どんな選手にも似ていないー渋野日向子・全英女王に輝く(2) | IDEAのブログ

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海外のメジャータイトル、それは近くて遠いものだった。夢だったのかもしれない。

樋口久子が全米女子オープンを制したのは昭和52年(1977年)の事である。以来、日本人は男子も含め一人も戴冠することはなかった。

岡本綾子は全米で賞金女王になった事がある。宮里藍は世界ランキング1位になった事がある。それでも、メジャータイトルには手が届かなかった。岡本綾子は海外メジャー大会6試合で2位に入った事がある。宮里藍は最高位が3位、渋野と同じ黄金世代の筆頭である畑岡奈紗は、昨年の全米女子プロゴルフ選手権でプレーオフの末、2位にとどまった。

 

勝ち切る事ができなかったのだ。

 

樋口久子がメジャー覇者になったのはプロテストに合格して10年後の事だった。この間、9回も国内ツアーで賞金女王に輝き、74年と76年にはメジャーではないが、海外の大会でも優勝している(オーストラリアOP、ヨーロピアンOP)

つまり樋口はこの時点でほぼ完成されていた選手だったのだ。

 

前項でも書いたが、渋野はプロテストに合格して1年、国内ツアーでも2勝しただけである。(2019年8月時点、この後シーズン終了までに更に2勝した)

同年代のライバル畑岡奈紗はアマチュアで日本女子オープンを制した逸材である。樋口久子もプロデビューの翌年に日本女子プロゴルフ選手権と日本女子オープンの国内2大メジャーで優勝しているが、それ以来の偉業と言ってもいい。

渋野が全英を制した現在に於いても、おそらく総合力は畑岡の方が上だろう。渋野はまだ発展の途上にあり、未熟なところが沢山ある。

その渋野がなぜ全英で勝てたのか?

 

初日、2位タイにつけた渋野に緊張や気負いは全く感じられなかった。4番でボギーをたたいたが、8番でバーディーを取り返すとバック9に入って10〜12バンホールで3連続バーディ。更に15、17、18番でバーディを連発、6アンダーとした。

 

解説していた樋口も戸張も「とにかく伸び伸びとやっている」と指摘していた。

初日を終えた渋野は「気持ち悪い」と答えた。「なんでこんなにバーディが取れるのかわからない」

渋野は笑いながら初日を振り返った。樋口久子は渋野の無欲さに触れていた。確かにそうかもしれない。海外初試合、初メジャー、スコアがどうのこうのというレベルではなかったのかもしれない。

渡英前、渋野は「予選通過」と「学び」をテーマに挙げていた。デビューイヤーのルーキーとしては至極妥当な目標である。海外メジャー大会では、予選を通ることすら困難なのだ。

 

だが2日目、少し雰囲気が変わってくる。

これまで日本人選手に見られた、スコアの伸ばし合いに付いていけず、ズルズルと後退していく「お約束」は、渋野には無縁のものだった。

何より特徴的だったのは、パットがショートしない事だった。渋野のパットはカップに入るかオーバーするかのどちらかだった。メジャー大会ともなると、どの選手も距離を「合わせに」いく。

最悪入らなくても確実にパーセーブするためだ。スコアを維持するのに有効な手法だが、渋野は「パットは入れることしか考えていない。従ってピンに向かって打ちます」とインタビューに答えている。

そもそもパットはカップに届かなければ絶対に入らない。この子どもでも分かる理屈に、渋野は素直に従っていただけかもしれない。

日本のゴルフファンがこれまで嫌というほど見せられてきた光景、それはカップの手前で力なく転がるのをやめ、あらぬ方向へグニャリと曲がるハズレパットだったが、渋野にそれが見られない。これまでの日本人選手と明かに違っていたのだ。

 

1番パーでスタート、2番・3番ホール連続バーディ。4番でスコアを一つ下げたが、次の5番で得意のバウンスバック、スコアを戻す。

6番から15番まではパーという耐えるゴルフをしながら16番で待望のバーディ、スコアを3つ伸ばし、トータル9アンダーで、2位タイにつけたのだ。

初日は「日本のルーキーが頑張ってるね」と、どちらかと言えば上から見ていた海外のメディアが、この結果に俄かに注目し、渋野への取材が殺到した。

スコアとともに注目を集めたのが、渋野のプレースタイルとも言うべき「笑顔」に関するものだった。

メジャー大会、ましてや上位を争っている選手には、近寄りがたい空気が漂うのが通常だった。ホール間を移動する際も誰とも目線を合わせず、自分の世界に閉じこもる。同組で回る選手同士も殆ど会話をしないのがこれまでのメジャー大会だった。

だが渋野はキャディを務める青木と冗談を言い合い、笑顔でラウンドした。ギャラリーに手を振りながら笑顔で答え、ホール間の移動の際はハイタッチや写真撮影などにも気さくに応じていた。

 

「スマイル・シンデレラ」

 

現地メディアがつけたこの愛称は、これ以降渋野の代名詞となる。

イギリス・BBCのリポートを担当していたレイン・カーターは渋野のプレーを驚きと称賛をもって報じている。

「彼女はまるで二十歳の女性がイギリス旅行を楽しんでいるかのようにプレイしている。こんなにメジャー大会を楽しそうにラウンドする選手を見た事がない。おそらくは事の重大さがまだ理解できていないようだが、彼女はスターになる選手だ」

カーターは渋野日向子という選手に、新しい時代の息吹を感じていたのかもしれない。誰もが緊張と重圧に飲み込まれるメジャー大会だというのに、まるで日曜日の朝、近所のゴルフ場に遊びにきているような渋野のプレースタイルに衝撃を隠さなかった。

 

渋野は2日目にしてギャラリーの1番のお気に入り選手となった。英国で開催しているというのに英国出身の選手より声援が大きかった。

私はこの空気に勝利の匂いを感じた一人である。何か「この子に初優勝させたい」とでも言うような空気感が、中継の画面から伝わってくるのだ。このような選手を見たことがなかった。

 

3日目。南アフリカのアシュリー・ブハイと同組で回ることになった渋野は、スタートこそ無難にパーセーブしていたが、9番で3パットのダブルボギーを喫し、首位のブハイと一時は6打差がついた。テレビのリーダーボードから渋野の名前が消え、優勝争いは「いつものとおり」外国勢の中で展開されるように見えた。

大会後半でスコアが伸びず、ズルズルと後退していくのは、海外メジャートーナメントにおける日本人選手のお決まりパターンだったからである。

だが、渋野は違っていた。

 

ダボを叩いた9番の後、トイレに駆け込んで怒りを鎮め自分を取り戻した渋野は、ここから怒濤の追撃に移る。それはまさに「疾風怒濤」だった。

続く10番PAR5では、5mのバーディパットを沈めて得意のバウンスバック。これで勢いに乗った渋野は14番、15番と連続バーディ。パーで凌いだ16番で6打差をつけられたブハイを捕まえる。16番でボギーを叩くなどジリジリとスコアを落とすブハイを尻目に、渋野はバック9ではノーボギー、18番でもバーディを奪い、結果2位のブハイに2打差をつけ、トータル14アンダーで単独のトーナメントリーダーとなった。

後半を30という驚異的なスコアでラウンドした渋野は、首位で最終日に臨むというこれ以上ない状況となった。

渋野はラウンド後の公式記者会見に引っ張り出され、各国の記者から質問を受けたが、ここでも渋野らしい受け答えが見られた。

「本当は静かに予選を通過して静かに帰るつもりだったんですけど、もう無理っすねー」と心境を聞かれた渋野の答えに報道陣は爆笑。試合が終わってから緊張しているという渋野は「食べたもの全部吐きそう」だと言い、メジャーの日本人優勝は樋口久子以来42年ぶりだがと聞かれると「私で大丈夫ですかね?」と逆に報道陣に問いかける一幕もあった。

いくら海外メジャー初出場で無欲の渋野とはいえ、3日目終了時点でこの位置にいれば、優勝を意識しないわけがない。

ホールアウト後のテレビ朝日のインタビューでは「明日も攻め切れば優勝できるかもしれない」と、初めて「優勝」という言葉を口にした。

「ごはんを食べて、お菓子をいっぱい食べて寝ます」と明日への準備について答え、公式会見を笑いで締めくくった渋野は、いつもの通り、青木コーチと共にパター練習のドリルをこなして会場を後にした。後日談だが、青木は渋野の様子について「いつもと全く変わらなかった」と述懐している。

これを強心臓と取るか無欲と取るかは様々だろうが、少なくとも彼女には失うものが無かったのだ。

 

そして最終日、にこやかに一番ホールに姿を現した渋野に、現地ギャラリーの大声援が送られた。渋野は完全に全英オープンの主役になっていた。

ティーショットを打ち、ギャラリーに笑顔を振りまき、テレビカメラに手を振りながら歩き出した渋野に、現地中継のアナウンサーが「こんな選手今までいたでしょうか?」と半ば呆れたようなコメントを付けていた。何より同組で回ったブハイのティーショットに拍手をしている姿を、USAトゥデイ(電子版)は「最初のティで対戦相手に大きな拍手を送る選手は見たことがない」と渋野の人柄を称賛している。

この日の前半、渋野のゴルフは出入りが激しかった。3番PAR4では4パットのダブルボギーを叩いた。この時点でスコアを伸ばしていたリゼット・サラス(米国)に6打差をつけられ4位タイに後退。ホールに置かれたボードから渋野の名前が消えた。

もはやここまでと思われたが、渋野は4パットを叩いてかえって開き直れたという。続く4番はパー、5番でバウンスバックした渋野は7番でバーディーを奪い、この日のスコアをイーブンに戻す。

8番でボギーを叩いたもののバックナインに入った10番で、難しいフックラインを読み切ってバーディ。

そして勝敗を分けた12番PAR4、253ヤード。距離の出る選手なら1オンが可能だが、グリーン手前に池があり、入れれば2打罰。優勝は事実上無くなる。

多くの選手がリスクを回避しアイアンで刻んでいく中、渋野は何の躊躇いもなくドライバーを抜いた。

「ティが前に出ていたら狙って行こうというのはホールインの前から話していた。あそこで行かなければ悔いが残る」と渋野は試合後に語ったが、このようなとてつもない決断は、男でもそうそう出来るものではない。

技術にある程度自信を持てているベテランならまだしも、渋野は20歳のルーキーである。通常このようなケースでは、選手は様々な事を考える。トップとのスコア差、残りホールの数と計算できるバーディ数、ミスをした場合のリカバリーの可否、成功した場合のリターンなどを天秤にかけ、どのように攻めていくかを判断する。

人間には2通りのタイプがいると言われる。簡単な事を難しく考えるタイプと難しい事を簡単に考えるタイプだ。

渋野は間違いなく後者の思考なのだろう。恐らく失敗したらどうなるかなど露ほども頭になかったのだろう。ピンが見えていれば最短距離でそこを目掛けて打つ。それ以外に思考が入り込む余地は無い。

この瞬間、渋野はサムライだったのだ。負けたら腹切って死ねばいいとでも言わんばかりの潔さ。

私には、渋野が引き抜いたドライバーが日本刀に見えた。

 

そしてドライバー一閃 ややダフった打球はグリーンの縁ギリギリにキャリーされ1オン成功。

イーグルパットは外したが楽々バーディ。渋野の勇敢なプレーにギャラリーは拍手喝采である。

 

この瞬間、勝利の女神は渋野日向子に微笑んだのだ。

 

このホールで勢いに乗った渋野は続く13番でもバーディ、15番ではカメラに向かってタラタラを食べる余裕さえ見せバーディ。トップを行くサラスをついに捉える。

渋野の2組前を回っていたサラスはフロント9は絶好調だったが、終盤プレッシャーがかかったのかスコアが伸びない。

16番で微妙な距離のバーディパットを決められず、17アンダーにとどまってしまった。今のが決まっていれば優勝していたと解説の戸張捷が呟いたほどだった。

 

この瞬間、サラスの頭上から勝利の女神は飛び去ってしまったのだ。

サラスは最後の粘りを見せていたが、最終18番でもイージーな距離のバーディパットがカップに蹴られ、万事休止た。

 

渋野は16、17でパーセーブし17アンダーで最終ホールへ。移動中に観戦していた子どもにグローブをねだられ、サインして手渡す一幕も。中継のアナウンサーも「これが本当に初メジャー初優勝がかかっているのかという感じなのですが・・・・」ともはや感嘆する以外に無かった。

ティショットをフェアウェイのど真ん中に打つと、ギャラリーに手を振りながら歩き出す。2打目でグリーンの尾根を越えてピンまで6〜7メートルのバーディトライとなった。

渋野はリラックスしていた。2打目をダフった事をコーチの青木と冗談混じりに話し合い、追いかけてくるカメラに茶目っ気たっぷりに手を振った。

この時渋野は2打目を打つ前「ここでシャンクしたらカッコ悪いな」と青木に話していたのだという。青木は「そんな事したらバックドロップだ」と冗談を返していたらしい。

この師弟コンビは最後まで「いつもの通り」だった。

 

18番グリーンに入ってくるときには、ギャラリーが大歓声と大きな拍手で出迎えた。渋野は万面の笑みで大きく手を振りながらグリーンに入った。まさに千両役者だった。

 

ブハイよりも距離があったため渋野が先に打つ事になった。ライン読みをしている時も青木と何か話しながら渋野は笑っていた。

渋野が青木にラインを確認した際、曖昧な返事だったため「本当ですか?」と確認したらしい。青木は渋野の体が被ってラインが見えなかったため「もう早く打て」と言ったらしい。

歴史的大偉業を前にしてのこのやり取りに、渋野の強さが現れている。こんな場面で笑いながら準備するなどこれまであり得なかった光景だ。

「恐れを知らぬシンデレラ」と評したのは英・ガーディアン紙である。

解説していた樋口久子は「このくらいの距離があった方がいい。この方が思い切って打てる」とコメントした。

 

その通りになった。

 

渋野のウィニングパットはスライスしながらカップに向かい、反対側の壁に当たってカップに落ちた。

 

歴史的瞬間だった。43回を数える全英女子オープンの歴史に、史上最年少で優勝した日本人の名前が刻まれる事になったのである。

 

この場面を見ていた私は直感的に「入らないのではないか」と思った。理由は特にない。だがこれまで似たような場面でのロングパットは大抵外れていた。

この場合、まず最悪のケースを考えるのが常道だ。外してもパーセーブしさえすればプレーオフに持ち込める。3パットならその瞬間に全てが終わる。大抵の選手は距離を合わせに行くものだ。

 

「ショートしてボギーになるくらいならオーバーしたほうがマシ」という渋野は、この時も入れることしか考えていなかったという。そして「入れたらどんなガッツポーズをしようか考えていた」

 

もう驚く以外にない。

 

そして見事に沈めて見せた。パターを高々と天に突き上げたその勝利の瞬間は、永く語り継がれる瞬間となったのだ。

 

20歳の新女王に涙はなく、笑顔のウィニングとなった。セレモニーでは棒読みの挨拶で爆笑を誘った渋野は、笑顔のままだった。

これほどギャラリーに愛されたメジャーチャンピオンも珍しいのではないだろうか。最後のパットを決めた瞬間には、同組で回っていたブハイまでもが思わずバンザイをしたほどである。

相手選手が自分の事のように喜ぶなど、これまで無かった事だ。

渋野はそのスマイルとプレースタイル、人間力で、ギャラリーも、相手選手も、コースマーシャルもメディアも、そして風も芝も味方につけ、大きな祝福の渦の中で戴冠したのだ。

 

「42年ぶり日本人メジャー制覇」「輝く20歳のシンデレラ」「歴史的偉業」「スマイルシンデレラは永遠」

 

翌日の世界中のメディアはあらゆる賛辞を尽くしてこの勝利を讃えた。誰も知らなかった無名のこの日本人は、たった96時間でスターダムにのし上がったのだ。

 

だが、いいことはそう長くは続かない。

帰国した渋野は予定どおり国内ツアーに参戦したが、思わぬ試練が渋野を待ち受ける事になるのである。

(この項続く)