桜木町、 | ざっかん記

桜木町、




井上キーミツと神奈川フィルとの最期の共演、済む、演目はキーミツの我儘放題といったところで、シャブリエ《スペイン》に始まり、女声に東混を招いてドビュッシー《ノクテュルヌ》で休憩、後半は打って変わって伊福部昭で、松田華音女史を招いて《リトミカ・オスティナータ》、っそして《jpラプソディ》である、最後者は〈ノクテュルヌ〉〈祭〉から成るので、っいちおうは前後半の連関がかんがえられているともいえるが、っこの同名同名の両曲両曲はしかし、っともにいかにも遙けく隔たる膚合い風合いであることだ、

っきょうはあさから東新宿で健康診断だった、バリウム、下剤を飲むので、っなるたけ早く済ませたいとおもい、開始は9:00からと案内状にあったが、8:30ころ受附へ上がってみるとそのまま通してくれ、っしかしいつもよりも混んでいたようで、ったっぷり2時間くらい掛かってしまう、事後、ファミ・レスへいてお通じを待ち、新宿三丁目から副都心線へ乗れば、っみなとみらいへは1本である、っそうか、っだから降りた駅でいえば桜木町ではなくみなとみらいである、

シャブリエは札響、ドビュッシーは京響で聴いたのだとおもうが、っこんかいの神奈川フィルの質感はより印象的である、前者はぐっと腰を落として各部を確乎と意味附けつ進むので、絶えず栄養価の高い音が運ばれてき、っとはいえ余分な力は入れておらず、発音発色は清冽、絢爛たる音響である、

ドビュッシーは、両端曲における纏綿たる中弱音といい、㐧2曲における振り切ってしまわない、っそれでいて角を矯めてもいないほどよい強音といい、っありとある楽器のありとある強弱が地上を遊離し、人智を超脱するようで、2階正面最前列と、っひびき切ったあとの音を聴くような位置だったこともあり、っしばしば現実のオーケストラの物理音を聴いているとは信じ難い時間が流れた、東混の女声は下手側の遙けく階上へ陣取っており、っそのため、舞台上のオケはべつに変に萎縮して音量を絞っていたわけではないが、っちゃんとコーラスが活きるようなバランスだった、っそしてこれがまた人声でありながら人声に非らず、っかすかかすかな色調の差が無限のグラデュエイションを展開し、っやがては女性という性、人間という身体さえ忘れてしまう、

伊福部《リトミカ、、、》は、っあれではダメだ、っもっとオケの全員が、っあの曲を演るということの特殊さを把握し切っていないのでは、眞なる成功には程遠い、っとくにアレグロにおいては、ソロもオケも、誰1人として興に任せてテムポを揺らすべきではない、1人残らずが精確なイン・テムポを刻む機械を志向すべきである、機械になっていることが重要なのではなく、っそれを志向していることが、っである、アムプロヴィザシオンの精神が寸分も要らない、っなどと云っていない、その発散のための代表的の方途であるテムポやフレイズの伸縮はしかし、この曲においてだけは峻拒せられねばならない、っと云っている、っさいしょの急の部分は、ソリストが主題の1周目で加速し切って定めたテムポをもっと完全に全員が共有し、っその箍の内へもっともっと全員がかちっと嵌まってしまわねばならない、っきょうはたとえば、トロムペット連が初めて音を出すときに、っぜんぜん、っまったく拍へ嵌まって来られない、ブーだ、声部声部が揺れ、声部間ではほどよくタテがブレる、っそのことが快いというのは、っほかのどの曲ではありえても、っこの曲の急速部では禁忌であり、っというよりもただの失敗である、拍へかちっと嵌まりにゆく、っそのことにもっと本気で、命懸けで臨んでくれなくてはっ、中間部でも誰かが走り、誰かが遅れということが起こったが、っあるいは本格のミュージシャンにとってほど、機械的のまでにイン・テムポで奏する、っというのは屈辱に当たるのかもしれない、っもちろんそうだろうとも、っけれどもこの曲は、っこの曲だけはとにかく、っその屈辱の甘受こそが成功へのゆいいつの道なのである、プロフェッショナルでも演奏の機会が増えつつある同曲ではあるが、っこの認識までが汎く滲透せむことを希ってやまない、

《jpラプソディ》はその失地をみごと回復、キーミツは以前よりこの曲に2曲ともゆっくりとした足取りで歩くという趣味を持ち込まれているが、っそれもきょうが最期の実践でいらしたのだろう、以前にN響との共演を聴いた際には、㐧1曲のVaのソロが曲趣よりは奏者の顔が浮かんでくるようなほとんどナルシスティックな唄い方に聞こえ、乗れなんだが、っきょうの奏者は万感おもい入れながらもひたすらに森閑たるよるの風情を伝え、中間部の濃密に感銘もまたあらた、再現ともなると、主題のVnは弱音、管や打のアクセサリーのほうがものを云い、っとりわけ多種多様の質感をしずしずと振り撒く後者は、っなにかもうそうした厳粛な儀式が執行せられるごと、作家自身さえ、っあそこまでの深遠な手応えを期待していたのかどうか、

㐧2曲は、先陣のクラリネットにはあっけらかんと先を急がせるが、トュッティが爆ぜるやどすんと腰を落とし、っそのまま事切れるまで横綱相撲、《リトミカ、、、》ではタテが乱れることで各楽器の音色、質感まで安定を逸する嫌いがあったが、っここではすべての声部がきらきらと宵の賑わいに煌めき、っどんなに狂騒の態を帯びても粗暴な直接音の乱打と堕さない、

っこの曲、っとくにこの㐧2曲は、声部の拮抗の多様なアイディア、各楽器の質感の繊細な噛み分けにおいて、っときに後年の《交響譚詩》や《シンフォニア・タプカーラ》を凌いでいるとさえ聴こえる、同様の手応えは、っむしろ《土俗的三連画》などにより煮詰まったかたちで昇華せられていよう、っきょうの演奏では、途中、光の綾が飛ぶようなVnのフラジオレット、っさいしょのクラリネットのテーマが管群へ再現するときのやはりVnの合いの手と、指揮者がぼんやりしていてはぞんがい埋没してその効果を上げないロールがいずれもみごとに活かされており、っこの曲がテンション頼りの単細胞な1作ではないことを実地に證明していた、



っさて、っあすは川崎にて坂入健司郎氏の公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)