『日本国紀』読書ノート(58) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

58】「徳川の平和」を誤解している。

 

「唯物史観の歴史家の中には、江戸時代を『前近代的な文化の遅れた時代』であるかのように捉える者がいるが、決してそうではない。」(P164)

 

またしても、と言いますか、どうもこの類いの説明を百田氏は多用されています。

まず「唯物史観の歴史家」って、何でしょう。

唯物史観に立つと江戸時代は文化の遅れた時代、ということになるのでしょうか?

 

江戸時代は、経済が発展していたがゆえに、文化が栄えるようになった…

 

これを否定したら、それはそもそも唯物史観じゃありません。

百田氏が唯物史観をどのようなものと考えられているのかよくわからないのですが、

唯物史観の歴史家の誰が、江戸時代を前近代的な文化の遅れた時代だ、と説明しているというのでしょう。私には、まったく心当たりがありません。

 

江戸時代は、19世紀に「パックス=トクガワエ」(徳川の平和)と呼ばれ、世界でも有名でした。

 

「社会制度が急速に整い…」(P164)

 

と、説明されていますが、人口の8割を越える農村社会は、室町時代の「惣」をほぼそのまま受け継ぎ、幕府は農村の自治をうまく活用しました。江戸時代に入って急速に変化したわけではありません。

 

「世界に先駆けて貨幣経済が発達し…」(同上)

 

「日本史の中で、ようやく貨幣経済が発達し…」とは言えますが、どういう根拠で江戸時代の貨幣経済が「世界に先駆けていた」と言えるのでしょう。

 

「同時代のヨーロッパ諸国と比べても、民度も知的レベルともに高く、街は清潔で、疫病の発生もほとんどなかった。」(同上)

 

「民度」って何でしょうか。犯罪が少ない、お行儀がよい、ということでしょうか。

「知的レベル」も曖昧な表現です。後に説明される「識字率の高さ」でしょうか。

識字率と寺子屋については以前に指摘したのでここでは繰り返しません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12428966914.html

 

海保青陵の『東贐(あずまのはなむけ)』には以下のような話が紹介されています。

その名も「あらかせぎ」という犯罪。

「数人の無法者が通行人に付き当たり、言いがかりをつけて懐のモノや櫛などを奪う」という様が紹介されています。その後、盗んだものを仲間に次々に渡して犯罪の追及をまぬがれる…

これには他にも数多の江戸の犯罪事情が紹介されています。

 

『街談文々集要』で紹介されている江戸の犯罪はなかなかにひどい。

槍の稽古をしているうちに、生きている人を突き刺したくなったと称して,通りがかりの13人を突きまくり、うち6人が死亡… 完全に通り魔です。

 

加賀の前田家に残る『断獄典例』という判例集をみると、子どもの命をなんとも考えていない親の事件が発生していたことがわかります。

先妻との間に生まれた子を、後妻が火箸を押しつけて殺した話、養育費を支払うという条件で子どもを引き取り、カネだけ受け取り続けて子どもを捨てたという夫婦の話など「児童虐待」の事件もみられます。

 

通り魔、強盗、放火、大量殺人、そしてスリの横行…

 

原文に当たりにくい方で、もっと知りたい、という方は是非『古文書に見る江戸犯罪考』(氏家幹人・祥伝社新書)をお読みください。

 

悲惨で不道徳な犯罪が多発するなかで、「幼い自分の娘を殺した」父親が、江戸からの追放、という軽い刑罰を受けた例があります。(『御仕置例類集』)また、「大岡裁き」の中でも、主の妻から主の殺害を強要された女中が殺人未遂だったにも関わらず獄門になり、不倫を手引きしただけの女中も死刑になる、という例がありました。

儒学では「親子」「主従」に価値観がおかれ、親が子を殺害する場合と子が親を殺す場合の刑罰に差がつけられ、主人を害する行為は、殺人教唆だろうが未遂だろうがおかまいなく死刑、不倫も死刑…

この状況は、「近代的」とはとても説明はできません。ある意味、文化は「前近代的」だった、と指摘する人がいたとしても仕方が無いと思います(私は現在の価値観で当時の人々の習慣・言動を判断してはいけないと考えていますので前近代的とは思いませんが)。

 

「街は清潔で…」というのも一面的な説明です。

下水や排泄物のリサイクル・再利用がゆきとどいていた、とは説明できますが。

「排泄物」を肥料とするため、近隣の農家では「野菜」と「排泄物」を交換していました。しかし、排泄物を運ぶ樽でそのまま野菜を運んで往復していたので、寄生虫が発生したり、食中毒の原因となっていたりしました。

江戸に眼病が多かったのも、輸送中の汚物が道に落ちて乾燥し、空中を飛散していたからだ、と説明される方もいます。

 

「疫病」の発生は、たくさん記録されています。

麻疹の大流行は有名で、5代綱吉も罹患したようです。天然痘も発生していましたし、「ころり」という疫病も流行しています。

そもそも江戸中期以降、薬の行商がさかんにおこなわれていることから病気の蔓延は明かですし、1849年にはモーニッケによって長崎に種痘所が設立され、それが分苗されて各地に種痘所が設立されています。天然痘が流行していなければ、1858年までの間に各地に大量に種痘所が設置されたりしません。

歴史を著述される方で、まさか江戸時代に「疫病の発生がほとんどなかった」などということを説明する方がいるとは思いもよりませんでした。