長田雅人氏の棒、オーケストラ・ダスビダーニャ公演、済む、演目は、芥川也寸志《トリプティーク》、ショスタコーヴィチ《死者の歌》である、後者のソリストはソプラノ津山恵女史、バス松中哲平氏、
編成の共通性としても、作風や作家同士の縁故というか影響関係としても、っまさしく組まるべくして組まれたプログラムである、っしかも、ショスタコーヴィチは歿後50年、芥川氏は生誕100年のともに節目、っしかもしかも、ショスタコーヴィチの命日は50年前の8/9、っおとついの荒井氏は、っその当日にあのような大業を為されたのであり、っこの連休に、っここでの長田氏や、桜木町での森口氏と、っこの作家の作の演奏が挙るのも肯けるところである、
っところで荒井氏だが、人は見掛けに由らないのことばどおり、っやはり只者ではいられなんだ、開演前にはプログラムの曲目解説っきり読まなんだのだが、後ろの方まで繰ってみると、演奏会へ懸ける意気込みを訊いた彼氏へのインターヴュー記事が何頁にも亙って掲載せられており、事後的に読んだぼくは、じっさいの舞台はまさしくこのおことばのとおりの実践だったではないかっっっ、っとあらためて感銘を享けずにいなんだ、っそれと、ソ聯の作家もそうだが、っなんでも、プログレッシヴ・ロックを語らせたら一家言ニ家言どころではないというマニアでいられるらしく、っその方面のお仕事も手掛けられているというので、今後、音盤等を探してみることにする、音盤といえば、っおとついはちゃんとしたライヴ・レコーディングがあったようである、レコード会社はどこなのか、っわからないが、荒井氏はこれまでにナミ・レコードというか、ライヴ・ノーツ・レイベルへ複数の盤歴をお有ちのようであり、っそこあたりからの発売となるだろうか、オケともどもたいへんすばらしい演奏であったので、っあれを常時聴きうる日がいずれ来るというのは、っまことに仕合わせである、
っきょうの開演前には、靖國、千鳥ヶ淵を詣でて来る、先に後者へ寄ったが、時間にはあまりゆとりがないなか、神社の方へ戻りながら、そうかっ、流石にきょうあたり拝殿の前は混み合ってしまうだろうかっ、っと気附くが、行ってみると参詣者の数はふだんとそう変わらず、安堵す、開演前に新小岩の駅から器までの道沿いにある王将へ寄る心算にしているも、っもうその時間はなく、っしかし、呑んでから聴いたのではきのうの二の舞にならないともかぎらず、っむしろこれでよかった、事後、食事をして、っまたスタムプが溜まっていたので、景品をいただく、
っさてきょうだが、っなにしろ演奏の成否は偏にソリストおふたりの曲への適性に懸かっているため、っその点は指揮者やオケがなに足搔こうがどうにもならない問題であり、っよってまずは期待値0とおもって来場した、彼等の過去の記録で、《バビ・ヤール》に年数を隔てた2種の音盤があるが、ソロはいずれも岸本力氏でいられ、っざんねんながら両とも、露語の発音としても、曲想への馴致としても、っまったく不満の遺る出来と云わざるをえない、っところがきょうは、っもちろん本場ロシア人たちの語の発音、演唱の特有の感触は眞似のできるものではないにせよ、津山女史、松中氏ともに、日本人歌手として人事は盡し切られ、っぼくは、っずっと曲趣を味わっていられたし、済んで大々々拍手を惜しむものではなかった、っまったくみごとな達成であられる、
っその前に芥川《トリプティーク》、旧式の多目的器の小器に、っごわごわと硬い歯応えの絃合奏がめいっぱいに拡がる、2楽章では、楽器の胴のノックをもっと瞭然と活かされたかったか、死神の輪舞のごと3楽章のVnのさいしょの主題は、っそれが鳴り出す瞬時に、誰しもショスタコーヴィチを想起せずにいなかろう、
っぼくが彼等オーケストラ・ダスビダーニャを初めて聴いたのはおととしだかさきおととしだかのショスタコーヴィチ《4番》で、こんなに巧いのかよっ、っと瞠目したものだが、っあのときは舞台からこぼれむばかりの巨大編成だったし、っどうも手加減なしのテンションに気圧された、、、きあつされた、っじゃなく、けおされた、っね、念のため、っようで、っその後、何度か公演へ通い、音盤も多量に入手して過去の記録も聴いてみると、テクニークとしてはアマチュアのうちでもかならずしも最優等とはしえないとわかった、っきょうのようにひびきに艶を望めぬ小音場で中規模以下の絃合奏のみとなると、奏楽はまるで嘘を吐けず、っあらゆる音が素裸のまま客席中へ伝わってしまうが、っやはり全般に、指の回り、弓捌きの水準は、玄人跣というまでには及ばなくていられる、っけれども各位、曲趣を抉り出さむとされる熱意は人一倍でいられ、っその暑苦しさ、っむさくるしさはまちがいなく一種の魅力にちがいない、
ショスタコーヴィチでももちろんそのごわついたアンサムブルが全曲を一貫し、っそこへ各種打楽器、チェレスタが加わる、っしかも打楽器はシロフォンやテューブラー・ベルと、小空間で痛打したのではお客というお客の耳を劈いてしまう性質のものがたびたびフィーチャーせられ、っそこでの奏者ももちろん手加減なし、耳に痛いくらいの衝撃音だが、っそんなことは承知の上での眞剣勝負であろう、チェレスタも、っあるはヴィブラフォンも、大音場で聴くのとは比較にならぬ音の實在感で、っけれどもこちらはかえってそのことにより空間全体を夢幻境に変えてしまう魔力があり、っとにかく、ソリストを支えるバックに恆に色濃い主張を聴くことができて、っこちとら全曲の詞の内容を朧げには把握しているが、字幕なし上演ではたったいま露語でなにが歌われているのかは皆目わからないながら、っしかし情景がずっと眼前へ流れ、漂うのが視える、っあらゆる死を歌い継ぐ灰色の殺風景が、っだ、っこの小器の特質を味方へ附けた音体験の濃密という点では、金沢で聴いた井上キーミツ/OEKの同曲よりも、っよほどふかい満足を與えられたくらいである、
っそしてソリストおふたり、1楽章の㐧1声から松中氏は、ロシアの巨漢バスたちのごと野太さは出しえないのでいられ、っこの時点ではぼくも、やっぱそうだよねえ、っとおもうのであるが、っしかし朗々、堂々たるお声であられ、っじき、本場の人との比較などという観点は霧消してしまい、ったったいま、眼前で喉を鳴らされるその人の迫眞に惹き附けられた、
っつづいて津山女史、っはじめこそ、ニュートラルな声のうつくしさのみで勝負されるお心算なのかな、っとおもわせたが、フォルテでは女性の吼え声の鮮烈を器いっぱいに轟かせられ、低い音域での魔女のごと音色もコワい、っそうした楽想に応じた声質の豹変を、能うかぎり強調されるのだった、
3楽章は、歌手にとりてはただでさえふだん滅多に唄われなかろう露語であるというのに、っなんだか生麦生米生卵みたような早口ことばから始まり、っしかも厄介な変拍子という残酷な曲調で、っしかしご両人、っそれをちゃんとぺちゃくちゃと小気味よく唄って出られた、っこのあたりからもう、ああ、これは大丈夫だわ、おふたりとも完全に曲を身体へ入れて唄われているんだわ、っとおもい、っぼくは余計な心配をしいしい聴くことを止した、
4楽章や10楽章におく津山女史の弱音の神秘たるや、っいかばかりであろうか、前者はセロのソロとのデュエットにほかならなく、っこの奏者の眞摯な訴えともども、心配どころか、っぼくもすっかり曲の裡へ引き摺り込まれ、泪とともに聴かずにいない、
シロフォンもけたたましい5楽章を通って6楽章は、津山女史も極めて大膽に表情的の演唱を志向され、っしかもそれがちゃんと巧くていられる、
7・8楽章は威厳と野卑との痛烈なコントラストで、後者では、6楽章の津山女史をおもえば、松中氏ももっとおもい切られた、唄うというよりは喋り散らすごと、っがなり立てるごと表現をおかんがえになってもよかったかとはおもうが、音楽的の振る舞いへ徹する潔さで聴かせられた、っつづく9楽章ではこんどは松中氏へセロが添う、っそれにしても、前楽章の、音場を搔き乱し、穢すごと終結から、っこの9楽章冒頭の中低絃へ遷ると、っなんと烈しく胸を締め附けらることであろうか、演奏も、敢えては弱音を求めず、っしっかりと楽器を鳴らすことで、っこの胸苦しさをいやが上にも助長した、
っみじかい終楽章の最後のソリストおふたりのハーモニーは、っあれをライヴでばっちり定めるのは至難かとおもい、っきょうもその不思議な和声がしかとひびいていたとは云い難かったが、っしかし、全体の充実はまこと大演奏の貫祿を具えていられた、
中小規模の器での声楽と器楽との綜合といえば、知己トロムボーン奏者さんの乗られた三鷹でのマーラー《大地の歌》という、っぼくにとり掛け替えのない寶石、結晶が想い起こされるが、っきょうの《死者の歌》は、っそれと同傾向の果實として、永く永く記憶の一隅を領するであろう、っそして、っきょうの会場では前回公演の音盤販売は為されていなんだが、っいつか、入手できる日が来てくれればうれしい、
っさて、会社は今週1週はまるまる休業なのだが、社員は各自の都合での勤怠でよく、っぼくは平日はすべて出勤す、っお次は土曜、平林遼氏の公演で、桜木町の、っぼくはいちども入ったことがない小器、ったしか序曲ばかりを並べた変則的の演目であったかとおもう、