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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

人類の誕生は700万年前です。

 

中学生や高校生のお子さんをお持ちの保護者のみなさんは、人類の誕生は400万年前と習っている場合がほとんどのはず…

そして猿人のうち、最古の例を「アウストラロピテクス」と紹介されているかもしれません。現在でも猿人の「代表例」として紹介しますが、「最古の例」としては、

 

 サヘラントロプス=チャデンシス

 

を紹介する場合が増えました。

 

「人類の誕生」という単元は、断定的な表記を避けるようになりました。そりゃまぁそうで、これから研究が進むと、どう変わるかわからない…

 

人類は、「猿人→原人→旧人→新人」と進化してきたと説明します。かつては原人が「火の使用」をしていた、と明記していましたが、原人のうち、シナントロプスは火の使用が確認できていますが、ピテカントロプスは確認できていません。

ですから、「火の使用」に言及する場合は、「北京原人の化石が、石器や動物の骨、焼けた木などとともに発見されている」というような含みのある表現になっています。

 

まだ教科書には反映されていませんが、「洞窟の壁画」も今後、改められるはずです。今までは、新人(クロマニョン人)の段階で絵画を描いていた、という説明でしたが、現在では旧人(ネアンデルタール人)が洞窟に壁画を残していることがわかっています。

「新人が洞窟壁画を描くようになった」という表現ではなく、「フランスのラスコーの壁画は、新人が描いた」というように具体例に限定して説明するようにしています。

「最初の」、「世界初の」、「唯一の」、「初めて~したのは」というような修飾語は歴史の教科書からは消えつつあります。

 

先日、ラジオ番組に出演させてもらいました。現代に通じる歴史のお話の一つとして、「児童虐待」は昔にあったのか? という話がありました。

 

結論から言いますと、もちろんありました。「虐待」どころか、奈良時代には「捨て子」がたくさんみられました。

税の負担を逃れるために、子どもを捨てる、ということがみられたのです。

口分田は、6歳以上の男女に班田されましたから、偽籍(戸籍を偽る・男子を女子と偽る)ということのほか、もっとも直接的に捨てる、ということもみられたわけです。

聖武天皇の后、光明皇后は、悲田院をつくり、これを救済する、ということもなさっています。

ラジオでは、短い時間でしたので、部分的にしか例をあげられませんでしたが、子どもが大切にされる、というのは近代になってからだ、という説明をしました。

子ども服の文化は近代に入ってから生まれたもので、それまで子どもはブカブカの大人の服を着ていました。

衣料が発達していないので病気やケガで抵抗力の無い子は死んでいきましたし、何より出産のリスクは現代よりもはるかに高い…

たくさん産んで、その中から生き残った子を育てる、ということがおこなわれていました。

子どもの名前も仮の名が多く、上級武士や大名のお子様などの幼名では、「梵天丸」とか「竜王丸」とか「虎千代」だとか「竹千代」だとかがみられましたが、下級武士や農民では、太郎や次郎、三郎のような幼名もみられました。(太郎、次郎、三郎の名称は平安時代の初期にはみられ、嵯峨天皇などは自分の皇子の幼名にもしています。)

このような場合、まるで「番号制」のようではありますが、「連番制」とは限りません。

長男は太郎、次男は次郎、三男は三郎、と言いたいところですが、次男なのに八郎、なんていう例もありました。

これ、ちょっと悲しい話なのですが、流産や幼くして死んだ子もカウントしている場合もあります。

すべてがそうではありませんが、次男で「小一郎」「小太郎」という場合もあり、これは後妻の子どもの長男、という場合にそうしたケースもみられました。

太郎、次郎、三郎… というのはいわゆる武士の「輩行名」だけとは限りませんでした(ちなみに輩行名は物語の中だけのフィクションの場合もあり、実際はどうだったか不明な人もいます)。

すぐに死ぬかもしれない子には、まだ名前をつけない、という場合もあります。

庶民・農民の女子は、花の名前や虫の名前などがつけられている場合もたくさんみられました。

本名を隠して、通称で呼ぶ、というのはやはり上級貴族や武士の娘である場合が多かったようです。

 

さてさて、一部の言説で「江戸時代は犯罪が少なかった」などという方がいますが、大きな間違いです。

このあたりは『日本国紀・読書ノート』でも指摘したのでご参照ください。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12430631616.html

 

「むかしはよかった」というのはかなりファンタジーな部分があり、現代と変わらぬ犯罪や、そして今回ラジオで話題となった「児童虐待」はみられました。

 

海保青陵の『東贐』には、江戸の犯罪事情がまとめられていて、現代にみられるような凶悪犯罪や詐欺事件がみられます。

『街談文々集要』には、槍の稽古をしているうちに、ホンモノの人間を突き刺したくなった猟奇的な殺人事件が紹介されています。

加賀藩の『断獄典例』には、後妻が前妻の子に火箸を押しつけて虐待する話も出てきます。

 

児童虐待、子ども問題は古くて新しい問題でもありました。

 

江戸時代にも「都構想」がありました。

 

佐藤信淵という人物がいます。

「経世家」とよばれる人で、経世家は「経世済民」を実現する諸論を立てる学者です。

19世紀前半の学者で、ペリー来航の前にはお亡くなりになっています。

教科書では海保青陵、本多利明、そして佐藤信淵の三人が紹介されています。

著作としては『農政本論』『経済要録』などがありますが、弟子に口述したものがまとめられた『垂統秘録』はなかなかおもしろく、現在に通じる省庁のようなものを作る政治体制を説いています。

融通府と製造府は経済産業省、本事府と開物府は農林水産省… といった具合です。

強力な国家統制経済を説くものでしたが、幕末・明治の政治家にも影響を与えているようです。

 

よく冗談で、「日本の首都はあくまで京都。東京都は『東・京都』と読むべきだ。」な~んて話をします(ラジオ番組でもこの話をしたと思ったのですがオンエアでは編集されていたかもしれません)が、江戸時代は政治をおこなう「首都機能」は江戸に集中していました。

佐藤信淵は『宇内混同秘策』という書も著しているのですが、その中で、江戸を首都として「東京」、大坂を「西京」にする、という構想を描いています。

地方にも役所を移転し、さらには地方大学の設置も提唱しています。まさに首都機能の分散…

 

そして現在。

大阪府も「大阪都」としよう、という構想が大阪では話題となって市長・府知事選挙がおこなわれました。

東京一極集中、という現在、その機能の分散も進んでいます。

はるか170年前の江戸時代にも、「首都機能分散」が考えられていたことはなかなか興味深いですね。

「東京」という名称は、明治時代に安易に考えられた名前ではありません。このことは『日本国紀・読書ノート』でもお話しさせてもらいました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12438819880.html

 

「東京」という名称は、江戸時代にいろんな思想が込められた言葉です。

5/18(土)、朝日放送ラジオ、夜9時30分、「土曜スペシャル」に出演し、現代社会の問題と歴史の話をいたします…
といっても、まったく硬くないお話しですよ。
高野アナウンサーとたいへん楽しい歴史の話、現代に通じる様々な出来事をお届けします。

私の世代は、若いときにラジオをよく聴きました。
ラジオ、いいですよね。

【227・最終回】七十年にわたって積み重ねられ、育まれてきたことを、踏みつぶし、歪め、刈り取り、絶滅させようとしている動きこそ危険である

 

「戦争のない世界は理想である。私たちはそれを目指していかなければならない。しかし残念なことに、口で『平和』を唱えるだけでは戦争は止められない。世界と日本に必要なことは、戦争を起こさせない『力』(抑止力)である。」(P502)

 

戦争を起こさせない力=抑止力、という説明には賛成ですが、この「抑止力」を軍事力だけに求めて、政治や外交、経済の力に求めないのはもちろん賛成できません。

 

以下は細かいことが気になる私の悪いクセですが…

 

「日本と対極的な国といえるのが、スイスである。世界で初めて『永世中立』を宣言(文化二年【一八一五】し)し、二百年も戦争をしていないスイスだが(ヨーロッパが火の海となった第一次世界大戦でも第二次世界大戦でもスイスの国土は戦火に見舞われなかった)、強大な軍隊を持ち、男子は全員兵役義務がある。兵士の数は人口が約十六倍の日本の自衛隊に匹敵し、予備役兵を入れると、自衛隊の十倍以上の兵力となる。」(P502)

 

と説明されていますが、スイスも第二次世界大戦で戦火に見舞われています。バーゼル、チューリヒに、スイスの「親ドイツ的中立」を牽制する目的で連合軍は空襲をしています。また、シャウハウゼンはドイツ領と間違えたアメリカ軍による空爆を受けて大きな被害を受けました。

 

「スイスは『永世中立』を宣言しているが、他国がスイスを侵略しないとは考えていない。そのために常に侵略に備えているのだ。これが『国防』というものである。」

(P502)

 

と説明されていますが、スイスが「大戦中」に「永世中立」を守れて、侵略を防げた理由に「自衛隊の十倍以上の兵力」に求めるとしたら大きな間違いです。

第二次世界大戦においてスイスへの侵攻を阻止したのは外交と経済でした。

 

まず、スイスはドイツとイタリアとの対立を避けるため、イタリアのエチオピア侵攻、そしてドイツのオーストリア併合を承認し、国際連盟の経済制裁にも参加しませんでした。

スイスはフランスと密約を結び、スイス側の軍備増強を依頼していますが、フランスがあっさりとドイツに降伏してしまい、その密約がドイツに知られてしまいます。

ヒトラーはこれを「中立」違反とみなし、スイス侵攻の「もみの木作戦」を計画します。

スイスの企業の大部分はドイツ国内に支店や工場を持っていました。そこでスイスは民間企業の武器輸出は中立違反にならないことを活用して、ドイツからは原材料と石炭を輸入し、精密機械・武器を輸出し続けます。そしてスイス銀行は、ドイツがオランダ・ベルギーから接収した金塊を引き受けて、経済的にドイツを支えました。

またユダヤ人に対してもドイツの政策に「協力」してユダヤ人の入国を拒否しています。さらにスイスを通るドイツとイタリアを結ぶ鉄道の通交も拒否しませんでした。

こうしてスイスは「もみの木作戦」の発動を阻止し、ドイツの侵攻から免れたのでした。現実の戦争を回避するのは外交と経済である、ということも歴史から学ぶべきだと思います。

 

「この七十年以上、戦争がなかったことが奇跡ともいえる。ただ、これはアメリカの圧倒的な軍事力によって抑止されてきただけで、これから先も戦争に巻き込まれないというのは幻想かもしれない。」(P503)

 

と説明されていますが、この「七十年以上、戦争がなかったこと」は「奇跡」ではなかったと思います。そもそもその圧倒的なアメリカの軍事力を日本の後ろ盾とすることができのも外交ですし、周辺地域・国への友好的な交流、経済援助、外交など、積み重ねてきた「信頼」のトータルな力です。

また、アメリカ軍を「矛」とするなら自衛隊は「盾」として十全に抑止力となっていることは確かです。

グローバル・ファイアーパワーの「軍事力ランキング」では環太平洋の国々とアメリカを含めて紹介すると、

 

第3位 中国

第7位 日本

12位 韓国

14位 インドネシア

16位 ベトナム

18位 台湾

20位 タイ

22位 オーストラリア

23位 北朝鮮

 

ということになっています。日本の自衛隊は、基本的にアメリカ軍とさまざまな「共有」をしていて一体的な軍事行動も可能です。また装備も最新式のものが多く、何よりも「実働率」(兵器のメンテナンスが行き届いて使用可能な状態にある)がたいへん高い軍隊です。アメリカの圧倒的な軍事力『だけ』で維持してきたと考えていることが「幻想」です。

 

「安倍首相が改憲を目指すと言った直後から、野党、マスメディア、左翼系知識人、学者、文化人などの、安倍首相への凄まじい報道攻撃および言論攻撃が始まった。」

(P503)

 

と説明され、あたかも改憲を阻止せんがために「政権」に言いがかりをつけているかのような説明をされています。

私自身、むしろ自民党政権を支持している一人かもしれませんが、野党にせよ、マスコミにせよ、「安倍政権」の経済・外交・政治における問題点を指摘している部分については、いくつかの点で理解できないことはありません。

でも、それをテコに「改憲を阻止」しようとしている、「七十年にわたって、日本の言論界を支配してきたマスコミと左翼系知識人・学者たちの楼閣」を守ろうとしている、というのは百田氏の、ある種の「とらわれ」、「陰謀論」に近いものを感じます。

「改憲」「護憲」というような、冷戦期のような二項対立で、「激変した国際情勢」「国内政治」を理解しようとするのはかなり無理があります。

「左翼系」という表現もこの二項対立を象徴する表現で、現在の言論界、学者、そして若手の政治家たちの意識は、ほとんどイデオロギーや右派、左派という表現では括れない状況になっています。

 

「『日本人の精神』は、七十年にわたって踏みつぶされ、歪められ、刈り取られ、ほとんど絶滅状態に追い込まれたかのように見えたが、決して死に絶えてはいなかったのだ。」(P504)

 

と力説されていますが、七十年にわたって積み重ねられ、育まれてきたことを、踏みつぶし、歪め、刈り取り、絶滅させようとしている動きこそ危険です。

「日本の歴史」の説明が、その片棒を担ぐようなことに利用されることは避けなくてはならないと思います。

 

気がつけば、膨大な指摘とお話をしてきたようです。

「平成」最後の年に『日本国紀』という本に出会い、そして「令和」が始まる前になんとか「読書ノート」をまとめ終えることができました。

思うことは、歴史に、右も左も無い、ということ。ど真ん中のあなたの真後ろ。

多くの歴史研究者たちは、史料と資料の検証を積み重ね、「本来それはいかにあったのか」を日々求めています。

 

長く記してきた『日本国紀』読書ノートも筆を擱くときがきました。

私の拙い表現で、すべて正しく伝えきれなかったとは思うのですが、数多の歴史研究者たちの成果を、ほんの少しですが、この読書ノートを通じてお伝えできたのならば幸いです。