トーンをびしばし定めるし、トロムペットなどもよい音を出している、絃は、セロ・バスは分厚くてよいのだが、Vn、っとりわけ1stにちゃんと弾ける人の頭っ数を確保できていないのがいかにも惜しい、っしたがって艶に乏しい、瘠せ勝ちのひびきであり、っこまかい音符でのクレッシェンドなどで風圧が出せない、

チャイコフスキーはついせんじつ森口真司氏の演奏を聴いたが、オケのテクニークとしては同等程度、っあちらが表現表現した造形を峻拒してこそ魅惑的であるのに対して、井﨑氏は、彼氏もオーケストラ・ビルダーとして辣腕にちがいないが、冒頭のクラリネット+ファゴットの楽句からもっと意志的意慾的に強弱や音価のとりかたを差配し、積極的に音楽を語る、諍いの㐧1テーマはこまごまとした動機が殺到する音構造のため、っもうひとつ迫力が出ないのは森口氏もおなじ、悲恋の㐧2テーマにこぼれるような豊麗の歌を望めないのもそう、っこればかりは致し方ない、

同団の夏の公演では恆例となっているというメイン演目前の井﨑氏によるレクチャー、オケに《パストラール》各楽章の主題を演奏してもらいながら、丁寧に全楽章についてご解説があった、っそのなかで印象的だったのは、フィナーレの最後のところで絃合奏に出る㐧1テーマを基にしたコラールのご説明で、井﨑氏は農夫たちの祈りの場面だとおっしゃり、映像のイミッジとしてミレー《晩禱》を挙げられたのだ、っそのおことばがあったあと、同部分をオケが試奏されたのだが、っあの夫婦とおぼしきふたりの麦畑でのシルエットを脳裡におもいつ聴くところ、っひとりでに目頭が熱くなるのを抑え難かった、

っそれでじっさいの演奏だが、1楽章などは、っやはり絃がたっぷりと鳴ってくれないのが喰い足らないが、井﨑氏は無理に音量を要求されず、スマートな姿態のまま名曲中の名曲を語り進む、相対的に管の動きやその潤いが際立つのも道理で、2楽章などは、主題を支えるホルンや木管のシンコープや、2本のファゴットの和音などが、快い耳の刺戟となる、

っそして3・4楽章を經てフィナーレは、音圧に不足した柔和なひびきだけに、時を追う毎に楽音が地を離れ、宙へ浮き、天へ昇るごとであった、変奏のたびに音価がみじかく、っこまかい動きとなってゆく楽聖一流の筆致はそのとめどない創意の象徴であり、絃の刻みへ木管が重なると、っおよそ神韻を聴き、天啓を浴びるここちであった、

アンコールに楽員のどなたかが目敏くみつけてこられたという同《プロメテウス、、、》より〈パストラール〉、



井﨑氏は中1日を置いてあさっても紀尾井町で公演である、

っさてあすはダブル・ヘッダー、午后に市川でネコ・ケン氏とアマチュアとのマーラー《夜歌》、夕にサントリーでやはりアマチュアの同《復活》である、っことしは興味本位では演奏会へ行かないと宣したのだったが、っこの2公演は、ったしか森口氏の公演かなにかを検索しているときに脇目へ映り、切符を衝動購いしてしまったのだった、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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大阪、福島、




井上キーミツの棒、大阪フィル公演、済む、

演目はモーツァルト《25番》、ブルックナー《7番》のはずが、小ト短調の1楽章が駈け抜けるとキーミツはマイクを持たれており、演奏の中途に指揮者がマイクを持つなんて品がないんだけれど、持病である腎臓結石の発作が出て辛抱たまらんので、っとおっしゃるので同2楽章以降は指揮者なしで演奏し、ブルックナーに集中したいということなのかとおもうとちがって、すまないがもうこれで休憩、20分休んでブルックナー演ります、みんなブルックナー聴きに来たんでしょ、っとのこと、場内は動揺を隠さなんだが、果たして、ブルックナー全編70分余を、キーミツはちゃんと振り通された、

去年末、札響のクリスマス公演を彼の地で聴いたときには、キーミツはひどくお疲れのご様子で、っぼくなど、あと1年、お身体は保つのかしら、、、っという心配を募らせたものだが、っそのときには公演前夜のすすきのでの夜遊びが祟ってたまさか風邪気味でいらしたとのことで、事実、っその後の公演ではまた快活なお姿を何度も望みえた、っしかしじっさいのところは満身創痍でいられるものと拝察せられ、っやはり、のんびりとした余生よ来たれかし、っという引退なのではなく、っほんとうにもう限界でいらっしゃるのだろう、以前にもこの云い種をしたが、サントリーでの最終公演を振り了えられたその舞台袖で斃れて死んでもよいとおおもいのラスト・スパートなのに相違あるまい、っまだこれから《ラ・ボエーム》全国巡演などのハード・スケデュールが控えていられる、キーミツご自身ならずともぼくでも、彼氏にこの年末まで走り切られるだけの天壽が約束せられているのだと祈り、っまた信じたいところだ、

っさておき、ブルックナー、っや、っその前に1楽章のみであった小ト短調だが、っこの過酷なアレグロは、っあたかも井上道義という一個の人格のまったき音化であるかのようだ、呵責のない前進するテムポ、軋る絃の刻みはみずからの肉を削いでミューズへの供物と代えるごと、っとはいえ、8型の大フィルの絃は、っとくに1stが、2列目からもうすでにしてぜんぜん弓の量を遣っておらず、っほとんどアマチュア楽団の弾ける音っきり弾かない素人奏者かと見紛うばかりであった、キーミツも堪り兼ねて、楽章中途で崔氏の背中のあたりまで歩み出て、もっと後ろから後ろから弾いてこいっ、っと煽動されていた、奏者にしてみれば、見る目に弓の量を遣っていないからといって必ずしも音量を出していないわけでもない、っといった声はしばしば見掛けるのではあるが、素人かんがえには、それにしたってどんなにクレッシェンドしてもあんなにも弓のほんのまんなかへんっきり遣っていない奏楽というものがあるか、朝比奈さんも草葉の蔭で泣かれているぞ、っとおもわずにいない、っもっとも、大フィルにすれば勝手知ったるここ福島であり、っすなわち無理をして鳴らずとも優にひびいてしまうのであり、絃はよほどの要所でないかぎりは全員で全力は振り絞らない、っという経験的に体得せられた不文律があるのか知らない、

っともかく、っしたがって恆に上声よりは中低声の濃密を聴く道中であったが、曲調からいってそのことは苦衷をよりリアルに表現する助けとなり、音の並びがあくまでも抽象的の古典派だけに、浪漫は聴く者の心裡においてこそ鮮やかなのであった、絃の配置は、セロ・バスは右へ固めているが、Vnのみ、1st、2ndを両翼に分けるという行き方、っこれは指揮者を問わず東京では読響などもしばしば行なっているが、っなんだろう、こんにち古楽器ブームの隆盛から久しく、ストコフスキー配置に準じてきた指揮者とて興味本位からVnを左右へ分けてはみたい、けれどもセロ・バスを左へ固めるまでは流石に右顧左眄と取られそうで恥ずかしいし、なによりそうした音響バランスへ身体が馴れていないこともあり、そこまではしていない、っとかということだろうか、っどうあれ、大フィルの2ndとVcとのトップはこんにちなお朝比奈時代から見憶えのある古株、、、2ndは女性でいられるので古株と称しては非礼にあたるやもしれないが、っしかしおふたりとも映像に観る朝比奈時代の風采からほとんどお変わりがない、巨星の歿後はや20と余年になるというのに、っいかにもお若くていらっしゃる、キーミツとしても、ブルックナーを演られる上で朝比奈イズムを叩き込まれたかかるヴェテランの存在は頼もしかろう、っしかしそれ以上にきょうの勇姿はVaのトップである、っあの方も朝比奈時代を知る口であろうか、っわからないが、っその弾き姿はまことに音楽への奉仕そのもので、指揮者の棒をよすがとするのみでは不明確へ陥り勝ちのアウフタクトにおいて、っしばしば楽器を後列へ向けて高く掲げて次小節の拍頭を予示し、っもってアンサムブルのオートノミーに一役も二役も、っや、二役も三役も購われていた、

っさて、ブルックナーだが、キーミツとしてまさかに体力温存のために内輪に振る舞われたということもなかろうが、っしかし、表現慾の氾濫に因するオーヴァー・アクションからかえって合奏精度に瑕疵を生ずるということも、キーミツにかぎらず指揮者とオーケストラとの関係としてごくあり勝ちのことであるところ、っその点できょうは全曲がひじょうに端然と静的に運ばれてゆく、

っもっとも、テムポとしてはひじょうにじっくりとしており、っとくに全曲冒頭、っおよび3楽章全体にそのことが顕著である、原始霧は、上岡敏之氏ばりに最弱音から発露し、っおおきなおおきな間合いでセロ、ホルンによるテーマが招じ入れらる、っその唄い方もすっきりとして分厚くせず、周到に漸強弱を操作し、ユニゾンのひびきとして、っどこはセロが主体、っどこはホルンが主体たるべきかを入念に差配し、っじつに丁寧な開始だ、Vnの模倣から全楽による主題確保の頂点へ向けての登坂もすばらしく、絃へのフリュートの重なりぐあい、っはじめに音階を上がり切るときに加わるホルンの悦なる和音、全員で頂点を打つ直前に下降するテューバと、っすべてかかるべしというフォルムである、

㐧2テーマは仄暗く、っしかし絃へバトンが渡ると寛いだ調へ遷り、っそこから㐧3テーマへ向けての漸増は㐧1テーマのそれよりなお巨大であり、っそこがぼくのこの1楽章の提示におくすきなところである、《8番》の同章はちゃんと㐧1テーマ中により険しいトュッティが存り、㐧2テーマは漸強してもなだらかなままである、作家はこの点をどうおもっていたのであろう、生前に実演を何度か聴いているはずではあるが、っともかく、っきょうのそこは、絃のみの爽快な和声から、っそこへ木管が金管がと加わって脹れてくるとそのままこちとらの胸もおおきに脹れ、っきのうのチャイコフスキーではないが、っあらためて、なんという名曲だろうっ、っとの感激に震え、視界が潤んだ、

隣のお客が多動の病者であり、1分とおなじ姿勢でぢっとしていられず、絶えずがさごそがさごそしていて落ち着かない、っそのうえ、演奏に合わせて、っとくに全楽で気を吐く定め所などでいっしょになって身体をびくっと痙攣せしめて昂奮を追体験している愚物であり、っその際の震動がシートを伝ってこちとらにもひびいてきて欝陶しい、俺は演奏を聴きに来ているのであって、テメエの昂奮を共有させられに来ているんじゃねえ、っとの雑言が、っほんの喉元まで出掛かったことだ、っいるのである、演奏会の客席には愚物が、っそういうのにかぎって終演後はブラヴォーブラヴォーと囂しいこと囂しいこと、、、っさようのに遭遇するたび、っああはなりたくないものだとおもうものである、

っとまれ、1楽章を入念に語ったことから、2楽章は、意図して先を急いでいるわけではけっしてないが、っしかしとても流れがよい、㐧2テーマのうつくしさにはまたしても感泣が込み上げ、モティーフが儚く切れ切れとなり、ヴァグナー・テューバの冒頭句へ還る直前あたりは、2ndやVaの動きを明晰に追い、複雑に揺れ動く作家の心理を残らず酌んでいる、名人の仕事だ、ファッスングはノヴァークであり、楽章頂点はシムバル、トライアングルを伴なう、

3楽章はまたしても一転、云ったようにやや意識して腰を落としており、っほとんど鈍重なくらいで、朝比奈さんの晩年などのほうが速度としても音の構えとしてもよほどか先へ先へと流れている、っしかしそれがキーミツの結論なのである、1拍1拍と楔のごと音々は時間時間へ刻み附けられ、トュッティともなるとそれは隣の客も身体を揺すらずにおれない剛毅な音塊が屹立す、っところが、っなにか気分としては好い意味で抜け切っていて、テムポは遅くとも俗な拘泥趣味の匂いは微塵もせず、っただただ曲の魁夷それのみが立ち顕われてやまなんだ、っそれはすでにして2楽章から、っや、1楽章においてさえ発露していたアトモスフィアであり、っやはりキーミツのご体調不良も怪我の功名、演奏が人為を離れて天昇してゆくごとであった、

っぼくはブルックナー《7番》を、1・2楽章をもって天下の傑作とするになんら躊躇しないが、フィナーレは、っよく云わるような短小さはむしろさほど感じないのだが、っそれよりも㐧1テーマのあのキャラクターの軽さだ、劈頭章の広々として雄大な同テーマを剽軽な愉悦に変換するというその趣意はよくわかるのだが、っどうしても軽すぎる、《5番》や《8番》という、楽章間の性格の相関としてより成功し、フィナーレがちゃんと内容的にいっとうおおきな比重を担っている傑作からすると、龍頭蛇尾の憾を拭い難い、聴く前の、さあ聴くぞっ、っという意慾でゆけば、っこのフィナーレよりも《ロマンティッシェ》のそれなどのほうがよほどか意気込んで望めるものである、っま、っすべてのシムフォニーがフィナーレは定まってどすんと重たいというのでは芸がなく、変化球を放ってみましたということがあったほうがよいのかもしらんが、

っただ演奏は、人智を離れるごと必然の色調はここでも一貫し、キーミツが振られ、大フィルが弾かねばこの音は鳴らないのだが、っしかしキーミツも大フィルもその個別具体性はどこかへ消し飛んでしまい、っひたすらにブルックナーそのものである、激越な強弱の交代、ロウ・ブラスの大地を揺るがす咆哮は、《8番》とてそのような個所はいくらもあるのにぜんぜん無理筋には覚えないところ、っこのフィナーレではどれも唐突に感ぜられて、っあまり耳がよろこばないことがおおい、っそこを名器、ザ・シムフォニー・ホールである、天を突くような最強音もはんなりやんわりと堂宇に抱き留められ、全体がいつも高級に薫っている、

キーミツは、先般の名古屋フィルとの最期の共演、豊田におく同《5番》は、っなんと引退前にして初振りでいらしたとのことだが、っそうとは俄かには信じ難い入念な表現と、全体のひびきの雄渾とであった、っきょうもまた、っそれに次ぐ懐の広さ深さを実感せしめ、っこの作家の演奏における面目を示された、残る機会は京響との《8番》である、っすでにして同コムビの演奏が音盤になっているのであるが、っそれはあまりにも流線形で角のない感触のアンサムブルであり、っそれでいて弱音に神経を割くあまりに流れがわるく、全体が豪傑的に隆起してくるあの曲の醍醐味から遠い記録と云わざるをえない、っこんどの演奏が、っもっと野趣溢れるごつごつとした音で行なわれてくれたらと希わずにいないが、何度か実演を聴いてきた京響のあの様相からすると、っそれは叶わないのだろう、っよい、繊細なテクスチュアなら繊細なテクスチュアで、っともかく有無を云わさず聴く者を圧倒するあの《8番》という巨峯を、音場へ現出させてくれさえすれば、キーミツの同曲は、読響と川崎で行なったものを聴いたが、オケは豪壮な野太い鳴りを示していたものの、っしかしそのひびきであの全曲をなんとなく通してみましたという通り一遍の憾というか、っなにかこれぞという定め手を欠いたようにもおもい、正真正銘、最期となる京響との公演で、っもっともっと決定的に、井上道義ここに存りっ、っとの揺るぎない里程標を据えて去っていただきたいところである、



っはてさて、っこんどは土曜、大船において井﨑正浩氏と戸塚のアマチュア団体との公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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桜木町、




っみなとみらいではなく掃部山公園のほうで、沼尻竜典氏の棒、神奈川フィル公演、済む、っきょうは絃メムバーのみによるプロで、三善晃《絃の星たち》、チャイコフスキー《絃セレ》、っそしてシェーンベルク《浄夜》絃合奏版である、三善はVnのソロがあり、同フィルの石田氏、コン・マスはゲストで佐久間氏、シェーンベルクでは佐久間氏が次席へ下がられて石田氏がコン・マス、

っこの公演は、井上キーミツと同フィルとの最期の共演の切符を1日も早く求めたく、っその優先販売にありつかむとして3公演のセット券を購ったうちのひとつである、演目をみるかぎりではキーミツ以外の公演にはさして魅力的のものがなかったような記憶があるが、っまあ消去法で、っあと1公演はやはり沼尻氏との来年のショスタコーヴィチ《10番》を購ったようにおもう、

っきょうは午前のみ仕事をする心算であったが、っゆうべ、会社の暑気払いで日附が変わるころまで調布へおり、2時ころやっと室へ帰った、っあさ7時すぎに起きるは起きられたのだが、億劫で休んでしまう、っで午までごろごろしていて出掛く、

中器ではあるが、前売完売とのことで、ったしかに大入りであった、っそれほど集客を望めるプロとはおもわないのだが、っなんだろう、石田氏などが相当数の固定客を有っていたりされるのだろうか、

《浄夜》は有名な曲ながらまったく聴いたことがなく、っぜんぜん楽想を識らなくて、演奏時間も長く、前2曲はばっちり目覚めていられたので油断していたところ、半分弱くらいは夢のなかで聴いていてしまった、了わりの部分には踊るような楽想が現われ、洒落ているとおもった、

三善、チャイコフスキーはおおきにたのしんだ、っどころか、チャイコフスキーは4つの楽章すべてで目頭が熱く、っじっさいに泪を落としもした、倹しい容積の音場は絃合奏のみでも優に満たされ、っときに烈しいアタックはこちとらの身もこころも揺すぶるよう、っその音量、っひびきの充実感はちょうどこないだの箕面におく坂入健司郎氏と大阪響との公演と同様、聴き古したはずのチャイコフスキー《絃セレ》をまったく甦らせ、っあらためて、なんとうつくしい音楽だろうっ、っとの感激に堪えなんだ、三善も、開幕から神奈川フィルの絃合奏の密度は出色で、曲は、リズムといい和声といい声部の拮抗といい特殊奏法といい、っごく緊迫した構成の快作で、っおよそ息を吐く間もなく惹き込まる、



事後は井伊直弼の掃部山公園で喫煙して音場とは反対の方へ下山し、横浜駅方面へ向かう、前回か前々回かにここへ訪れた際にみつけた大衆食堂然たるカレー屋へ寄り、ビーフ・カツ・カレーを食すと、っその肉はゆうべの調布の鉄板焼き屋のそれに劣らない上等の品のようで、っそれがしかし近年の料理屋のようにディザインフルなみたくれをしていないで、っいかにもぞんざいな盛り附けの大衆食堂のカレー・ライスというふうなのが快い、演奏藝術にも同様に、音楽の本髓のみをしかと見据えて、体裁を繕わないで、音の表面自身はぎざぎざとささくれだっているというそういう音を鳴らして憚らないプロフェッショナルがいてくれたら、っというのは、っさいきんはやや忘れていたが、っいつもぼくの胸底で騒いでいる邪な願望である、っみんなきれいなんだよ、音がさ、っいいじゃん、一寸くらい汚れたりしていたって、



っさて、っあすは大阪日帰り、福島にてキーミツと大阪フィルとのブルックナー《7番》、彼氏と読響とのサントリー最終公演の演目が大幅に変更になったとおもっていたら、元プロの楽聖《6・5番》は、大フィルとのおそらく最期の共演なのだろう11月へもってこられたようだ、流石にこれで引退までの未発表公演も打ち止めかな、っあとまだこれから切符を購わねばならないのはOEK、っこの大フィル、っそして読響ラストか、ったぶんぜんぶさほどの難、発売からものの数分で売り切れるみたようなことはなく購えるとおもう、っま、抜かりなくそれら発売日発売日へ望むとせむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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中之島、




服部百音女史、っおよびN響との、っともに井上キーミツとの最期の共演、済む、ショスタコーヴィチ《1・2番》コンチェルトの間へロッシーニ《ブルスキーノ氏》序曲、

っちょうど先週の北山、福山におくキーミツと京響との同一プロ公演と同様に、ソリスト、オケ、っそしてホール・トーンの三拍子において、後日のほうが遙けく好印象を結んだ、っきょうは《2番》の最後の最後、フィナーレのカデンツが明けたあたりで服部女史の絃が切れ、彼女はすかさずマロ氏と楽器を替えられてどうとか停めずに復帰しようとされるが、キーミツはそれを制して奏楽を停められ、カデンツの了わりの部分から仕切り直し、女史は終演後、渋面でべえと舌を出して口惜しがっていられたが、っしかし再開後も緊張の糸が切れることはなく、公演全編においてまったく張り詰めた時間の一貫する、驚異の夕であった、



っけさは9時前には室を出、正午ちょうどに新大阪、大阪駅から歩って開演の3時間ほど前にいったん器へ着き、階下のレストラン街でカレー・ライスを食するが、っぼくが食べ了えて席を立たむかというときに、っおしゃれなテンガロン・ハットをかむられたティムパニの植松氏が来店された、っぼくは器を離れて席で喫煙可能のカッフェまで歩き、開演を待つ、1時間半ほどそこへいて開演1時間ほど前に取って返すと、っこんどは肥後橋の袂のところでファゴットの水谷氏と往き合う、っもちろん、っともに声を掛けたりなどという愚は犯さない、



っぼくはふだんから、巷間たまに云われるようにはサントリーを駄器とはおもっていないと云っているが、っもちろん演目や編成の規模、演奏の性格との相性というものもあろう、っきのうは云ったようにソロの音勢がオケに殺がれる嫌いがややあったし、っそのオケにせよ、先週の福山やきょうの中之島のように、っじゅうぶんな容積のなかですべての声部がクリアかつマルチに聴こえるたのしさからすれば、っきのうは飽和かつ拡散する気味で、っあれこれの楽器の多様の音色、質感を十全に味わい切れなんだようにおもう、

サントリーに対してはしかし、残響が長くゆたかであるという印象を有っている人もすくないのではないか、っいちおう満席時2秒超ではあるはずだが、残響をゆたかであると感ずるためには、っその長さよりも音量であるかとおもう、実音が鳴り了わったあとへ遺存する余韻の音量が、っその3割くらいもあるのではないかというようであれば豊麗と感ずるし、2割以下かというようであれば、っそれが2秒といくらか掛けてゆっくり減衰するのだとしても、っさっぱりとしたひびきと感ずる、サントリーとか、っほかに都近郊であれば池袋や川崎などは後者であろう、録音に聴くかぎり、欧州で名器とせられている音場はなべて前者のタイプなのかとおもう、っというよりも、っそれらはみな1,000と数百規模のキャパシティで、2,000席級ではないのかもしれない、っそう、っそれで驚いたのは所沢で、っさきごろ同器で佐伯正則氏のスメタナを聴いたが、っその楽音はじつにしっとりと濡れ、残響も音量といい長さといい、、、両者は正比例するのだろうが、っまったくたっぷりとしていたことだ、っとくに、音が濡れているという感触がありありとしたのこそは驚きも驚きで、全国各地の器での演奏を録音に聴いてもその手応えのするものにはついぞ巡り合わなんだが、っあの豊饒のトーンは、欧州の名器名器にも比肩しよう、



っただ、っなんでもかでもひびけばよいというものではない、っばあいによっては、ドライであったり、デッドであってさえ、っそのほうが聴いてたのしい、っそのほうがより楽曲を味わったここちがすることもままある、っそこがおもしろいところで、先週ときょうとは、っひびきすぎない音場の勝利である、

服部女史はきのうにも勝る全霊を賭したコンセントレイション、《1番》から遊びやゆとりを峻拒した気詰まりな感触はきのうと異ならなく、2楽章において苛烈に絃へ弓をぶっつける痛ましさはなおそれを助長す、一転、3楽章の掠れそうな弱音は泣いているようで、っや、泪も涸れた絶望の色をしているようで、っすでにして狂気の相をさえ帯びるカデンツには満堂が息を飲む、フィナーレは心身ともに無窮動で、っそれでも主題中にあるすこしく柔和な調子へ遷移しての音価の長いところなど、っもう一寸でも肩の力を脱いて道化た表情も覗かせてはとこちとらおもうものだが、っどこ吹く風、一分の隙とてない攻めまた攻めの連続でフィニッシュまで翔びすさる、っきのうで免疫ができていたので、っぼくももうそういうものとして押し戴く、

特筆すべきはN響である、っきのう云った、っせめてもうすこしくでも粘着力のある音を聴かされたいというそういう音が、っきょうは出ているではないかっっっ、っぼくは主に渋谷で彼等を聴いていて、っほかの人たちがきょうのN響はすごい音を出していたすごい音を出していたと昂奮しているようなのを横目に見て、あんな無趣味で潤いのない、ただオーケストラが鳴っているだけというような音のどこがそんなによいんだろう、っといつもすくなからず鼻白むおもいを嘗めてきた、っそう、ただオーケストラが鳴っているだけ、彼等はたいがいそういう音を出すのだ、っそれがきょうは、っすべてのパートに色があり雰囲気がある、実演の音場では初めて、彼等の音を斜に構えて意地悪に聴かずにいられた、っしかもしばしば書法の妙を完全に体現し、現実の物理音が鳴っているとは信じ難い、夢魔のひびく音そのものが聴こえた、《2番》1楽章の主部がフリュート、ピキェロの点滅から俄かに精彩を得て以降の複雑な音構造など、っそういうひとつの生命体が乱舞するごとであった、数十人が数多の役割を熟し合うその綜合として一体の夢魔を現出せしめるなどという業が可能であるということ、っまこと演奏とは、っほんとうはいつもその次元へ達してこその眞の妙味、眞の醍醐味であろう、

服部女史は、っきのうみたようにキーミツのほうばかり向いてかがみ込んで弾いていないで、っちゃんと客席へ向いて胸を張って弾かれる場面もおおかった、っそれに、っきのうはさように彼女の立ち位置や向かれる方角によって音勢へこのもしからざる影響が出るようであったが、っきょうはどちらを向いて弾かれていてもわりあい恆にクリアな音像を望み得、っそれがオケの音像群の裡へ定位するバランスもより良好であった、中之島は2,000といまだ数百席の大空間で、2,000席級においてさえヴァイオリンというちっぽけな楽器のソロの音像は遠く、音量も頼りないことがすくなくないが、っきょうの彼女の奏楽は、最強音から最弱音まで、っすべて豊富なニュアンスを纏って、っちゃんとこちとらの耳へ届いた、っぼくはきょうは2階正面席、っいつもここでは2階の右翼バルコニーで、っそんな大音場では正面席では最前列でもすでにして舞台からいくぶん遠かろうとおもうからだが、っきょう初めて正面最前列右寄りへ坐すと、っまず視覚として憂慮したよりもぜんぜん舞台が遠くない、音としてもそうで、っこんな広大な器においてしかし、Vnのソロがあんなにも複雑微妙なニュアンスを伝えながら鳴ることができるのかと、意想外の僥倖へ接したのであった、

公演開催を知った始めはサントリーのみでいいやとおもっていたところ、っなにをヒヨっているんだと後日にこの大阪遠征も購い足した、結果として大成功であった、両日とも録音があった模様、っおそらくマイクが拾った音にしても、っきょうのもののほうが編集上の嘘というか、脚色を要さない素直な音に録れているのではないか、音盤作成に際しては、っきょうの音源をベイスに、必要個所のみきのうのサントリー音源も用いて修整するということになろうかとおもうが、音楽的のことのみを考慮するならばそうでも、っわからない、業界の裏事情としてサントリーがいやに力を有っていて、うちで録った音をちゃんと使わないで他会場での音源を優先するとはなにごとか、とレコード会社が睨まれ、その後サントリーとの仕事がしづらくなる、っとかたとえばそんなことがあったりするだろうか、っや、っぜんぜん知らないよ、っともかく、キーミツは近年のこれら録音を集成してショスタコーヴィチの、シムフォニーのみならずコンチェルトも全集をお出しになるとのことである、



っさて、来週も土日ともに演奏会、土曜は沼尻竜典氏と神奈川フィルとのもので、キーミツと同フィルとの最期の共演の切符を1日でも早く入手したいがために併せて購ったもの、っどんな演目だったかしらね、シェーンベルクかなにかが含まれていたような朧げな記憶が、、、っそして日曜はまた日帰り大阪行、っこんどは福島にて、キーミツと大阪フィルとのブルックナー《7番》、、、辛いわ、新幹線代が、、、っしかしあと半年、っがんばろう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




服部百音女史のソロ、井上キーミツの棒、N響で、ショスタコーヴィチ、コンチェルト2曲公演初日、済む、《1番》を演って休憩し、後半、《2番》の前にロッシーニ《ブルスキーノ氏》序曲、キーミツの選曲で、っうちに《2番》との主題の類似性があるからとのこと、ロッシーニも含めて、近現代ものであるにも拘わらず、テューバはいるが、トロムペットもトロムボーンもいない、

《1番》はこれまでに、坂入健司郎氏の岡谷、浜松での公演、豊平青氏の錦糸町での公演がそれぞれ印象に遺っており、っいずれ劣らぬ名演であったが、っそれらによりぼくに植えられた曲の印象は、グロテスクでありつつもユーモラスというもので、っそれはこの3公演いずれもが、ソリスト、指揮者、オケがみな闊達でありながらも既のところで音楽を雁字搦めにし切ってしまわないゆとりを具えていられたからかとおもう、っその点できょうの服部女史は、っあの弾き姿といい鳴る音といい、っやや眞剣な闘い一辺倒の気味がせぬでもない、っまたN響は、っやはりもうほんのごくわずかにでも執念を実感せしめるねちっこい発音の感触がしてくれたくおもう、プロフェッショナルたるもの水面下での足掻きを客前へ晒してはいけないにせよ、っせめてあとごくすこしくでも、聴く者の耳へ糸を引いてへばりつくような粘着力が慾しい、っそうした演奏の性格からか、フィナーレの追い込みにしても、乾坤一擲の音が鳴っているにはちがいないが、前3者を聴いているときのような滾るごと昂奮は得られなんだ、苛烈さが窮窟で、ったのしさに不足するのである、



ロッシーニはVaや2ndが弓で譜面をぱんぱんと叩くそれこそたのしい曲、



《2番》は、セロ・コンチェルトとおなじでたぶん音盤を持っておらず、っきょう初めてちゃんと聴いたが、主題も構成もよくわかった、作家としてだいぶん後年の作だが、っまさかに創意が枯渇しているなどとは、畏れ多くて云えないが、っしかしやや作家自身にとっての既存、っありあわせの語法を寄せ集めている憾がせぬでもなかった、服部女史はここでも眞剣勝負、《1・2番》を通してそうだが、っやや気懸りなのは、指揮者の視界内で弾いていたいとおもわれるのか、っしばしばオケのなかへ入ってしまわれ、っばあいによってはほとんど2ndのトップの目前くらいへ立って弾かれる、っまた身体もキーミツの至近距離で彼氏へ正面を向けて、っつまりf字孔が表へ出ているVaのあたりを向いているような姿勢であられ、っそうするとオケによって彼女の音勢が殺がれる気味だ、っじつに全曲の6割7割もその位置、っその姿勢で弾かれており、っごくたまにコン・マスよりも前、っがんらいの定位置まで出てこられると、っちゃんと明瞭にコンチェルトのソロとしての音像を結ぶ感触がした、っぼくは右側、RCの最前列1番だった、、、っおそらく生涯で初めて坐した個人的には特等席中の特等席、っことしはこれからまだ2度3度と坐すこととなる、っのでまだしも凌げたが、っあれで左寄りから聴いた人は、そっちばっかり向いて弾いていないでよ、っとややおもったのにちがいあるまい、っそこは誰か近しい人が諫言を垂れてやって、今後、っよろしく矯正せられればとおもう、っきょうはまた録音のためのマイクがあったので、っそれへあんまり近附きたくないという忌避感があったかもしれないが、

フィナーレは、っなんだか厄介な拍子で、《1番》のそれに勝るとも劣らない一気呵成の畳み掛けだが、目にも留まらぬすばやさでオケとともに駈け抜けるのであった、終演後は服部女史おひとりのみでのカーテン・コール、滝のごと拍手を浴びせられて感泣に咽んでいられたが、泣きべそを掻くのはまだ早い、っあすの大阪公演が控えている、っせんじつの京響との公演でキーミツは、《2番》において暗く重い音を出そう出そうとされるソロのクニャーゼフ氏に、っこの曲にはユーモアもあることを忘れないでくれとひとことだけおっしゃったとのことだが、っあすのゲネ・プロにおいて服部女史へも同様の小言を云われ、っそれを女史が短時間のうちに昇華されるならば、っなおすばらしい演奏となるのにちがいあるまい、っぼくも日帰り大阪行である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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