『日本国紀』読書ノート(224) | こはにわ歴史堂のブログ

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224】「共産主義」と「社会主義」を混同してソ連の崩壊を説明している。

 

「昭和天皇は戦後、GHQが押しつけた憲法によって、『日本の象徴』とされたが、それ以前も昭和天皇は『君臨すれども親裁せず』の姿勢を貫かれていた。昭和天皇が政治的判断を口にされたのは生涯に二度-『二・二六事件』で反乱軍を鎮圧せよと言われた時と、『ポツダム宣言』を受諾すると言われた時-だけであった。」(P488)

 

「日本国憲法」が「押し付け」である、という言説に対して、常に私が思うことは、そもそも日本が近代的な憲法を所有したのは、歴史的に現行憲法を含めて二つしか無い、ということです。

「大日本帝国憲法」と「日本国憲法」の二つだけで、日本国憲法が「押しつけ」ならば「大日本帝国憲法」は「欧米の猿まね」です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440382945.html

 

日本国憲法に日本らしさがないと主張する人がいるならば、それは大日本帝国憲法もまったく同じです。

それよりも、「日本の天皇は、代々、国のために祈りを捧げる祭主であり続けたのだ。」(P488)と百田氏は説明されていますが、これは江戸時代までの天皇のことで、

「大日本帝国憲法」によって「天皇」は西洋で認識される「元首」で「統治権の総攬者」で「主権者」になってしまったのです。

天皇は、むしろ現行憲法における「象徴」という地位によって、「大日本帝国憲法」以前のお姿に戻られた、という側面があったということを忘れてはいけません。

あくまでも昭和天皇ご個人のご姿勢とお考えによって「天皇機関説」を理解され、「そのようにふるまう」ことを心がけられたのであって、大日本帝国憲法では、どう読んでも天皇の地位は「統治者」です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12449874602.html

 

終戦直後、「国体」を危うくした根本は「大日本帝国憲法」にあったことは重要な側面です。

昭和天皇の「政治的判断」は通常は二つではなく三つと説明します。

一つは「張作霖爆殺事件」、一つは「二・二六事件」、もう一つが「終戦の御聖断」です。(軍部は、昭和天皇が下された「終戦の御聖断」に際して、なおも「国体の護持」にこだわって恐れ多くも再度の「御聖断」を天皇にさせてしまっています。)

「張作霖爆殺事件」について、百田氏は「事件の首謀者は関東軍参謀といわれているが、これには諸説あって決定的な証拠は今もってない」などと言われていますが、当時昭和天皇は陸軍および首相の報告の裏の虚偽を喝破され、これがきっかけになって田中義一首相が辞任することになっています。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12449390632.html

 

以後、昭和天皇は「意見を言うだけにしてベトー(拒否権)はしない」という姿勢をとられます。逆に言えば、「意見」は節目においてしっかりとなされてきた、ということも重要なポイントです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12444666619.html

 

満州事変、盧溝橋事件、沖縄戦など、ときに統帥部の参謀よりも卓見を述べられていることが『昭和天皇独白録』、侍従及び侍従武官長の「日記」から読み取れます。そしてまた、天皇には誤った情報、楽観的な見通ししか伝えられていない(場合によっては天皇の御意志に反して事後の報告をしている)という状況もわかっています。

マッカーサーが天皇の戦争責任を追及しなかったのは、こういう事実確認をした上での判断でもありました。

「天皇は親裁をせず」あたかも「祭主」だけであり続けたから責任はなかった、というような説明は、激動期の天皇のご苦労をないがしろにした説明と思います。

 

「ソ連の崩壊」(P489P492)と題して「共産主義の崩壊」をテーマに説明がされています。

 

「共産主義とは、二十世紀に行なわれた壮大な社会実験であり、それはことごとく失敗に終わったといえる。」(P491)

 

と説明されていますが、この項を読んで思ったことは、「共産主義」と「社会主義」を百田氏は混同、あるいはその違いをよくわからず説明されているような印象を受けました。ここは「共産主義」ではなく「社会主義」と説明すべきです。

 

その上で、「ソ連は壮大な社会実験であった」という説明ならば大いに賛成します。

また、「ことごとく失敗に終わった」ということも誤りです。

資本主義が、社会主義に「勝利した」といえるのは、資本主義の中に「社会主義」の手法を取り入れてメンテナンスに成功したからである、という側面を忘れてはいけません。「労働組合」「インフラの公営」「土地の一部公有」「社会保険」「基幹産業の国有化」などはもちろん、「経済の国家統制」などは社会主義の政策です。

一方、社会主義政権も、レーニンはネップを取り入れて戦時共産主義を放棄したり、スターリン体制後、フルシチョフが一部市場経済を導入したりして「修正」を図ったものの、最終的には資本主義は修正に成功し、社会主義は修正に失敗した、ということで1991年の「ソ連の崩壊」を迎えたのです。

複雑な国際情勢・政治・経済を稚拙な二項対立で説明することは現在ではしません。

 

「『共産主義は人を幸せにしない思想である』という結論がすでに出ているにもかかわらず…」と説明されていますが、「共産主義は理想にすぎず、非現実的であった」と説明すべきです。べつに共産主義そのものは人を幸せにしない思想というわけではありません。ただ、実現しない絵に描いた餅だった、というだけのことです。

それを実現するための「社会主義の諸実験」にソ連は失敗しました。

 

ソ連史の説明の仕方にも誤解があります。

 

「…アメリカのレーガン大統領の登場によって、体制の変更を余儀なくされる。レーガン政権が大規模な軍拡競争に乗り出したことによって、ソ連の経済がその競争に耐えられなくなったためだ。」(P489P490)

 

と説明されていますが、これは冷戦直後の説明で、ソ連崩壊後、旧ソ連の側から多くの史料・証言が出るようになってからは、異なった説明をします。

アメリカのレーガン政権の「軍拡」以前からソ連の経済はもう破綻していました。

「ブレジネフ時代」は「停滞の時代」と総括され、スターリンの粛清によって抜擢された世代で固められ、生産設備も更新されず、低い労働生産性のもとで経済成長率は0%を記録していました。市民の中には社会主義イデオロギーの情熱は消え、党・政権の末端も同様でした。

 

「昭和六〇年(一九八五)、共産党中央委員会書記長(ソ連のトップ)となったゴルバチョフは行き詰まった経済を立て直すため、市場経済の導入や情報公開を試みたが、これによりソ連国民の間に自由化を求める空気が広まり、その波はソ連の衛星国家にも広がった」(P490)

 

と説明されていますが、実は説明が「逆」です。

すでに国民経済が破綻し、「ソ連国民の間に自由化を求める空気が広まり」、社会主義イデオロギーへの情熱が失せていたため、「市場経済の導入や情報公開を試みた」というのがペレストロイカ(改革)のきっかけでした。

 

以下は細かいことが気になるぼくの悪いクセ、ですが…

 

「ソ連はアメリカとの軍拡競争を諦め、同年十二月、地中海のマルタ島で行なわれた米ソの首脳会談で、東西冷戦は終わりを告げた。」(P490)

 

と説明されていますが、マルタ会談は実は「マルタ島」でおこなわれていませんでした。マルタ島沖、客船マキシム=ゴーリキーの船内でおこなわれました。

 

「翌年、東ドイツ政府は崩壊し、ドイツは四十五年ぶりに統一国家となった。」(P490)

 

中学生くらいですとよく誤解するのですが、東ドイツ政府は崩壊していません。

東ドイツ政府が、西ドイツ政府と統一諸条約を調印して、「統一ドイツ」が誕生しました。せめて「東ドイツが西ドイツに吸収され」と説明すべきでした。