『日本国紀』読書ノート(106) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

106】版籍奉還で中央集権体制ができあがったのではない。

 

「…翌明治二年(一八六九)、政府は『版籍奉還』を実施する。全国に三百近くあったすべての藩が、領地と領民を朝廷に返上するというもので、これにより明治政府の中央集権体制ができあがった。」

 

と、説明されていますが…

まずは例によって細かいことが気になるぼくの悪いクセ、から説明しますと、「すべての藩」がこのとき版籍奉還をしているわけではなく、1870年の段階で4藩が版籍奉還をしていませんでした。これは命じたり、実施させたりしたものではなかったからです。

教科書では、その事実をふまえて、

 

「木戸孝允・大久保利通が画策して、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主に朝廷への版籍奉還を出願させると、多くの藩がこれにならった。」(『詳説日本史B』山川出版・P262)

 

という表現にしています。教科書の表現には、ちゃんと厳密な意味があるんです。

 

「これにより明治政府の中央集権体制ができあがった。」という説明は誤りです。

1871年の「廃藩置県」を以て中央集権体制ができた、と説明します。

 

藩主の家禄と藩の財政が分離されただけで、旧大名は実質的に温存され、徴税も軍権も、従来通り各藩に属したままでした。

このため、明治政府は限られた直轄地(当時これを府県としていました)からの年貢徴収を厳しくしないと財政をまかなえなくなり、結果、新政府に反対する一揆が続発してしまいました。これは各藩でも同じで、江戸時代と何も変わらない重い税に不満が高まります。長州藩では、奇兵隊が反乱も起こすようになり、武力で鎮圧しなければならない事態に陥りました。

 

「版籍奉還と廃藩置県を実施するに際し、旧藩の武士たちが激しく抵抗するかもしれないと恐れていたが、それは杞憂に終わった。」(P287)

 

と説明されていますが、これらは司馬遼太郎の『この国のかたち』『明治という国家』や『飛ぶが如く』などの小説で語られていることで、実際は、新政府の足下の長州藩で「抵抗」が起こっていました。

長州藩だけではありません。岡山・島根などの中国地方の諸藩でも反対一揆が起こりました。

 

だからこそ、明治新政府は「廃藩置県」を実施しなくてはならず、軍隊まで用意して実行したのです。教科書の記述が、

 

「新政府は藩制度の全廃をついに決意し、1871年、まず薩摩・長州・土佐の3藩から御親兵をつのって軍事力を固めたうえで、7月、一挙に廃藩置県を断行した。」

 

「ついに決意し」「断行した」というような表現となっているのはこのためです。

 

百田氏の説明にもあるように、多くの藩が負債に苦しんでいたことは確かですが、おもしろいのはこの負債の原因の一つは「戊辰戦争」でした。とくに東北の諸藩は、100万円の負債(現在の200300億円)をかかえていた仙台藩をはじめ、多くが窮乏していました。

全国合計7813万円。当時の国家予算の二倍…

新政府は、1843年以前の借金を帳消しにし、1844年年以降の3486万円を国債化して政府が引き継ぎました。

福井藩の場合は、おもしろい反応です。

福井藩は藩校で物理・化学を講義していました。そのアメリカ人教師グリフィスが『明治日本体験記』の中でこんな記録を残しています。

 

廃藩置県を通知する使者が来たときに騒然となったが、藩校で学ぶ藩士たちは、「これからの日本は、あなた方の国やイギリスの仲間入りができる」と喜んだ。

 

というのです。

木戸孝允が『木戸日記』で廃藩置県の目的を「始てやや世界万国と対峙の基、定まるといふべし」と記していますが、その考え方が共有できていたところがおもしろいですね。

借金帳消しや、力でねじふせられる、という後ろ向きな理由だけで廃藩置県は受け入れられたのでは無さそうです。