『日本国紀』読書ノート(207) | こはにわ歴史堂のブログ

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207】日米安全保障条約が結ばれる国際的な情勢とプロセスの説明が不十分である。

 

「…憲法第九条により自前の軍隊を持つことができず、自国の領土と国民を自ら守る能力がないというきわめて脆弱な国でもあった。」(P452P453)

「サンフランシスコ講和条約が成立すれば、すべての占領軍は日本から撤退することになっていたが、その時点ではまだ朝鮮戦争が続いており、アメリカ軍が撤退すれば、軍隊を持たない日本がたちまち安全保障上の危機に陥るのは明白だった。」(同上)

 

と説明されていますが、サンフランシスコ講和会議への過程においての連合国軍内の「合意」や世界史的背景をふまえていない説明です。

 

ダレスの「平和七原則」というのがあります。1950年に、日本の独立に向けての「方法」が示されています。

「国際連合が実効的責任を負担するというような満足すべき別途の安全保障とりきめが成立するまで、日本国区域における国際の平和と安全のために」、米軍が日本に駐留し、「その他の軍隊」(日本の軍事力)と引き続き協力するという方式が提起された(シリーズ昭和史№11・サンフランシスコ講和・佐々木隆爾・岩波ブックレット)

のです。

これにイギリスが同意します。そして日本軍国主義の復活を懸念するニュージーランドとオーストラリアを、1951年1月に「説得」しました。

アメリカは、ニュージーランドとオーストラリアの安全を保障するとともに、「日本の脅威からも守る」という担保を与えて同年2月、三国協定を結びました(これが後の「太平洋安全保障条約」“ANZAS”になります)

つまり、サンフランシスコ講和条約が結ばれても、アメリカ軍は撤退しない、ということは決定されていて、「日本はたちまち安全保障上の危機に陥る」ことはありません。

日米安全保障条約は、まさにこの「平和七原則」と「三国協定」をふまえて結ばれたものです。

ですから、「しかしこの条約には、アメリカは日本を防衛する義務があるとは書かれていなかった。」(P453)と説明されていますが当然です。オーストラリアとニュージーランドに「アメリカは日本の脅威に責任を持つ」と「約束」しているので、共同防衛という条約を結んでしまうと、日本が再軍備をし、オーストラリアとニュージーランドの脅威に再びなったときに、アメリカは日本の共同責任を持ってしまうからです。

「さらに日本国内で内乱が起きた場合は、その鎮圧のためにアメリカ軍が出動できる。」という項目も、日本に共産クーデターが起こることを想定しているだけでなく、軍国主義政権が誕生したときに介入できるようにした項目なんです。

「アメリカが日本の軍国主義化をくいとめる」というアピールを太平洋の「同盟国」に保障している意味もある条約でした。

 

「アメリカは日本を防衛する義務がない」「自由に基地を作ることができる」「内乱が起きたらアメリカ軍が出動できる」とネット上ではよく説明されています。

 

さて、改めて、日米安全保障条約の条文を紹介します。

 

第一条 …この軍隊(アメリカの駐留軍)は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起こされた日本国における大規模の内乱及び騒擾を鎮圧するため、日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。

 

しかし、これをよく読めばわかりますが、たしかに「義務」はありませんが、アメリカの意思で、共産クーデター、軍国主義政権樹立の阻止、ソ連などの侵攻から「守る」ことができる条約になっています。

当時、アメリカがこの「意思」を実行しないはずはない、そしてアメリカのオーストラリアやニュージーランドとの協定、「七原則」をわかっていたからこそ吉田茂は日米安全保障条約の調印をおこなったのです。

よって当時においては、「日本にとって不利、不平等な内容」(P453)とは断言できないのが実際でした。「不平等だが日本には有利」な条項です。

 

韓国の「李承晩ライン」が説明され、竹島の不法占拠、日本の漁船への取り締まりを指摘(P453)し、「拿捕された日本漁船は三百二十八隻、抑留された船員は三千九百二十九人、死傷者は四十四人にのぼる。抑留された漁民には残虐な拷問が加えられ、劣悪な環境と粗末な食事しか与えられず、餓死者まで出た。」(P454)と説明されていますが、この数字や抑留者の様子は何を典拠としたものでしょうか。

『海上保安庁三十年史』で、「北朝鮮と韓国による」拿捕が327隻、抑留船員3911人、というのが確認できました。近い数字ですが、北朝鮮による拿捕・抑留も合計していると思われます。また、抑留された人たちの回想のようす(例えば昭和28年のアサヒグラフ10月7日号など)から「劣悪な環境」「粗末な食事」という様子は十分窺えるのですが、

韓国に抑留された後に収容された場所で「残虐な拷問が加えられた」という話は見られません。拿捕されたときに暴行を受けた話は出てきますが、これは「抑留後の拷問」とは言えません。また、「餓死者まで出た」の話も確認できません。これは皮肉ではなく、韓国での「抑留後の拷問」「抑留中の餓死者」の記録や回想があればたいへん知りたいことなので是非教えてもらいたいところです。