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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

226】日本政府は冷戦後の国際情勢に適切に対応してきているのが実情である。

 

「我が国を取り巻く国際情勢は平成に入った頃から、急速に悪化してきた。しかし残念なことに、日本政府はこの状況に対し適切な対応を取れていないというのが実情である。」(P499)

 

「冷戦の終結」とともに「平成」が始まったかのようなタイミングであったことは間違いありません。

かつて「戦後」という言葉が日本の現代史を説明する際に、何らかの形で意味を為した言葉であるのと同様、「冷戦後」という言葉がまさに日本を「取り巻く国際情勢」を説明する際に欠かせない言葉になりました。

ただ、「悪化」をただのイメージではなく、具体的に説明する必要があります。

1991年、イラクによるクウェート侵攻に対して、アメリカ軍を主力とする多国籍軍が国連決議を背景に武力制裁に出ました。

日本は、アメリカに迫られ、「国際貢献」の名の下に資金援助をおこなっています。

これこそまさに血税からの捻出で、「この状況に対し適切な対応を取れていない」と説明されてしまいますと釈然としません。当時の憲法解釈、国民の理解でできる「適切な対応」であったと思います。

また、宮沢内閣が国連平和維持活動(PKO)法を成立させ、PKOに日本が積極的に関わるようになったのも「平成」に入ってからです。

1992年からカンボジアに停戦監視のため自衛隊を海外に派遣しています。以後、モザンビーク、ザイール、ゴラン高原でのPKOは現地での政府、あるいは住民から高い評価も得てきました。

1999年には自由党、公明党が政権参加し、衆参両議院で安定多数を確保し、新ガイドライン関連法を制定し、国旗・国歌法も制定しています。

2001年のアガニスタン紛争に対してはテロ対策特別措置法を制定し、海上自衛隊はインド洋で給油活動をしています。さらにまた翌年、東ティモールでもPKOをおこないました。

2003年のイラク戦争に対してはイラク復興支援特別措置法を制定し、その人道的支援もまた高い評価を得ました。

これらの活動と日本の対応を「日本政府はこの状況に対し適切な対応を取れていないというのが実情である。」と断定するのは不適切です。

 

「昭和四〇年代から(昭和三〇年代からという情報もある)、北朝鮮に何百人もの日本人が拉致されてきたにもかかわらず、自力で取り返すことさえできない。国の主権が著しく脅かされ、推定数百人の同胞が人権を奪われ、人生を台無しにされているにもかかわらず『返してください』と言うことしかできない。まったく国家の体をなしていないのである。こんなことは戦前の日本では考えられない事態である。いや、幕末の志士ならこんな暴挙は決して許さなかったであろう。」(P499)

 

だから、どうせよ、というのでしょう。これらは憲法が改正されれば解決する問題なのでしょうか。「自力で取り返すことさえできない」と言うならば、軍を派遣して拉致された人々を取り返す、ということでしょうか。たぶん、取り返すどころか拉致された人たちの行方もわからず殺されてしまうのがオチでしょう。

勇ましい言説ですが、非現実的な説明です。

それどころか、日本政府は現実的な対応で、一部ですが拉致された人々を取り返すことに成功しています。

2002年の小泉内閣は、それまで「拉致問題など無い」と頑なに否定してきた北朝鮮に対して、「拉致を認めさせた」だけでなく、拉致被害者を取り戻すことに成功しています。「『返してください』と言うことしかできない」などという説明は誤りだと思います。ましてや「国家の体をなしていない」は言い過ぎです。

 

「たしかに戦後半世紀以上、日本を軍事的に脅かす国は現れなかった。つまり九条があろうとなかろうと、結果は同じであったともいえる。」(P500)

 

と説明されていますが、歴史の段階を無視して憲法第9条を過小評価しすぎです。

戦後、日本は軍国主義を放棄し、「新生日本」となりました。

サンフランシスコ平和条約で調印しなかった国とも国交を回復したり平和条約を締結したり、さらには多くの国が賠償金を放棄し、日本も経済援助を積極的に取り組んできました。日本を東南アジア・東アジアの国々が受け入れた背景には「戦争放棄」を掲げたことが大きいことは明らかです。

「新しい日本」として国際社会に復帰できた背景には、やはり現行憲法の意味は大きいものがあったと評価すべきでしょう。吉田茂のサンフランシスコ講和会議での演説が説得力を帯びたのは、日本が口先だけでなく態度で示したからです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12451762992.html

 

「第9条」を「足かせ」と考えるか「行動規範」と考えるかの問題で、冷戦後の国際紛争で、自衛隊や日本のPKO活動が評価されているのは「軍事力を持つ軍事行動」ではなく「軍事力を持ちながらもそれを行使しない経済・人道支援活動」だったはすです。

 

歴史的にみれば、終戦後、そして冷戦後、「第九条」は日本の国際的な「行動規範」たり得たと十分評価はできます。

ただ、私個人は、憲法は時代の変化に合わせてメンテナンスすべきであると実は考えている派です。

終戦から冷戦、そして冷戦後。人権意識や環境問題、そして安全保障のあり方など、現行憲法の「解釈」のみで対応する限界が近づきつつあることも確かです。

しかし、いま、憲法第9条を改正せんがために、過去のさまざまな段階での日本政府の外交政策・努力に対して、憲法第9条が「足かせ」となって「適切な対応を取れていない」と説明するのは誤っています。

 

「現在は、日米安全保障条約に基づいて、有事の際はアメリカ軍に助けてもらうことになっており、日米安全保障条約と在日米軍の存在が日本に対する侵略を抑止する力になっているが、現実に日本が他国の攻撃を受けた時、はたしてアメリカ軍が助けてくれるかどうかとなると、実は疑問視されている。」(P501)

 

これはごもっともなご意見です。ですが、これを言い出したらきりがありません。

CIAのターナー元長官やキッシンジャー、カールフォード元国務次官補の発言を紹介されていますが、また逆に、「日本が攻撃された場合、アメリカはアメリカが攻撃されたとみなす」(「基本姿勢」)と発言してきているクリントン国務長官、パネッタ国防長官、ヘーゲル国防長官、ケリー国務長官、カーター国防長官、ティラーソン国務長官、マティス国防長官らも紹介すべきです。

 

「抑止力」というのは、当たり前ですが、軍事力が行使されるまでの話で、攻撃されればその瞬間から役割を終えます。

ちなみにカール=フォード元国務次官補は、「自主的な核抑止力を持たない日本は、ニュークリア・ブラックメール(核による脅迫)をかけられた途端、降伏または大幅な譲歩の末停戦に応じなければならない」という話を、「国務次官補」として発言をしたことがないので念のため。

225】「朝日新聞」に関する批判が正確とはいえない。

 

「中華人民共和国は成立直後から、国民に対して苛烈な政策を行なってきた。」(P493)

 

と説明されていますが、誤りです。成立した1949年段階では、国民党をのぞく民主諸派と共産党の連立政権で、穏健な政治の下、農業生産・工業生産を伸ばしていきました。百田氏も説明されているように「反右派闘争」で何十万人を「労働改造」とし称して辺境に送ったのは1957年です。社会主義体制に移行し、共産党一党独裁に向かったのは1954年以降でした。

 

「余談だが、文化大革命については当初、日本の新聞社もこぞって礼賛記事を書いていたが、やがてその恐るべき実態を知り、批判記事を掲載し始めるようになる。中国共産党に批判的な報道をした新聞社・通信社は次々に北京から追放されたが、最後まで文化大革命の実態を報じず、処分を免れたのが朝日新聞社である。」(P493)

 

と説明されています。『日本国紀』の一つの視点に、マスメディア批判というのがあり、なかでも「朝日新聞」に対する厳しい批判が目立ちます。

たしかに1966年5月2日の社説を読むと、文革を第二革命と位置づけ、「中ソ論争の課題に答えようとする『世紀に挑む実験』といった意欲を感じられなくはないのである。」と記しています。文革を「道徳国家を目指す」という指摘は今となっては明確な誤りであったと説明できますが、「朝日新聞」に限らず他の新聞社も当時、なかなか文革の様子は見えにくいところがありました。もちろん、欧米の新聞に比べて批判の弱さも感じますし、他社よりも一歩踏み込んだ説明とはいえますが、その程度の差です。他社に関しては「礼賛記事」とまでは言えないような感じです。

また、「朝日新聞」は同年8月31日には「中国の文化大革命への疑問」という社説を掲げて批判に転じています。一度読まれればわかりますが、なかなか正確な紅衛兵運動の描写と批判だと言えます。「権力を持つ者の許可のもとに行われる革命-急激な改造-は、国家権力による強制にすぎぬのではないか。」という説明は今でも説得力のある指摘で、文革を批判的に説明するときにはよく引用される記事にもなりました。

もちろんこの後、「壁新聞」のそのままの紹介や、毛沢東が紅衛兵運動を鎮圧して以降は、中国政府側の方針に逆らわない記事になっていきますが、その頃は同時に「日中国交回復」への動きに対応したもので、とくに「朝日新聞」のみの論調では無くなっていたともいえます。「最後まで実態を報じず…」という説明は正確とはいえません。

 

「…日本政府は、同盟国アメリカとの関係を緊密にするため、『集団的自衛権』の行使容認などを含む『平和安全保障法制』の整備を急いだが、左派野党やマスメディア、左翼系知識人や文化人らが一斉に反対の声を上げた。彼らは、軍事機密などの漏洩を防ぐための『特定機密保護法』の制定にも大反対のキャンペーンを展開した。」(P494)

 

政府に反対する意見すべてが「左翼系」「GHQの洗脳」「共産主義思想」とレッテルを貼って退けようとする説明は著しく不正確です。

「反対の声」の中には、「特定機密保護法」に関する不備や問題点を指摘しているものも多く、特定機密の名のもとに立法府のチェックが妨げられる可能性もあります。野党が反対する理由もあったことは否定できません。

「平和安全保障法制」は、実は国際的には否定されていないものです。ただ、国内の憲法学者や行政法の専門家の中では懸念する声が多く示されています。

私個人としては実はむしろ賛成派なのですが、どういう問題点と課題があるのかを明らかにした説明が大切だと思っています。

反対者に「レッテル」を貼って否定する方法は、歴史の著述には似つかわしくないと思うからです。

 

以下は細かいことが気になるぼくの悪いクセですが…

 

「平成一五年(二〇〇三)四月二十日付けの朝日新聞は、『Q&A』というスタイルで、『ミサイルが飛んできたら?』という自作の質問に…」(P496)

 

と説明して「朝日新聞」を批判されていますが、日付が誤っています。このアンケートは平成15(2003)年ではなく、平成14(2002)年の誤りです。

 

「たしかなことは北朝鮮が同時に数発の核ミサイルを日本に向けて発射すれば、日本はこれをすべて撃ち落とすことはできないということだ。」(P497)

 

と説明されています。まことにごもっともな話ですが、これは現在の技術では、アメリカ軍でも無理な話です。

しかし、イージス艦の配備とその運用は北朝鮮にたいする防衛抑止力になっていることは確かです。

ただ… 蛇足ながら、「現時点で北朝鮮のミサイル発射基地を攻撃する能力もない」というのは自衛隊の過小評価だと個人的には感じています。

そういう「計画」などが防衛省や自衛隊内で考えられていない、とはまったく思わないからです。

それに、「現時点で北朝鮮のミサイル発射基地を攻撃する能力もない」と書いてしまっては、日本にはそんな能力がないのか、と侮られ、ますます強硬な姿勢に出られる可能性があります。

どうせなら「自衛隊の防衛能力は高く、有事には反撃できる能力は十分あり、その気になればミサイル基地を攻撃できる能力はあるが」憲法で禁じられている、と説明されたほうがよかった気がします。

いわゆる武道でいうところの「鞘の内」(ひとたび刀を抜けば相手を倒すのも容易な力があるのだが、抜かずに相手を屈服させる、という剣術の極意)が日本の自衛隊である、と私は個人的に思っています。

 

224】「共産主義」と「社会主義」を混同してソ連の崩壊を説明している。

 

「昭和天皇は戦後、GHQが押しつけた憲法によって、『日本の象徴』とされたが、それ以前も昭和天皇は『君臨すれども親裁せず』の姿勢を貫かれていた。昭和天皇が政治的判断を口にされたのは生涯に二度-『二・二六事件』で反乱軍を鎮圧せよと言われた時と、『ポツダム宣言』を受諾すると言われた時-だけであった。」(P488)

 

「日本国憲法」が「押し付け」である、という言説に対して、常に私が思うことは、そもそも日本が近代的な憲法を所有したのは、歴史的に現行憲法を含めて二つしか無い、ということです。

「大日本帝国憲法」と「日本国憲法」の二つだけで、日本国憲法が「押しつけ」ならば「大日本帝国憲法」は「欧米の猿まね」です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440382945.html

 

日本国憲法に日本らしさがないと主張する人がいるならば、それは大日本帝国憲法もまったく同じです。

それよりも、「日本の天皇は、代々、国のために祈りを捧げる祭主であり続けたのだ。」(P488)と百田氏は説明されていますが、これは江戸時代までの天皇のことで、

「大日本帝国憲法」によって「天皇」は西洋で認識される「元首」で「統治権の総攬者」で「主権者」になってしまったのです。

天皇は、むしろ現行憲法における「象徴」という地位によって、「大日本帝国憲法」以前のお姿に戻られた、という側面があったということを忘れてはいけません。

あくまでも昭和天皇ご個人のご姿勢とお考えによって「天皇機関説」を理解され、「そのようにふるまう」ことを心がけられたのであって、大日本帝国憲法では、どう読んでも天皇の地位は「統治者」です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12449874602.html

 

終戦直後、「国体」を危うくした根本は「大日本帝国憲法」にあったことは重要な側面です。

昭和天皇の「政治的判断」は通常は二つではなく三つと説明します。

一つは「張作霖爆殺事件」、一つは「二・二六事件」、もう一つが「終戦の御聖断」です。(軍部は、昭和天皇が下された「終戦の御聖断」に際して、なおも「国体の護持」にこだわって恐れ多くも再度の「御聖断」を天皇にさせてしまっています。)

「張作霖爆殺事件」について、百田氏は「事件の首謀者は関東軍参謀といわれているが、これには諸説あって決定的な証拠は今もってない」などと言われていますが、当時昭和天皇は陸軍および首相の報告の裏の虚偽を喝破され、これがきっかけになって田中義一首相が辞任することになっています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12449390632.html

 

以後、昭和天皇は「意見を言うだけにしてベトー(拒否権)はしない」という姿勢をとられます。逆に言えば、「意見」は節目においてしっかりとなされてきた、ということも重要なポイントです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12444666619.html

 

満州事変、盧溝橋事件、沖縄戦など、ときに統帥部の参謀よりも卓見を述べられていることが『昭和天皇独白録』、侍従及び侍従武官長の「日記」から読み取れます。そしてまた、天皇には誤った情報、楽観的な見通ししか伝えられていない(場合によっては天皇の御意志に反して事後の報告をしている)という状況もわかっています。

マッカーサーが天皇の戦争責任を追及しなかったのは、こういう事実確認をした上での判断でもありました。

「天皇は親裁をせず」あたかも「祭主」だけであり続けたから責任はなかった、というような説明は、激動期の天皇のご苦労をないがしろにした説明と思います。

 

「ソ連の崩壊」(P489P492)と題して「共産主義の崩壊」をテーマに説明がされています。

 

「共産主義とは、二十世紀に行なわれた壮大な社会実験であり、それはことごとく失敗に終わったといえる。」(P491)

 

と説明されていますが、この項を読んで思ったことは、「共産主義」と「社会主義」を百田氏は混同、あるいはその違いをよくわからず説明されているような印象を受けました。ここは「共産主義」ではなく「社会主義」と説明すべきです。

 

その上で、「ソ連は壮大な社会実験であった」という説明ならば大いに賛成します。

また、「ことごとく失敗に終わった」ということも誤りです。

資本主義が、社会主義に「勝利した」といえるのは、資本主義の中に「社会主義」の手法を取り入れてメンテナンスに成功したからである、という側面を忘れてはいけません。「労働組合」「インフラの公営」「土地の一部公有」「社会保険」「基幹産業の国有化」などはもちろん、「経済の国家統制」などは社会主義の政策です。

一方、社会主義政権も、レーニンはネップを取り入れて戦時共産主義を放棄したり、スターリン体制後、フルシチョフが一部市場経済を導入したりして「修正」を図ったものの、最終的には資本主義は修正に成功し、社会主義は修正に失敗した、ということで1991年の「ソ連の崩壊」を迎えたのです。

複雑な国際情勢・政治・経済を稚拙な二項対立で説明することは現在ではしません。

 

「『共産主義は人を幸せにしない思想である』という結論がすでに出ているにもかかわらず…」と説明されていますが、「共産主義は理想にすぎず、非現実的であった」と説明すべきです。べつに共産主義そのものは人を幸せにしない思想というわけではありません。ただ、実現しない絵に描いた餅だった、というだけのことです。

それを実現するための「社会主義の諸実験」にソ連は失敗しました。

 

ソ連史の説明の仕方にも誤解があります。

 

「…アメリカのレーガン大統領の登場によって、体制の変更を余儀なくされる。レーガン政権が大規模な軍拡競争に乗り出したことによって、ソ連の経済がその競争に耐えられなくなったためだ。」(P489P490)

 

と説明されていますが、これは冷戦直後の説明で、ソ連崩壊後、旧ソ連の側から多くの史料・証言が出るようになってからは、異なった説明をします。

アメリカのレーガン政権の「軍拡」以前からソ連の経済はもう破綻していました。

「ブレジネフ時代」は「停滞の時代」と総括され、スターリンの粛清によって抜擢された世代で固められ、生産設備も更新されず、低い労働生産性のもとで経済成長率は0%を記録していました。市民の中には社会主義イデオロギーの情熱は消え、党・政権の末端も同様でした。

 

「昭和六〇年(一九八五)、共産党中央委員会書記長(ソ連のトップ)となったゴルバチョフは行き詰まった経済を立て直すため、市場経済の導入や情報公開を試みたが、これによりソ連国民の間に自由化を求める空気が広まり、その波はソ連の衛星国家にも広がった」(P490)

 

と説明されていますが、実は説明が「逆」です。

すでに国民経済が破綻し、「ソ連国民の間に自由化を求める空気が広まり」、社会主義イデオロギーへの情熱が失せていたため、「市場経済の導入や情報公開を試みた」というのがペレストロイカ(改革)のきっかけでした。

 

以下は細かいことが気になるぼくの悪いクセ、ですが…

 

「ソ連はアメリカとの軍拡競争を諦め、同年十二月、地中海のマルタ島で行なわれた米ソの首脳会談で、東西冷戦は終わりを告げた。」(P490)

 

と説明されていますが、マルタ会談は実は「マルタ島」でおこなわれていませんでした。マルタ島沖、客船マキシム=ゴーリキーの船内でおこなわれました。

 

「翌年、東ドイツ政府は崩壊し、ドイツは四十五年ぶりに統一国家となった。」(P490)

 

中学生くらいですとよく誤解するのですが、東ドイツ政府は崩壊していません。

東ドイツ政府が、西ドイツ政府と統一諸条約を調印して、「統一ドイツ」が誕生しました。せめて「東ドイツが西ドイツに吸収され」と説明すべきでした。

 

 

【223】終章に向けてのふりかえり。

 

終章は「平成」です。わたしの読書ノートも、いよいよ「終章」に近づいてきました。

さて、終章「平成」の序文(P486P487)として、今までのふりかえりを説明されています。

 

「日本は神話とともに誕生した国であり、万世一系の天皇を中心に成長した国であった。」(P486)

 

と説明されています。ただ、『日本国紀』では、九州王朝説や王朝断絶説という立場に立たれていて、古代史においては、「万世一系の天皇を中心に成長した国」という考え方は採用されていませんでした。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12425022566.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12423074488.html

 

「日本の歴史には、大虐殺もなければ、宗教による悲惨な争いもない。人々は四方を海に囲まれた島国の中で肩を寄せ合い、穏やかに暮らしていた。」(P486)

 

と説明されていますが、日本でも大虐殺はありましたし、宗教上の対立もありました。

縄文時代はともかく、農耕が始まり、弥生時代に入ると、小国の分立があったことは『後漢書東夷伝』『魏志倭人伝』の記述で明かで、堀に囲まれた遺跡や高地性集落、矢で射られた遺体の埋葬など、考古学的にも争いがあったことは明白です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12424719994.html

 

「ヨーロッパから見れば、極東に位置する日本は長らくその所在さえ不明であり、十六世紀に発見された後も、交流を拒む閉ざされた謎の国であった。」(P486)

 

あくまでも百田氏個人のイメージにすぎず、モンゴルでは日本の所在を理解していて、元にいた宣教師のみならずイタリア商人マルコ=ポーロが『東方見聞録』で“ジパング”を紹介しており、このことが「大航海時代」の幕開けの一つの背景にもなりました。鉄砲伝来、キリスト教伝来以後、南蛮貿易や朱印制貿易、東南アジアへの日本人の進出(日本町の存在や山田長政の活躍)が続き、「交流を拒む」国ではありませんでした。鎖国後も、従来説明されていたような「閉ざされた国」ではありませんでした。

 

「その後、欧米諸国は、発達した科学技術を武器に、世界の多くの国々を植民地とし、有色人種を支配していったが、日本は最後に残された狩場であった。」(P486)

 

日本は欧米の植民地主義、帝国主義の「狩場」などではありませんでした。

鎖国を通じて保護・育成された文化・商品は国際競争力が高く、「市場」として理解され、ヨーロッパ諸国は日本の国際経済における「価値」をふまえて有利な貿易をする外交を展開しましたが、日本を植民地するつもりはまったくありませんでした。

よって「植民地とされる土壇場」に日本は立ったことはなく、世界の経済システムの中にうまく組み込まれて「独立」を維持できました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12433397766.html

 

 

「そして明治維新からわずか四十年足らずで大国ロシアを打ち破った。この勝利が、世界の有色人種にどれほどの自信を与えたかは計り知れない。」(P487)

 

しかし、そのわずか数年後、「有色人種」たちの日本への期待は裏切られることになります。日本に学ぼうとしたベトナムの留学生を拒み、独立運動を抑えようとするヨーロッパに協力し、朝鮮半島を植民地にしました。インドの首相ネルーが『父が子に語る世界史』で述べたように「やがて失望に変わった。新しい帝国主義諸国が一つ生まれただけだった」というように日本への評価は変わってしまいました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12442007945.html

 

「…日本は第二次世界緯線で、アメリカを中心とする連合国軍に敗れる。百年前、有色人種の最後の砦であった東洋のミステリアスな国も、ついに欧米の力の前に粉砕されたのだった。しかし日本が敗れた後、アジアの諸国民は立ち上がり、欧米と戦って次々と独立を勝ち取った。その波はアフリカや南米にも及び、世界四大陸で多くの新しい国が産声を上げた。まさに日本という存在が世界を覚醒させたのだ。」(P487)

 

と説明されていますが、ベトナムは抗日組織から誕生し、ビルマもその初期において、こそ、日本の協力を得ましたが、軍政下に置かれるにあたって日本は打倒すべき対象に変わりました。タイも中立国であったにも関わらず、マレー進攻にあたって許可なく領土を利用されて日本への不信を高めます。フィリピンは日本によって独立を阻害され、軍政下に置かれました。ある意味、「もし日本という国がなかったなら、世界は今とはまるで違ったものになっていた」と思います。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12447389146.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12451258597.html

 

「二十一世紀の今日、世界中で『人種差別は悪である』ということを疑う人はいない。しかし百年前はそうではなかった。当時、絶対強者だった欧米列強に向けて、初めて『人種差別撤廃』を訴えたのは、私たちの父祖である。日本が世界のモラルを変えたのだ。」(P487)

 

しかし、その「人種差別撤廃」を国際連盟にうったえた日本が、ベルサイユ条約反対を唱えて展開された中国の五・四運動や朝鮮の三・一運動を一方では弾圧し、戦勝国としてヨーロッパの列強に与して「理事国」となっています。

「人種差別撤廃」を訴えた国が、一方でイギリス・フランスと同様、自国の植民地における民族自決を否定し、植民地支配をしていた、という事実も忘れてはいけません。

 

「日本の役割は終わったわけではない。今こそ日本はかつての先人の遺業を思い出し、世界を平和へ導くために努力をするべきである。」(P487)

 

まったく同感ですが、「先人の遺業」に思いをはせて、心をふるわすのみならず、「先人の愚行」も直視し、ありのままに受け入れて止揚し、日本が過去の歴史をふまえて日本にしかなし得ない世界への貢献を考えていきたいものです。

 

222】「人の命は地球より重い」という福田首相の発言は世界中の失笑をかっていない。

 

「ダッカ日航機ハイジャック事件」を以下のように説明されています。

 

「これは日本の極左暴力集団が日航機をハイジャックし、人質を取ってバングラデシュのダッカのジア国際空港に立て籠もった事件だったが、日本政府は『超法規的措置』で法律を捻じ曲げて、犯人の要求通りに多額の身代金を払い、さらに日本に勾留中の凶悪犯(一般刑法犯)を釈放して、ハイジャック犯を逃がしてしまった。この時、首相の福田赳夫は自らのとった措置を正当化する理由として、『一人の命は地球より重い』と言って、世界中から失笑を買った。」(P484)

 

と説明されていますが誤りです。

「世界中から失笑を買った」といいますが、大部分の国はべつにこの問題をあざ笑ったりしていません。

これ、私ずっと不思議に思っていた話で、当時、テロリストから人質を解放する条件として身代金を支払ったり、要求をのんだりすることはむしろ普通のことでした。

1970年のエル=アル航空、スイス航空、トランスワールド航空、パンアメリカン航空の旅客機がハイジャックされた事件(PLFP旅客機同時ハイジャック事件)1972年のルフトハンザ航空615便事件、1974年に連合赤軍が起こしたハーグ事件などいずれも犯人の要求をのんで対応しています。

(後年ふりかえって、後付け的に、当時の日本の対応を後の西ドイツの対応に比べて判的に説明するようになってから、辛口の評価に変わったのです。)

そもそも、他国の空港において、日本が「強硬手段」を用いることも難しかったこともありますが、バングラデシュ政府の許可を得たとしても(この事件の最中のバングラデシュでクーデターも発生していて普通の状況ではなかった)、テロ事件に対する人質救出を専門とする部隊を日本は持っていませんでした。

また、この事件を「平和ボケ」の象徴的事件と説明するのは的外れです。先に例にあげたように各国は、非難を受けても「人命最優先」をする、という対応をまずは考え、そして実行している、ということを忘れてはいけません。

当時の段階でできもしないことを「平和ボケ」と断定して、当時の対応を非難するのは早計です。

西ドイツは、615便事件以後、特殊部隊GSG-9を創設・訓練し、ダッカ事件を参考にして救出訓練をするようになり、その成果がその後に起こったルフトハンザ航空181便事件に活かされることになり、人質の救出に成功します。

ダッカ事件後なのです。テロの要求に屈せずに人質救出、ということに各国が方向転換するのは。

日本もこれ以後、人質救出の専門部隊を用意し、1995年の全日空857便事件で活躍して人質救出、犯人逮捕の実績をあげました。(後にSATに発展します。)

また、アメリカもダッカ事件およびGSG-9を参考にして陸軍にデルタフォースを創設しています。

ダッカ事件に対して一定の非難があったことは確かですが、他国の同様の事件の対応にも非難があって、日本だけのことではありませんでした。