歴史的な快挙、日本ゴルフ界の悲願成就、シンデレラ・ストーリー。。。etc 表現は様々だが、一様にこの偉業を褒め称えるものだ。
令和に年号が改まった今年、日本女子ゴルフ界に福音が鳴り響いた。
現地時間8月1日(日本時間8月2日)に開幕した第43回全英女子オープンゴルフトーナメントにおいて、日本の渋野日向子(RSK山陽放送)が激戦を制し、あの樋口久子プロ以来42年ぶりにメジャー大会の覇者となった。
この驚くべきニュースは瞬く間に全世界を駆け抜けた。
新女王となった渋野は、たった1年前にプロテストに合格したばかりの二十歳のルーキーだということ、メジャーどころか国外で試合するのが初めてだったという事、そして最後まで笑顔を絶やさず、終始にこやかにプレーした事などが、驚きと賞賛を持って伝えられた。
開幕前、渋野は国際的にはまったく無名の選手だった。
渋野は2018年7月にプロテストに合格して、プロゴルファーの道を歩み始めたのだが、じつは前年の2017年にもプロテストを受けこの時は不合格となっていた。
1998年〜99年生まれの女子プロは「黄金世代」と呼ばれるほど層が厚い。史上最年少・史上初のアマとして日本女子オープンを制し、現在アメリカツアーを中心に活躍する畑岡奈紗(森ビル)や高校1年生でツアー初優勝し、プロ入り後も国内ツアー4勝を挙げている勝みなみ(明治安田生命)、ステップアップツアー優勝を果たした原英莉花(日本通運)、大学生ながらプロとして活躍。ステップアップツアーで賞金女王に輝いた河本 結(リコー/日本体育大学)、プロ転向1年目で前年の賞金女王・鈴木 愛を抑えてツアー初優勝を飾った新垣比奈(ダイキン工業)など、逸材揃いのこの世代において、渋野は出遅れた感があった。ここに挙げた選手の殆どが第89期プロテストに一発合格しているのに対し、渋野は1期遅れの90期としてプロデビューしている。
そんな渋野が初めての海外ツアー、しかも42年間日本人の誰一人として手が届かなかったメジャータイトルを手にしてしまったのだ。
今回の全英女子オープンでキャディーを務めたコーチの青木翔と渋野が出会ったのは、渋野がプロテストに落ちた直後の2017年の夏だったという。渋野が高校生の時から愛用している用具メーカー「PING」の担当者から「渋野をなんとかしてくれ」と頼まれたのがきっかけだった。
当時の渋野はプロテストに落ちたばかりで自信も喪失しており、暗く凹んだ性格だったという。笑顔で人を魅了する現在からは想像もできないが、プロテスト不合格は相当にショックだったようだ。
青木は渋野のショットを初めて見たときの感想を「こいつはよくプロテストを受けるとこまで来たなと思った」と笑いながら振り返る。
だが青木は渋野の別な点に注目していた。アスリートである両親から受け継いだ頑丈な身体、幼少期からソフトボールで鍛えた強靭な下半身、ゴルフ界で「ホームランスイング」と呼ばれる、トップの位置で手首が返る男子プロのような豪快なスイング、そんな強さとかけ離れたメンタルの脆弱さ。
この頃の渋野日向子は、強さと弱さが同居するアンバランスな選手だった。
青木は渋野のコーチを引き受けた。日本のゴルフ界ではコーチを付けない選手がほとんどだが、海外では常識だ。渋野はこの時「藁にもすがる思い」で青木に師事した。
青木は「細かいことは言わない」コーチである。弾道を数値化して選手に説明したりもしない。
「自分も選手だったのでわかるんですが、頭で分かっていてもできないことはたくさんある」と青木は言う。
「選手はロボットではない。細かい体の動きなど説明してもできない事の方が多い。そうした場合、できるだけ単純化して選手に伝える」事を心がけているという。
渋野の頭を抑え付けてスイングさせた練習映像はいまやすっかり有名になったが、青木は渋野のクセを修正するために「言葉でなく感覚」で伝えようとしたのだという。
「渋野はショットを打つときに伸び上がるクセがあったんです。伸び上がることでクラブのヘッドとボールの当たりを調整していたのでしょう。でもそれではいいショットは打てない。それを感覚で理解させたかったのです」
青木は「自ら考え、継続する」選手を育てるのがモットーだ。「1言って10出来る」が理想だという。
「細かいことは言わず、一つのことを徹底的にやって自問自答させる。これが選手を成長させるコーチングだと思います」
選手は育てるものではなく「成長するもの」であり、その成長を手助けするのが自分の仕事だという青木のスタンスは渋野に合っていたのだろう。渋野は練習に没頭した。徹底的な打ち込みを行い、多いときには600球を打ったという。
青木に師事してからの渋野はメキメキと実力を上げ、翌年のプロテストに合格した。20人中14位という決して褒められたものではなかったが、渋野はようやくプロとしての入り口に立つことができた。
とは言うものの、プロになってからの渋野は決して順風満帆とは言えなかった。プロになった年のQT(クオリファイトーナメント=予選会)では40位となり、今季の国内ツアーフル参加資格が得られないままだった。今季開幕戦となったダイキンオーキッドレディス(沖縄)には出場できず、次戦のPRGAレディスカップ(高知)が国内ツアー初参戦となったが、ウェイティングからの出場だった。
ウェイティングとは文字通り「待つ」事だ。シード選手や今季のツアー優勝者など出場有資格者や主催者推薦枠以外の「空き枠」に、前年に行われたQTの上位選手から順に出場が認められる。欠場した選手などがいた場合は繰り上がりで出場できる場合もある。
だがウェイティングから出場するためには、現地に行って登録しなければならない。当然だが登録しても出場できるかどうかは分からない。移動や宿泊、用具の運搬などはすべて自前だ。大きなワンボックスカーにクラブと寝具を積み込み、全国を走り回るウェイティング選手も多い。
全英女王になるわずか5カ月前、渋野はこうした明日をも知れぬ集団の中に埋もれていたのだ。
4月に開催されたKKT杯バンテリンレディスオープンで、渋野は81を叩いて初日最下位だった。だが翌日には66を叩き出して50位に滑り込み予選をギリギリで通過した。最終日は「裏街道」と呼ばれる10番Hスタートの最終組だった。もちろんギャラリーなど一人もおらず、観ていたのは家族と所属先であるRSK山陽放送の関係者だけだったという。
この時渋野の潜在能力に注目していた人物がいる。女子プロゴルフトーナメントプロデューサーであり、テレビ解説も務める戸張捷氏だ。
「81を叩いた翌日に66で回れる選手など見た事がなかった。プレーはまだまだだったが、スイングの良さが印象的だった。ああ、良いスイングしているな、いつか勝つだろうなとその時思ったが、まさかそのあと直ぐに勝つとは思わなかった。ましてや海外メジャーで勝つなんて想像も出来なかった」
もう一人は、先に静岡で開催されたデサント東海レディスで渋野のキャディを務めた藤野啓介である。藤野は初日に106位と箸にも棒にも掛からなかった渋野が次の日に66という別人のようなスコアで回った事実に衝撃を受けたという。
「66というスコアをたたき出したゴルフセンスに驚いた。いつかバッグを担ぎたいと思い、彼女に声をかけました」
後日談となるが、この時からおよそ1年と3カ月後に藤野は東海レディスで渋野のキャディにつくことになる。かつて81の大叩きをして悔し泣きしていた少女は、全英女王となっていた。
「自分の直感は正しかった。突風が吹いてもフォームが崩れないし、心も体も強い。何よりスーパースターになるオーラがある」と絶賛した。
これが全英オープン4カ月前の渋野が置かれていた現実だった。渋野は全英オープン制覇の後の取材でこの頃を振り返り、試合に出られる事自体が嬉しくて楽しかった。今では当たり前のようの試合に出ているが、ついこの間まで、試合に出られるかどうかが勝負だったと語っている。
だが青木や戸張が注目した渋野の潜在能力は本物だったのだろう。青木の的確なコーチングと渋野が持っていた才能が結びつき、目に見えて成績が上がり始めた。そして81と大叩きしたこの時から1カ月後に開催された国内メジャー公式戦「ワールドレディスチャンピオンシップ サロンパスカップ(茨城)で、大会史上最年少で優勝してしまうのである。
この時初めて「渋野日向子」の名前を脳裏に刻んだゴルフ関係者も多かったはずだ。アマチュア時代にさしたる成績も残していない渋野は、日本国内においても全く無名に近かった。その無名選手がペ ソンウや穴井 詩、笠りつこなどのベテランを抑えて優勝したのだ。
ちなみに初優勝がLPGAツアー公式戦というのは史上13人目の快挙である。まだショットが不安定でミスも多かったが、パッティングに冴えを見せ、接戦を制したのだ。
更に2カ月後の7月には「資生堂アネッサレディスオープン」でツアー2勝目をあげる。賞金ランキングでも2位に躍進し、日本のゴルフファンにその名を知られるようになる。
この時、運命のいたずらとでも言うべき事態が起こる。8月に開催される「AIG全英女子オープンゴルフトーナメント」への出場資格がアースモンダミンカップ(6月27日〜30日千葉・カメリアヒルズCC)までの戦績(終了時点で賞金ランキング5位以内)がボーダーとなる事が決まったのだ。この大会の前の段階で、渋野は賞金ランク8位。全英に出るためには、ランクを3つ、順位で7位以内に入らなければならなかった。初日24位T、2日目10位Tと次第に順位を上げていたものの、見通しは明るくはなかった。今にして思えば、渋野は全英出場を熱望しているわけではなかったのではないだろうか?初優勝が国内メジャーだったこともあり、向こう3年間のシード権を得た渋野は一時期目標を見失い、コーチの青木に叱責されたりしていた。その渋野の新しいモチベーションが海外メジャーの出場ではなかったのか?
この辺りは、海外メジャーに出ることで自らをステップアップさせようとする他の黄金世代の選手たちとは、明らかに異なるメンタルの持ち主なのであろう。
「国内メジャーで勝ったから、次は海外メジャーでも出てみっか」
言葉は悪いが、そんなノリだった気がする。
アースモンダミンカップ3日目、後半に強い渋野は1ボギー5バーディ、トータル8アンダーで単独6位まで上昇した。
そして最終日、雨と強風の中渋野は安定したショットとパッティングでスコアを維持する。悪天候でスコアを崩す選手が多い中、全般でバーディーを連発した。
圧巻だったのは15番ホール。グリーンをやや外れた場所に打ち込んだ渋野だったが、外から7メートルあまりのバーディパットを見事に決めたのだ。
ここがターニングポイントだった。この結果渋野は4位タイでホールアウト、賞金1200万円を得た。これにより8位だった賞金ランキングが3位にジャンプアップし、まさに「滑り込み」で、全英への出場資格を得たのだ。
だが当の本人はあまり嬉しくもなかったらしい。渋野は青木とタイで強化合宿をした以外は、日本から出たこともなかった。長時間のフライトもあまり好きではない。「経験と勉強のため」に、言葉は悪いが「イヤイヤ」英国に向かったのだ。
渋野の海外初試合という事で、所属先のRSK山陽放送のスタッフが密着取材しているが、ロンドン・ヒースロー空港に降り立った渋野は「着いたばかりだけどもう帰りたい」とカメラの前で漏らしている。翌日にロンドン観光に出かけたが笑顔は皆無。言葉もわからず食事にも慣れない渋野は、本当に早く終わって欲しいと思っていたという。
「静かに行って、そーっと予選を通過して、静かに帰ってくる」というのが出発前の渋野の目論見だった。だが、その目論見はいい意味で全く違う方向に進んでいく。
初日、66を叩き出し6アンダー、トップと1打差の2位タイに付けたのだ。更に2日目も3ストローク伸ばして9アンダーの2位タイ。この驚くべきニュースは、日本では大きく報じられることもなかったが、現地メディアはこの事実に注目し、渋野は日本より英国で話題になった。
この時点で渋野が優勝すると考えた国内外のメディアはほぼ皆無だったようだが、現地で取材していた日本のスポーツメディアの間では「ひょっとしたら」という空気が漂いはじめていたようだ。
理由はいくつかある。一つはテレビ解説をしていた戸張捷と、この時点で日本人唯一のメジャー覇者である樋口久子が、渋野に勝者のオーラがあると漏らしていたこと、のちに述べるが「スマイルシンデレラ」と名付けられるほど笑顔が絶えず、日本国内の大会よりリラックスしてプレーしているように見えた事、そして渋野がスロースターターで、前半より後半、初日より2日目、3日目と大会が進むにつれて調子を上げてくるタイプである事を、国内メディアの記者たちはよく知っていたからである。しかも今回は初日から2位につけるロケットスタートである。期待が高まるのも自然な成り行きだった。
だが我々日本のファンは、これまでウンザリするほど同じ光景を見せられてきた。初日にいいポジションに付けていても、大会が進む中でスコアを伸ばしていく外国勢に比べてスコアが伸びずにズルズルと後退し、いつのまにかテレビから姿を消す日本人選手の姿を。
あるいは、あと1歩、2歩の勝負どころで攻めきれず、セーフティを選んだ挙句に勝利がスルッとその手からこぼれていく選手の姿を。。。。
しかし、渋野は違っていた。これまでのどの日本人選手にも似ていなかった。
「こんな選手見たことありません」テレビの実況アナが何度上ずった声を上げたか分からない。
渋野は最後まで渋野のままだったのである。
(この項続く)