井上キーミツの棒、大阪フィル公演、済む、
演目はモーツァルト《25番》、ブルックナー《7番》のはずが、小ト短調の1楽章が駈け抜けるとキーミツはマイクを持たれており、演奏の中途に指揮者がマイクを持つなんて品がないんだけれど、持病である腎臓結石の発作が出て辛抱たまらんので、っとおっしゃるので同2楽章以降は指揮者なしで演奏し、ブルックナーに集中したいということなのかとおもうとちがって、すまないがもうこれで休憩、20分休んでブルックナー演ります、みんなブルックナー聴きに来たんでしょ、っとのこと、場内は動揺を隠さなんだが、果たして、ブルックナー全編70分余を、キーミツはちゃんと振り通された、
去年末、札響のクリスマス公演を彼の地で聴いたときには、キーミツはひどくお疲れのご様子で、っぼくなど、あと1年、お身体は保つのかしら、、、っという心配を募らせたものだが、っそのときには公演前夜のすすきのでの夜遊びが祟ってたまさか風邪気味でいらしたとのことで、事実、っその後の公演ではまた快活なお姿を何度も望みえた、っしかしじっさいのところは満身創痍でいられるものと拝察せられ、っやはり、のんびりとした余生よ来たれかし、っという引退なのではなく、っほんとうにもう限界でいらっしゃるのだろう、以前にもこの云い種をしたが、サントリーでの最終公演を振り了えられたその舞台袖で斃れて死んでもよいとおおもいのラスト・スパートなのに相違あるまい、っまだこれから《ラ・ボエーム》全国巡演などのハード・スケデュールが控えていられる、キーミツご自身ならずともぼくでも、彼氏にこの年末まで走り切られるだけの天壽が約束せられているのだと祈り、っまた信じたいところだ、
っさておき、ブルックナー、っや、っその前に1楽章のみであった小ト短調だが、っこの過酷なアレグロは、っあたかも井上道義という一個の人格のまったき音化であるかのようだ、呵責のない前進するテムポ、軋る絃の刻みはみずからの肉を削いでミューズへの供物と代えるごと、っとはいえ、8型の大フィルの絃は、っとくに1stが、2列目からもうすでにしてぜんぜん弓の量を遣っておらず、っほとんどアマチュア楽団の弾ける音っきり弾かない素人奏者かと見紛うばかりであった、キーミツも堪り兼ねて、楽章中途で崔氏の背中のあたりまで歩み出て、もっと後ろから後ろから弾いてこいっ、っと煽動されていた、奏者にしてみれば、見る目に弓の量を遣っていないからといって必ずしも音量を出していないわけでもない、っといった声はしばしば見掛けるのではあるが、素人かんがえには、それにしたってどんなにクレッシェンドしてもあんなにも弓のほんのまんなかへんっきり遣っていない奏楽というものがあるか、朝比奈さんも草葉の蔭で泣かれているぞ、っとおもわずにいない、っもっとも、大フィルにすれば勝手知ったるここ福島であり、っすなわち無理をして鳴らずとも優にひびいてしまうのであり、絃はよほどの要所でないかぎりは全員で全力は振り絞らない、っという経験的に体得せられた不文律があるのか知らない、
っともかく、っしたがって恆に上声よりは中低声の濃密を聴く道中であったが、曲調からいってそのことは苦衷をよりリアルに表現する助けとなり、音の並びがあくまでも抽象的の古典派だけに、浪漫は聴く者の心裡においてこそ鮮やかなのであった、絃の配置は、セロ・バスは右へ固めているが、Vnのみ、1st、2ndを両翼に分けるという行き方、っこれは指揮者を問わず東京では読響などもしばしば行なっているが、っなんだろう、こんにち古楽器ブームの隆盛から久しく、ストコフスキー配置に準じてきた指揮者とて興味本位からVnを左右へ分けてはみたい、けれどもセロ・バスを左へ固めるまでは流石に右顧左眄と取られそうで恥ずかしいし、なによりそうした音響バランスへ身体が馴れていないこともあり、そこまではしていない、っとかということだろうか、っどうあれ、大フィルの2ndとVcとのトップはこんにちなお朝比奈時代から見憶えのある古株、、、2ndは女性でいられるので古株と称しては非礼にあたるやもしれないが、っしかしおふたりとも映像に観る朝比奈時代の風采からほとんどお変わりがない、巨星の歿後はや20と余年になるというのに、っいかにもお若くていらっしゃる、キーミツとしても、ブルックナーを演られる上で朝比奈イズムを叩き込まれたかかるヴェテランの存在は頼もしかろう、っしかしそれ以上にきょうの勇姿はVaのトップである、っあの方も朝比奈時代を知る口であろうか、っわからないが、っその弾き姿はまことに音楽への奉仕そのもので、指揮者の棒をよすがとするのみでは不明確へ陥り勝ちのアウフタクトにおいて、っしばしば楽器を後列へ向けて高く掲げて次小節の拍頭を予示し、っもってアンサムブルのオートノミーに一役も二役も、っや、二役も三役も購われていた、
っさて、ブルックナーだが、キーミツとしてまさかに体力温存のために内輪に振る舞われたということもなかろうが、っしかし、表現慾の氾濫に因するオーヴァー・アクションからかえって合奏精度に瑕疵を生ずるということも、キーミツにかぎらず指揮者とオーケストラとの関係としてごくあり勝ちのことであるところ、っその点できょうは全曲がひじょうに端然と静的に運ばれてゆく、
っもっとも、テムポとしてはひじょうにじっくりとしており、っとくに全曲冒頭、っおよび3楽章全体にそのことが顕著である、原始霧は、上岡敏之氏ばりに最弱音から発露し、っおおきなおおきな間合いでセロ、ホルンによるテーマが招じ入れらる、っその唄い方もすっきりとして分厚くせず、周到に漸強弱を操作し、ユニゾンのひびきとして、っどこはセロが主体、っどこはホルンが主体たるべきかを入念に差配し、っじつに丁寧な開始だ、Vnの模倣から全楽による主題確保の頂点へ向けての登坂もすばらしく、絃へのフリュートの重なりぐあい、っはじめに音階を上がり切るときに加わるホルンの悦なる和音、全員で頂点を打つ直前に下降するテューバと、っすべてかかるべしというフォルムである、
㐧2テーマは仄暗く、っしかし絃へバトンが渡ると寛いだ調へ遷り、っそこから㐧3テーマへ向けての漸増は㐧1テーマのそれよりなお巨大であり、っそこがぼくのこの1楽章の提示におくすきなところである、《8番》の同章はちゃんと㐧1テーマ中により険しいトュッティが存り、㐧2テーマは漸強してもなだらかなままである、作家はこの点をどうおもっていたのであろう、生前に実演を何度か聴いているはずではあるが、っともかく、っきょうのそこは、絃のみの爽快な和声から、っそこへ木管が金管がと加わって脹れてくるとそのままこちとらの胸もおおきに脹れ、っきのうのチャイコフスキーではないが、っあらためて、なんという名曲だろうっ、っとの感激に震え、視界が潤んだ、
隣のお客が多動の病者であり、1分とおなじ姿勢でぢっとしていられず、絶えずがさごそがさごそしていて落ち着かない、っそのうえ、演奏に合わせて、っとくに全楽で気を吐く定め所などでいっしょになって身体をびくっと痙攣せしめて昂奮を追体験している愚物であり、っその際の震動がシートを伝ってこちとらにもひびいてきて欝陶しい、俺は演奏を聴きに来ているのであって、テメエの昂奮を共有させられに来ているんじゃねえ、っとの雑言が、っほんの喉元まで出掛かったことだ、っいるのである、演奏会の客席には愚物が、っそういうのにかぎって終演後はブラヴォーブラヴォーと囂しいこと囂しいこと、、、っさようのに遭遇するたび、っああはなりたくないものだとおもうものである、
っとまれ、1楽章を入念に語ったことから、2楽章は、意図して先を急いでいるわけではけっしてないが、っしかしとても流れがよい、㐧2テーマのうつくしさにはまたしても感泣が込み上げ、モティーフが儚く切れ切れとなり、ヴァグナー・テューバの冒頭句へ還る直前あたりは、2ndやVaの動きを明晰に追い、複雑に揺れ動く作家の心理を残らず酌んでいる、名人の仕事だ、ファッスングはノヴァークであり、楽章頂点はシムバル、トライアングルを伴なう、
3楽章はまたしても一転、云ったようにやや意識して腰を落としており、っほとんど鈍重なくらいで、朝比奈さんの晩年などのほうが速度としても音の構えとしてもよほどか先へ先へと流れている、っしかしそれがキーミツの結論なのである、1拍1拍と楔のごと音々は時間時間へ刻み附けられ、トュッティともなるとそれは隣の客も身体を揺すらずにおれない剛毅な音塊が屹立す、っところが、っなにか気分としては好い意味で抜け切っていて、テムポは遅くとも俗な拘泥趣味の匂いは微塵もせず、っただただ曲の魁夷それのみが立ち顕われてやまなんだ、っそれはすでにして2楽章から、っや、1楽章においてさえ発露していたアトモスフィアであり、っやはりキーミツのご体調不良も怪我の功名、演奏が人為を離れて天昇してゆくごとであった、
っぼくはブルックナー《7番》を、1・2楽章をもって天下の傑作とするになんら躊躇しないが、フィナーレは、っよく云わるような短小さはむしろさほど感じないのだが、っそれよりも㐧1テーマのあのキャラクターの軽さだ、劈頭章の広々として雄大な同テーマを剽軽な愉悦に変換するというその趣意はよくわかるのだが、っどうしても軽すぎる、《5番》や《8番》という、楽章間の性格の相関としてより成功し、フィナーレがちゃんと内容的にいっとうおおきな比重を担っている傑作からすると、龍頭蛇尾の憾を拭い難い、聴く前の、さあ聴くぞっ、っという意慾でゆけば、っこのフィナーレよりも《ロマンティッシェ》のそれなどのほうがよほどか意気込んで望めるものである、っま、っすべてのシムフォニーがフィナーレは定まってどすんと重たいというのでは芸がなく、変化球を放ってみましたということがあったほうがよいのかもしらんが、
っただ演奏は、人智を離れるごと必然の色調はここでも一貫し、キーミツが振られ、大フィルが弾かねばこの音は鳴らないのだが、っしかしキーミツも大フィルもその個別具体性はどこかへ消し飛んでしまい、っひたすらにブルックナーそのものである、激越な強弱の交代、ロウ・ブラスの大地を揺るがす咆哮は、《8番》とてそのような個所はいくらもあるのにぜんぜん無理筋には覚えないところ、っこのフィナーレではどれも唐突に感ぜられて、っあまり耳がよろこばないことがおおい、っそこを名器、ザ・シムフォニー・ホールである、天を突くような最強音もはんなりやんわりと堂宇に抱き留められ、全体がいつも高級に薫っている、
キーミツは、先般の名古屋フィルとの最期の共演、豊田におく同《5番》は、っなんと引退前にして初振りでいらしたとのことだが、っそうとは俄かには信じ難い入念な表現と、全体のひびきの雄渾とであった、っきょうもまた、っそれに次ぐ懐の広さ深さを実感せしめ、っこの作家の演奏における面目を示された、残る機会は京響との《8番》である、っすでにして同コムビの演奏が音盤になっているのであるが、っそれはあまりにも流線形で角のない感触のアンサムブルであり、っそれでいて弱音に神経を割くあまりに流れがわるく、全体が豪傑的に隆起してくるあの曲の醍醐味から遠い記録と云わざるをえない、っこんどの演奏が、っもっと野趣溢れるごつごつとした音で行なわれてくれたらと希わずにいないが、何度か実演を聴いてきた京響のあの様相からすると、っそれは叶わないのだろう、っよい、繊細なテクスチュアなら繊細なテクスチュアで、っともかく有無を云わさず聴く者を圧倒するあの《8番》という巨峯を、音場へ現出させてくれさえすれば、キーミツの同曲は、読響と川崎で行なったものを聴いたが、オケは豪壮な野太い鳴りを示していたものの、っしかしそのひびきであの全曲をなんとなく通してみましたという通り一遍の憾というか、っなにかこれぞという定め手を欠いたようにもおもい、正真正銘、最期となる京響との公演で、っもっともっと決定的に、井上道義ここに存りっ、っとの揺るぎない里程標を据えて去っていただきたいところである、
っはてさて、っこんどは土曜、大船において井﨑正浩氏と戸塚のアマチュア団体との公演、