【51】秀吉は征夷大将軍になりたくて足利義昭の養子になろうとしていない。
「…天正十四年(一五八六)、正親町天皇から豊臣の姓を賜り、公家として最高職の太政大臣に就く。秀吉はその前年に五摂家筆頭の近衛前久の猶子(形式的な養子)となり、公家となって藤原姓を名乗っていた。」(P145)
とあります。
これは「細かいことが気になるぼくの悪いクセ」なのですが…
近衛家は、この段階では「五摂家の筆頭」ではありません。
後にに近衛家に皇族が養子に入ってから特別な家とみられるようになります。(近衛・鷹司・一条の3家に皇族が養子に入っています。)
江戸時代前半でも近衛家は2800石で、九条家は3000石です。
秀吉の時代には近衛家が五摂家の筆頭とは言えないと思います。
秀吉が「関白」の位を得た過程は実は複雑な背景がありました。
1584年、秀吉が正二位内大臣に就任します。この時、
関白・二条昭実
左大臣・近衛信輔(近衛前久の嫡男)
右大臣・今出川(菊亭)晴季
内大臣・羽柴秀吉
で、さらに菊亭晴季に代わって秀吉は右大臣に就任することに内定したのですが…
秀吉が「信長公が右大臣で亡くなられた。縁起が悪いから左大臣に就任したい。」と言い出します。
これでは近衛信輔は左大臣を辞めなくてはならなくなります。
二条昭実の後は、近衛信輔が時期関白に内定していて、あと一年ほどすれば二条昭実が辞めて近衛信輔が関白になるはずだったんですが、今、左大臣を辞めてしまうということは官位が無くなるということです。官位無く関白になった先例が近衛家には無い(他の摂家も官位を持たずに関白に就任することをたぶん認めない)。
そこで信輔は、二条昭実に「関白を辞める時期を早くしてほしい」と要求します。
そうすれば、スムーズに進む…
ところが二条昭実が拒否します。
「ゆずれ」「ゆずらない」の争いが起こってしまいました。
そこで秀吉が「解決」に乗り出します。
近衛前久の猶子に秀吉が入り、関白を二条昭実から秀吉に譲らせ、いったん関白の位を秀吉が預かるという形にして、二条・近衛の対立を緩衝しました(信輔は左大臣から将来関白に就けるし、二条昭実も信輔の要求で近衛に関白を譲ることは避けられてどちらの顔も立つ)。
みかえりに近衛家には1000石、ほかの摂家にも500石を加増し、さらには左大臣・右大臣の地位はそのままにし、二条昭実・近衛信輔・菊亭晴季には従一位が与えられるようにはからいました。
「三方一両損」ならぬ「三方まるくおさめる」形で、関白の地位をうまく手に入れたのでした。
「実は豊臣秀吉も征夷大将軍の座に就こうとして、足利義昭の養子になろうと画策したが、義昭の拒絶にあって叶わなかった。」(P168)
と説明されていますが、これは俗説で現在は否定されています。
『多聞院日記』によると天正十二年十月に征夷大将軍任官を天皇から勧められたが断ったということが記録されています。
江戸時代の読本『絵本太閤記』に書かれている歴史小説の一場面にすぎません。
『偽りの秀吉像を打ち壊す』「秀吉は征夷大将軍になりたかったのか」(堀新・柏書房)などでも虚構が明らかにされています。
あと一つ。ルイス=フロイスの話として、
「二百名以上の女を宮殿の奥深くに囲っていたが…」(P146)
と、ありますが、これは百田氏も指摘されているように「少々誇張」があるというか、メチャクチャ誇張があります。
ちなみにルイス=フロイスの『日本史』では「側室は300名ほど」と記されていたはずです。
秀吉の側室は16名です。(『伊達世臣家譜』)
百田氏は、ルイス=フロイス評を高く評価されていますが、彼の『日本史』は、誇張や偏った表現も多いところも目立ち、他の史料と突き合わせて評価し紹介していく必要がある史料で、そのまま紹介するときは注意が必要です。