井﨑正浩氏の棒、戸塚区民オケ公演、済む、演目は、楽聖《フィデリオ》の序曲、クヮルテット、っおよびフィナーレの一部、っそして同《㐧9》である、ソリストは、女声は飯田みち代、山下牧子両女史とこないだのマーラー《復活》公演とおなじで、っこれはもうかたほうの井﨑氏の《復活》公演でもそのようである、男声は鈴木准、青山貴両氏、コーラスはいつものコール・ミレニアムである、
戸塚区民オケは、前回の平塚でのドヴォルザーク《新世界》においては、平素のやや頼りないアンサムブルを返上してみごとに雄渾の響を上げられ、今次の公演への期待も高まったのだが、っきょう《フィデリオ》の序曲が開始すると、っまあわりにいつもの彼等の姿だ、全体に非力なので、大音場を満々と鳴らし切るというわけにはゆかなくていられる、っけれども、絃がそれのみでたっぷりと量を発しえないことから、木管の音彩がフレッシュに感ぜられる得点もある、っけっしてわるい音ではない、
っところで、っその絃の配置は、両翼、セロ・バスは左であったが、っここはいつもそうだったろうか、っいつもはふつうにストコフスキー配置だったとおもうのだが、っきょうは古典派であり、《㐧9》もブライトコプフでなくもっとさいきんの版を採用していたので、配置まで拘りがあったかしれない、っが、っそのような立場で不可思議といえば不可思議なのは、っきょうもそうだったのだが、声楽は現代のドイッチュの発音で唄うのである、可能のかぎり往時の演奏文化を再現したいというのならば、言語も旧いドイッチュで唄うべきではないのか、っぼくはもちろん、erをエルで唄う《㐧9》がすきである、
っとまれ、《㐧9》を待たずして前プロからソリスト、コーラス綜出の《フィデリオ》のほんのハイライトは、ソリスト連は好いティーム・プレイ、コーラスは年齢層の高いアマチュアなので、男声女声ともに音量の豊富、発音の明晰、高音の張り、中声の深み、っいずれにおいても難ありといえども、フィナーレ終局は、楽聖一流の緊密な筆致にも助けられ、っおまけで満足したと云ってもよい、
《㐧9》は、版がさいきんのものだとわかったのはフィナーレで声楽が入ってからで、1楽章ではあれやこれやのへんてこな音がせなんだはずなので、っあるいは、井﨑氏のご判断で、っそれらはむかしながらのブライトコプフの音符へ戻して、フィナーレのみを新しい校訂の音で奏したのかもしれない、
1楽章からテムポは速い、冒頭、トュッティで主題の全貌を提示するまでからして、演り方は人毎に阡差萬別で、井﨑氏は1stの動機の片鱗を完全にノン・ヴィブかつシャギーな倍音を効かせてまったく歌われず、音量を出せないオケであれば、結果的にソット・ヴォーチェ然とし、っそれはまさしく、世界の誕生以前、宇宙塵の浮遊のごとである、
っついに至るニ短調のトュッティは、硬いマレットのティムパニを伴なって、剛毅であるよりは骨っぽく尖ったひびきで、っしかし、欧州の、ピリオド楽器、っないしモダン楽器でもピリオド奏法を採用せるやや小型の楽団の同曲演奏では、っそこまでびしばしアンサムブルのピントを合わせず、っざっくりと解れた奏楽で全体を通すこともよく行なわれており、っそういうものだとおもえば、っきょうのかかるやや脆弱な合奏も、演奏上の致命的の瑕疵とまではおもわなくて済む、っここでも、各種木管がカラーフルに息衝く音色の魅惑は健在である、っそれがあってこそ1楽章は、音色音色の交錯が怪しげなぎらつきをさえ発し、初めて眞に波瀾萬丈たりうるのである、再現におくクラリネット、ファゴットを中心とした和音の苦しさについては、っなにをか謂わむや、
っけれども、っこの楽章も核心へと接近すると、っやはりどうしても絃各声部の力不足の憾は否めない、っもっと2ndが、Vaが、Vcが、っそれぞれに鋭く切り込んで来てくれないと、命を刻む本格の争闘の楽は具現しない、
以降も基本的にはこの難は解消せず、2楽章のトリオ終盤など、Vaとトロムボーンとが双方の音色効果をもっと十全に発揮してこそ、フィナーレの歓喜を予感せる神韻も聴こえようというものだし、3楽章のトゥーバ・ミルム後の2ndにしても、っさらにさらに深い音色が出せなくてはなるまい、
っけれども、一定時間を經過して特有の細身のひびきに対して好感が育っているのも事実で、飽和へ達せず、音場がゆとりを有って楽音をうけとめるため、隨所で残響のうつくしさが実感せられもする、3楽章全体も、っゆたかに満ち溢れない清潔な音響を、っしずかな祈りの反映と好意的に取ることも可能で、っじっさい、両主題とも、っその歌のうつくしさへあらためて出逢い直すよろこびがあったし、トゥーバ・ミルムは、っそれほど絶叫せしめず、快音の部類で行なわれても、っなお鮮烈に眞なる歓喜を求むるこころを激励したものである、
声楽陣は3楽章後に長く休みを取って迎え入れる、コーラスの入場に際して客席から拍手が起こらなんだのは偉とすべきなのだが、っのち、っお馴染みの長髪のコン・マス氏が起立されて器楽の再テューニングとなり、っぼくとしてはそのさなかにソリストに入ってしまってくれたいとおもうも、テューニング後の入場、袖から拍手で送り出されるため、っお客も拍手をしてしまう、声楽の入るシムフォニーで中途で彼等を入場せしめる際にも、っけっして客席から拍手が起こらない方法を検討してくれたいというのが、っぼくの変わらぬ所望である、袖から拍手で送り出すなぞ、っもってのほかであろう、楽章間であろうと演奏はつづいている、拍手は全曲の終止後に限るべきである、っありとある楽曲の演奏は、綜て崇高な儀式なのだ、っぜったいに中途で緊張を解消してはならない、っだからぼくは、ったとい楽章間であろうとも、派手な咳払いはしない、客の一個として演奏がより理想的に成立してくれたいと望むのならば、っとうぜんの態度であろう、
フィナーレ冒頭の不協和音は、音量音圧を犠牲に供してでも、敢えてトロムペット、ティムパニを頼まず、木管群をひびきの主体に据える行き方で、っある意味ではきょうの井﨑氏の音響設計として象徴的の場面とも云える、相対的にセロ・バスの存在感が増し、レチタティーヴォはよく喋った、
絃を加えた不協和音からの青山氏のソロは、管絃の最終音へ重ねるようにして彼氏を飛び出させられるという井﨑氏の差配、造形はよく練られている、レチタティーヴォの最後は、アド・リビトゥムの指示を眞に受けての記譜を外れた一芝居、っわるくない、
歓喜主題の1連目、主題原型は、コーラスの最後、Wo dein sanfter Flügel weilt、っを弱音かつドルツィッシモへランディングせしめるというのは、コバケンさんとおなじ演り方である、井﨑氏はたしか、90年代あたりには日本フィル協会唱のコーラス・マスターをお務めでいられたはずで、っその際にコバケンさんと協業で同曲を演られ、っその造形へも接しられていよう、っきょうのここは、っその顰みに倣われたともかんがえられる、コバケンさんとしては、sanfter、っという詞へ応じた表現のお心算であろうが、っただ、記譜としては、っべつに同個所へは弱音の指定も表情のイタリィの指示もなかったはずで、っぼくのこのみとしては、テノールの張りのある高音を中心に覇気を訴える演唱こそが望みである、っここは宇野さんも、コバケンさんのどれかの音盤での同様の表現に対して難を示され、つよく唄うべきだ、っと主張されていたと記憶する、
ソリストは、《フィデリオ》でも《㐧9》でもオケの背面、舞台上最後列へ居並ぶが、ア・ラ・マルチアまでは女声が両脇の男声が内側、左からソプラノ、テノール、バス、アルトという順で、っそのあとに通常のソプラノ、アルト、テノール、バスという順へ更新、徹底的に配置へは拘っていられる、
オケの音量に不足することから、相抱き合え、幾百萬の人々よっ、以降はコーラスの発色に勝れ、相応の偉容も実感せられる、ドッペル・フーガにおく井﨑氏の辣腕ぶりもけだしおみごとだ、
前後するが、例の、跪拝せるか、幾百萬の人々よ、っを迎えるVaとクラリネットとの楽聖畢生の筆致や、Sの中途で速度を喪い、コバケンさんがヴィーンで同曲の自筆譜をご覧になることがあった際、泪の雫がつづいているように視えた、っとおっしゃる1stの下降句では、っともにこちとらおおきに目頭を熱くし、ソリスト連のカデンツは各位、音楽的のふるまいへ徹して我を振り撒かれず、プレストへと逢着せる、
っそのプレストは、新しい楽譜ではメトロノーム記号がどのように解釋せられているのか識らないが、ラトル氏をはじめとして、っみなプレストにしてはいやに遅い速度である、井﨑氏も同様で、っまず絃の動機からしてゆっくりとしかもテヌート気味に奏せしめらる、っここでのコバケンさんはスタッカートかつ最弱音で音楽をして瘠せ衰えしめてしまうのがむかしっからの悪弊で、っきょうはその点で遙けく好印象である、っまた、コーラスに力がないと、俊速のプレストでは音符の細かい彼等が管絃に押されてまったく聴こえないというのもあり勝ちの失態だが、っきょうの速度ならばその心配もない、
天楽よりの乙女、っでいったん打楽器による賑やかしを喪ってもイン・テムポで、最後の歓喜の高唱もそのままの速度で突っ切り、管絃のみのプレスティッシモへ遷移して形式上は速度が倍遅くなったことになるという行き方もラトル氏ほか新しい楽譜を採用せる人たちと同断、っあれが速度としてプレスティッシモに聴こえるかと云われれば返答に窮するが、っそのほうが管絃がぎしぎしと軋り、聴きでがするのはたしかで、追い込みの打楽器の痛打も炸裂、っなかなかのフィニッシュであった、
アンコールにふたたび《フィデリオ》の終局を演って幕、
井﨑氏のマーラー版の同曲では、テムポ他、基本の造形はきょうと同様となるのか、っはたまたまったく別様となるのか、ったのしみにその日を待つとせむ、
川崎東口へは王将が2軒あるが、っいつもの駅の階段を降りた脇の店舗は改装中で、初めてもういっぽうの同店を訪れる、っほぼ満席だのに、厨房はすばらしくスムースで、調理も安定していられる、
っさて、っお次は金曜、神成大輝氏の桜木町での公演かとおもう、っその日は日中は三鷹の試掘で、っおそらく丸1日は掛からなかろうが、帰社する心算はなく、帰宅に好適との事由から稲城長沼辺に駐車場を予約し、南武線、川崎經由で器へ向かう、
っところで、《㐧9》といえば、昨年末、佐藤雄一氏のそれを整理券へありつけずに聴き逃したが、っいつもこの楽団は音声のみの公開であるところ、っこんどは動画もupせられて、音質も好く、っうれしく視聴す、
コーラスはこちらも地方の年配者のアマチュアで、曲趣に必須の覇気がまるで得られないのはざんねんだが、器楽は素朴な快い合奏で、楽聖の威風を叶えるうえでの最低限の条件は整っている、
佐藤氏のテムポは井﨑氏とは好対照中の好対照で、クレムペラーほどではないにせよ、ベームへは優に比肩さる、っそのわりに全奏が80分凸凹とおもったほど長大でないのは、3楽章をむしろあっさりと快速に構えられているからである、
バリトンのソロは昨年、大井町でモーツァルト《ツァウベル・フリュート》ハイライトでみごとな演唱へ接した藪内俊弥氏でいられ、っここでは、野太いバスの威厳は望めない代わりに、レチタティーヴォも主題も明瞭に音程を聴取しうる歌い口で、っすばらしく好印象である、っこのとくに前者は、バスでは高音を張り上げるせいで音程が不明確になり勝ちであり、っといって、バリトンでは最後の最低音でひびきが浅くなってしまい、っなんとも痛し痒しなのだが、藪内氏は最も理想的にその両難を逃れられている、っさらに主題へ遷ると、っあのモーツァルトのときと同様に、っやや気障な歌い口で、っその表情的の演唱がまた耳にうれしい、発音は旧いドイッチュだ、
佐藤氏の造形もたいがいである、ア・ラ・マルチアでは冒頭から放埓なテヌートかつコントラ・ファゴットの大々々強奏で、っぼくもおもわずに吹き出す、
歓喜の大合唱部では、トロムペットのファンファール様の動機をちゃんと強奏せしめてくれていて大感動、
っけさその動画から音声を抜いて、っやや音量が細いかとおもったので編集ソフトでゲインを上げてiPhoneへ遷したのだが、っほかに、っいつかに期間限定公開となっていたレーベンスルスト・フィルなる楽団の公演全編動画も落として、っずっと視聴しないままで、っついでに同期してきた、演目は、っこれは劈頭はヴァグナー《ローエングリン》1幕前奏かな、ったぶんそうとおもうが、次いでリスト《レ・プレリュード》、っそしてサン=サーンス《オルガン》である、音声のみなので定かには知れないが、ったしか棒は藝大出のあの若い下膨れの女の子で、藝大指揮科の女学生というのは、松尾葉子女史もそうだが、っああいう顔の造作の人を採るというのが伝統なのか、っというのはわるい冗談として、オケもそれなりに巧く、っこれは器はたぶん所沢で、ったっぷりと濡れた長い残響のまことに麗しい音がしている、オルガンの渋みのある分厚さも関東一円のほかのどの器の同楽器にも敗けず、っしたがって《オルガン》も堂々たるものである、最後の最後でトロムペットが音が揃わず、っあのポリリズムの妙がよく活きていないのはざんねんだが、
王将の卓へワイヤレス・インナー・ヘッド・フォンを置き忘れて退店し、事後トイレへ寄って出たときにそれへ気附き、取って返して、っちゃんと店員さんが保管していてくださって、無事に回収す、
っもう花粉も飛んで、暖かい日も増えてきたというのに、っきょうは寒の戻りでめっぽう冷え込み、っいままだ川崎の喫煙スペイスで、手指も悴まむばかりである、