『日本国紀』読書ノート(183) | こはにわ歴史堂のブログ

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183】明治憲法には内閣の規定は無く、ポツダム宣言受諾の経緯の説明が不正確である。

 

「昭和天皇は、その生涯にわたって、『君臨すれとも親裁せず』という姿勢を貫いていた。『親裁』とは、君主自らが政治的な裁決を下すことである。したがって国民が選んだ内閣の決定には口をはさまないという原則を自らに課していた。」(P404)

 

と説明されていますが、明治憲法下の政治体制をあまり詳しくご存知ないようです。

「国民が選んだ内閣」ということはありえません。

そもそも大日本帝国憲法を読まれたことがあるのでしょうか。

大学受験勉強で政治経済を選択した人ならわかると思いますが、大日本帝国憲法には、「内閣」も「内閣総理大臣」の規定も存在しないのです。

また、議院内閣制でもありませんし、国民が内閣を選ぶことはできません。

議会で多数の政党から総理大臣が任命される、という慣習が加藤高明内閣以降、高橋是清内閣まで続きますが(「憲政の常道」)、五・一五事件以降はすべて非政党内閣で天皇が任命しています。

「君臨すれども親裁せず」という術語を用いながら、「その生涯にわたって」「…決定には口をはさまないという原則を自らに課していた。」と説明されていますがこれは誤りです。

これは史料的にも確認できるだけでなく、昭和天皇ご本人が『昭和天皇独白録』の中でおっしゃっていることです。

「ある事件」をきっかけに政治には口を出さないことを決められています。つまり逆に言えば、それまでは介入していた、ということです。

この事件が、「張作霖爆殺事件」です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12444666619.html

 

「田中に対しては、辞表を出さぬかといったのはベトーを行なつたのではなく忠告をしたのであるけれ共、この時以来、閣議決定に対し、意見はいふがベトーは云はぬ事にした。」

 

「ベトー」とは“Veto”のことで「天皇大権」による拒否権を意味します。

 

「君臨すれども親裁せず」ということはなく、昭和天皇自らおっしゃっているように「意見はいふがベトーはいはず」だったと言えます。

 

「大東亜戦争の開戦には反対だったにもかかわらず、開戦が決まった御前会議においても、内閣の決定に対しては一言も異議を唱えなかった。」(P405)

 

という説明も、誤った説明です。

「開戦」はもちろん、「開戦」に関することごとくに「内閣」は関与できないのです。

そもそも「内閣」はありませんし、「陸海軍の統帥」「宣戦・講和・条約の締結」は議会が関与できない「天皇大権」です。

 

「『ポツダム宣言』をめぐっての会議は完全に膠着状態になった。日付が変わって午前二時を過ぎた頃、司会の鈴木貫太郎首相が、『事態は一刻の遷延も許されません。誠に畏れ多いことながら、陛下の思し召しをお伺いして、意見をまとめたいと思います。』と言った。ずっと沈黙を守っていた昭和天皇は、『それならば、自分の意見を言おう。』と、初めて口を開いた。『自分は外務大臣の意見に賛成である。』日本の敗戦が決まった瞬間であった。」(P405)

 

と説明されていますが、著しい説明不足で誤解をまねきます。

「完全に膠着状態となった」と説明されていますが、どのような「膠着」かが説明されていません。

ですから、いきなり天皇が「外務大臣の意見に賛成」とおっしゃられたと説明されても、他の意見がどのようなものかも不明ですし、そもそも「外務大臣の意見」がどのようなものかもわかりません。

 

阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部長は、「ポツダム宣言に複数の条件を付し、

これが認められない限りは徹底抗戦すべし」というものでした。

東郷外務大臣、米内海軍大臣、平沼枢密院議長は、「国体護持を確認してポツダム宣言を受諾する」というものでした。

ですから、昭和天皇が賛成したのは「国体護持を確認してからポツダム宣言を受諾する」ということです。

ですから、この場(8月9日の夜中)ではまだ「敗戦」が決まったわけではなく、実際、国体護持を確認したところ、8月12日未明に来た連合国からの回答では、国体護持が十分確認できなかったため、また陸軍が徹底抗戦を唱えて閣議で話が蒸し返されてしまい、8月14日午前11時に、再び御前会議が開かれたのです。ここで再び議論が戦わされ、阿南陸軍大臣は徹底抗戦を説きますが、ここで天皇は「私の考えは変わらない」「これ以上戦争を継続することは無理」「以上は私の考えである」ときっぱりと断言されました。「日本の敗戦が決まった瞬間」はこの時で、ポツダム宣言受諾は8月14日なのです。

 

9日から14日まで、5日間もあります。

軍部と政府は、「国体護持」にこだわったために5日間もの貴重な時間を消費しました。この間、東南アジア・中国・北方の各地では戦闘が続き、多くの命が失われています。

政府や軍部が「国体」のことばかり考えていた中、天皇のみが「国民」のことを考えていたのだ、ということを忘れてはいけません。