『日本国紀』読書ノート(206) | こはにわ歴史堂のブログ

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206】「戦犯の赦免運動」と「赦免決議」に誤解がある。

 

「独立後、極東国際軍事裁判(東京裁判)によって『戦犯』とされていた人たちの早期釈放を求める世論が沸騰し、国民運動が起こった。日本弁護士連合会(日弁連)が『戦犯の赦免勧告に関する意見書』を政府に提出してこの運動を後押しした。」(P451)

 

と説明されていますが、少し微妙なところです。6月7日に「戦犯の赦免勧告に関する意見書」が政府に出されたことをきっかけに戦犯釈放運動は全国運動に発展します。

 

「何とのべ四千万人にのぼる署名が集まった」というのはどうでしょうか。この数字を確認できる資料は存在しません。しかし、大きな盛り上がりをみせたことで一千万人ほどの署名が集まったのではないか、と考えられています(これだけでも十分な署名数なのですが…)

 

「昭和二八年(一九五三)、『戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議』を国会に提出し、八月三日、衆議院本会議において、日本社会党、日本共産党を含むほぼ全会一致で、戦犯の赦免が決議された。」(P452)

 

これも微妙な説明です。「日本共産党を含むほぼ全会一致」というのは、どうでしょう。52年の衆議院法務委員が、本会議で共産党議員が反対を表明していますし、1953年当時、日本共産党は国会の会派を持っていません。

また、国会決議は、議長が採決し、「御異議なしと認めます。」という形式でおこないます。小会派の個々の議員の動向は記録されません。この形式を「全会一致」と説明されているのは不正確です。(55年決議の場合は労農党も反対しています。)

 

「まさしく日本人全員の総意であったといえる。また、これはGHQによる『WGIP』の洗脳にこの時点では多くの日本人が染まっていなかったということでもあった。もし洗脳が完全に行なわれていたなら、戦犯赦免運動など起こるはずがなかった。洗脳の効果が現れるのは、実はこの後なのだった。」(P452)

 

と説明されていますが、これはさすがに無理がある説明ではないでしょうか。

あれだけ、1945年から1946年にかけて、「WGIPの洗脳」を強調し、「かくの如く言論を完全に統制され、ラジオ放送によって(当時はインターネットもテレビもない)洗脳プログラムを流され続けば、国民が『戦前の日本』を徹底的に否定し嫌悪するようになるのも無理からぬことだ。」(P424P425)とまで説明されていました。

「何よりも恐ろしい」深い洗脳で、「日本人の精神を粉々にし」(P425)たはずが、

「この時点」(1953)では「まだ」染まっていなかったというのでは、説得力に欠けます。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12450537290.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12450589286.html

 

「WGIP」は「戦争責任を伝える計画」にすぎず、洗脳するような計画ではなかったということは、戦後の「戦犯の赦免勧告に関する意見書」及びそれを契機とする運動がむしろ証明しているのではないでしょうか。

正直、「WGIP」なるものが戦後の歴史観を形成したと説明し、戦後の歴史観を史料や社会科学的検討によって反論・批判するのではなく、「WGIP」によって洗脳されている、という表現で否定する手法から離れられたほうがよいと思います。

かなりの無理があり、近現代の全体像を(本来、百田氏が主張したいことまでも)歪めてしまっていると思います。

終戦後、日本人は、戦前の軍国主義とプロパガンダが誤っていたことに自力で、あるいは戦後内閣の説明で気づき、さらに復員兵の話で知った事実、自分たちが戦時中うすうす気づいていたことが、GHQが提供した「真相はこうだ」「太平洋戦争史」で再確認して「大東亜戦争」の実態を理解したのです。

その上で、東京裁判の判決を受け入れながらも、A級戦犯も、BC級戦犯も、実は軍国日本の犠牲者ではなかったのか、ということにも気づき、独立を回復したことを契機に、いまだ国外で、あるいは国内で服役している人々の赦しを諸外国に求めたのです。

もともとアメリカや国連、およびユニセフなどの機関は、日本の復興に手をかしてくれていました。戦後の戦犯赦免もまた「日本の復興」の一環であると国際的に理解してもらえたと考えるべきではないでしょうか。

 

サンフランシスコでの吉田茂全権の演説を紹介します。

 

「この平和条約は復讐の条約ではなく、『和解』と『信頼』の文書であります。日本全権は、この公平寛大なる平和条約を欣然受諾いたします。」

「アジアに国をなすものとして、日本は他のアジア諸国と緊密な友好と協力の関係を開きたいと熱望するものであります。」

「それらの国々と日本は伝統と文化・思想ならびに理想をともにしているのであります。」

 

この吉田の演説は、中国やインドへの「メッセージ」ともなり、中国国民党政府とは1952年4月に講和が成立し、中国は賠償請求権の放棄で「吉田が示した日本の意思」に応えました。

さらにインドも6月、平和条約を日本と調印し、同じくすべての賠償請求権を放棄する、としました。

これらが「戦犯赦免」の国際的同意にあったことを忘れてはならないと思います。