『日本国紀』読書ノート(59) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

 

59】幕藩体制は日本独特の封建体制ではない。

 

まず、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、の話なのですが…

 

「幕府の直轄領(天領)以外の全国の土地は、それぞれの藩主が、それぞれの藩主が支配し、法律も藩ごとに違っていた。」(P165)

 

実は、現在では幕府の直轄地を「天領」とは教えていません。かなり以前から教科書から消えています。

わたしが学生時代は「天領」と説明していましたが、これは江戸時代には使用されていない言葉で、明治維新後に幕府の直轄地を明治政府が接収してからの名称のようです。

ついつい私も授業中に「天領」という言葉を使ってしまうときがあり、反省しています。

 

現在では「幕領」という言葉を使用していますが、同じような例としては他にも「踏絵」があります。

テレビ朝日のQさまに出演させていただいて解説をしたことがあるのですが、現在では「絵踏」といいます。「踏絵」は「絵踏」に使用する「板」のことです。

「絵踏をするのに踏絵を使う」、という用法になるわけですね。

百田氏も「藩」は江戸時代に使用されていた言葉ではない、と、されているので、「天領」も同様に説明して「幕領」とされたほうがよかったと思います。

 

さて、

 

「この『幕藩体制』と呼ばれる制度は、日本独特の封建制である。」(P165)

 

と説明されていますが…

どうも百田氏は「日本独特」とか「世界に先駆けて」とか、そういう文言がお好きですが、日本の誇るべきところを強調して紹介することには私も賛成です。

しかし、それが誤っていたり誤解していたりすると、かえって失笑をかってしまう原因になったり他の説明も疑問視されたりしてしまうので、よほど丁寧に説明しないといけないところだと思います。

 

重要地を直轄とし、諸侯に領地を与える、というのは世界ではよく見られる統治手法です。

インドのグプタ朝などもこの方式を採用していて、世界史の教科書でも「…中央部を王国直轄領、従来の支配者がグプタ朝の臣下として統治する地域…」(『詳説世界史B・山川出版・P59』)などとその統治方法を説明しています。

また、前漢も、6代景帝の呉楚七国の乱までは、「郡県制と封建制」を併用し、これを「郡国制」として紹介しています。

中央集権と地方分権を併用した手法というのは「統治」ではむしろよくみられる方法でしょう。

 

大名の分類についても、

 

「徳川家の血筋を引く『親藩』、関ヶ原の戦い以前から徳川家に忠誠を誓っていた『譜代』、関ヶ原の戦い以後に服従した『外様』の三つである。」(P166)

 

と説明されていますが、これもかなり古い説明です。

「関ヶ原の戦い」の「前」と「後」となると、黒田・浅野・加藤・福島・細川などは、関ヶ原の戦い以前から徳川家に「忠誠」を誓っていたともいえなくはありません。

単純に、徳川家の家臣だったか、豊臣家の家臣だったかで、「譜代」と「外様」に分類が可能です。

そういうこともあって、現在では「関ヶ原の戦い」を基準にした分類をしない場合もあります。教科書の記述も、そのニュアンスが伝わるように、

 

「親藩は三家(尾張・紀伊・水戸の3藩)など徳川氏一門の大名、譜代は古くから徳川氏の家臣だった大名、外様は関ヶ原の戦い前後に徳川氏に従った大名をいう。」

(『詳説日本史B』・山川出版・P171)

 

という表記に変わりました。

 

「外様の多くは石高は多くても僻地に追いやられていた。」(P166)のは確かです。

ただ、外様の中にも「差」がつけられていて、それこそ「関ヶ原の戦い」の前に、つまり東軍に与していた大名は、本領安堵型か転封加増型に分けられます。「追いやられた」例はむしろ少ないといえます。

また、藤堂・池田などは外様であっても要地(播磨・伊賀)に配されています。(島津は、西軍に与しながらも本領安堵型の外様といえますが、むしろ例外的だと思います。)

 

「外様は軍役などの負担も重く財政的にも苦しめられた。」(P166)

 

とありますが、「軍役」はすべての大名に統一的に負担されるもので、しかも戦時の動員ですから「財政的に苦しめられた」ものではありません。

おそらく「普請役など」の誤り、かんちがいでしょうか。

城の修築、河川の工事などを負担されるもので、これは諸大名の経済的な負荷となっていたといえます。薩摩藩が濃尾平野の三川合流地域の治水工事をおこなった「宝暦の治水」などが有名です。

 

「幕府を開くことができるのは征夷大将軍だけだったが、室町幕府以降は源氏の血を引いている武士でなければならないという不文律ができていた。」(P167)

 

この考え方は、現在ではなくなっています。

「幕府」の概念も、統治者としての「征夷大将軍」も、「源氏による後継」という考え方も、後に幕府の徳川家による世襲を正統化するために作られたもので、「源氏でないと征夷大将軍になれない」という考え方はそれ以前に存在していません。

摂家将軍・皇族将軍の例もあり、実際、4代家綱の死後、皇族からの将軍擁立の話もあったといわれています(『酒井忠清』福田千鶴・吉川弘文館では酒井忠清による擁立説は否定されています)。

 

豊臣秀吉が将軍になるために足利義昭の養子になろうとした話は俗説で、以前にお話した通りです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12429763296.html