田中邦衛さん逝く「北の国から」は骨太だった | IDEAのブログ

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日本を代表すると言ってもいい俳優、田中邦衛さんが令和3年3月24日に他界した。享年88歳、死因は老衰だったという。田中さんは岐阜県出身で俳優座の7期生。1957年に映画「純愛物語」でデビュー。その後「若大将シリーズ」や「網走番外地シリーズ」等で人気を博す。1980年以降はテレビドラマの出演も増え、1981年放送開始のテレビドラマ「北の国から」に黒板五郎役で初主演、不器用だが愛情深い父親役を演じ、国民的な俳優となった。

2010年の映画「最後の忠臣蔵」が事実上の遺作となったが、2010年ころから表舞台への露出が減り、2012年6月に行われた盟友・地井武男の葬儀で弔辞を読んだのを最後に、表立った活動は無かった。

晩年の田中さんは、生活のあらゆる場面で介護が必要な状態になり、2017年以降はリハビリテーションを繰り返しながら過ごしていたという。

 

田中さんの死去を受け「北の国から」で因縁浅からぬフジテレビは「北の国から87’初恋」を追悼番組として放送した。今から34年前に制作されたドラマであるにもかかわらず、10%近い視聴率を獲得したという。

この「北の国から」はTV版連続ドラマが1981年10月~1982年3月まで2クール(全24話)で放送された。テレビの連ドラとしては異例なロングタームだが、元々この作品は企画段階から長期的な展開を視野に入れて制作されたものだ。出演者たちの「加齢」を考慮しつつ、1983年~2002年の間、全8回にわたってスペシャルドラマが放送されている。

およそ22年間という長期に渡って描かれたこのドラマは「家族愛」「親子」「自然」「消費社会へのアンチテーゼ」「都会と田舎」「農林水産業が置かれている厳しい現実」など、ヒューマンな要素から社会的なテーマまでを包含している。

 

田中さんが演じた黒板五郎は北海道・富良野の「麓郷(ろくごう」という土地で生まれた。開拓農家の息子で、生活の厳しさから家業の後継を拒否し上京。東京で玲子(いしだあゆみ)という女性と結婚して1男1女を授かるも別離。2人の子どもを連れ、故郷である麓郷でほとんど原始的と言っていい生活を親子3人で始めるところから物語が始まっている。

五郎が東京で何をしていたか等は作品の中で描かれていないし、なぜ子どもを連れて麓郷に帰ったかについても、本人が明確に語る場面はない。直接的には玲子の不倫が原因なのだが、敢えてセリフにせず作品の中で少しづつ視聴者に「推測させる」演出になっている。

この作品は視聴者に何かを「考えさせる」という手法が特徴的だ。非常にわかりやすい現代のドラマに比して、どちらかと言えば「分かりにくい」作り方となっている。わかりにくい人の心情というものを、黒板五郎という口数の少ない主人公が体現する。「北の国から」は理屈では割り切れない「何か」を映像化しようとする作業だったのではなかったのだろうか?

北の国からのセリフは「言う」というよりも「絞り出す」という感じに近いものが多い。重要な場面でのセリフは特にそうだ。溢れるような様々な思いを絞り出すようなセリフに凝縮させる。見ているものに染み込むように伝わる作風だ。

 

この作品の生みの親とも言うべき脚本家の倉本聰は、現在も北海道富良野市に在住している。倉本は東大を卒業したあとニッポン放送に入社。ラジオ番組の制作を手掛けながら匿名で脚本を書いていたが、制作ディレクターと脚本家の二重生活に限界を感じてニッポン放送を退社しフリーの脚本家となる。NHK大河ドラマ「勝海舟」の制作をめぐって同局とひと悶着起こした倉本は北海道・札幌市に転居。3年後の1977年に現在の富良野市に移住した。

北海道に住んでからは北の国からを始め「優しい時間」(2005年1月期・フジテレビ)や「風のガーデン」(2008年10月期・フジテレビ)「昨日、悲別で」(1984年日本テレビ系スペシャル)など、北海道を舞台にした作品を多数残している。映画でも北海道・砂川市を舞台にした映画「駅-STATION」なども有名だ。

倉本脚本は独特の「間」を持つことで知られている。考えてからしゃべるような「間」、場合によってはセリフの数を極端に減らし、表情やしぐさなどで出演者の心情を表現するような描写も多い。

このような演出は作品に「重厚感」をもたらす。この作品のもうひとつの特徴が、たくさんの人間が絡み織りなす「圧倒的な重厚感」である。

特に大友柳太朗、笠智衆、大滝秀治(いずれも故人)などのベテラン陣の演技力は作品の雰囲気を一変させるほどの迫力があり、登場シーンが比較的少ないにも関わらず、見るものに強烈な印象を残している。

この独特の「間」は、黒板五郎の息子である黒板純(吉岡秀隆)のナレーションというかモノローグ(独白)にも生かされている。作品の随所に出てくるこのモノローグは、時にストーリーの案内を行ったり、セリフの代わりに純の気持ちを伝えたりする。

倉本作品特有の語尾を濁した静かなこのモノローグは時に子供時代の初恋の人にあてたものであったり、父や妹の蛍(中島朋子)にあてたものであったりする。彼らに富良野での出来事や自分の思いを「聞こえない」言葉でつづりながら、物語は進行する。

「~と思われ・・」「~であり」「。。。。なわけで」などの特徴的な言い回しは、その後数々のバラエティ番組などでパロディに使用されたが、それほどインパクトの強いものだった。

 

このモノローグ手法が成立した要因は、吾郎の息子である黒板純を演じた吉岡秀隆の高い演技力にあるのではないか。

吉岡の才能を認めたスタッフがこのやり方を取り入れたというのは想像に難くない。

TVシリーズなど初期の作品を見返すと、純を演じた吉岡秀隆と妹の蛍を演じた中嶋朋子の極めて高い演技力に驚かされる。当時のオーディションは正しく機能していたと言うべきだろう。後に子役で有名になった芦田愛菜や鈴木福などとは、こう言ってはなんだが、比較するのもどうかというほどの圧倒的な芝居力である。

特に中嶋朋子などはその表情や声のトーンの変え方など、子役ながらベテランの雰囲気さえ漂よわせている。

このドラマには前出のベテラン3人以外にも、地井武男、竹下景子、岩城滉一、高橋昌也、のちには大地康夫、原田美枝子、大竹しのぶなど演技力に定評のある役者が名を連ねている。こうしたキャスティングなどにも「芝居」を重視する同作品のコンセプトが現れている。

 

倉本聰は田中さんが死去したのを受けてマスコミの取材に答え、なぜ田中邦衛を五郎役にしたかについて「一番情けない」という点で全員の意見が一致したからだという。俳優としての田中さんはダンディな人だったが、劇中の黒板五郎は不器用で控えめ、しかもみっともないほど一生懸命に生き、家族を愛する男として描かれている。例え情けなくてもみっともなくても、全力で愛するもの(家族、故郷、自然)を守るという五郎の立ち位置そのものが、この作品を骨太なものにしている。

 

この作品を最初から見ていると、将来に向けて実に多くの伏線が張られていることに気がつく。

シリーズ終盤で蛍と結婚する笠松正吉(中澤佳仁)は、純と蛍の幼友達だが、この頃から正吉が蛍を異性として意識しているのがわかる描写が既にある。

84'夏で、半年前には富良野に残り、草太(岩城滉一)との結婚まで仄かしていた雪子(竹下景子)が、かつての不倫相手が離婚したのを機に手のひら返しで結婚して上京するという場面で、納得がいかないと厳しい声を向ける五郎。ここでは理屈では割り切れない雪子の「女」としての情念、好きという自分ではコントロールできない人としての感情などが描かれる。多くの人間を傷つけて成し得たこの結婚は、後に離婚して子どもまで手離し、雪子は一人富良野に戻るという結末を迎える。

看護師を目指していた学生時代に知り合った和久井勇二(緒方直人)と恋をし、後を追うように札幌に出た蛍は、勤め先の病院で医師と不倫に落ち、根室半島の根元にある光石という土地へと駆け落ちする。そんな蛍の居場所を知った純は五郎とともに蛍に会いに行く。やがて二人に背を向けてその場を去り行く蛍に「いつでも富良野に帰ってこい」と声をかける五郎。不倫をして周囲に迷惑をかけたりしたことを責めることもなく、ひたすらに娘を思いやる五郎の言葉に泣き崩れて駆け寄る蛍の姿は、現代日本で失われつつある「家族」「親子」という強い絆を感じさせる。たとえ世間的によくないとされていることであっても突き進んでしまう人の性。理屈で割り切ることのできない何かを見事に表現したシーンだった。

もう一つ、全編を貫いているのは「自然」と物質万能主義とでもいうべき現代の社会の様相に対する強いアンチテーゼである。

TVシリーズの最初は、東京で暮らしていた純と蛍が電気も水道もない麓郷での生活に驚嘆するシーンが数多く描かれている。これらは沢から手作りの水道を引いたり、風力発電機を作ったりして解決していくのだが、1981年という時代背景を考えると、同じ日本で実際にこのような生活があったということにまず驚かされる。

作中では富良野を猛烈な冬嵐が襲い、水も電気も止まって大騒ぎになっていた町の住宅地に比べ、元々何もない生活をしていた五郎一家にはなんの影響もなかったことが描かれている。

最後の作品となった「遺言」のエンディングは、冬山を歩きながら五郎が遺言を一人語るという構成になっているが、その中でも「すべて自然から頂戴しろ」という言葉がある。五郎の先達である開拓農民は、自然の恵みを生きる糧としていたのだろう。

私はとある場所で、倉本聰の講演を聞く機会があった。彼は現代社会で当たり前とされているライフスタイルを「いくら漕いでもどこにも着かない自転車に乗るようなもの」とユーモアを交えて語っていたのを覚えている。自然と共に暮らし、自然の恵みに感謝することが人間本来の姿であるという趣旨の講演だったと記憶しているが、彼の言わんとしている自然への感謝と憧憬は、黒板五郎を始めとする富良野の人々が作品中で見事に体現している。そして「カネ」に振り回されて生きることがいかに馬鹿馬鹿しいことなのかということも強調されている。実際、作中に登場する富良野の人々は今の物差しから見て裕福な人は一人もいない。しかし時にそんなことを忘れてしまうほど素敵な生活を送っているように見える場面がある。

五郎は長いシリーズの中で、廃屋と言って差し支えない小屋を自力で修理して棲み処とし、次に山から切り出した木を手作業で丸太にし、ログハウスのような丸太小屋を作った。そこを火災で失うと最後には皆が邪魔だと言って捨てていた石を使って「石の家」を作り、恩人でもある中畑(地井武男)の妻のために捨ててあるものだけで作られた「捨てられた家」まで作ってしまう。都会で一戸建ての家を持つことは、多くの人にとって難しい時代になっているが、自然の恵みと知恵で家を建ててしまう五郎の姿は、長い長い住宅ローンに喘ぐ現代人への「皮肉」のようにも感じられる。

これほど「自然」にこだわったドラマもほかにないだろう。作品には富良野をはじめ北海道の雄大な自然を切り取ったカットが随所に挿入される。野生動物も然りだ。春夏秋冬、美しくも厳しい自然とそこに生きる人々。自然の優しさ・恐ろしさを見せながら紡がれていくこのドラマは、いつまでも終わらない人の営みを映し出しているようにも見える。

劇中では、牧場の倒産で富良野を離れざるを得なくなった純と正吉の姿が描かれているが、そのような実例は現実に枚挙に暇がない。災害などで被害を受け離農を余儀なくされる人々や、事業が立ち行かずに夜逃げする農家など、日本の第1次産業が置かれている厳しい現状も容赦なく描写されている。田中さん追悼番組となった「初恋」で純の初恋の相手となった大里れい(横山めぐみ)の一家も、畑を霜でやられるという不幸で富良野を去っている。(余談だが、この時オーディションに来た横山はやる気が全くなく、倉本聰曰く完全な素人だったらしい。しかし圧倒的な「華」があり、満場一致で選ばれたというエピソードが残っている。横山は結局「95’秘密」で他の相手と結婚するまで純とつかず離れずの関係を続けることになるが、これはれいを演じた横山の圧倒的な可憐さが理由らしい。再放送でも17歳当時の横山の美しさが衝撃的だと話題になった)

 

様々な人生の様相を描きながら20年以上も続いたこのドラマを名作だと評する人も多い。スタッフや出演者の高齢化など様々な理由で2002年に終了したこのドラマは、多くの遺産を残した。当時すでに売れっ子だった役者以外にも、吉岡秀隆、中島朋子、内田有紀、横山めぐみ、裕木奈江、洞口依子など、この作品をきっかけにブレイクし、息の長い役者として活躍している人は多い。

ちなみに倉本聰は「遺言」の後の「その後の北の国から」にも構想を持っているらしい。それによれば五郎は孤独な自然独居老人となり、税金も払わず金も稼がず自給自足の日々を麓郷で送り、純は結(内田有紀)とあっさり離婚して富良野を離れ、東京から福島に行き着き、福島第一原発の除染処理という危険な仕事に身を投じる。「遺言」のラストで、夫である正吉を追って富良野を離れた蛍は、福島で看護師をしながら消防士となった正吉と子どもの快の3人で暮らしていたが、東日本大震災の津波により正吉は死亡。夫の亡骸を探して彷徨ううちに兄の純と再会する。一方、純のかつての恋人だった小沼シュウ(宮沢りえ)は嫁ぎ先だった神戸で離婚して富良野に戻り五郎のもとを訪ねる。また純の初恋の相手だったれいは東京で暮らしていたが離婚、銀座の女として働いていた。ある日、とあるラジオ番組を通じてれいと純はお互いの居場所を知り、東京で数年ぶりの再会を果たす・・・・・等々、それぞれの「人生模様」が描かれるというものらしい(ほかにも設定はいろいろあるようで、時々イベントや取材などで倉本聰の口から語られている)田中邦衛さん亡き後は難しいとも思うが、その後の北の国からを見てみたい気がする。そしていつかまた富良野に人々が集まり、様々な問題を抱えながらも生きていくという骨太な作品をぜひ作ってもらいたい。

 

田中邦衛さんのご冥福を心からお祈りいたします。