『日本国紀』読書ノート(105) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

105】江戸はロンドンやパリ以上の歴史は無い。

 

「まず明治元年(一八六八)七月十七日、明治天皇は『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』を発し、江戸は東京となった。」(P287)

 

と説明されています。

以下は「誤り」の指摘ではありませんので念のため。

例によって、細かいことが気になるぼくの悪いクセなのですが…

 

「明治」の前の元号は「慶応」です。

「明治」に改元されたのが慶応四年九月(186810)になります。

ただ、改元詔書で、さかのぼって「慶応四年一月一日から明治元年とする」としているので、「明治元年七月十七日」に東京改称の証書は出た、ともいえるのですが、学校教育の歴史の記述としては、

 

「慶応四年七月十七日に、江戸を改称して東京とし、同年九月に「明治」に改元した。」

 

と説明する場合が多いです。

というのも、入試などでは、並べ替えなどの問題がありますので、「江戸を東京に改称した後、明治に改元した」と理解しておく必要があるためです。

 

さて、以下は「誤り」の指摘です。

 

「東京という名前を誰が決めたのかはわからないが、この改称には徳川政権の名残をすべて消し去ろうという意図がうかがえる。町や土地の名前には謂われがある。それをわざわざ消し去り、別称に改めるという行為を、私は良しとしない。江戸はロンドンやパリ以上に歴史のある町であったのに、現在、この由緒ある名前が使われていないのは残念というほかない。」(P287)

 

ちなみに、「東京」という名前は、すでに江戸時代に構想されていました。

19世紀前半、佐藤信淵という現在でいうところの経済学者がいました。

高校の教科書でも出てくる人物で、19世紀半ばにあって既に産業の国家統制と貿易の重要性を説く、いわば「重商主義論」を提唱していました。(『経済要録』『農政本論』が入試でも紹介されます。)

その佐藤が、1823年に著した『宇内混同秘策』の中で、

 

「江戸を王城の地と為し、以て東京と改称すべし。大坂とで二都制を設けるべし。」

 

と、説明しています。この書は、幕末に薩摩藩士や長州藩士、開明的幕臣たちに多く読まれていたようで、大久保利通がこの書から「東京」という名称を採ったという話もあります。

(佐藤信淵の構想は明治維新との類似性が高く、当時の為政者には多くの影響を与えていたといえそうです。余計な話かもしれませんが、「維新」を唱える「大阪維新の会」のみなさんが、『大阪都構想』をおっしゃっているのも面白いところです。)

「徳川政権の名残をすべて消し去ろう」というよりも、「自分たちがめざしてきた日本の構想」を象徴する言葉であり、新政府も旧幕臣たちにも理解される名称として選択されたものだと思います。

ですから、「東京」という名称にも、それなりの「謂われ」があり、当時の思いつきなどではなく、近代国家を築くにふさわしい名称であったともいえます。

「わざわざ消し去り、別称に改める」だけの背景と理由は十分にありました。

 

「江戸はロンドンやパリ以上に歴史のある町であった」という説明については、一刻も早く削除されたほうがよいと思います。

このような説明を海外の方が読んだならば、失笑をかってしまいます。

 

ロンドンやパリは、古代ローマの時代からある都市で、ロンドンは「ロンディニウム」、パリは「ルティティア」という呼称でした。

「ロンドン」「パリ」という名称になったのも中世であって、江戸よりもはるかに歴史の長い街です。

江戸がいつから都市となったか、というのは強引に遡っても太田道灌の江戸城築城からとなりそうですが、ふつうは徳川家康による造営事業からと考えるべきで、早くとも16世紀末以降の「都市」でしょう。

 

日本の歴史の説明であっても、世界史の知識が不正確だと、かえって日本の歴史の価値を歪めて伝えてしまうことになりかねません。慎重に、例を選んで説明してほしいところです。