ざっかん記
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京都、北山、




森口真司氏の棒、紫苑響公演、済む、演目は、ラヴェル《メヌエット・アンティーク》、玉井菜採女史を迎えてチャイコフスキーのコンチェルト、っそしてマーラー《巨人》である、

今週は1週ずっと聖蹟別棟だったが、っそれはそれで疲れてしまうので、っきのうあさ、出勤する心算でアラームで起きたのだが、いっかべつに、っとそのまま睡ていてしまう、

っここ北山は、誰のなにを聴いても満ち溢れるごと豊富な音量が得られないという印象がしており、入場して、2階の右翼バルコニーをおもい切って舞台へ寄ってみる、自由席で、50〜100人の間くらいには入場したとおもうが、っまだバルコニーへは誰もおらず、悠々と通路に面した端部を得る、喫煙して開演直前に戻ると、っけっこうな盛況である、高槻のときはこんなにも大勢来ていなかったように記憶するのだが、

っさて、っその位置で聴いて、ったっぷりとしたひびきに心身を包まれる夢を見るが、、、叶わず、っなんだろう、っあれだけ舞台へ近くで聴いているのに、音が来ない、音量もそうだが、音色、ニュアンスも眞なるゆたかさへ達しない、井上キーミツは京響とここでフレンチをお演りになった際に、っこのホール・トーンに対するご不満を忌憚なくおっしゃり、一定の役割は了えているはずだから、京都もそろそろ新しいホールの建設をかんがえてよい、っと述べられていたが、っぼくもそのご意見に1票である、他所者が差し出がましいが、

絃は、バスは右へいるがVnは両翼、Vaは1stの隣へ入るという配置、っそのVaなど、ラヴェルではしばしば渋い唸りを聴かせ、っああした主張をもっとありとある楽器から口々に見舞われたいのだが、Vcになるともうだめで、観ているとちゃんと弾かれているのに、っその音の質感が客席へ向かって飛んでいない、っこれはチャイコフスキーでもマーラーでも最後まで変わらなんだ、っほんもののセロのひびきというのは、っとてもあんなものではない、っもっともっと奥深く、っこちとらの腹へまで届くはずだ、

高槻で聴いた同団は、っもっとすごく上質であったように記憶していたが、っぞんがいそうでもないのがまたざんねんであった、ホルン、トロムペットは粗が目立つし、前者はマーラーで同パートのみで大所帯となっても音を割って叫ぶ逞しさがない、っまた音場が、っひびかないくせにしてエラーはもろによくわかってしまうというぐあいで、っよいところなしだ、

コンチェルトは、ソロもオケもとくに大過らしい大過を犯しているわけではないが、音の薄い部分も厚い部分もおしなべてしゃびしゃびと水っぽく、一瞬一瞬の煌めきに乏しい、っこれも器のせいであるとおもう、

マーラーは、っこの音響条件と楽団の技倆とでは、っほんとうはめくるめくごと仕合わせが連続せねばならないはずの1楽章も、っぜんぜん目も詰まないまま先へ先へと流れてしまう、

2楽章以下も同断で、っただ楽曲の概観が鳴るのみでとうとう終曲まで済んでしまう、《巨人》というのはその点むつかしいらしい、マーラーもほかの曲では、っこれまでにアマチュアにもかなりの達成を望むことができた、オケはかならずしもプロ顔負けというほど巧くなくともよかった、っいま想い出すのはネコケン氏の《夜歌》で、っそれほど、っというよりもぜんぜん鉄壁の楽団ではなかったが、っあれのなにがよかったといって、多少とも下手でも、長大な全曲中、っずっと元気のよい音が鳴りつづけていてくれたことだ、《巨人》というのはあのとおり弱音で始まり、序奏だけでだいぶん各楽器がソロをやらされ、主部も中音量以下で穏やかに開始するので、っなにか楽隊を変に強張らせてしまうところがあるのかもしれない、アマチュアならずとも、プロの演奏でも、っこの1楽章の序奏から主部の提示までを、一節一節の眞の充実をもって聴かされた例は、っいま記憶の裡へ見附けられない、音盤にしても、オケによる演奏はどれもこれも二の次三の次で、っついぼくは、岡城千歳女史のほうを先に念頭へ浮かめてしまう、っほんとうはあのとおり1楽章っきりでもすでにして波瀾萬丈の音楽のはずだが、オケによる演奏だと、っよほど篤い共感を有った大家を連れて来ても、っなんだかさしたる波風も立たぬ抒情歌みたように過ぎてしまう、《巨人》の肝は1楽章だ、1楽章へ人生の諸相のすべてが映っていなくばならない、最高のテクニークが要るのだろうか、っもちろんあるに越したことはない、っけれども、ネコケン氏の楽団のあのくらいの合奏能力でも、些細な瑕疵など物ともせずに各部の魅惑をめいっぱいに訴えてくれたら、巧い楽団が妙に悟り澄まして弾くよりもよほどか聴いていて胸が震うだろう、っいつかどこかで、っさようの《巨人》へ巡り逢いたいものである、



っさて、っあすからも別棟勤務で、っお次は木曜から旗日まで5連チャン、木曜は上岡敏之氏のヴァグナー《フライング・ダッチマン》初日で、翌日翌々日とカーチュン・ウォン氏の日本フィルとのマーラー《トラギッシェ》、日曜は福井日帰りという醉狂で、同一公演を坂入健司郎、井﨑正浩両氏が振り分けられる催事、旗日は上岡氏の千龝楽である、上岡氏公演はダブル・キャストであるが、っこの日程で両とも聴きうる、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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三ノ輪、




っそこから歩ったので、

小﨑雅弘氏の棒、荒川区民オペラ特別公演、済む、演目は、っなぜだか開幕へヴォーン・ウィリアムズ《揚げ雲雀》を1曲っきり演ってすぐに休憩、後半はヴェルディ《レクイエム》を停めずに通奏、オケは荒川区民響、ヴォーン・ウィリアムズのソリストは同響のコン・ミスでいられる澤野慶子女史、ヴェルディのソリストは吉原圭子、富岡明子両女子、所谷直生、鹿野由之両氏、コーラスは荒川オペラ唱、

棒の小﨑氏は、登壇時も客席へにこりと愛想笑いのひとつだになく、っそのとおり辛口の振り姿と音楽の造形とでいられる、ヴォーン・ウィリアムズこそ、っふむふむなるほどとさして入れ込まずに聴いていたぼくであるが、ヴェルディが開始すると、凭れずさくさくと進んでゆく〈入祭文〉から、快いという以上に張り詰めたきびしさが実感せられ、っなによりそうした語りによりては楽曲の姿形が明快至極に伝わるのであって、これはなかなかのものだなあ、っとこちとらもおもわずに本腰が入る、

オケ、コーラス、ソリストは、っいずれも高水準で、っかつ全体として好いティームでいられた、難があるとすれば、ソリストはソプラノの吉原女史、発声し易い音域でのリリックな訴えには事を欠かれなんだものの、っお身体は小柄でもあり、他のお3方に対してそも声量がだいぶん落ち、っとくに低い方でドスを効かせられないので、〈リベラ・メ〉の最後のレチタティーヴォあたり、オケの鳴りはぜんぜん薄いにも拘わらず、彼女の喋り声がほとんど聴こえない仕儀、っこの曲のソリストとしてはやや不適でいられたかもしれない、

対してメゾの富岡女史は、っすべての場面でじゅうぶんに声が通っていられたし、っまたその声質も女性の低声としてぼくに最も快く聴こえる部類の性質でいらした、音色が太く、深いのだが、っけっして濁らなくていられるのである、っいつもいつも云うことだが、醉漢が駅のホームで、おえええっ、っと嘔吐しているみたような唄い口のこの声部はまったく受け附けられないので、っかって斯界の泰斗とされた伊原女史も、っぼくは実演はおそらくいちども拝聴したことがないが、音盤等へ聴くかぎり、っまことに非礼ながらすきにはなれない声質でいられる、っとにかくあの、おえええっ、っとゲロを吐くみたような、っそれも女なのに男が吐いているみたような声の出し方をしないでくれたい、っどうしてあんなのが本人たちうつくしいとおもって唄われるのであろうか、もっと綺麗に唄えよ、っという、

テノールの所谷氏は、慾を云えば、高い音をアクートばかりで乗り切られないで、っときに舞うように、漂うように宙空へ発声してくれたらどんなにかすばらしいかとおもったが、っそれはほんとうに慾を云えばの話、

バスの鹿野氏は、っおひとりのみロマンス・グレイのヴェテランでいられたが、唄われるときには絶えず顎へ手を添えられており、演技なし、歌唱のみのコンサート・ピースでは手持ち無沙汰で落ち着かれないのかとみえた、声の威厳としてはじゅうぶんであるが、っこの曲では低い方は相当度に下まで要求せられるので、吉原女史と同様、っごく局所では下降するフレイズの末尾で息の太さを保ち切れないようでいられた、

コーラスは、っときにほとんどザッハリヒカイトなまでの小﨑氏の棒の下で、っひじょうに純度が高く、トュッティでは、階上のない中規模の音場をオケとともにびりびりいわせられる、

長大な〈ディエス・イレー〉を聴くときには、宇野さんがどこかへお書きになっていた、よくもまあというほどうつくしい場面が次から次と連続する、っという旨の評文がいつも脳裡へ髣髴せずにいないが、演奏のよしあし次第で、ほんとうによくもまあというほどうつくしい場面が次から次と連続している、っとつよく実感せられるときとそうでないときとがある、っちゃんと勝れた演奏であってくれなくてはこちとらのこころへも隙間っ風が吹いてしまうのであるが、っきょうは、堅固な造形の裡で司々に為すべきを為された緊密さが期せずして楽曲のその美質を洗い出し、っそうするとほんとうのほんとうに、っわずかな1節1節がしかし、なんとうつくしい音が書いてあることかっっっ、っとの感激へ繫がり、っしかもそれがまさしく波状的に次から次と訪れては去るので、っやがてぼくは、頰へぼろぼろと大粒の泪を落とさずにいなんだ、



っさて、っお次はこんどの日曜、京都日帰りにて、森口真司氏の公演、っひとつ心配なのは、楽団は前回、高槻の器で聴いた団体なのだが、っその際にはホール・トーンを完全に味方へ附けていられて頗る好印象であったところ、っこんかいは北山である、っあの器へはぼくも何度も訪れているが、舞台での音の鳴らし方としても、客側の位置取りとしてもむつかしいものがあるようで、っなかなかこれぞという音響を聴けていない憾が遺る、っとても巧い楽団でいられたので、っそのあたりの制約を乗り越えてくれるものと信ずるが、っこんかいは、何回目とか何周年とかの記念公演でいられるのかな、メインへマーラー《巨人》というややヘヴィな楽曲が組まれており、っべつに優に弾けてしまわれる団体だとはおもうが、演目で背伸びをしたぶんだけ演奏精度が下がりました、っという傾きとなるようでは、っぼくとしてはその結果は諾いえない、っちゃんと、マーラー相手にもこんなにびくともしない合奏ができちゃうのかよっ、っという水準を全曲に亙って一貫せしめてくれたい、っそしてその音響が、音場に幸福に抱き留められているのであってくれたい、自由席であったとおもうが、果たしてどのあたりで聴くべきか、思案のしどころである、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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桜木町、




田部井剛氏の棒、っみなとみらい21響公演、済む、演目は、シュトラウス《メタモルフォーゼン》、池辺晋一郎《八代将軍吉宗》《独眼竜政宗》各テーマ、っそしてメシアン《トゥーランガリラ・シムフォニー》である、去年の金山隆夫氏とのマーラー《3番》でも、前半に合唱曲が2曲ほど演られる規格外の公演時間であったが、っこんかいもめいっぱい、

っしかし、今週はまる1週狛江の試掘で、調査内容からいってなかなかに気忙しく、っゆうべ、帰社後の残務を済ませて帰宅するとくたくた、っよく睡たとはおもうのだが、起きても桜木町くんだりまで出向くのが億劫であり、っまた開幕のシュトラウスが緩徐かつ晦渋な曲調でもあることから、敢えなく熟睡してしまう、

池辺作品では管打が加わって賑やかになり、小品でもあることから、っちゃんと起きていた、編成へはオンド・マルトノ、ピアノも含まれることからプロへ組まれたようで、っぼくの席からはお姿は見えなんだが、アマチュア楽団の公演であるにも拘わらず、池辺氏はご来場されていたようだ、っそういえば、っかすかな記憶だが、っむかし〈N響アワー〉かなにかで彼氏が、高校生くらいのご時分に、上野大器で小澤氏の棒かな、ったぶん同曲本邦初演だとおもうが、っそれを聴かれ、学校の文集かなにかへ、いちばんすきな楽曲はメシアン《トゥーランガリラ・シムフォニー》だ、っとお書きになったとかと述懐されていた、っいかにもその池辺氏へ捧ぐべき演目であったわけだ、

っが、っこちとら疲労困憊、後半となっても睡気は去らず、演奏会の客席で睡いことは珍かでないぼくだが、っそれでもこんなにもほとんど睡通し睡ていてしまうことはなかなかない、勿体ないことをした、



っさて、っあすは、っべつに目ぼしい公演はなかったのだが、荒川で《ヴェル・レク》が演られるので、聴きに行くこととした、聴いていてまずまずわかる曲か否かというのも、っもちろん睡気には関係していよう、明敏な池辺青年とはちがい、っぼくは《トゥーランガリラ、、、》というのは、実演を聴くのはこれが2度目かな、3度目かな、音盤なども有っているが、っはっきりと云って、っどういう楽曲であり、っなにをたのしんだらよいのか、全曲が始まり、っやがて終止した際に、っなにがどう解決せられたのか、っぜんぜんわからない、っその点《ヴェル・レク》は、遙かによくわかるし、ったのしい、、、レクイエムにたのしいとは不謹愼であろうが、名場面のオン・パレイドであり、っきょうほど睡くなることはなかろう、

っそう、狛江現場へはミニマル先輩も来てくだすっていたのだが、彼氏のお口から出る作家というと、武満であったりベルクであったりと、っぼくからするとほぼまったく聴いたことがない人たちであり、演奏のことに関しても、っかなり趣味嗜好が異なっているというのはこれまでに確認済みなので、っもはやお互いにそこまで突っ込んだ話はしないようにしているのだが、っこんかい現場をご一緒してまったく意想外にも、《プリキュア》の今作の音楽を担当している女流作家がすごい、天才かとおもった、YouTubeへサン・トラが全曲上がっているからぜひ聴いてみて、っとのことであった、

っどうも、MXで放送せられている同作を、TVが点いているから観るともなく観られていて、っしかし劇伴の音楽が、あ、え、なんだこれっ、すごいじゃんっ、っとなられたらしい、っそれで検索して聴いてみて、っともに若い女流作家おふたりによる分担で、っどの曲がどちらの作であるか不明だったが、っぼくが聴くと、へえ、アニメのサン・トラでこんなにしっかりした曲が書いてあるんだ、っとおもいこそすれ、っべつに天才的とまではおもわない、現代の音大で勉強した人なら、っあのくらいの主題を案出してあのくらいのオーケストレイションを施すくらい、誰でもお手のものであろうかとおもう、楽曲はクラッシック調のもののみならず、ロックやヘビ・メタ調のものまで含むが、ギターリストであられる先輩に云わせると、エレキ・ギターの使い方など、っちゃんと同楽器をわかって使っていて、クラッシックを勉強しながら、っいっぽうでロックなどもすきな人なんだなというのがよくわかるとのことであった、聴いた翌日にはぼくも、っべつに無理に同調したりおべんちゃらを云うのではなく、おもしろかったですね、っと伝えておいた、

っしかし、ミニマル先輩と《プリキュア》の話をするとはねえ、、、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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参宮橋、




小柳英之氏の棒、、、っはなく、アーベント・フィル公演、済む、チャイコフスキー・プロで、《スラヴ・マーチ》《1・4番》、

っこの暑い最中で、っみな月曜から仕事だというのに日曜のよるに19:30などという遅くからの開演であって、っいつもにも増してお客は少なく、20人いたかどうか、

演奏は流石の豪傑、小柳氏でいられ、っあのようにざっくりとした語りの指揮者は、他に1人としていやしない、

《ウィンター・デイドリーミング》は、大阪で聴いたバーメルト氏は金管を抑えっ放し抑えてしまわれる大人しさであったところ、小柳氏は絃の規模のちいさなこの楽団でしかし手加減なしの剝き出しのラッパ連、っもちろん、っやはりぼくにはこちらのほうが本寸法だ、

《4番》では強勢はさらに峻烈となる、前回のマーラーではまるで吼え切れていられなんだホルン群もきょうは剛毅に音を割られ、痛快、1楽章の最後に㐧1テーマを全員で絶叫する部分の激越なテムポ操作もじつに乾坤一擲、っしかも絶妙にダサいっ、

《ウィンター・デイドリーミング》もそうだが、っここでも2楽章では、邪気邪念のない、必要以上に練り上げていない素朴な歌が連なり、っひたひたと迫る、

竣敏さ、小器用さの欠片もない3楽章を通ってフィナーレでの小柳氏は、っただでさえ武骨な楽隊をブレイキ、アクセルの強引な踏み換えでなお飜弄しまくられ、っその様に成らなさが最高に様に成っていられる、懸命に応ぜむとされるオケからはしばしば軋るごと本気の音が迸り、っぎっこんばったん七転八倒の末に、総員討死の終結へと至る、っやはりこのくらいのスリルがないと、小柳英之を聴いたことにはならない、

次回の彼等は、海老名へ遠出をされ、っなんとブルックナー《8番》をなさる、同日には矢崎彦太郎氏が新響でマーラー《3番》を振られるので、小柳氏は聴けないのかと落膽どころではないが、開演時間を検めるにあいかわらずの19:30で、矢崎氏公演から優に梯子しうる、物怪のさきわひであるが、っおなじ日のうちにマーラー《3番》とブルックナー《8番》と聴くってああた、、、っま、体力気力ともに、っべつにぜんぜん大丈夫ですけれどね、



っお次は土曜、田部井剛氏がメシアン《トゥーランガリラ、、、》をお振りになる、楽団は、ったしか去年、金山隆夫氏がそれこそマーラー《3番》をなすった団体かな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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勝どき、




山上絋生氏の棒、ポラリス・フィルの中規模編成にての公演、済む、演目はヴァグナー《パルジファル》1幕前奏、メンデルスゾーン《宗教改革》、楽聖《5番》である、

っあのマーラー《トラギッシェ》のときほどではないが、っきょうもポラリス・フィルはとても巧くていられ、ヴァグナーは、清新な発音がそのまま神聖、敬虔を伝える、

メンデルスゾーンは、作家当人が燃してしまいたいと卑下していたというが、颯爽たる奏楽によって曲趣は隈なく炙り出されるものの、ったしかに、っそのことによりむしろ主題、構成上のよわさが露呈する気味だ、《スコッチ》《イタリィ》からするとだいぶん落ちる曲調と聴こゆ、1楽章へ組み込まれたコラールは、っなるほどヴァグナーの同曲を先行して演奏することの趣旨も理解される、っそれと、フィナーレだったか、別の楽章だったか、シューマン《2番》のイデー・フィクスたる曲頭のファンファールと同音型も聴かれ、ドイッチュ・プロテスタントには馴染みの動機なのかもしれない、

楽聖《5番》は、古今ありとある方法論が出盡しており、現代の指揮者は、曲を前に手も足も竦んでしまうのではないか、っと同情を禁じえない、っちょうどこのおなじ器では数年前に坂入健司郎氏の同曲を聴いたはずであり、っそれは音盤にもなっているが、っそれといいきょうといい、破綻はどこにもないのだ、っけれども、フルトヴェングラーだクナッパーツブッシュだクレムペラーだ朝比奈さんだ、っあるは宇野さんの東フィルとのものなどは、超ゲテモノとしてぼくはだいすきだが、、、っお前はそちら系統の演奏っきり聴かないのかよと文句を云われそうだが、っそうしたそれぞれに極北を示し合う綺羅星連、、、っぼくは宇野さんのことも綺羅星のひとつとおもっているぞっ、誰になにを云われようとっっっ、っすんなりと通したっきりではどうしてももうひとつ存在感を主張しえない、アルプスや富士へ登頂した人たちの極まった耀きからすると、近所の裏山へでも登ってみました、っといった小者の憾を拭えないのである、

っとはいえ、古典をあれだけきっちりと奏しうる楽団はやはり立派である、



っさて、往路は大江戸線で勝どきから来たが、終演後は月島から有楽町へ移り、王将で食事ののち、っいまは例のJRガード下の喫煙スペイスへいる、冷風機みたようなのが設置せられており、っその送風口の前を占拠している、っまたアイスを購わむとおもっているも、っこないだまであったその自販機は撤去せられ、飲料のもののみになってしまっている、

っそろそろ立って、日比谷から代々木公園へ移動し、小柳英之氏公演である、先回のマーラーはむつかしかったが、チャイコフスキーならばいつもの豪胆たる合奏が火を噴くのではないか、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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川崎、




山上絋生氏の棒、Orchestre de SAVEUR公演、済む、演目は楽聖《2番》とブルックナー《7番》と、

公演事前に王将へとおもうも、川崎には駅の近くへ2軒あるが、っどちらも順番待ちで諦む、っけれども、空きっ腹でもとくに楽聖のときはときおりかすかに睡かったので、食事をしないで正解であったか、

オケの技倆はまずまず、っがなくらないので、澄明な和音と、川崎の怜悧な残響とがす、

ブルックナーは、山上氏一流の澱みのないカンタービレが全曲を一貫し、奥深い音響による複雑な味は望めないが、耳当たりとしては快適である、両端楽章の終結など、テムポといい音構築といい、物足りないほどあっさりとしているが、っここぞとばかり全力をふりしぼる愚をおもえば、っかかる志向性も貴重であるかもしれない、



っさて、っこないだ薩摩隼人からとつぜん連絡があり、っきょうこれから府中でひさびさに逢うこととなった、

っあすは、っあすも山上氏は本番でいられ、っやや編成を刈り込んだポラリス・フィルとの晴海での公演、っよるは、っまことに惜しくも小柳英之、金山隆夫両氏の公演がバッティング、ったしか金山氏のほうはきょうとおなじブルックナー《7番》だったとおもうが、苦渋の決断によりて、小柳氏を聴くこととした、チャイコフスキーかな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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桜木町、大器、




田部井剛氏の棒、オーケストラ・フェリア公演、済む、演目は、レスピーギの編になるバッハ《前奏とフーガと》と、同《トリニティ》をバッハの後に《、、、松》を演って休憩、後半は《、、、泉》《、、、祭》、

楽団は一橋大の学生オケのOB・OGから成り、っほぼ全員が三十路へ入るか入らないかというお若いかたがただが、っこれがまったく優秀を画に描いたような名楽団であられた、っこんな演目を組まれるくらいだからそれなりの団体だとは予期していたが、っそれでも、全体によくて8分咲き、っむつかしいところは6分咲きあたりまで精度が落ちるという程度の覚悟はしていたところ、開幕の㐧1音から隊伍整然、っどんなに煩瑣な個所となっても絶えず高度の錬成と、っなによりゆとり、落ち着きが奏楽全体を支配せる、

田部井氏は、っせんじつの八王子での公演でも、アレグロの場面をなべてゆったりと構えられ、音々がじゅうぶんに伸びるようにされていたが、っきょうも同断、《松》の〈ボルゲーゼ荘、、、〉や《祭》の〈主顯祭〉が最好例で、前進性を多少とも犠牲へ供してでも、1歩1歩の着実を優先される、応えるオケの透徹したひびきは、っそれ自身ですでにして感動的である、

っいっぽうで〈ジャニコロ、、、〉ではうっとりとしたムードにも事を欠かず、クラリネットばんざいっっっ、楽器を遷りつ甘やかなよるの香気が紡ぎ紡がれてゆくと、っいつしかぼくは頰へ泪を落としていた、

《泉》は印象派的の音彩の表出において、《祭》は各位のソリスティックな自発性において、っそれぞれに難儀な曲調だが、アマチュアでよくこれだけ弾けるな、っという及第点の感触以上に、っより旺盛に曲趣を訴えられむとする果敢が発露し、っかつそのためにひびきの精妙が曇ることはない、近代管絃楽法の大家を聴くうえで、っまこと打って附けの条件であろう、



っお次は土曜、山上絋生氏の公演で、っなんだったかな、ブルックナーかな、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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桜木町、小器、




平林遼氏の棒、オーケストラ・ファンダメンタルズ公演、済む、イタリィ・プロで、前半は、開幕のヴェルディ《椿姫》1幕前奏こそ管を交えるが、次いでプッチーニ《菊》、レスピーギ《リュートのための、、、》㐧3スートと絃合奏のみ、後半はロッシーニの序曲6曲で、っぼくの識らないタイトルはひとつもない、オペラ全編はひとつとして観聴きしたことがないが、

旗日のよる、Amazon.で遅くまでアニメを連続再生していたらおもしろくてやめられなくなってしまい、っほんの数時間っきり睡て火曜のあさ、起きて着替えて出勤に間に合わないでもなかったが、会社は1週盆休みでもあり、聖蹟別棟の同僚はみな大真面目で出勤されるようではあったが、狡休みしちゃお、っと体調不良とかなんとかテキトーなメイルを打ってそのまま睡つづけてしまい、っなんと翌日も欠勤、っきのうおとついとどうとか会社へ顔を出して、っゆうべ、キリよくひとつ仕事を片附ける、っもっとも、単発仕事の合間合間へ宿業、中央区仕事をすこしくでもすこしくでも挿んで先へ進めねばならず、今後いよいよ9月10月と現場へ出っ放なしの予定が入ってきて、内心ひやひやものなのだが、

っきょうは先に例のカレー屋へ寄ってから、っのんびり歩って器まで来る、っもちろん暑いが、40℃へもなんなむかという気温を何度か經ると、数℃低いというだけでもなんだか凌げる気がするようである、

2度目に触れる平林氏の棒だが、っときにひじょうに表情的、演技的の振り姿をやや煩く感じてしまうのは、っあるいは近親憎悪であるかもしれない、っよしぼくが指揮者だとしても、同傾向の志向性を有つだろうからである、

っもちろんご当人は至って眞剣でいられるのに相違あるまい、っじっさい、快いアペリティフといったヴェルディからプッチーニへ遷ると、早くも絃は全体で一体の音色を結び、鎭痛の裡にもラテンの気高さを謳ってやまなんだ、曲は、彼のパトロンの急逝に接して一夜を徹して書かれたものらしい、

レスピーギは、奇しくもあすもこの大器で田部井剛氏の棒になる大管絃楽を聴くが、っきょうは愼ましい絃合奏、曲の性格を反映して、っほぼノン・ヴィブラートであった、

休憩は15分のみで、喫煙へは出られずに後半、初めて入った小器だが、管打を交えたトュッティもぞんがいわんわんせず、木管のバランスも濃厚、彼等が絃とユニゾンになる際も、絃へ木管が重なっていますっ、っとはっきりとわかるあの音の膚合いは大器ではなかなか望みえないところで、っその感触をたのしむ、なにをどうすればそれがお客にとって快感か、っそのことを知悉しているロッシーニの掌中でみごとに転がされる半時間であった、

アンコールにマスカーニ《カヴァレリア、、、》インテルメッツォととことんイタリィ趣味、編成はハープを欠くが、狭隘な堂内へ満々と展がることもあり、聴き古したはずの歌も妙にこころへ沁みてきてかなわなんだ、



っさて、っあすもここ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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新小岩、




長田雅人氏の棒、オーケストラ・ダスビダーニャ公演、済む、演目は、芥川也寸志《トリプティーク》、ショスタコーヴィチ《死者の歌》である、後者のソリストはソプラノ津山恵女史、バス松中哲平氏、

編成の共通性としても、作風や作家同士の縁故というか影響関係としても、っまさしく組まるべくして組まれたプログラムである、っしかも、ショスタコーヴィチは歿後50年、芥川氏は生誕100年のともに節目、っしかもしかも、ショスタコーヴィチの命日は50年前の8/9、っおとついの荒井氏は、っその当日にあのような大業を為されたのであり、っこの連休に、っここでの長田氏や、桜木町での森口氏と、っこの作家の作の演奏が挙るのも肯けるところである、

っところで荒井氏だが、人は見掛けに由らないのことばどおり、っやはり只者ではいられなんだ、開演前にはプログラムの曲目解説っきり読まなんだのだが、後ろの方まで繰ってみると、演奏会へ懸ける意気込みを訊いた彼氏へのインターヴュー記事が何頁にも亙って掲載せられており、事後的に読んだぼくは、じっさいの舞台はまさしくこのおことばのとおりの実践だったではないかっっっ、っとあらためて感銘を享けずにいなんだ、っそれと、ソ聯の作家もそうだが、っなんでも、プログレッシヴ・ロックを語らせたら一家言ニ家言どころではないというマニアでいられるらしく、っその方面のお仕事も手掛けられているというので、今後、音盤等を探してみることにする、音盤といえば、っおとついはちゃんとしたライヴ・レコーディングがあったようである、レコード会社はどこなのか、っわからないが、荒井氏はこれまでにナミ・レコードというか、ライヴ・ノーツ・レイベルへ複数の盤歴をお有ちのようであり、っそこあたりからの発売となるだろうか、オケともどもたいへんすばらしい演奏であったので、っあれを常時聴きうる日がいずれ来るというのは、っまことに仕合わせである、

っきょうの開演前には、靖國、千鳥ヶ淵を詣でて来る、先に後者へ寄ったが、時間にはあまりゆとりがないなか、神社の方へ戻りながら、そうかっ、流石にきょうあたり拝殿の前は混み合ってしまうだろうかっ、っと気附くが、行ってみると参詣者の数はふだんとそう変わらず、安堵す、開演前に新小岩の駅から器までの道沿いにある王将へ寄る心算にしているも、っもうその時間はなく、っしかし、呑んでから聴いたのではきのうの二の舞にならないともかぎらず、っむしろこれでよかった、事後、食事をして、っまたスタムプが溜まっていたので、景品をいただく、

っさてきょうだが、っなにしろ演奏の成否は偏にソリストおふたりの曲への適性に懸かっているため、っその点は指揮者やオケがなに足搔こうがどうにもならない問題であり、っよってまずは期待値0とおもって来場した、彼等の過去の記録で、《バビ・ヤール》に年数を隔てた2種の音盤があるが、ソロはいずれも岸本力氏でいられ、っざんねんながら両とも、露語の発音としても、曲想への馴致としても、っまったく不満の遺る出来と云わざるをえない、っところがきょうは、っもちろん本場ロシア人たちの語の発音、演唱の特有の感触は眞似のできるものではないにせよ、津山女史、松中氏ともに、日本人歌手として人事は盡し切られ、っぼくは、っずっと曲趣を味わっていられたし、済んで大々々拍手を惜しむものではなかった、っまったくみごとな達成であられる、

っその前に芥川《トリプティーク》、旧式の多目的器の小器に、っごわごわと硬い歯応えの絃合奏がめいっぱいに拡がる、2楽章では、楽器の胴のノックをもっと瞭然と活かされたかったか、死神の輪舞のごと3楽章のVnのさいしょの主題は、っそれが鳴り出す瞬時に、誰しもショスタコーヴィチを想起せずにいなかろう、

っぼくが彼等オーケストラ・ダスビダーニャを初めて聴いたのはおととしだかさきおととしだかのショスタコーヴィチ《4番》で、こんなに巧いのかよっ、っと瞠目したものだが、っあのときは舞台からこぼれむばかりの巨大編成だったし、っどうも手加減なしのテンションに気圧された、、、きあつされた、っじゃなく、けおされた、っね、念のため、っようで、っその後、何度か公演へ通い、音盤も多量に入手して過去の記録も聴いてみると、テクニークとしてはアマチュアのうちでもかならずしも最優等とはしえないとわかった、っきょうのようにひびきに艶を望めぬ小音場で中規模以下の絃合奏のみとなると、奏楽はまるで嘘を吐けず、っあらゆる音が素裸のまま客席中へ伝わってしまうが、っやはり全般に、指の回り、弓捌きの水準は、玄人跣というまでには及ばなくていられる、っけれども各位、曲趣を抉り出さむとされる熱意は人一倍でいられ、っその暑苦しさ、っむさくるしさはまちがいなく一種の魅力にちがいない、

ショスタコーヴィチでももちろんそのごわついたアンサムブルが全曲を一貫し、っそこへ各種打楽器、チェレスタが加わる、っしかも打楽器はシロフォンやテューブラー・ベルと、小空間で痛打したのではお客というお客の耳を劈いてしまう性質のものがたびたびフィーチャーせられ、っそこでの奏者ももちろん手加減なし、耳に痛いくらいの衝撃音だが、っそんなことは承知の上での眞剣勝負であろう、チェレスタも、っあるはヴィブラフォンも、大音場で聴くのとは比較にならぬ音の實在感で、っけれどもこちらはかえってそのことにより空間全体を夢幻境に変えてしまう魔力があり、っとにかく、ソリストを支えるバックに恆に色濃い主張を聴くことができて、っこちとら全曲の詞の内容を朧げには把握しているが、字幕なし上演ではたったいま露語でなにが歌われているのかは皆目わからないながら、っしかし情景がずっと眼前へ流れ、漂うのが視える、っあらゆる死を歌い継ぐ灰色の殺風景が、っだ、っこの小器の特質を味方へ附けた音体験の濃密という点では、金沢で聴いた井上キーミツ/OEKの同曲よりも、っよほどふかい満足を與えられたくらいである、

っそしてソリストおふたり、1楽章の㐧1声から松中氏は、ロシアの巨漢バスたちのごと野太さは出しえないのでいられ、っこの時点ではぼくも、やっぱそうだよねえ、っとおもうのであるが、っしかし朗々、堂々たるお声であられ、っじき、本場の人との比較などという観点は霧消してしまい、ったったいま、眼前で喉を鳴らされるその人の迫眞に惹き附けられた、

っつづいて津山女史、っはじめこそ、ニュートラルな声のうつくしさのみで勝負されるお心算なのかな、っとおもわせたが、フォルテでは女性の吼え声の鮮烈を器いっぱいに轟かせられ、低い音域での魔女のごと音色もコワい、っそうした楽想に応じた声質の豹変を、能うかぎり強調されるのだった、

3楽章は、歌手にとりてはただでさえふだん滅多に唄われなかろう露語であるというのに、っなんだか生麦生米生卵みたような早口ことばから始まり、っしかも厄介な変拍子という残酷な曲調で、っしかしご両人、っそれをちゃんとぺちゃくちゃと小気味よく唄って出られた、っこのあたりからもう、ああ、これは大丈夫だわ、おふたりとも完全に曲を身体へ入れて唄われているんだわ、っとおもい、っぼくは余計な心配をしいしい聴くことを止した、

4楽章や10楽章におく津山女史の弱音の神秘たるや、っいかばかりであろうか、前者はセロのソロとのデュエットにほかならなく、っこの奏者の眞摯な訴えともども、心配どころか、っぼくもすっかり曲の裡へ引き摺り込まれ、泪とともに聴かずにいない、

シロフォンもけたたましい5楽章を通って6楽章は、津山女史も極めて大膽に表情的の演唱を志向され、っしかもそれがちゃんと巧くていられる、

7・8楽章は威厳と野卑との痛烈なコントラストで、後者では、6楽章の津山女史をおもえば、松中氏ももっとおもい切られた、唄うというよりは喋り散らすごと、っがなり立てるごと表現をおかんがえになってもよかったかとはおもうが、音楽的の振る舞いへ徹する潔さで聴かせられた、っつづく9楽章ではこんどは松中氏へセロが添う、っそれにしても、前楽章の、音場を搔き乱し、穢すごと終結から、っこの9楽章冒頭の中低絃へ遷ると、っなんと烈しく胸を締め附けらることであろうか、演奏も、敢えては弱音を求めず、っしっかりと楽器を鳴らすことで、っこの胸苦しさをいやが上にも助長した、

っみじかい終楽章の最後のソリストおふたりのハーモニーは、っあれをライヴでばっちり定めるのは至難かとおもい、っきょうもその不思議な和声がしかとひびいていたとは云い難かったが、っしかし、全体の充実はまこと大演奏の貫祿を具えていられた、

中小規模の器での声楽と器楽との綜合といえば、知己トロムボーン奏者さんの乗られた三鷹でのマーラー《大地の歌》という、っぼくにとり掛け替えのない寶石、結晶が想い起こされるが、っきょうの《死者の歌》は、っそれと同傾向の果實として、永く永く記憶の一隅を領するであろう、っそして、っきょうの会場では前回公演の音盤販売は為されていなんだが、っいつか、入手できる日が来てくれればうれしい、



っさて、会社は今週1週はまるまる休業なのだが、社員は各自の都合での勤怠でよく、っぼくは平日はすべて出勤す、っお次は土曜、平林遼氏の公演で、桜木町の、っぼくはいちども入ったことがない小器、ったしか序曲ばかりを並べた変則的の演目であったかとおもう、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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八王子、




田部井剛氏の棒、東京薬科大ハルモニア管公演、済む、演目は、モーツァルト《ツァウベルフリュート》序曲、リスト《レ・プレリュード》、っそしてマーラー《巨人》である、

同団はこのほど創立50周年を迎えられたとのことで、っきょうは現役生にOB・OGも加えた陣容による特別公演で、編成上、っふだんはマーラーなどは演奏できないのだとみられる、

っこんげつは来週、再来週と、ったてつづけに田部井氏を聴く、っしかもきょうはマーラー、来週はレスピーギ《トリニティ》全曲、再来週はメシアン《トゥーランガリラ、、、》と、っもちろん来週以降の演奏精度はわからないが、っきょう日、演目だけならばもはやアマチュアにも不可能はなかろう、《トゥーランガリラ、、、》の日は佐藤雄一氏公演もあり、っそちらを聴けないのはざんねんだが、

開演前に八王子の王将で生を2杯呑んでしまい、演奏中はやや睡かった、休憩時、喫煙は所定の場所で、っと案内があったので、喫煙ブースでもあるのかとおもって場内をあちこち歩ってみたがなさそうで、外まで出て戻るとなると20分では心許なく、自席へ着いて後半開演まで瞑目していたが、っそれでもマーラーの間もずっと睡かった、2時間の大半を瞑目しており、起きているならば、目を瞑ったほうがじつは耳がより敏感になり、っふだんならば聴こえもせなんだ音を捉えられたりもするのだが、っきょうは、っやはりときおりはかくんかくんと首を落としてしまいながら、っしかし7割8割方くらいの時間はよく聴いていたとおもう、

器だが、10年か、っそれ以上ぶりくらいで来たが、っむかしはオリンパス、、、っぼくの表記ではオリムパスとなるが、社名なので、っの名を冠していたとおもうが、っこんにちではJ:COMへ看板が掛け替わっている、散会直後に席を立ち、雑沓するより以前に退出したのでわからないが、っあの様子だと、以前のような整列退場は行なわないようであった、改築等が為されたのかはわからないが、

堂内は、っむかしの多目的器のなにがわるく、現代ではどのような技術革新があったのかわからないが、見る目に近年に落成したという器は、用途がかならずしも音楽専門でなくとも、っどこも好い音がするというのか、っすくなくもわるい音はしない、っむしろ、30年とか、っそのくらいの以前に音楽専門を企図して建てられたもののなかにほど、近年の多目的器にも劣後するような音響の器がある、渋谷のオーチャードとか、大船の鎌倉芸術館などがそれで、っいわゆる舞台上の音が客席へよく飛ばない鈍器である、対して、っあまりコンサート・ホールコンサート・ホールした堂内でなくとも、っこの八王子とか、っこないだ初めて入った有楽町C器とか、関東で最も近年に落成しているのは、川越なのかな、っもっと新しいものもあるかしらんが、っあるはできたてほやほや、っぼくも記念すべきそこでの初のオーケストラの公演を聴いた福岡の器などでは、っいずれも、芳醇に棚引く残響は望めないかもしれないが、っちゃんと歪みなく素直に舞台の音が客席へ届き、っどんしゃりにもならず、新宿文化センターとかああしたところみたように最高音がもろにハウリングしたりもせず、っつまり音響上の限界に遮られることなく音楽を聴いていられる、

っさて、っきょうの楽団だが、モーツァルトからまずまずよく弾ける、管はアマチュアらしいくるしさもあれ、絃に力があり、絃合奏のみでちゃんとひびきの基底を形成できていられ、器はけっして狭くないにも拘わらず、音量としても客席のこちとらを抱擁してくれるので、っまことに安心した、

マーラーでは音のむつかしさ、複雑さからとうぜんながらぼろぼろと粗が出てくる仕儀となるため、多量の楽器構成でも奏楽のピントを最も高精細に維持できていたのはリストだろうか、っただ、上記の事情で管打は曲毎にかなりの乗り替えがあられたようで、リストのときのティムパニの若い女の子へは全体に硬骨の打撃を望みえず、快いアクセントを欠いたのがざんねんである、ティムパニも、ったまにああしたお父さんの肩叩きとでもいうぐあいのやさしい大人しい人がいるが、世のお父さんだって、肩を叩いてもらいながらときには、もっとつよく叩いて大丈夫だよ、これじゃ痛いかな、とおもうくらいでも平気だから、っとかと云うのじゃないか、ティムパニをはじめとする打楽器は、っや、絃も管もおよそ楽器というものは、っまずはそうした勇気というか厚かましさではなかろうか、アマチュアを頻繁に聴いていて、乗っけから、ああ、この水準の楽団ではまるで聴いていられないな、っとおもわせるのは、テクニークどうの以前に、っその勇気の不在である、ゴム風船を膨らませるときの、この一線を越えないとよく膨らまない、ゴムの収縮力に押し戻されてしまう、っというあの一線、っあれを越えたところで発音してくれていないと、客席のこちとらはそも音楽の問題として演奏を聴いていられない、逆にそこをさえ越えていてくれれば、少々のエラーがあろうと、っさして苦にもならない、っきょうの薬科大ハルモニア管は、よし、ここまでいけたらあとより大きく膨らませるのももう楽だよね、っという線まで来ているその段階のゴム風船のアンサムブルであられた、

マーラー《巨人》は、っいちばんむつかしいというか、っちゃんと充実した感銘を伴なって聴き手へ届けるのがなかなか叶わないのは、1楽章であるとおもう、っぼくは相当度の細部細部において、っここのこの楽器にかかるフレイジング、表情、音色が慾しいとか、っここではぜったいにこの楽器が聴こえるバランスを志向されたいとかという所望を有っており、っべつにそれを誰指揮者が叶えてくれないからといって即、評価を割り引いたりするものでもないのだが、序奏やまんなか、、、っあれでも展開っていうのかしら、っの静かなところもさることながら、主部もずっと長閑に歌ってゆく音楽で、音量音圧として激するのはほんの局所へ限られるので、各パートが眞に充実しており、っそれは単にテクニークとして落ちずにちゃんと弾ける吹けるというに留まらず、っそれこそ厚かましく、我勝ちに魅惑を振り撒くごとスタンド・プレイを聴きたい、プロフェッショナルの演奏でも、っひとりびとりが突出せぬように突出せぬように内輪内輪へと振る舞ったそれだと、音の概観としてなんら乱れることがなくとも、聴いていてぜんぜん、っほんのすこしくもたのしくない、っつまらない、訴えるべき音楽的のたのしさは、っほんとうは無数にあるはずなのだが、如何せむ全体に中音量以下でなだらかに過ぎてゆく音楽なので、っぼくにすれば世の大半の演奏が、っほとんどなにもせずただ流しているだけというように聴こえる、っべつにすべての歌い方、強弱、バランスをぐゎっちぐゎちに定めて舞台へ持って上がる必要はないし、っそれはそれで演奏を生硬へ堕せしめもしようが、っともかく、漫然と振り、漫然と鳴らして、結果としてたまさかかかる歌い方でした、強弱でした、バランスでした、っという奏楽を晒さないでくれたい、

っほんとうは100萬個所をすべて挙げてここはこうだここはこうだと言及したいのだがキリがないので、っどこか象徴的の局所をひとつっきり論うとして、っそうさなあ、展開ですかね、提示を了えて静かになって、ハープが鳴って、フリュートがひとりっきりで吹く、っその何度目か、3回目かな、音型をもじって一寸スウィングせしめるように記譜してあるでしょう、っああいうところだよ、折角すこしくおかしなことをするように書いてくれてあるんだから、っその揺らし方に、指揮者も奏者も萬感のこだわりを有てと云うのだ、っぼくが指揮者ならばリハーサルのときにかならずここで、あなたはどう吹かれたいですか、まず吹いてみてください、ああ、そうですか、ぼくはね、てぃーろりーろりー、てぃーろりーろりー、こう聴きたいの、でね、おなじ音型を1回目と2回目とでまったくおなじようには吹かないでくれたいのね、たとえば、はじめの、てぃー、のその音価が、1回目と2回目とで2回目のほうがコンマ何秒か長いとか、そういう差をかならず作って、機械的におなじ音型を繰り返しています、というふうにはぜったいに吹かないで、それから、ろりー、の、ろ、と、りー、っの間は可能のかぎり音を詰めて、のんびり、ろりー、と吹かないで瞬時に、ろりー、と、ろ、から、りー、へ移ってください、そのほうがほら、すごく茶目っ気が出て、聴いている方はたのしいですからね、あ、でもあれだよ、ろりー、はここで4回あるけれども、やっぱり4回ともまったくおんなじ、ろりー、じゃダメですからね、4回ともぜんぶ歌い方のちがう、ろりー、にしちゃってもよいくらいです、なんなら、ろりー、の、りー、の音価もぜんぶちがっちゃってもよいです、テムポはないものとおもってください、あなたっきり吹いていませんから、おもうぞんぶん時間を独占して、そのほんの1節でお客のこころをひとり残らず摑んでしまうんだという心算で、てぃーろりーろりー、てぃーろりーろりー、とあなたにっきりできない、ほかの誰にも吹けないフリュートを聴かせてください、っとかなんとか、っここだけでだいぶん長時間を使って、奏者が、こいつ欝陶しい指揮者だな、、、っという貌をするまでやりたいなあ、っさようの、自分が指揮者ならば、っと音楽を聴くすべての人が夢想しているその所望、っそのこだわりを、当のじっさいに演奏を行なう世の指揮者、楽員のおひとりびとりが、っしかしさして持されぬまま舞台へ乗られているようだというのは、っいったいぜんたいどういうわけなのか、音楽がたのしくないのだろうか、

っいかにも駄弁だったが、っさように1音1音へ喰い下がるようにしてしつこくしつこく味を附けた演奏というのは、っどんな楽曲においても世に滅多に行なわれてはいないというのが、っまああたりまえといえばあたりまえで、変態的の夢想を懐いている人の耳へは、ったいていの演奏はただ流しているようにっきり聴こえないのであるが、っぼくにとりては、っこの《巨人》の、っそれもとくに1楽章は、誰を聴いても、っどうしてもこだわりがなさすぎる、

っまだ駄弁をつづけたい気もするが、っまあ止すとして、っきょうの田部井氏も、っあの楽団の水準ではさようのこだわりのひとつびとつを奏者奏者へ植え附けてゆくということもそもできはせず、演奏は、あの1楽章の概観が朧げに伝わっている、っという聴こえ方にっきりならないのだが、っしかし、っぞんがい喰い足らない感じがせなんだのは、嫋やかな曲調のなかでも強固な骨格を通し、楽隊が自然と廉直な奏楽へ徹しられたからかとおもう、楽章終結の賑やかなところも、テムポをゆっくりと取って音がよく伸びるようにされていて、腕が追い附かれないために合奏はだいぶん荒びてはいるのだが、ティムパニの1番もここでは胡麻塩頭のヴェテランに替わられて、っちゃんと芯のある硬い音がし、っきもちがよい、

2楽章は、っさいしょのVnの動機から指揮者によって歌い方が千差萬別だが、田部井氏は、跳ねる音がなく、3音すべてがテヌート気味の行かれ方で、っじゅうぶんに弓を遣われたきょうの楽団の発色もまたすばらしい、

3楽章はあまり記憶に遺っておらず、睡りへ堕ちる時間が長かったかもしれない、

フィナーレは、最冒頭など、絃がしっかり鳴れないアマチュアでは全体の音構造を伝えられないこともしばしばだが、っちゃんと彼等が聴こえる、っむしろ金管はホルンもトロムペットもトロムボーンも一様に息切れの気味でいられ、音量が細るか、無理をして吹いて音色を汚すかされている場面が目立った、っただ、っここでも田部井氏の示される骨組みは堅固そのもので、《巨人》とはあらすじとしてかかる楽曲だ、っという説得力はずっと保たれている、上のぼくの駄弁は、根や幹の堅牢はあたりまえで、枝葉末節のその末端のそのまた末端においても、ほんの枝ぶりがああよりはこうのほうがよい、葉が1枚あるのならその葉の附き方はああでもそうでもなくこうがよい、花が咲いているのならその咲き方はぜったいにこうでなければならない、っという話である、誤解されたくないので再度三度、弁じておくが、世の指揮者よ、俺の望むとおりの音を鳴らしてくれろ、っという話をしているのではない、素人のぼくでもああもしたいこうもしたいとおもって聴いているのだから、指揮者よ、あなた方もご自身なりのこだわりをぼくへ見舞われたい、っというそういう話だ、



っさて、っあすは新小岩、長田雅人氏とオーケストラ・ダスビダーニャとの公演で、同団として初挑戦、15曲のシムフォニー中ゆいいつ演奏を敬遠してこられたというショスタコーヴィチ《死者の歌》である、っあすも、森口真司氏とオーケストラ・ダヴァーイとの公演とバッティングし、っそちらを聴けないのはまことにざんねん無念なのだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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