『日本国紀』読書ノート(104) | こはにわ歴史堂のブログ

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104】十七条憲法も五箇条の御誓文も近代民主主義の精神とは無関係である。

 

「合議制」と「民主制」は別のものです。どうも、これらを混同されているような気がしないでもありません。

 

十七条憲法の「和を以て貴しと為し」「上やわらぎ下むつびて」は豪族間の勢力均衡と、あくまでも支配者とそれに仕える役人の関係、について説いたものです。

このことは、以前にもお話しいたしました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12423400839.html

 

また、「五箇条の御誓文」(現在は五ヵ条の誓文と表記します)は近代民主主義の精神とは別のものです。

福岡孝弟案では、「会盟」とあったものを、「会盟では諸侯と天皇が対等となる」だけでなく、王政復古の理念である「諸事神武創業之始二原キ」に反するとして削除されています。福岡孝弟、由利公正、そして木戸孝允と筆を加えられる過程で、「近代民主主義の精神」からは遠ざかる改定が続きました。

 

誓文は太政官日誌(後の官報)によって「公開」されてはいますが、これを置いていた書店は都市のみで、購入できる層も限られ、農村部で知る者は少なかったことがわかっています。

一般庶民に対しては、別に「五榜の掲示」が掲げられ、五倫道徳の遵守、徒党・強訴・逃散の禁止、キリスト教の禁止、農村からの脱走を禁止し、基本的に江戸時代とは変わらぬ制限を再認識させ、こちらは周知徹底されています。

 

「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」も1874年に、板垣退助らがこれを「民撰議院の設立を意味する」と解釈して自由民権運動を開始しますが、誓文の第一項が実現するには、1889年の大日本帝国憲法の発布、すなわち20余年歳月を要しました。

1977年に昭和天皇がおっしゃられたように、仮に「明治大帝の御心に民主主義があった」としても、明治新政府の要人たちは、全員そのように考えていたとは言い難い対応をとります。

 

山県有朋は自由民権運動や政党を「専ら下等の人民を籠絡し、過激・粗暴の士を寄せ集める」として糾弾し、讒謗律・新聞紙条例、集会条例など次々と出し、保安条例なども定めて自由民権運動をおさえこもうとしました。

 

第二代内閣総理大臣黒田清隆は、「超然主義」を唱えています。

 

 憲法は敢て臣民の一辞を容るる所に非るは勿論なり。

唯た施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相投して団結をなし、

所謂政党なる者の社会に存立するは亦情勢の免れざる所なり。

 然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正

 の道に居らざる可らす。

 

これはまさに「万機公論ニ決スヘシ」とは真逆の理論で、政府内からも実は批判が出ていて、大日本帝国憲法の起草者である井上毅・金子堅太郎・伊東巳代治らは反発し、「民の声を以て神の声とし、民の心を以て朕の心とすとの玉ふ名君を貶し、万機公論に決すと宣へる聖旨を裏切る」と激しく批判しています。

 

また、「日本は古来専制君主制ではなく…」というのもどうでしょうか。

 

「大化の改新」以降、中央集権化を進めて「大宝律令」を定めます。唐の律令制度をモデルとした段階で、天皇を中国の「皇帝」に擬していたことは明かだと思います。

平安時代・鎌倉時代・室町時代・江戸時代、いずれも政権運営において「合議制」は随時とられていますが、その意味での「政治は皆で行なっていく」という意味で、合議制と民主政を混同してはいけないと思います。

 

「専制君主制」というものをどのようなものと百田氏が解釈されているかどうかわかりませんが、ヨーロッパの絶対主義時代をイメージして語られておられるならば、確かに、日本の過去にそのような政体はみられません。

ただ、日本が参考にしたドイツ帝国や第二帝政フランスなどは極めて専制的な君主制で、その意味では、「明治維新」は古来の日本のあり方を、西洋的な近代君主国家へと改変するものだったといえます。