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IDEAのブログ

思いつきと好きなこと、関心がある事、書きたいことを自由に書きますが、責任は持ちません。IDEA=(理想)または(知恵)または(思いつき・発想・着想)あるいは(思想・意見)等の意味を含みます。

「危機」という言葉がある。

「感染爆発の危機」「医療崩壊の危機」「経済は危機的状況」

COVID-19感染症が世界を覆ってからというもの、この「危機」というキーワードは連日マスコミを賑わした。

実際にコロナ禍で「危機」に見舞われている個人や企業・団体は数え切れない。政府や行政もそれは同じだ。

 

令和3年4月24日、菅首相は官邸で記者会見し、翌25日〜5月11日まで、感染が拡大していた東京・大阪・京都・兵庫の4都府県を対象に、3度目の緊急事態宣言を発出した。いずれも各都府県の知事から要請を受けてのものである。

さらにまん延防止等重点措置の実施対象として沖縄、宮城、愛媛、愛知、加えて東京に隣接する埼玉・千葉・神奈川の合計7県が飲食店の時短営業の要請や、公共施設使用人員の制限、イベントや学校の部活動の自粛などの措置を講じている。

 

1回目の緊急事態宣言は安倍内閣によって実施された。令和2年4月7日、安倍首相(当時)は、1ヶ月前に成立した新型コロナウイルス対策特別措置法(以降特措法)に基づき、東京・埼玉・千葉・神奈川の1都3県、大阪・兵庫・福岡の1府2県に緊急事態宣言を発出した。

1週間後の4月16日には緊急事態宣言の対象を全国に拡大し、不要不急の外出の自粛や学校などへの休校要請、飲食店や商業施設などへの休業要請などが行われた。

実際のところ、この第1回目の緊急事態宣言ほど厳しいルールが課せられたことはない。

カラオケ店、ライブハウス、スポーツクラブ、映画館、遊園地などあらゆる業種が休業要請の対象になり、商業施設は生活必需品の販売を除いては業務を停止した。予定されていた殆どのイベントは中止となり、プロ野球、Jリーグ、トップリーグなどのプロスポーツも軒並み開幕を無期限延期した。

 

前にも書いたが、この1回目の非常事態宣言はたしかに効果があった。とりあえず第1波を抑え込むことに成功したのだ。後に幅広い業種を休業対象にしたり学校を休みにしたりしたことが功を奏したと評価する向きもあったようだが、私は違うと思っている。

 

このときは街から人が消えた。

日頃にぎやかな都市部も、まるでゴーストタウンの様相を呈した。今問題になっている「人流」は見事なまでに抑え込まれたのである。

それはなぜなのか?

 

日本国民に「緊急事態宣言を成功させよう」というモチベーションがあったからである。

 

誤解を恐れずに言えば、そういうことだ。

 

殆どの日本人にとって、首相が記者会見で緊急事態宣言を発出しますなどと話す光景は、初めて目にするものだったと思う。

海外からはニューヨークやローマの惨状が連日伝えられ、いよいよ日本にも来たかという感覚があった。

何より「緊急事態宣言」という耳慣れないワードは、あまりに新鮮に人々に響いたのだ。

中には負担がのしかかる医療従事者や介護従事者のことを考え、自粛すべきと考えていた人もいるだろうが、大部分の感染していない人々にとっては「ちょっと興味をそそられる未知の体験」だったのである。

何しろ平日でも週末でも、日本のあらゆる場所から人が消えたのだ。こんな光景は一生お目にかかれないかもしれない。

「自粛警察」などという言葉がネットで生まれた。マスクをしないで外を出歩く人を糾弾したり、他府県ナンバーの自動車に嫌がらせをするなどの行為が見られるようになった。

被害は街の小規模な飲食店などにも及び、時短営業中の店舗に嫌がらせの張り紙を貼ったり、実際に感染してしまった人の個人情報をネットに晒して問題になるなど、あらゆる愚行が行われたのもこの頃だ。

それもこれも「非常事態宣言に従う」ことが良しとする社会の合意形成がなされていたからである。

ある程度のマジョリティが支持するベクトルが示されると、その方向に大部分の人が奔流となって流れるのは日本人の特質の一つだが、その特質が感染対策にはいい方向で作用したのである。

 

6月に入って感染が一段落した際には、ある種の希望を多くの人が持ったに違いない。ワイドショーでもコロナ報道に割く時間が短くなり、人々の関心は「コロナ後」に向かった。

 

だがそれはつかの間の平穏に過ぎなかったことが後でわかる。

5月25日、およそ1ヶ月半ぶりに全国での緊急事態宣言が解除されたとき、多くの専門家や感染症の権威たちは、第2波、第3波の可能性を指摘した。気を緩めればたちまち感染がリバウンドする。何しろ予防薬も治療薬もないのだから(この時点では)当然といえば当然なのだが、政府も民間も凹んだ経済をなんとかしようと躍起になったのだ。

打ち出されたのは「感染防止と経済の両立」という耳障りの良いスローガンだった。これに伴い全国の自治体が打ち出したのは「新生活スタイル」というものである。

いわく「人と人の間の距離を取る」「手洗いやうがいの励行」「公共の場でのマスク装着」「大人数での飲食を控える」「テレワークや時差出勤の奨励」「換気を行う」「密集・密接・密閉の3密を避ける」など、コロナ禍が始まった際に専門家が奨励した行動様式を生活スタイルとして根付かせようとしたものだ。

こうした感染抑制対策を行いながら経済活動を活発化させようというのが「新生活スタイル」の目標だった。

 

しかしうまくいかなかった。

秋風が吹く頃、新規感染者の数が全国で不気味に上がり始めた。急拡大とまでは行かなかったが、都市部においては感染拡大が深刻化し、医療や介護の現場が声を上げ始めた。

もともとこの新生活スタイルは、多くの人々が同様の行動をとって初めて効果を上げられるものだ。だがすべての日本人が厳密に新生活スタイルを実行するわけではない。

さらに経済活動を活発化させれば、ヒト・モノ・カネ・情報が動き回ることになる。カネや情報は問題ないが、ヒト・モノは直接的に感染拡大の要因になる。経済を動かしながら感染を抑制するなどというのは単なる幻想に過ぎないのだ。

もちろん、そう言わねばならなかった政府や行政の立場も理解できる。たとえ感染が広まっても経済を動かすとは、人道的な観点からも口が裂けても言えない。さりとて感染抑制に走れば経済がもたず、コロナそのものではなくその影響で不利益を被る「二次被害」が増大する。

 

この頃には、賢い日本人の大部分が気づいていたに違いない。感染を抑えながら経済を回すという理想が、実は幻想に過ぎないことを。しかし表立って誰もそう言わない。政策だけで人の生活様式をコントロールするなど自由社会では不可能なはずなのに(北朝鮮でも不可能だと思う)誰もそう言わない。テレビなどでこのワードが出てくるたびに、言いようのない閉塞感が日本社会を覆っていったような気がする。

 

年末には東京都での新規感染者が1,300人を超えて過去最高となり、リバウンドが誰の目にも明らかになった。

政府は年明け早々の2021年1月8日に2回目の緊急事態宣言に踏み切った。感染者は右肩上がりで増え始め、もはや猶予はなかった。

2回目の宣言下では、1回目に比して一斉休業・一斉休校などの厳しい措置は取られなかった。飲食店に対しても営業時間の短縮や酒類の提供時間の制限などが要請されたが、休業までは求められていない。

国民に対しても同じだった。都道府県をまたいでの移動の自粛、挨拶回りや忘年会の自粛、不要不急の外出の自粛、イベントの人数制限、テレワークや時差出勤の推進など、どこかで見たような景色の繰り返しとなった。解除の目処は医療体制・感染状況がステージ3程度まで降りてきた場合とされたが、専門家の指摘はステージ2だった。

 

この頃から休業や時短に応じた業種への協力金・補助金の原資が問題になり始めていた。東京都は国内では数少ない黒字自治体で、毎年の黒字による予備費の積立金も巨額になっていたのだが、2回目の宣言下ではほとんど使い切ってしまっていた。当然ながら休業補償ということになれば、金額は協力金よりずっと大きくなる。休業要請が専門家会議で検討された際、緊急事態宣言に消極的だった菅首相に財務省が働きかけ、協力要請の線にとどめたとされている。

だが、この中途半端な対策のツケはマイナスの要素となって跳ね返ってくる。

それまでも、緊急事態宣言ではなかったが、様々な対策キャンペーンが全国各地で行われていた。とりわけターゲットになったのがまん延防止等重点措置、いわゆる「まん防」である。

事実上、日本は昨年の秋以降ずっとまん防適用だったと言っていい。もちろんまん防は法律で決められたものなので、適用基準が決まっているが、その基準を越えようが超えまいが、やることは一緒だった。他にやれることもなかったのだ。

2回目の緊急事態宣言の内容を見て「まん防とどこが違うのか」という声が澎湃と沸き起こった。

いつもと変わらない というのが大勢の意見だった。変わるはずもなかった。他に対策など無い。休業要請を時短要請に変えた以外、なんの変化も無かったと言っていい。

この代わり映えの無さが、2回目の緊急事態宣言を有名無実化してしまったのだ。

実際、宣言下では人の流れなどはほとんど変わらず、週末には人手が増える有様だった。都道府県をまたいでの移動なども普通に行われ、1回目の宣言下で見られたような自粛ムードはなかった。

 

冒頭にも書いたが、緊急事態とか非常事態というのは、生きていく上でのあらゆる事をいったん「後回し」にして、あるいは「いったん横において」事態に対処するという事を言う。それが緊急事態である。地震などの天災や火事などの人災に見舞われると、人々は何を差し置いても避難を優先する。逃げることが全てになる。非常事態とはそういうものであり、だからこそ効果がある。

だがこうした状態は長く続けることができない。いつまでも人生や生活を「後回し」にすることはできないのだ。

案の定、2回目の緊急事態宣言は長引いた。感染者数がなかなか下がらず、自粛とは程遠い生活様式の人も増え始めた。

「コロナ疲れ」「自粛疲れ」「我慢の限界」など、ひっきりなしに要請される自粛や制限などに限界を感じる、あるいは嫌になるというような報道が目立ったのもこの頃だ。

2回目の緊急事態宣言が解除されたのは3月21日のことだった。およそ2ヶ月半に及んだ長い緊急事態宣言だった。

 

その裏で懸念されていたのが「変異種」による感染拡大である。

コロナウイルスはRNA核酸を基にしたウイルスだが、RNA核酸の特徴は「エラーが多い」ということだ。ヒトの遺伝子はDNAで構成されており、二重螺旋構造が特徴だが、こちらのほうが変化はずっと少ない。髪や目の色など細かいディテールに違いはあるものの、人間がほとんど同じ形態で生まれてくるのは、この構造に拠るところが大きい。

だがRNAはエラーや変化が大きく、変異体・変異種がいとも簡単に生まれてくる。インフルエンザに様々な変異種が存在するのもそのせいだ。例えば「風邪薬」というものは長い間望まれているにも関わらず登場してこない。RNA核酸のエラーのメカニズムを解明できないので、流感ウイルスの基になっているミクソウイルス群(様々なミクソウイルスという粘膜多糖体がある)に直接作用するような薬を作ることができないのだ。インフルエンザが毎年流行るのも連続抗原変化という現象によって、事実上毎年新型が登場していることによる。

英国型変異種、ブラジル型変異種など海外からの情報が入り始め、医療関係者に新たな緊張が走り始めていたころ、やはり福音は海外から入ってきた。

 

ワクチンである。

 

日本政府は2020年初夏の頃から、コロナウイルスワクチンの開発を行っている製薬会社と交渉を行ってきた。有力な交渉先はファイザー(米)、アストラゼネカ(英)、ジョンソン・エンド・ジョンソン(米)、モデルナ(米)、サノフィ(仏)、GSK(グラクソスミスクライン)(英)、ビオンテック(独・のちに同社はファイザーと共同研究していたことが明らかとなる)などである。既にこの時期、ファイザー、モデルナ、アストラゼネカ社は第2相の臨床試験・治験の段階にあり、最も早い段階で入手が期待できた。

アメリカ食品医薬品保健局も英国保健省も、安全性と有効性がある程度確認できれば、通常の手続きを短縮して緊急承認し、直ちに臨床の現場に投入する意向を表明していた。

 

日本でもワクチン接種は必須である。当然ながら日本国内でも開発が進められたが、日本は先進国で最も薬事承認の基準が厳しく時間がかかることで知られている。私は厚労省も政府も今度は柔軟に動くのではないかと思っていたのだが、それはやはり幻想だった。

外国政府はワクチン開発を進める企業に多額の資金を投入し、全面的に支援していた。アメリカやEU諸国では日本では考えられないほど厳しい制限(ロックダウン)を何回も行っていたが、経済復活の鍵はワクチンにあるという事を早くから理解していたのではないか。

ワクチン製造に目処が立てば、次に問題になるのが「接種」である。できるだけ短時間にできるだけ多くの人間に接種するという相反する課題を克服するために、各国政府は知恵を絞りシミュレーションを重ねていた。アメリカやイギリスでは1年以上も前から全国的な予防接種を想定してのリハーサルやシミュレーションを実施し、あらゆる可能性を検討していたのだ。

 

日本政府はその時何をしていたのか?

 

もちろんワクチンを確保し、どう接種するかという検討作業は行われてはいた。

だが、それよりももっと大きな問題を抱えていた。

東京オリンピックである。

 

ワクチンとオリンピックについては次回に。

 

 

 

世界中を揺るがす新型コロナウイルス感染症...このニュースを昨年春からどれだけ耳に目にしたかわからない。

2020年初頭、中国・武漢市に端を発したこの感染症は、瞬く間に世界中に拡がった。人類のほとんどが免疫を持たず、有効な治療薬も予防ワクチンも存在しなかったため、人々は「接触機会」を減らすことでしか、感染を防ぐ術はなかった。それは今もたぶん変わっていない。

「グローバル・スタンダード」という言葉が指すように、今や「ヒト・モノ・カネ・情報」は国境など無いかのように移動する。それはウイルスにとっても同じだ。

日本にやってきた「黒船」は世界一周を売り物にしていたクルーズ船だった。船内で集団感染(クラスター)が発生し、マスコミは連日このニュースを取り上げ、中国・武漢市の都市封鎖(ロックダウン)の様子を取り上げていたが、それはどこか対岸の火事のような雰囲気だった。

一部の専門家はコロナウイルスの脅威を世界で最初に警告した中国人医師・李文亮(感染者の治療をする過程で自らも感染し命を落とした)が遺したデータから、日本での感染拡大について警告を発していた。

当初、中国当局はデマを流して人々を不安に陥れたとして、李医師に圧力をかけ、逮捕も辞さない構えだったが、中国本土で感染が拡がり李医師自身が感染して死亡すると、途端に彼を英雄として讃えた。

日本での感染拡大のキッカケは一つではなかっただろう。クルーズ船に乗っていた乗客が陽性であるにも関わらず、そのまま電車で帰ったり、船内で治療に従事していた医療スタッフから感染が拡がったりしていた。

当時は検査体制も出来上がっておらず、検査の精度も低かった。そもそもCOVID-19がどのようなウイルスなのかもわからず、遺伝子の解析も進んでいなかった。

クルーズ船とは別に、国内のあちこちで感染が拡がり始めた。殆どがインバウンドに依存していた観光地を抱えている地域だ。日本の観光地の多くはアジア地域からのインバウンド客が下支えをしているが、その中でも最も「上客」なのが中国人観光客である。

もっとも早く感染拡大の火の手が上がったのは意外にも北海道だった。

札幌では2月上旬に「さっぽろ雪まつり」が開かれる。単体のイベントとしては北海道最大のイベントであり経済効果も大きい。観光客が世界中からやってくるため、市内の宿泊施設は期間中はほとんど満室になるほどだ。

札幌市は隣国中国の惨状やクルーズ船でのクラスター発生などを見て、開催の可否を決めかねていたようだ。日本よりも感染が早く拡がっている海外から大量に観光客がやってくる。開催すればどうなるかは誰の目にも明らかだった。

だがさっぽろ雪まつりは開催された。「会場での飲食は控える」「雪像鑑賞の際に立ち止まらない」「マスク着用」などいくつかの感染防止ルールが取り決められただけで、具体的な予防策は一つもなかった。

開催の可否について、地元経済界の突き上げは相当なものだったようだ。とにかく開催しなければ地域経済のダメージが大きすぎる、というのがその理由だ。旅行・宿泊・飲食を含め観光収入に依存している地元経済界は、開催中止など自殺行為に等しいと考えたのだろう。

だがそのツケは驚くほど早く請求されることになる。雪まつりが終了した1週間後、会場でイベント管理業務についていた広告代理店の社員2名が陽性であることが確認されたのだ。これが公式に発表された北海道最初の感染者である。

さらに道内の各地から集ってきていた観光客は地元に帰って感染の萌芽を撒き散らした。3月に入り感染は瞬く間に道内全域に拡がり、札幌や旭川など一部の都市を除いて医療体制が逼迫し始めた。コロナウイルスは摂氏5℃以下ではほとんど増殖しないことで知られているが、摂氏10℃以上では活発に増殖する。気温の上昇に伴い感染者が急増。鈴木道知事は独自の緊急事態宣言を発し、飲食店や遊戯施設などに休業養成を行った。

当時は法律が整備されていなかったため、この「宣言」はあくまでもキャンペーンであり、その内容は「お願い」であった。だがこの早期の決断が功を奏し、北海道は全国に先駆けて「最初の山」を抜けることに成功する。

これを見た政府は3月13日「コロナウイルス感染対策特別措置法(コロナ特措法)」を成立させ、海外で行われていたロックダウンのような強制力はないが、感染対策に特例で予算措置できる環境を整えた。各都道府県知事の休業・時短養成は法律で担保され、協力してくれた場合は協力金を支給できるようになった。また必要に応じて学校や公共施設の休校・休業や医療機関への患者受け入れ養成などが特措法に基づいて出せるようになったのだ。

そして3月24日、日本政府・東京都・IOCの3者は、2020年東京五輪の1年程度の延期を発表した。当然のことながら賛否両論が渦巻いた。これについては別項で述べようと思うが、そもそも2月の段階で全国の小中高等学校に休校の養成を出し、Jリーグなど多くのスポーツイベントが無期限延期を余儀なくされていた時点で、五輪開催の目はほぼなかったと言えるだろう。最初に書いたが「接触機会を減らす」以外に感染防止の手段を持っていなかったのだ。五輪はその「接触機会」の最たるものの一つであり、世界中から人が集まってくることを考えると、判断としては妥当だと言える。

2020年4月7日、東京・神奈川・埼玉・千葉の一都三県、大阪・兵庫・福岡の各地に緊急事態宣言が出され、6日後には対象が全国に拡大した。

「テレワーク」という言葉が生まれ、オフィスで働く人々は自宅で作業するようになった。幼稚園や学校は休校または春休みが延長され、商業施設を中心に不特定多数が集まるインフラの殆どが休業した。イベントは軒並み中止か延期となり、酒類を提供する飲食店は僅かな補助金を得て休業した。

何よりこの時点では「コロナウイルス感染症」がどのようなものかという共通認識すら国内にはなかった。マスコミの責任が大きいと思うが「高齢者は危ないが若者は感染しない・あるいは感染しても症状が出ない」「基礎疾患がある場合は重症化のリスクが高い」「マスクはあまり意味がない」様々な情報が飛び交ったが、中にはさして根拠のないものも多かった。

 

だが、日本国内が初めての感染症による緊急事態宣言に右往左往していたこの時期、アメリカのバイオベンチャー企業であるM社では、すでにコロナウイルス感染症に対する予防ワクチンの第一相の臨床試験に入っていたのである。このことを報じていた国内マスコミは全くなかった。もしかしたら日本政府も知らなかったかもしれない。このことは別章で詳しく述べたい。

 

「飛沫感染」「自粛」「ソーシャルディスタンス」「ホームステイ」様々な新語があらゆるメディアを覆い尽くし、報道はコロナ一色となった。どんな時にも同じだが、民放各局は感染症専門医や研究者を番組に出演させ、各者各様の意見と予測が世論を左右する状況となった。

 

街角からヒトが消えた。

当時、厚生労働省のクラスター対策班で解析を行っていた北海道大学の西浦博(当時・現京都大学教授)は「他人との接触機会を8割減らすことが感染抑制のカギである」と発言。

現実社会で接触機会を8割減らすというのは不可能なことのように思えたが、社会規範に忠実な日本の国民性もあって、最初の緊急事態宣言は一応感染抑制に成功した。5月に入って感染は下火となり、逼迫していた医療機関にも余裕が出始めていた。

5月14日「特定警戒都道府県」(北海道・東京・埼玉・神奈川・大阪・兵庫・京都)を除く39の県で緊急事態宣言は解除された。21日には特定警戒都道府県の中の大阪・京都・兵庫の関西3府県が解除対象となり、25日には首都圏一都三県と北海道の緊急事態宣言が解除され、4月7日以来およそ1ヶ月半に渡って続いた「自粛生活」が一区切りした。

メディアでは久しぶりに登校や通勤などの「日常」が映し出され、行楽地に赴く人やショッピングを楽しむ人など「宣言前」の日常が戻ったかのようだった。政府は緊急事態宣言でダメージを受けた観光業・旅館業を支援する「GoToトラベル」飲食店を支援する「Gotoイート」などのキャンペーンを6月以降積極的に推し進め、傷んだ経済の再生を目指した。

もちろんこれには異論もつきまとった。一応感染は下火にはなったものの、予防薬も治療薬もなく接触機会を減らすことだけが感染抑制の唯一の方法だったのだ。人々が動き出せば感染が再拡大するのは自明の理だった。

 

「8割おじさん」と呼ばれるようになった前出の西浦博は「Gotoトラベルなどを行えば再び感染が拡大する」と警告していた。他の専門家も同様だった。政府委員として「コロナ対策会議」の座長である尾身茂(自治医科大学名誉教授・新型インフルエンザ等対策閣僚会議新型インフルエンザ等対策有識者会議会長)は、新たな生活スタイルを提唱した。

3密(密集・密閉・密接)の状態を避け、できるだけ他人との距離を取りながら生活するというものである。手洗いやうがいの推奨、不要不急の外出の自粛、マスク着用の励行など、コロナ禍における生活様式の基本的な行動規範を定めたものだ。

尾身はGotoトラベルやGotoイートなどの「人が動く」キャンペーンにはそもそも反対の立場だった。1回目の緊急事態宣言が一定の効果を上げたことで、有識者会議の考え方が正しいことが証明された。だがコロナウイルスは消滅したわけでない。感染再拡大の可能性はいつでもあった。

だが政府は有識者会議のように感染防止だけを考えるわけにはいかなかった。緊急事態宣言などで被った経済的損失があまりに巨額だったためだ。2020年度の経済成長率はマイナス10%を超えるという予測もあり、低迷というよりは「収縮」と言った方が適切なくらい経済は疲弊していた。政府と有識者会議の間には次第に「溝」が生まれ始め、官邸サイドは有識者会議の提言やマスコミへの発言を疎ましく思うようになっていった。

もともと「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」は新型コロナウイルス感染症対策本部に置かれており、コロナ対策においては閣僚会議と「並列」の立場で首相に進言できる権能を持っていた。(感染症対策本部長が首相だったため)

ところが、感染対策において「経済」を優先させたい政府と「感染予防」に重きを置く専門家会議の意見対立が鮮明になると、政府は組織変更を行い「専門家会議」を「有識者会議」へと改組し、尾身など医療の専門家だけでなく経済や社会学の専門家も「有識者」として参加させた。さらに有識者会議を新たに立ち上げた「新型コロナウイルス等対策閣僚会議」の下に付けた。こうして有識者会議は閣僚会議に「助言」を行う立場となり、その影響力は低下した。これらの改変は首相が菅に代わってから行われたものだが、前の安倍内閣では菅は官房長官を努めており、政府と専門家会議の調整役を担っていた。思えば「確執」はその時に芽生えていたのかもしれない。

有識者会議は「感染予防こそが経済対策」というスタンスを変えなかった。それは正しいものだったが、実現するには膨大な財政出動と時間が必要だ。ダメージを受けた日本経済と、その影響で職を失ったり収入が減った人々にはあまり時間は残されていない。何より巨額の財政出動には財務省が猛反対したようだ。

こう書くといかにもカネを惜しんだ財務省が諸悪の根源のように見えるが、実のところはそうでもない。すでに国家財政の半分以上を「国債」に依存している日本の国と地方は「借金」に首まで浸かった状態だ。2020年度予算に計上していた予備費はこの時点でとっくに使い切っていた。新たな予算措置には当然補正予算が必要になるが、実際の原資は借金で賄うことになる。政府が新発債(新規発行国債)を出せば、それを引き受ける「買い手」が必要だ。報道などで「国債で賄う」という言い方をするが、国債を出せば無限に借金できるわけではない。それを引き受けてくれる機関投資家がいなければ「絵に描いた餅」なのだ。

日本の新発債のほとんどは長期国債(いわゆるLongbond・償還5年以上)である。多額の国債の利払いを抱える日本政府の財政事情では、すぐに償還期限がやってくる短期国債(Shortbond)は発行できない。当然ながら償還期限が長いほど利払いが増え、借り手である日本政府に不利になる。その買い手を探し出すのは財務省の仕事なのだ。

日本の長期国債の買い手の大部分は国内の機関投資家(銀行・生保・証券)であるが、かつてのように国内だけで国債を消化するのは難しくなっており、今は海外の機関投資家や外国政府なども重要な買い手である。こうした相手にプレゼンと説明を行い、国債を引き受けるように説得するのは並大抵ではない。一時期言われた「ジャパンプレミアム」のように、何らかのクーポンを要求されることもある。日本の国債の格付けが昔より低下しているためだ。日本政府の信用度はかつてのように高くはないのだ。

こうした背景もあり、できるだけ財政出動を抑えたい政府と有識者会議の妥協点が「感染拡大を防止しながら経済を活性化させる」という夢のようなスローガンだ。

安倍内閣・菅内閣と2つの政権において、コロナ対策の実務を取り仕切る西村康稔経済財政担当大臣(特命)を始め、あらゆる政府関係者や自治体の首長が事あるごとにこのフレーズを口にし始めたのは、Gotoトラベルが始まった7月に入ってからのことである。

だが、多くの国民がこのスローガンに懐疑的な視線を向けていたのは言うまでもない。そして「夢のような」このスローガンが、単なる「幻想」に過ぎなかったことがはっきりするまで、さしたる時間も必要としなかったのだ。

                      (この項続く)

 

 

 

 

 

日本を代表すると言ってもいい俳優、田中邦衛さんが令和3年3月24日に他界した。享年88歳、死因は老衰だったという。田中さんは岐阜県出身で俳優座の7期生。1957年に映画「純愛物語」でデビュー。その後「若大将シリーズ」や「網走番外地シリーズ」等で人気を博す。1980年以降はテレビドラマの出演も増え、1981年放送開始のテレビドラマ「北の国から」に黒板五郎役で初主演、不器用だが愛情深い父親役を演じ、国民的な俳優となった。

2010年の映画「最後の忠臣蔵」が事実上の遺作となったが、2010年ころから表舞台への露出が減り、2012年6月に行われた盟友・地井武男の葬儀で弔辞を読んだのを最後に、表立った活動は無かった。

晩年の田中さんは、生活のあらゆる場面で介護が必要な状態になり、2017年以降はリハビリテーションを繰り返しながら過ごしていたという。

 

田中さんの死去を受け「北の国から」で因縁浅からぬフジテレビは「北の国から87’初恋」を追悼番組として放送した。今から34年前に制作されたドラマであるにもかかわらず、10%近い視聴率を獲得したという。

この「北の国から」はTV版連続ドラマが1981年10月~1982年3月まで2クール(全24話)で放送された。テレビの連ドラとしては異例なロングタームだが、元々この作品は企画段階から長期的な展開を視野に入れて制作されたものだ。出演者たちの「加齢」を考慮しつつ、1983年~2002年の間、全8回にわたってスペシャルドラマが放送されている。

およそ22年間という長期に渡って描かれたこのドラマは「家族愛」「親子」「自然」「消費社会へのアンチテーゼ」「都会と田舎」「農林水産業が置かれている厳しい現実」など、ヒューマンな要素から社会的なテーマまでを包含している。

 

田中さんが演じた黒板五郎は北海道・富良野の「麓郷(ろくごう」という土地で生まれた。開拓農家の息子で、生活の厳しさから家業の後継を拒否し上京。東京で玲子(いしだあゆみ)という女性と結婚して1男1女を授かるも別離。2人の子どもを連れ、故郷である麓郷でほとんど原始的と言っていい生活を親子3人で始めるところから物語が始まっている。

五郎が東京で何をしていたか等は作品の中で描かれていないし、なぜ子どもを連れて麓郷に帰ったかについても、本人が明確に語る場面はない。直接的には玲子の不倫が原因なのだが、敢えてセリフにせず作品の中で少しづつ視聴者に「推測させる」演出になっている。

この作品は視聴者に何かを「考えさせる」という手法が特徴的だ。非常にわかりやすい現代のドラマに比して、どちらかと言えば「分かりにくい」作り方となっている。わかりにくい人の心情というものを、黒板五郎という口数の少ない主人公が体現する。「北の国から」は理屈では割り切れない「何か」を映像化しようとする作業だったのではなかったのだろうか?

北の国からのセリフは「言う」というよりも「絞り出す」という感じに近いものが多い。重要な場面でのセリフは特にそうだ。溢れるような様々な思いを絞り出すようなセリフに凝縮させる。見ているものに染み込むように伝わる作風だ。

 

この作品の生みの親とも言うべき脚本家の倉本聰は、現在も北海道富良野市に在住している。倉本は東大を卒業したあとニッポン放送に入社。ラジオ番組の制作を手掛けながら匿名で脚本を書いていたが、制作ディレクターと脚本家の二重生活に限界を感じてニッポン放送を退社しフリーの脚本家となる。NHK大河ドラマ「勝海舟」の制作をめぐって同局とひと悶着起こした倉本は北海道・札幌市に転居。3年後の1977年に現在の富良野市に移住した。

北海道に住んでからは北の国からを始め「優しい時間」(2005年1月期・フジテレビ)や「風のガーデン」(2008年10月期・フジテレビ)「昨日、悲別で」(1984年日本テレビ系スペシャル)など、北海道を舞台にした作品を多数残している。映画でも北海道・砂川市を舞台にした映画「駅-STATION」なども有名だ。

倉本脚本は独特の「間」を持つことで知られている。考えてからしゃべるような「間」、場合によってはセリフの数を極端に減らし、表情やしぐさなどで出演者の心情を表現するような描写も多い。

このような演出は作品に「重厚感」をもたらす。この作品のもうひとつの特徴が、たくさんの人間が絡み織りなす「圧倒的な重厚感」である。

特に大友柳太朗、笠智衆、大滝秀治(いずれも故人)などのベテラン陣の演技力は作品の雰囲気を一変させるほどの迫力があり、登場シーンが比較的少ないにも関わらず、見るものに強烈な印象を残している。

この独特の「間」は、黒板五郎の息子である黒板純(吉岡秀隆)のナレーションというかモノローグ(独白)にも生かされている。作品の随所に出てくるこのモノローグは、時にストーリーの案内を行ったり、セリフの代わりに純の気持ちを伝えたりする。

倉本作品特有の語尾を濁した静かなこのモノローグは時に子供時代の初恋の人にあてたものであったり、父や妹の蛍(中島朋子)にあてたものであったりする。彼らに富良野での出来事や自分の思いを「聞こえない」言葉でつづりながら、物語は進行する。

「~と思われ・・」「~であり」「。。。。なわけで」などの特徴的な言い回しは、その後数々のバラエティ番組などでパロディに使用されたが、それほどインパクトの強いものだった。

 

このモノローグ手法が成立した要因は、吾郎の息子である黒板純を演じた吉岡秀隆の高い演技力にあるのではないか。

吉岡の才能を認めたスタッフがこのやり方を取り入れたというのは想像に難くない。

TVシリーズなど初期の作品を見返すと、純を演じた吉岡秀隆と妹の蛍を演じた中嶋朋子の極めて高い演技力に驚かされる。当時のオーディションは正しく機能していたと言うべきだろう。後に子役で有名になった芦田愛菜や鈴木福などとは、こう言ってはなんだが、比較するのもどうかというほどの圧倒的な芝居力である。

特に中嶋朋子などはその表情や声のトーンの変え方など、子役ながらベテランの雰囲気さえ漂よわせている。

このドラマには前出のベテラン3人以外にも、地井武男、竹下景子、岩城滉一、高橋昌也、のちには大地康夫、原田美枝子、大竹しのぶなど演技力に定評のある役者が名を連ねている。こうしたキャスティングなどにも「芝居」を重視する同作品のコンセプトが現れている。

 

倉本聰は田中さんが死去したのを受けてマスコミの取材に答え、なぜ田中邦衛を五郎役にしたかについて「一番情けない」という点で全員の意見が一致したからだという。俳優としての田中さんはダンディな人だったが、劇中の黒板五郎は不器用で控えめ、しかもみっともないほど一生懸命に生き、家族を愛する男として描かれている。例え情けなくてもみっともなくても、全力で愛するもの(家族、故郷、自然)を守るという五郎の立ち位置そのものが、この作品を骨太なものにしている。

 

この作品を最初から見ていると、将来に向けて実に多くの伏線が張られていることに気がつく。

シリーズ終盤で蛍と結婚する笠松正吉(中澤佳仁)は、純と蛍の幼友達だが、この頃から正吉が蛍を異性として意識しているのがわかる描写が既にある。

84'夏で、半年前には富良野に残り、草太(岩城滉一)との結婚まで仄かしていた雪子(竹下景子)が、かつての不倫相手が離婚したのを機に手のひら返しで結婚して上京するという場面で、納得がいかないと厳しい声を向ける五郎。ここでは理屈では割り切れない雪子の「女」としての情念、好きという自分ではコントロールできない人としての感情などが描かれる。多くの人間を傷つけて成し得たこの結婚は、後に離婚して子どもまで手離し、雪子は一人富良野に戻るという結末を迎える。

看護師を目指していた学生時代に知り合った和久井勇二(緒方直人)と恋をし、後を追うように札幌に出た蛍は、勤め先の病院で医師と不倫に落ち、根室半島の根元にある光石という土地へと駆け落ちする。そんな蛍の居場所を知った純は五郎とともに蛍に会いに行く。やがて二人に背を向けてその場を去り行く蛍に「いつでも富良野に帰ってこい」と声をかける五郎。不倫をして周囲に迷惑をかけたりしたことを責めることもなく、ひたすらに娘を思いやる五郎の言葉に泣き崩れて駆け寄る蛍の姿は、現代日本で失われつつある「家族」「親子」という強い絆を感じさせる。たとえ世間的によくないとされていることであっても突き進んでしまう人の性。理屈で割り切ることのできない何かを見事に表現したシーンだった。

もう一つ、全編を貫いているのは「自然」と物質万能主義とでもいうべき現代の社会の様相に対する強いアンチテーゼである。

TVシリーズの最初は、東京で暮らしていた純と蛍が電気も水道もない麓郷での生活に驚嘆するシーンが数多く描かれている。これらは沢から手作りの水道を引いたり、風力発電機を作ったりして解決していくのだが、1981年という時代背景を考えると、同じ日本で実際にこのような生活があったということにまず驚かされる。

作中では富良野を猛烈な冬嵐が襲い、水も電気も止まって大騒ぎになっていた町の住宅地に比べ、元々何もない生活をしていた五郎一家にはなんの影響もなかったことが描かれている。

最後の作品となった「遺言」のエンディングは、冬山を歩きながら五郎が遺言を一人語るという構成になっているが、その中でも「すべて自然から頂戴しろ」という言葉がある。五郎の先達である開拓農民は、自然の恵みを生きる糧としていたのだろう。

私はとある場所で、倉本聰の講演を聞く機会があった。彼は現代社会で当たり前とされているライフスタイルを「いくら漕いでもどこにも着かない自転車に乗るようなもの」とユーモアを交えて語っていたのを覚えている。自然と共に暮らし、自然の恵みに感謝することが人間本来の姿であるという趣旨の講演だったと記憶しているが、彼の言わんとしている自然への感謝と憧憬は、黒板五郎を始めとする富良野の人々が作品中で見事に体現している。そして「カネ」に振り回されて生きることがいかに馬鹿馬鹿しいことなのかということも強調されている。実際、作中に登場する富良野の人々は今の物差しから見て裕福な人は一人もいない。しかし時にそんなことを忘れてしまうほど素敵な生活を送っているように見える場面がある。

五郎は長いシリーズの中で、廃屋と言って差し支えない小屋を自力で修理して棲み処とし、次に山から切り出した木を手作業で丸太にし、ログハウスのような丸太小屋を作った。そこを火災で失うと最後には皆が邪魔だと言って捨てていた石を使って「石の家」を作り、恩人でもある中畑(地井武男)の妻のために捨ててあるものだけで作られた「捨てられた家」まで作ってしまう。都会で一戸建ての家を持つことは、多くの人にとって難しい時代になっているが、自然の恵みと知恵で家を建ててしまう五郎の姿は、長い長い住宅ローンに喘ぐ現代人への「皮肉」のようにも感じられる。

これほど「自然」にこだわったドラマもほかにないだろう。作品には富良野をはじめ北海道の雄大な自然を切り取ったカットが随所に挿入される。野生動物も然りだ。春夏秋冬、美しくも厳しい自然とそこに生きる人々。自然の優しさ・恐ろしさを見せながら紡がれていくこのドラマは、いつまでも終わらない人の営みを映し出しているようにも見える。

劇中では、牧場の倒産で富良野を離れざるを得なくなった純と正吉の姿が描かれているが、そのような実例は現実に枚挙に暇がない。災害などで被害を受け離農を余儀なくされる人々や、事業が立ち行かずに夜逃げする農家など、日本の第1次産業が置かれている厳しい現状も容赦なく描写されている。田中さん追悼番組となった「初恋」で純の初恋の相手となった大里れい(横山めぐみ)の一家も、畑を霜でやられるという不幸で富良野を去っている。(余談だが、この時オーディションに来た横山はやる気が全くなく、倉本聰曰く完全な素人だったらしい。しかし圧倒的な「華」があり、満場一致で選ばれたというエピソードが残っている。横山は結局「95’秘密」で他の相手と結婚するまで純とつかず離れずの関係を続けることになるが、これはれいを演じた横山の圧倒的な可憐さが理由らしい。再放送でも17歳当時の横山の美しさが衝撃的だと話題になった)

 

様々な人生の様相を描きながら20年以上も続いたこのドラマを名作だと評する人も多い。スタッフや出演者の高齢化など様々な理由で2002年に終了したこのドラマは、多くの遺産を残した。当時すでに売れっ子だった役者以外にも、吉岡秀隆、中島朋子、内田有紀、横山めぐみ、裕木奈江、洞口依子など、この作品をきっかけにブレイクし、息の長い役者として活躍している人は多い。

ちなみに倉本聰は「遺言」の後の「その後の北の国から」にも構想を持っているらしい。それによれば五郎は孤独な自然独居老人となり、税金も払わず金も稼がず自給自足の日々を麓郷で送り、純は結(内田有紀)とあっさり離婚して富良野を離れ、東京から福島に行き着き、福島第一原発の除染処理という危険な仕事に身を投じる。「遺言」のラストで、夫である正吉を追って富良野を離れた蛍は、福島で看護師をしながら消防士となった正吉と子どもの快の3人で暮らしていたが、東日本大震災の津波により正吉は死亡。夫の亡骸を探して彷徨ううちに兄の純と再会する。一方、純のかつての恋人だった小沼シュウ(宮沢りえ)は嫁ぎ先だった神戸で離婚して富良野に戻り五郎のもとを訪ねる。また純の初恋の相手だったれいは東京で暮らしていたが離婚、銀座の女として働いていた。ある日、とあるラジオ番組を通じてれいと純はお互いの居場所を知り、東京で数年ぶりの再会を果たす・・・・・等々、それぞれの「人生模様」が描かれるというものらしい(ほかにも設定はいろいろあるようで、時々イベントや取材などで倉本聰の口から語られている)田中邦衛さん亡き後は難しいとも思うが、その後の北の国からを見てみたい気がする。そしていつかまた富良野に人々が集まり、様々な問題を抱えながらも生きていくという骨太な作品をぜひ作ってもらいたい。

 

田中邦衛さんのご冥福を心からお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

今年、猛威をふるった新型コロナウイルス感染症は、社会活動・経済活動だけでなく人間社会のありとあらゆる部分に甚大な影響をもたらした。「人が集まることができない」という事が、これほどまでにネガティブファクターだったとは、多くの人の予想を超えていたのではないか。自宅で過ごす時間が多くなり、「おうち時間」をどう過ごすのか?が重要な生活テーマになった。

「自粛」という長いトンネルに入り、インターネット動画配信サービスやデリバリーサービスの利用が急激に伸び始めたが、その一つに国内ドラマの見逃し配信などが見られる「Paravi」というプラットフォームがある。

ParaviはTBSとテレビ東京が共同で運営している動画サイトだ。テレビドラマの見逃し・最新作を始め、過去の名作ドラマなどアーカイブ的なサービスも提供している。(テレビ朝日はTELASA、フジテレビはFOD(フジテレビオンデマンド)を独自に運営、Paraviでは、中京テレビや東海テレビなどドラマを制作している地方局のコンテンツもラインナップされている)このParaviで、週末2日間で162万回というTBSドラマ歴代最高の再生回数を記録した作品がある。2018年10月期に放送された「大恋愛~僕を忘れる君と」がそれである。

このドラマは放送終了からおよそ1年が経過した2020年正月に全話が一挙に再放送され熱心なファンを喜ばせたが、コロナ禍で撮影が思うに任せず、予定されていたコンテンツが放送できなくなった今年6月にも、未公開カットや主演二人のコメンタリー(副音声)などを含めた「特別編」が放送され(1~3話)、再び話題となったのだ。

本放送時も平均視聴率10.1%と二桁台を維持し、人気を博した同作品だが、放送終了後も数回にわたって再放送され、コロナ自粛期間においても、新垣結衣・星野源主演の「逃げるは恥だが役に立つ」と並んで、再編集・再放送のコンテンツに選ばれた。

この作品は、近年放送されたドラマの中でも、特徴的な要素をいくつも備えていた作品だった。何より地上波での本放送よりもネット配信によって視聴され盛り上がったという「デジタルミックスの成功例」でもあった。またそのキャスティングやストーリーも画期的で、SNSを利用したマーケティングでも当時の他作品の一歩先を行き、ある意味それまでのドラマの予定調和的な構成を突き崩したとも言えるだろう。

 

視聴率が取れない「ラブ・ストーリー」という定説

恋愛ものは視聴率が取れないというのは、業界の定説となりつつある。いわゆる「トレンディドラマ」の時代から、恋愛ものは若者向けドラマの定番だった。男女の恋愛模様そのものが、作品の骨格となることができた時代だった。象徴的なのは「月9」だろう。1987年より始まったこの放送枠は「恋愛ものドラマ」の象徴だった。集団恋愛から1対1の恋愛ものまで、歴代の作品はどれも高視聴率を稼ぎだし、作品で見られるファッション、料理、ヘアスタイル、主人公の住んでいる部屋のインテリアなど、あらゆるものが当時のF1層(20代女性)のライフスタイルの手本となり、それは社会現象と言っていいものだった。

しかし2002年以降、恋愛ドラマは急激に衰退する。ヒット作品を次々と生み出した月9枠は、平均視聴率が一桁に終わる作品が続出し、放送していたフジテレビの業績不振と相まって、同局凋落のシンボルのように見られるようになった。2010年以降もこの傾向は続き、以前のように人気のある男優・女優を並べて恋模様を描けば作品が成立するという時代は完全に終わった。代わって台頭したのが医療・企業・警察などを舞台にした「社会派」作品とよりライトに人間関係を描いた「ラブコメ」だった。

恋愛ドラマがなぜダメになったかについては諸説がある。いわゆる「価値観・ライフスタイル・視聴手段の多様化」「娯楽を含めた余暇の時間の使い方の多様化」などがそれだが、私はそれだけとは思えない。もっとも根底にあるのは「格差」なのではないか。

バブル時代においては、恋愛ドラマはドル箱だった。先にも少し触れたが、作中の登場人物がいかに浮世離れした生活を送っていようと、それを少しでも真似ようという機運が社会にあったように思える。だがバブル後の「失われた20年」において、社会のあらゆる部分で「格差」が露呈し、人々は嫌でも自らが置かれている「現実」を直視せざるを得なくなった。それでもバブル後の10年はまだ深刻ではなかったように思えるが、後半の10年は「格差・貧困」というそれまで日本社会で何となく隠遁されていた問題が表面化するようになった。「貧すりゃ鈍する」の言葉通り、文化や芸術を人々が楽しむためには、ある程度の「余裕」が必要なのだが、その「余裕」を持てなくなった人が増えたということなのだろう。

人々はかつてのように、ドラマの中で描かれる「キラキラした恋」に共感したり憧れたりすることが出来なくなってしまったのだ。

「大恋愛〜」はその名の通り、どストレートな「恋愛ドラマ」である。しかもオリジナル作品であり「原作」はない。ドラマの視聴率が下がるに従ってオリジナルドラマは姿を消し、代わって増えたのが小説や漫画の人気コンテンツを下敷きにした「原作もの」である。特に2000年代に入ってこの傾向は拍車がかかり、原作の人気にあやかろうという作品が続出した。原作の読者やファンをそのまま「視聴者」としてある程度獲得できることが見込まれるため、制作側としてはある種の「保険」がかけられる事になる。

「大恋愛〜」のストーリーは大まかに言えば以下のようなものだ。

【ストーリー】

本編の主人公は北澤 尚(きたざわ なお)という35歳の産婦人科医である。同じく産婦人科医である母と二人で、都内でホルモン治療専門の女性向けクリニックを経営している。彼女は仕事一筋で生きていて極めて理性的な女性だったが、35歳という年齢もあり心配した母に勧められて見合いをする事になった。その見合い相手が市原侑一という精神科医だった。侑一は将来を嘱望される優秀な医師で、健康で知性のある母親という「役割」を務めてくれる相手を探していた。この考え方に共感した尚は侑一と婚約。1ヶ月後の挙式に向けて多忙な日々を過ごしていた。

ある日、ワシントンで研究活動をしている侑一に代わって、尚は新居への引っ越しを行っていたが、この引越し業者の中に、のちに尚の夫となる間宮真司(まみやしんじ)がいた。真司は生まれてすぐに神社に捨てられていたのを、その神社の宮司が発見しそのまま育てたという過去を持つ。彼は21歳の時に小説「砂にまみれたアンジェリカ」を発表して文芸賞を受賞、侑一同様に将来を嘱望された若手小説家だったが、二つ目の作品が酷評されて評価は地に落ち、次第に文壇から遠ざかった。40歳になった今では小説家だった過去も忘れ、引っ越し業者として生計を立てる日々だった。

尚は、引っ越しの作業員としてやってきた真司がなぜか気になった。全然タイプでもないのに、なぜか惹かれるものがあったのだ。尚は真司の処女作「砂にまみれた〜」の熱心な愛読者であり、その一節を誦じるほど思い入れがあった。引っ越しの荷物の中には当時の初版本が大切に保管されていて、真司はこの尚という女性がかつての自分の作品のファンである事を知るが、現状に負い目を感じていた真司はそれを言い出せなかった。

引っ越しの翌日、上階の水道トラブルによる漏水が起きる。尚はたまたま段ボールを取りに来た真司にトラブルの処置を依頼する。応急処置をした真司に、尚はお礼にと食事に誘う。尚は真司への関心が次第に恋心に変わっていくのを自覚していたが、自分でもどうしようもなかった。

尚は数日後、真司の職場を訪れ再び食事に誘う。尚が結婚を控えた身であり、また自分の作品の大ファンであることが真司を消極的にさせた。尚の中にある小説家のイメージと今の自分が、あまりにかけ離れているように思えたからだった。真司は食事の約束をすっぽかして店の階下で尚を待っていた。なぜ来なかったのかとお気に入りの「砂にまみれた〜」の作中のセリフを使って問い詰める尚に対し、真司は自分がその小説の作者であることを告げる。尚は驚くが、なぜ自分がこの男に惹かれるのか理由がわかった気がした。それまで理性的に生きてきた尚は、初めて理屈抜きで恋をした。それは運命的な出会いとなったのだ。

尚は全力で走るかのように、真司との恋に突っ走る。初めは戸惑っていた真司も尚の真摯な心にうたれ、尚を受け入れる。尚は侑一に婚約解消を告げ、母の言葉も聞かずに真司の元へ走る。その途中で自転車と衝突し病院に搬送されるが、その病院は侑一が勤める大学の病院だった。

尚に婚約破棄を求められ、予定を繰り上げて帰国した侑一は、事故で運び込まれた尚の頭部CT画像から、不治の病の兆候を見出し愕然とする。侑一は尚に病の兆候がある事を告知し、検査を受ける事を勧める。尚は気が進まなかったが、その分野の専門家である侑一の意見を聞き入れ検査を受ける。結果は侑一の見立て通りだった。

この結果に衝撃を受けた尚は真司に別れを告げるものの、真司の深い愛情に包まれ、ともに歩むことを決意する。その後、様々な困難を乗り越えながら二人は結婚し、子供を設けて家庭を築くが、尚の病状は刻一刻と進行し、日常生活を一人で送れない状態になる。やがて前途に絶望した尚は真司と息子の恵一を置いて家を出る。半年後に真司はようやく尚の居場所を探し当てたが、すでに尚は真司を認識できなかった。

真司は度々尚の元を訪れ、自分の作品を読み聞かせする。その際、奇跡的に一瞬だけ尚の記憶が蘇り、間宮尚として真司に言葉をかける・・・・

この出会いから最終的な尚の死亡(死因は肺炎)までの10年間に渡る恋愛ストーリーを描くというものだ。

 

「恋愛と病気」という王道

愛する人が不治の病に侵されるという悲恋は、昔から描かれてきた。古い話で恐縮だが、かつて三浦友和と山口百恵が「ゴールデンコンビ」と言われていた頃、山口百恵演じるヒロインが白血病に侵されるという「赤い疑惑」という大映ドラマがあった。このドラマは最高視聴率が30%を超える人気作品だった。

恋愛ドラマに「病」が関わる作品は枚挙に暇がない。がん、白血病、脳腫瘍、骨肉腫、物語の途中から次第に病状が悪化し、作品のトーンもシリアスさが増していく。最後は悲劇的な死を遂げ、残された者が再出発を誓うという内容が多い。

「大恋愛〜」も最終的には尚が肺炎で死去する(実際に認知症患者で誤嚥性肺炎で亡くなる人は多い)というラストになっているが、尚の死の場面は描かれていない。残された真司と息子・恵一の住む家に飾られた、フォトフレームに収められた尚の写真と真司のナレーションで、視聴者はそれを知るという展開だ。この作品では「アルツハイマー型認知症」がモチーフとして使われている。肉体的に死に直結する病ではないが「アイデンティティの死」ともいうべき状況に至るものだ。

直接的な死ではなく「魂の死」とでもいうべきこの病は、近年俄かにクローズアップされるようになっている「認知症」という病気の一種である。認知症にはアルツハイマー型のほか、レビー小体型や脳血管性、前頭側頭型などがあるが、最も有名で症例も多いのがアルツハイマー型認知症である。

この病は脳にアミロイドβペプチドというタンパク質が蓄積することにより、脳神経細胞が細胞死する事で進行するとされているが、正確な原因はいまだに把握されていない。認知症の原因は一つではないとも言われており、根治療法も見つかっていない。現状では進行を食い止めるか遅らせるかという治療しかなく、罹患した人は次第に自我を失い、行動の制御や周囲の認知を失っていく。

自分のことを全く忘れてしまう(認知できなくなる)相手と向き合い続けるというのは、ある意味で死ぬことより残酷な事かもしれない。少なくともがん患者のように寝たきりという事もなく、外見的にはさほど変化もないのだ。

「大恋愛〜」の切なさはまさにここにある。尚と出会い、再び小説を書き始めることで本来の自分を取りもどしていく真司に対し、真司に出会うことで本当の自分に出会った尚は、真司と対照的に自分を失っていく。第1話〜第9話まではその過程を描いているとも言えるが、これまでの恋愛・病作品と異なるのは、決してシリアス一辺倒ではなく、二人の幸せな時間やイチャイチャなシーンなどが散りばめられている点にある。悲劇的な未来が待っているにも拘らず、懸命に生き懸命に家族を愛する尚とそれを支える真司の確かな愛情が、この物語を特別なものに変えているのだ。

戸田恵梨香の出色の演技力

主人公・北澤尚を演じる戸田恵梨香は当時30歳になったばかりで、あまり知られていないが役柄では5歳ほど年上を演じている。

戸田は10代の頃から連続ドラマでヒロインや主演を務め、その芝居の力量には定評がある女優だ。

戸田恵梨香はこれまで比較的クールなヒロインや、シリアスな役柄が多かったように思う。アクション的なものにも挑戦しており、演じる役柄の幅は広い。

変化が見られたのは2018年に入ってからだ。この年の4月期に日本テレビ系列で放送された「崖っぷちホテル」で主演した戸田の役柄は、倒産寸前のホテルを立て直す支配人役だったが、優柔不断で気が弱いというこれまでにない役を演じて注目を浴びた。この役はまさに戸田にとって新境地だったのだと思う。

そして同年、30歳を迎えた戸田は若年性アルツハイマー型認知症で次第に自分を失っていく「尚」を演じた。彼女は既にベテラン女優と言っていいキャリアだが、その戸田をして「難しい」と言わしめたこの役は、自身の代表作としたいというほど印象深いものだったようだ。

若年性アルツハイマー型認知症は単に「忘れる」のではなく記憶自体を「失う」のである。この忘れると失うの違いを演じるのは、かなりの難題だったに違いない。そもそも完治した人間もいないので、体験談すら聞けないのである。戸田自身も「シーンごとに監督・共演者と話し合いをしながら一つづつカットを積み重ねた」と述懐していたように、まさに手探りの状態だったのだろう。

戸田は「役に引っ張られることはない」と断言していた。どんなに役作りをしても「カット」がかかれば自分に戻り、撮影所を出れば日常に戻れると言っていたが、この作品に限ってはそうでもなかったようだ。

「泣いてはいけないところで泣いてしまったり、尚と自分自身が重なったり、芝居と現実の境目が分からなくなった。こんなことは初めてだった」と放送終了後のインタビューで戸田は告白している。

実際「大恋愛~」が終わった後も役が「抜けず」、次の仕事がなかなか入れられなかったという。(戸田は撮影終了後、”役が抜けない”と相手役だったムロに告白していたという)

本編では、戸田恵梨香のかわいらしさ、一途さ、愛らしさがクローズアップされ、戸田の新たな魅力を引き出す作品にもなっていた。毎週のように登場する「ラブシーン」「イチャイチャシーン」が話題になり、相手役のムロツヨシの人気も一気に高まった。戸田は「毎週イチャイチャシーンがあったが、嫌味に見えず微笑ましかったのは、相手がムロツヨシだったから」と告白している。

シリーズ前半の輝いている尚と、後半の次第に目の光を失っていく尚、戸田は全10話を通じて、自らを尚そのものとして演じていた。この見事な芝居力が、作品の見どころの一つだ。

「トダムロ」「ムロトダ」

相手役だったムロツヨシは役者としてのキャリアは20年に及ぶベテラン俳優だが、本格的恋愛ドラマは初挑戦だった。もともと喜劇役者を目指していたムロは、下積み生活が長かった苦労人として知られている。「役者として食っていけるようになったのは30を過ぎてからで、顔と名前を知られるようになったのは30台も後半になってから」と本人が言うように、いわゆるGP帯の連続ドラマで主演するのは、この作品が初めてだった。

この番組のプロデューサー宮崎氏は「ムロさんが面白いと思っていた。役柄的にイメージがぴったりだった」のが起用の理由と言っていたが、戸田恵梨香とムロツヨシの「個人的関係」にも注目していたという。脚本を担当した恋愛ドラマの名手と言われる大石静氏も二人の関係性が物語構築のベースにあったと言っている。

今ではすっかり有名になっているが、戸田とムロは私生活でも大変に仲が良い。「人としての相性がいい」(前出・大石氏)ようで、誕生日を互いに祝ったり、仲間を交えて食事したりする間柄だ。戸田とムロの共演歴は意外に多く、直接絡まないものも含めれば4作品ほどで共演している。同棲する恋人を演じたこともあり、最初から息は合っていた。

ムロは他の主演男優クラスに多い「分かりやすいイケメン」ではなく、あるシーンやカットで見せる表情などで突然カッコよく見えるタイプだ。戸田はムロツヨシがイケメンだと放送開始前から番宣などでPRしていたが、放送後半には多くの視聴者に浸透したようだ。「ムロキュン」等と言う造語まで生まれたくらいである。

脚本の大石氏は、放送開始前に個別に戸田とムロと会食し、プライベートなエピソード等も聞いていたのだという。そのエピソードを脚本に反映したりしていたという点で、戸田とムロは「演技を超えた演技」が可能になったのかもしれない。おそらく戸田とムロは、自らの私的エピソードや性格を反映したキャラクターである「尚と真司」を自分の分身のようにとらえていたのではないだろうか?

この作品の人気を高めるのに一役かったのが、戸田とムロによる「インスタライヴ」である。OA日(毎週金曜日)の夜に、戸田とムロが自分の携帯電話を手に互いを撮影しあい、今夜の見どころやこれまでのストーリーに関する感想、はてまた二人の私的会話などを交えて行われたものだ。「少しでも宣伝になれば」という気持ちで始めたということだが、そもそも連続ドラマの主演女優と男優が、SNSでライブ動画を毎週発信するなど前代未聞である。

「全くのノープラン」で行われたこのインスタライブは、期せずして戸田とムロの人間性やその良好な関係性をうかがわせるものとなり、ファンは大いに盛り上がった。このライブ動画はあらゆるSNSを通じて拡散され、番組の視聴率を押し上げた。二人の人間的な魅力が新たなファン層を開拓し、いつしか「トダムロ」「ムロトダ」というコンビ名で呼ばれるようになったのだ。

もちろん戸田やムロの所属事務所(戸田はフラーム、ムロはASH&Dコーポレーション)の英断があったことも忘れてはならない。両社ともに自由でタレントの個性・自立を尊重する社風であったことも幸いした。

SNSを利用した番宣活動はこの作品以前にも行われている。Twitter上で番宣を行ったり、Instagramに撮影のオフショットを掲載したりするという手法はもはや当たり前のものである。また番組公式HPもコンテンツが充実しており、出演者のインタビュー映像やNGシーンの公開など様々な工夫が凝らされている。しかし、主演俳優が生の動画で語りかけるというものはこれまでなかった。

さらにこのインスタライブは本放送終了後も行われている。12月下旬のスタッフとの忘年会、年が改まった2019年1月にもDVDのコメンタリー収録の際と二度にわたって配信された。この時にはムロツヨシの誕生日前日だったこともあり、スタッフのサプライズでムロの誕生祝いが行われ、戸田恵梨香から誕生日のプレゼントが贈られた。これなども極めて異例のことである。

SNSで盛り上がったこのドラマの人気はインターネットによる新たな視聴スタイルを後押しした。同作品をネット配信していた「Paravi」では、月間の再生回数が100万回を超え、TBSドラマ歴代第1位、Paravi歴代第1位の記録を残すこととなった。

「ネットで最も視聴された恋愛ドラマ」として、大恋愛〜は長く人々の記憶に残るだろう。

今後の恋愛ドラマへの影響

恋愛ドラマというジャンルは今後も無くなることはないだろうが、1クールという期間を通じて二人の関係を描いていくという作風は相当にハードルが高い。しかもオリジナルドラマにとってはなおさらである。

「大恋愛〜」が残したものは大きい。それは何より「配役」が極めて重要であり、その関係性も含めて「どう見えるのか」が何よりも問われるという事実だ。少なくとも市場調査で好感度の高い、人気があるとされる女優や男優を並べておけば成功するというものではないことが、大恋愛で証明されたとも言えるだろう。

この大恋愛も他の人気作品と同様、続編を望む声が根強い。現に放送終了から2年近くが経った2020年9月、フジテレビで放送された「小泉孝太郎・ムロツヨシ 自由気ままに二人旅」という番組で、戸田恵梨香が番宣なしでゲスト出演するという異例のサプライズ企画が行われた。戸田恵梨香が純粋なゲストとしてバラエティ番組に出演するのも異例中の異例だが、何より他局で2年前に放送されたドラマをモチーフにした企画が成立するというのも極めて珍しい。事の発端は同番組の前回放送で、ムロが戸田恵梨香が理想の女性でありベタ褒めだったというのを受けて、共演している小泉孝太郎がスタッフに相談して仕掛けたもののようだが、特になんの条件もなく千葉の漁港まで戸田がやって来るあたり、放送終了後もトダムロの関係性は良好なままなのだろう。この放送後にネットは再びトダムロで盛り上がり、再び二人の共演を望む声が上がった。芸能ニュースでも取り上げられる程で、大恋愛のインパクトが大きかったことが窺える。

撮影中はあまりの仲の良さでリアルに交際しているのではないかと関係者に言われた程だったようだが、その関係性が作品をより輝かせるものとなったようだ。ファンの間からは二人の結婚を望む声も多く、今後の展開が興味深い。

平成の終わりに示された恋愛ドラマの稀有な成功例「大恋愛〜僕を忘れる君と」はそんな作品だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

海外のメジャータイトル、それは近くて遠いものだった。夢だったのかもしれない。

樋口久子が全米女子オープンを制したのは昭和52年(1977年)の事である。以来、日本人は男子も含め一人も戴冠することはなかった。

岡本綾子は全米で賞金女王になった事がある。宮里藍は世界ランキング1位になった事がある。それでも、メジャータイトルには手が届かなかった。岡本綾子は海外メジャー大会6試合で2位に入った事がある。宮里藍は最高位が3位、渋野と同じ黄金世代の筆頭である畑岡奈紗は、昨年の全米女子プロゴルフ選手権でプレーオフの末、2位にとどまった。

 

勝ち切る事ができなかったのだ。

 

樋口久子がメジャー覇者になったのはプロテストに合格して10年後の事だった。この間、9回も国内ツアーで賞金女王に輝き、74年と76年にはメジャーではないが、海外の大会でも優勝している(オーストラリアOP、ヨーロピアンOP)

つまり樋口はこの時点でほぼ完成されていた選手だったのだ。

 

前項でも書いたが、渋野はプロテストに合格して1年、国内ツアーでも2勝しただけである。(2019年8月時点、この後シーズン終了までに更に2勝した)

同年代のライバル畑岡奈紗はアマチュアで日本女子オープンを制した逸材である。樋口久子もプロデビューの翌年に日本女子プロゴルフ選手権と日本女子オープンの国内2大メジャーで優勝しているが、それ以来の偉業と言ってもいい。

渋野が全英を制した現在に於いても、おそらく総合力は畑岡の方が上だろう。渋野はまだ発展の途上にあり、未熟なところが沢山ある。

その渋野がなぜ全英で勝てたのか?

 

初日、2位タイにつけた渋野に緊張や気負いは全く感じられなかった。4番でボギーをたたいたが、8番でバーディーを取り返すとバック9に入って10〜12バンホールで3連続バーディ。更に15、17、18番でバーディを連発、6アンダーとした。

 

解説していた樋口も戸張も「とにかく伸び伸びとやっている」と指摘していた。

初日を終えた渋野は「気持ち悪い」と答えた。「なんでこんなにバーディが取れるのかわからない」

渋野は笑いながら初日を振り返った。樋口久子は渋野の無欲さに触れていた。確かにそうかもしれない。海外初試合、初メジャー、スコアがどうのこうのというレベルではなかったのかもしれない。

渡英前、渋野は「予選通過」と「学び」をテーマに挙げていた。デビューイヤーのルーキーとしては至極妥当な目標である。海外メジャー大会では、予選を通ることすら困難なのだ。

 

だが2日目、少し雰囲気が変わってくる。

これまで日本人選手に見られた、スコアの伸ばし合いに付いていけず、ズルズルと後退していく「お約束」は、渋野には無縁のものだった。

何より特徴的だったのは、パットがショートしない事だった。渋野のパットはカップに入るかオーバーするかのどちらかだった。メジャー大会ともなると、どの選手も距離を「合わせに」いく。

最悪入らなくても確実にパーセーブするためだ。スコアを維持するのに有効な手法だが、渋野は「パットは入れることしか考えていない。従ってピンに向かって打ちます」とインタビューに答えている。

そもそもパットはカップに届かなければ絶対に入らない。この子どもでも分かる理屈に、渋野は素直に従っていただけかもしれない。

日本のゴルフファンがこれまで嫌というほど見せられてきた光景、それはカップの手前で力なく転がるのをやめ、あらぬ方向へグニャリと曲がるハズレパットだったが、渋野にそれが見られない。これまでの日本人選手と明かに違っていたのだ。

 

1番パーでスタート、2番・3番ホール連続バーディ。4番でスコアを一つ下げたが、次の5番で得意のバウンスバック、スコアを戻す。

6番から15番まではパーという耐えるゴルフをしながら16番で待望のバーディ、スコアを3つ伸ばし、トータル9アンダーで、2位タイにつけたのだ。

初日は「日本のルーキーが頑張ってるね」と、どちらかと言えば上から見ていた海外のメディアが、この結果に俄かに注目し、渋野への取材が殺到した。

スコアとともに注目を集めたのが、渋野のプレースタイルとも言うべき「笑顔」に関するものだった。

メジャー大会、ましてや上位を争っている選手には、近寄りがたい空気が漂うのが通常だった。ホール間を移動する際も誰とも目線を合わせず、自分の世界に閉じこもる。同組で回る選手同士も殆ど会話をしないのがこれまでのメジャー大会だった。

だが渋野はキャディを務める青木と冗談を言い合い、笑顔でラウンドした。ギャラリーに手を振りながら笑顔で答え、ホール間の移動の際はハイタッチや写真撮影などにも気さくに応じていた。

 

「スマイル・シンデレラ」

 

現地メディアがつけたこの愛称は、これ以降渋野の代名詞となる。

イギリス・BBCのリポートを担当していたレイン・カーターは渋野のプレーを驚きと称賛をもって報じている。

「彼女はまるで二十歳の女性がイギリス旅行を楽しんでいるかのようにプレイしている。こんなにメジャー大会を楽しそうにラウンドする選手を見た事がない。おそらくは事の重大さがまだ理解できていないようだが、彼女はスターになる選手だ」

カーターは渋野日向子という選手に、新しい時代の息吹を感じていたのかもしれない。誰もが緊張と重圧に飲み込まれるメジャー大会だというのに、まるで日曜日の朝、近所のゴルフ場に遊びにきているような渋野のプレースタイルに衝撃を隠さなかった。

 

渋野は2日目にしてギャラリーの1番のお気に入り選手となった。英国で開催しているというのに英国出身の選手より声援が大きかった。

私はこの空気に勝利の匂いを感じた一人である。何か「この子に初優勝させたい」とでも言うような空気感が、中継の画面から伝わってくるのだ。このような選手を見たことがなかった。

 

3日目。南アフリカのアシュリー・ブハイと同組で回ることになった渋野は、スタートこそ無難にパーセーブしていたが、9番で3パットのダブルボギーを喫し、首位のブハイと一時は6打差がついた。テレビのリーダーボードから渋野の名前が消え、優勝争いは「いつものとおり」外国勢の中で展開されるように見えた。

大会後半でスコアが伸びず、ズルズルと後退していくのは、海外メジャートーナメントにおける日本人選手のお決まりパターンだったからである。

だが、渋野は違っていた。

 

ダボを叩いた9番の後、トイレに駆け込んで怒りを鎮め自分を取り戻した渋野は、ここから怒濤の追撃に移る。それはまさに「疾風怒濤」だった。

続く10番PAR5では、5mのバーディパットを沈めて得意のバウンスバック。これで勢いに乗った渋野は14番、15番と連続バーディ。パーで凌いだ16番で6打差をつけられたブハイを捕まえる。16番でボギーを叩くなどジリジリとスコアを落とすブハイを尻目に、渋野はバック9ではノーボギー、18番でもバーディを奪い、結果2位のブハイに2打差をつけ、トータル14アンダーで単独のトーナメントリーダーとなった。

後半を30という驚異的なスコアでラウンドした渋野は、首位で最終日に臨むというこれ以上ない状況となった。

渋野はラウンド後の公式記者会見に引っ張り出され、各国の記者から質問を受けたが、ここでも渋野らしい受け答えが見られた。

「本当は静かに予選を通過して静かに帰るつもりだったんですけど、もう無理っすねー」と心境を聞かれた渋野の答えに報道陣は爆笑。試合が終わってから緊張しているという渋野は「食べたもの全部吐きそう」だと言い、メジャーの日本人優勝は樋口久子以来42年ぶりだがと聞かれると「私で大丈夫ですかね?」と逆に報道陣に問いかける一幕もあった。

いくら海外メジャー初出場で無欲の渋野とはいえ、3日目終了時点でこの位置にいれば、優勝を意識しないわけがない。

ホールアウト後のテレビ朝日のインタビューでは「明日も攻め切れば優勝できるかもしれない」と、初めて「優勝」という言葉を口にした。

「ごはんを食べて、お菓子をいっぱい食べて寝ます」と明日への準備について答え、公式会見を笑いで締めくくった渋野は、いつもの通り、青木コーチと共にパター練習のドリルをこなして会場を後にした。後日談だが、青木は渋野の様子について「いつもと全く変わらなかった」と述懐している。

これを強心臓と取るか無欲と取るかは様々だろうが、少なくとも彼女には失うものが無かったのだ。

 

そして最終日、にこやかに一番ホールに姿を現した渋野に、現地ギャラリーの大声援が送られた。渋野は完全に全英オープンの主役になっていた。

ティーショットを打ち、ギャラリーに笑顔を振りまき、テレビカメラに手を振りながら歩き出した渋野に、現地中継のアナウンサーが「こんな選手今までいたでしょうか?」と半ば呆れたようなコメントを付けていた。何より同組で回ったブハイのティーショットに拍手をしている姿を、USAトゥデイ(電子版)は「最初のティで対戦相手に大きな拍手を送る選手は見たことがない」と渋野の人柄を称賛している。

この日の前半、渋野のゴルフは出入りが激しかった。3番PAR4では4パットのダブルボギーを叩いた。この時点でスコアを伸ばしていたリゼット・サラス(米国)に6打差をつけられ4位タイに後退。ホールに置かれたボードから渋野の名前が消えた。

もはやここまでと思われたが、渋野は4パットを叩いてかえって開き直れたという。続く4番はパー、5番でバウンスバックした渋野は7番でバーディーを奪い、この日のスコアをイーブンに戻す。

8番でボギーを叩いたもののバックナインに入った10番で、難しいフックラインを読み切ってバーディ。

そして勝敗を分けた12番PAR4、253ヤード。距離の出る選手なら1オンが可能だが、グリーン手前に池があり、入れれば2打罰。優勝は事実上無くなる。

多くの選手がリスクを回避しアイアンで刻んでいく中、渋野は何の躊躇いもなくドライバーを抜いた。

「ティが前に出ていたら狙って行こうというのはホールインの前から話していた。あそこで行かなければ悔いが残る」と渋野は試合後に語ったが、このようなとてつもない決断は、男でもそうそう出来るものではない。

技術にある程度自信を持てているベテランならまだしも、渋野は20歳のルーキーである。通常このようなケースでは、選手は様々な事を考える。トップとのスコア差、残りホールの数と計算できるバーディ数、ミスをした場合のリカバリーの可否、成功した場合のリターンなどを天秤にかけ、どのように攻めていくかを判断する。

人間には2通りのタイプがいると言われる。簡単な事を難しく考えるタイプと難しい事を簡単に考えるタイプだ。

渋野は間違いなく後者の思考なのだろう。恐らく失敗したらどうなるかなど露ほども頭になかったのだろう。ピンが見えていれば最短距離でそこを目掛けて打つ。それ以外に思考が入り込む余地は無い。

この瞬間、渋野はサムライだったのだ。負けたら腹切って死ねばいいとでも言わんばかりの潔さ。

私には、渋野が引き抜いたドライバーが日本刀に見えた。

 

そしてドライバー一閃 ややダフった打球はグリーンの縁ギリギリにキャリーされ1オン成功。

イーグルパットは外したが楽々バーディ。渋野の勇敢なプレーにギャラリーは拍手喝采である。

 

この瞬間、勝利の女神は渋野日向子に微笑んだのだ。

 

このホールで勢いに乗った渋野は続く13番でもバーディ、15番ではカメラに向かってタラタラを食べる余裕さえ見せバーディ。トップを行くサラスをついに捉える。

渋野の2組前を回っていたサラスはフロント9は絶好調だったが、終盤プレッシャーがかかったのかスコアが伸びない。

16番で微妙な距離のバーディパットを決められず、17アンダーにとどまってしまった。今のが決まっていれば優勝していたと解説の戸張捷が呟いたほどだった。

 

この瞬間、サラスの頭上から勝利の女神は飛び去ってしまったのだ。

サラスは最後の粘りを見せていたが、最終18番でもイージーな距離のバーディパットがカップに蹴られ、万事休止た。

 

渋野は16、17でパーセーブし17アンダーで最終ホールへ。移動中に観戦していた子どもにグローブをねだられ、サインして手渡す一幕も。中継のアナウンサーも「これが本当に初メジャー初優勝がかかっているのかという感じなのですが・・・・」ともはや感嘆する以外に無かった。

ティショットをフェアウェイのど真ん中に打つと、ギャラリーに手を振りながら歩き出す。2打目でグリーンの尾根を越えてピンまで6〜7メートルのバーディトライとなった。

渋野はリラックスしていた。2打目をダフった事をコーチの青木と冗談混じりに話し合い、追いかけてくるカメラに茶目っ気たっぷりに手を振った。

この時渋野は2打目を打つ前「ここでシャンクしたらカッコ悪いな」と青木に話していたのだという。青木は「そんな事したらバックドロップだ」と冗談を返していたらしい。

この師弟コンビは最後まで「いつもの通り」だった。

 

18番グリーンに入ってくるときには、ギャラリーが大歓声と大きな拍手で出迎えた。渋野は万面の笑みで大きく手を振りながらグリーンに入った。まさに千両役者だった。

 

ブハイよりも距離があったため渋野が先に打つ事になった。ライン読みをしている時も青木と何か話しながら渋野は笑っていた。

渋野が青木にラインを確認した際、曖昧な返事だったため「本当ですか?」と確認したらしい。青木は渋野の体が被ってラインが見えなかったため「もう早く打て」と言ったらしい。

歴史的大偉業を前にしてのこのやり取りに、渋野の強さが現れている。こんな場面で笑いながら準備するなどこれまであり得なかった光景だ。

「恐れを知らぬシンデレラ」と評したのは英・ガーディアン紙である。

解説していた樋口久子は「このくらいの距離があった方がいい。この方が思い切って打てる」とコメントした。

 

その通りになった。

 

渋野のウィニングパットはスライスしながらカップに向かい、反対側の壁に当たってカップに落ちた。

 

歴史的瞬間だった。43回を数える全英女子オープンの歴史に、史上最年少で優勝した日本人の名前が刻まれる事になったのである。

 

この場面を見ていた私は直感的に「入らないのではないか」と思った。理由は特にない。だがこれまで似たような場面でのロングパットは大抵外れていた。

この場合、まず最悪のケースを考えるのが常道だ。外してもパーセーブしさえすればプレーオフに持ち込める。3パットならその瞬間に全てが終わる。大抵の選手は距離を合わせに行くものだ。

 

「ショートしてボギーになるくらいならオーバーしたほうがマシ」という渋野は、この時も入れることしか考えていなかったという。そして「入れたらどんなガッツポーズをしようか考えていた」

 

もう驚く以外にない。

 

そして見事に沈めて見せた。パターを高々と天に突き上げたその勝利の瞬間は、永く語り継がれる瞬間となったのだ。

 

20歳の新女王に涙はなく、笑顔のウィニングとなった。セレモニーでは棒読みの挨拶で爆笑を誘った渋野は、笑顔のままだった。

これほどギャラリーに愛されたメジャーチャンピオンも珍しいのではないだろうか。最後のパットを決めた瞬間には、同組で回っていたブハイまでもが思わずバンザイをしたほどである。

相手選手が自分の事のように喜ぶなど、これまで無かった事だ。

渋野はそのスマイルとプレースタイル、人間力で、ギャラリーも、相手選手も、コースマーシャルもメディアも、そして風も芝も味方につけ、大きな祝福の渦の中で戴冠したのだ。

 

「42年ぶり日本人メジャー制覇」「輝く20歳のシンデレラ」「歴史的偉業」「スマイルシンデレラは永遠」

 

翌日の世界中のメディアはあらゆる賛辞を尽くしてこの勝利を讃えた。誰も知らなかった無名のこの日本人は、たった96時間でスターダムにのし上がったのだ。

 

だが、いいことはそう長くは続かない。

帰国した渋野は予定どおり国内ツアーに参戦したが、思わぬ試練が渋野を待ち受ける事になるのである。

(この項続く)