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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

221】国の安全保障をアメリカに委ねたから「平和ボケ」になったのではない。

 

「憲法第九条によって国の安全保障をアメリカに委ねてしまった日本人は、ただ『平和』を唱えてさえいれば、『平和』でいられるという一種の信仰を持つに等しい状態となった。」(P483)

 

と説明されています。

あたりまえですが、憲法第九条によって国の安全保障をアメリカに委ねたのではありません。日米安全保障条約によって国の安全保障をアメリカに委ねたのです。

そもそも、「日本の独立」はアメリカとの安全保障条約、つまり独立後もアメリカ軍が駐留する、という条件下に達成されたのです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12452006140.html

 

百田氏は、日米安全保障条約および岸信介が苦労の末に改訂した新安保条約によって

「ただ『平和』を唱えてさえいれば、『平和』でいられるという一種の信仰を持つに等しい状態となった。」とでも言うのでしょうか。

また、「国土と国民も守れないと気づいた保守政党の『日本民主党』と『自由党』は、『自主憲法制定』と『安保条約の改定』を目指し、昭和三〇年(一九五五)に合併して自由民主党(自民党)を結成した。」(P454)と説明されていますが、これによって実現した安保条約が日本に「平和ボケ」をもたらしたとでも言うのでしょうか。

「国の安全保障をアメリカに委ねる」というのは、当時においては、一つの有効な選択肢で、これによって日本は多大な利益を受けました。

まず、「戦争放棄」を標榜し得たことによって東南アジアや東アジアに向けて、もはや日本は侵略国家ではない、というアピールが可能となりました。

多くの国が、新生日本の姿勢を評価し、賠償金の全額放棄を認めてくれました。

それから防衛費を大幅に抑えることが可能になり、また新安保条約の第二条の経済協力条項によって高度経済成長に弾みをつけたことも忘れてはいけません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12452165350.html

 

そもそも「平和ボケ」って何でしょうか。

「自衛隊を蔑み、嫌悪する考えも強かった」(P483)と説明されていますが、一部の声の大きい少数派にすぎません。実際、1955年以降1990年代初めまで、自由民主党は議会において過半数を占め続けています。ほんとうに自衛隊の存在を否定的に考え、憲法第九条に違反していると考えていたなら、それを主張していた社会党が政権をとっています。

そういう政権を誕生させた国民に対して「平和ボケ」と指摘するならわかりますが、どうして冷戦期に55年体制を維持させてきた国民の選挙による判断を「平和ボケ」と批判するのでしょう。むしろ的確な国民の意思であったと説明すべきではないでしょうか。

軍国主義や覇権主義には否定的だが、さりとて冷戦期の中で一方の強国の後ろ盾を得て安全保障を保ちたい、という国民の意思が、野党に過半数をとらせることなく、さりとて与党にも2/3以上の議席を与えず、という「バランス」を生み出したと考えるべきです。

また、自民党の政権も、新安保条約で資本主義陣営に参加しながら(一見アメリカ寄りのようにみえながら)、独立後の1955年にはアジア・アフリカ会議に参加して第三世界にも接近し、翌年にはソ連と国交を回復して国際連合の加盟を実現させます。

1960年には新安保条約を結び、1965年には日韓基本条約を結びました。

1972年には沖縄返還を実現させると同時にアメリカに先んじて日中国交回復に成功します。第四次中東戦争では、イスラエルを支持するアメリカには同調せず、イスラエルを非難してアラブ諸国の信用も得ました。

外交によって巧みに日本の安全保障を確立してきたといえるのではないでしょうか。

「平和ボケ」ではなく「平和を希求する外交」を続けてきている一面も評価すべきです。

220】石油戦略は第四次中東戦争でアラブ諸国が敗れたから始まったのではない。

 

「中東の産油国が石油価格を上げたのは、第四次中東戦争で、アラブ諸国がイスラエルに敗れたことが大きかった。」(P479)

 

と説明されていますが、誤りです。「石油戦略」による原油価格値上げは、第四次中東戦争中に行われたことで、「敗れたことが大きかった」という説明は間違えています。戦いが終わる前に採られた戦略でした。

第四次中東戦争は197310月6日から同月24日までですが、いわゆる「石油戦略」の発動は1016日です。

 

「さらにサウジアラビアを中心とするアラブ諸国は、イスラエルを支援する国に対して石油輸出を制限すると宣言した。日本はイスラエル支援国家ではなかったが、アメリカと同盟を結んでいる関係で、石油禁輸リストに入れられた。日本は急遽、イスラエル軍は占領地から撤退し、占領地のパレスチナ人の人権に配慮するようにとの声明を出した。この声明発表はアメリカの反発が予想されるものであったが、背に腹は替えられない日本政府の苦渋の決断でもあった。」(P479)

 

すでに日中共同声明の説明で、「戦後、二十七年も経っていたにもかかわらず、日本は自らの意思で外交ができない国になってしまっていたのだ。」(P477)と述べられていましたが、アメリカと同盟関係にあったにもかかわらず、反イスラエル親アラブを外交的に宣言したのはきわめて「独自外交」で、田中角栄政権の1970年代は、「アメリカ追従外交」から距離を置いた「独自外交の時代」と普通は評価します。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12453404202.html

 

「余談だが、昭和四九年(一九七四)の石油危機期間中、選抜高校野球大会では、それまで慣例となっていた表彰式の演奏曲『身よ、勇者は帰る』(ヘンデル作曲のオラトリオ『ユダス・マカベウス』の中の一曲)の使用をやめ、オリジナル曲に差し替えるということまでしている。『ユダス・マカベウス』は、紀元前の物語であるが、アラブと敵対するユダヤ人戦士を称える曲だからだ。」(P480)

 

と説明されていますが…

誤解される方がいるといけないので注釈しておきますが、「ユダス・マカベウス」の物語およびヘンデル作曲のオラトリオ「ユダス・マカベウス」の中にはアラブ人は出てきません(というかこの時期アラブ人はいません)

「ユダス・マカベウス」は、セレウコス朝シリアの支配下にあったユダヤ人たちの物語です。セレウコス朝シリアはアレクサンドロス大王の死後、分裂して生まれたギリシア系の国家で、支配下にあったユダヤ人にギリシアの神ゼウスの信仰を強制しようとしました。

「ユダス・マカベウス」は「ユダ・マカバイ」というイスラエルの英雄で、イスラエルを解放した、といわれています。よってこの物語の中のユダヤ人の敵はアラブではなく、ギリシア系セレウコス朝シリアでしたので念のため。

 

P481P483で「教科書問題」が取り上げられています。

『日本国紀』には度々教科書批判が出てきますが、それとセットであるかのように、GHQによって歴史観が変えられた、「自虐史観」に満ちている、という言説が伴っています。

そして、象徴的に「侵略」という表現を取り上げて、教科書を批判されています。

 

「なお近年の歴史教科書では、『朝鮮侵略』と記述されていることが多いが、他国に攻め込むことを侵略と書くなら、世界史におけるアレクサンドロス大王やチンギス・ハーンやナポレオンの遠征もすべて侵略と書かなくてはならない。」(P159)

 

と説明されています。ただ、世界史と日本史の記述に関しては、かなり違うものだと考えてもらいたいところです。

ちなみに「侵略」は「他国に攻め込むこと」ではなく、「攻め込んだ上で支配下におく」という意味があり、戦闘などをともなって人々の生活を「蹂躙した」というイメージを伴う言葉でもあります。

やや主観的なイメージが強いので、価値観や文化の背景が異なる世界史の記述においては、「侵略」という言葉は使用していません。これは「世界の教科書」にわりと準拠したものです。

ただ、20世紀の記述に関しては、一転して「侵略」という言葉を用いる場合があり、それは「ナチス・ドイツ」に関するものです。

これも日本の教科書で、どう扱うべきか、いろいろ議論されたのですが、これも世界の教科書に倣おう、ということで「侵略」という表現になっています。

ただ、2000年代以降の教科書ではナチスに対しても「侵略」という表現を使用しなくなっています。

では、日本史ではどうかというと、モンゴルの攻撃を日本は受けましたが、その撃退に成功し、一時期でも日本の領土がモンゴルの支配下に入ったことはありません。よってどの教科書にも、「日本が侵略された」という表現は用いません。

また、古代の朝鮮半島への日本の「進出」も「侵略」とは説明していません。いわゆる「広開土王碑文」に見られた高句麗と倭の戦いも、「倭の侵略」とは言いません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12423787736.html

 

また、20世紀に関する記述ですが、多くの教科書では実は「日本の侵略」という表現は使用されていないのです。20世紀の記述に関して、2016年検定の教科書を例にとると、「満州事変」「日中戦争」「太平洋戦争」の記述内に、一文字も「侵略」という言葉は使用されていません。20世紀の歴史に関しては、日本史も世界史の一部と考えられているために、このような説明となっていると思います。

「歴史教科書では、『朝鮮侵略』と記述されていることが多い」と言われていますが、

現状、「多い」とはいえず、「朝鮮出兵」がこれからは多数派になるでしょう。

この一部をもって全体を語り、教科書全体を批判するのは問題であると思います。

 

「昭和五八年(一九八二)、日本の教育が大きく揺るがされることになる事件が起きた。いわゆる『教科書検定』問題である。」(P481)

 

と説明されて、「『隣接諸国との友好親善に配慮すべし』との一項目を教科用図書検定基準に加えると表明することとなる。」と述べられています。

 

まず、1982年と言えば、37年ほど前の話です。

この37年間の「教科書の歩み」を踏まえず教科書問題は語れません。

「隣接諸国との友好親善に配慮」して「虚偽」を記述することはありません。現在の教科書は「史料・資料にもとづいて」説明されています。

かつては「任那」という表現は教科書には一時期削除されていましたが、現在では『日本書紀』にはこう記されている、として「任那」も「日本府」の説明もされています。教科書は資料・史料に基づいた記述が心掛けられるようになり、批判する方々の説明のほうが「史料・資料にもとづかない」説明が圧倒的に多い、ということです。

 

「一方、中韓の教科書は近隣諸国に配慮するどころか、全編、反日思想に凝り固まったもので、歴史的事実を無視した記述が多く、歴史というよりもフィクションに近いものである。」(P482)

 

と百田氏は強い口調で非難されています。

だから日本もフィクションを書いてもよいだろう、とは百田氏も考えられないと思います。

何より、隣国の歴史記述を批判できるのは、日本が「史料・資料にもとづいて」是々非々で教科書作成を続けてきたからで、百田氏堂々と隣国を批判できるのは、こうした日本の歴史教育の姿勢に立脚しているからとも言えます。

他国がおかしくとも日本は資料と史料にもとづいて、たとえ日本に不利な記述であろうとも記していく、ということこそ歴史教育の「矜持」とすべきところだと思います。

そしてそれを支えているのが、数多の歴史研究家たちの議論と検証で、地道に築き上げられてきた「成果」です。この30年で教科書はずいぶんと「進化」していると思いますよ。

そして「近隣諸国条項」が設けられたことは、私はよかったと考えている派です。

というのも、「配慮」するにあたって、客観的な事実をより踏まえるような意識が歴史記述に生まれた、ということです。

この「配慮」はおかしい、と主張するグループも、なぜおかしいかを「掘り下げて」

研究するようになったからです。

教科書の限界、問題点があることは確かですが、思いつきや陰謀論や、都合の良い史料の一部のつまみ食いだけで反論・批判するほうがはるかに問題です。

教科書にせよ歴史の研究にせよ、それは「氷山の一角」、その頂点の見える部分だけで記述されているのです。

その下には、何倍もの質・量の「積み重ね」がある、と考えてほしいところです。

軽く、甘く考えて近づけば、タイタニック号のような豪華客船でも簡単に沈没させられてしまいます。

 

219】「ベ平連」と「JATEC」を混同している。

 

「…そして作られたのが『べ平連』(正式名称・ベトナムに平和を!市民連合)という市民団体である。彼らは『ベトナム戦争反対』のデモや運動だけでなく、平和運動と称して企業を攻撃したり、成田空港建設反対などの闘争を繰り広げたりもした。」

(P478)

 

と説明されていますが、これはちょっとどうなのでしょうか。「ベ平連」を知らない世代の人がこの説明を読めば大きく誤解してしまいます。

「ベ平連」は、「戦争反対」と気持ちさえあれば参加も自由だし、脱会も自由、という市民団体でした。発足当初は、まったく無党派の団体で、警察官や自衛隊、右翼の活動家などでも、「平和を愛して戦争反対」ならば自由に集えるものでした。

たしかに新左翼のメンバーによる平和運動と直接関係がない運動にも関わりを持つようになります。しかし「成田空港建設反対などの闘争を繰り広げたりもした」という説明は誤解を与えます。まるで「ベ平連」が「成田闘争」を展開したかのように思われてしまいます。基地建設反対闘争と「歩調を合わせて」反戦平和運動を進めていました。

「企業を攻撃」というのもやや誇張された表現です。デモによる活動の他、もっとも有名なのは三菱重工に対して行った「反戦一株主運動」があります。株主総会では三菱重工側も「総会屋」を動員して対抗しています。

1973年あたりからは活動の幅が環境問題や開発反対にも広がりをみせます。

一方、初期の「ベ平連」の活動のまま続けるグループもあり、「反戦喫茶店」やら「反戦ライブ」のような文化的な活動とも融合し、若者たちの間で「反戦歌」などメッセージ性の強いフォークソングも生み出していきます。

(『反戦喫茶ほびっとの軌跡』中川六平・「週刊朝日」2010年2月19日)

「戦争反対」は、1970年代のサブカルチャーのキーワードでした。「ベ平連」はそのような「70年代前半の景色」の一つとなります。

 

「しかし冷戦終結後、『ベ平連』にはソ連のKGB(ソ連国家保安委員会=ソ連の秘密諜報組織)から資金提供があったことが判明する。つまり『平和運動』という隠れ蓑を着たソ連の活動団体だったのだ。」(P478)

 

これは誤った説明です。「『ベ平連』はアメリカ軍の『良心的兵役拒否』の脱走兵をソ連に亡命させる活動を行なっていたが…」と説明されていますが、これは「ベ平連」とき無関係に、「ベ平連」の幹部メンバーが行なっていた「反戦脱走米兵援助日本技術委員会」“JATEC”の活動です。

脱走兵がソ連への亡命を希望する場合はもちろんソ連大使館と接触しています。彼らが接触した相手はソ連大使館員だと思っていましたが実は、KGBの要員でもありました(しかしこれはソ連の大使館員ではよくある話)。

「資金提供があったことが判明する」というのは誤りで、「脱走兵を助けるための資金援助をソ連に求めた」というのが正確な説明です。しかも、ソ連の回答は脱走兵のために物質的援助はするが、ソ連の持つ「手段」を用いては移送できない、としています。

JATECがソ連大使館員(KGB要員)の支援を得て複数人、中立国のスウェーデンへ出国させていることはわかっています。

しかし、「ベ平連」に「KGBから資金提供があった」というのは誤りで、「『平和運動』という隠れ蓑を着たソ連の活動団体だった」という断定には問題があります。

(『1968年』すが秀実・ちくま新書)

(『秘密のファイル CIAの対日工作』春名幹男・新潮文庫)

218】日中国交回復はアメリカの意向ではなく、自らの意思で外交した例である。

 

ベトナム戦争について。

 

「アメリカは、ベトナムの共産主義化を防ぐために参戦したが、ソ連の支援を受けた北ベトナムのゲリラの前に、予想外の苦戦を強いられた。そこでアメリカは、ソ連と対立していた中華人民共和国に接近する。」

 

と説明されていますが、北ベトナムを支援していたのは、ソ連だけではなく中華人民共和国も援助をしています。とくに毛沢東は、ベトナムに対しては「友人」として強力な支援を申し出ています。「さぁ、ほしいものは何ですか。食糧ですか、武器ですか、何でも言ってください。」と北京を訪れたホー=チ=ミンに話しています。

(『毛沢東秘録』)

ソ連と中国は後に対立しますが、ベトナム戦争には「競うように」軍事援助をしています。北ベトナムはソ連だけが支援していたのではありません。

 

「すでにベトナムからの撤退を模索していたアメリカは冷戦の枠組みの再編成が必要と考えており、中華人民共和国への接近はそれも睨んでのことだった。アメリカの意向を汲んだ日本は、昭和四七年(一九七二)、中華人民共和国に接近し、電撃的に国交を回復させる。同時に、それまで国交があった蔣介石の中華民国(台湾)との関係をあっさりと断絶した。戦後、二十七年も経っていたにもかかわらず、日本は自らの意思で外交ができない国になってしまっていたのだ。」(P477)

 

これは大きな誤りです。日中国交正常化に関しては、アメリカよりも先に国交正常化に成功しました。

(ニクソン訪問で米中が国交回復したように勘違いしやすいのですが、国交回復はカーター政権の1979年のときです。)

そもそも日本は、台湾との関係を続けながらも、中華人民共和国とは民間貿易や政府間の貿易を通じて「政経分離」の方針を立てます。

経済交流、民間の文化交流を地道に進めていました。ニクソン大統領の突然の訪中は、日本にとっては大きな驚きで、「頭越し」に対話を開始され、「最初は、アメリカは日本に相談していたが、ある朝目が覚めたら中国とアメリカが手を結んでいた」という表現で当時は説明されました。(『国交正常化交渉』~北京の5日間~・鬼頭春樹)

これを一気に「打開」したのが田中角栄です。それまでの政財界の日中国交回復への努力を背景に、1972年7月7日、国交回復を実現すると宣言しましたが、その二日後にすぐに周恩来から「歓迎する」という反応を得ました。

ニクソン訪中7ヶ月後、9月25日、田中は北京を訪問し、同29日、「日中共同声明」に署名したのです。

「アメリカの意向を汲んだ」のではなく、むしろ出し抜く形で電撃的な「国交正常化」を実現しました。「日中国交回復」は「自らの意思で外交をした」好例です。

 

「世界の多くの人々が、アメリカの介入をベトナムの民族自決権を奪う行動だと見做していたのだが、これは一面的な見方にすぎない。たしかに南ベトナムはアメリカの傀儡的な国家であったが、その意味では北ベトナムもまたソ連の傀儡的な国家であった。」(P477P478)

 

と説明されていますが大きな誤りです。まず北ベトナムはソ連だけでなく中国も支援していましたし、後のソ連と中国の対立が、複雑な状況を生み出しますが、ベトナム支援は両国によって1971年まで続いています。

それから「北ベトナム」はソ連の「傀儡国家」ではありません。世界史上の「傀儡国家」とは、特定の国によって、その支配権を実質的に握られながら、「分離独立」している国家のことです。「満州国」や「冀東防共自治政府」などが代表的な例で、ベトナムに関してはまったくこれに該当しません。

まず、ソ連の支援で建国されていません。

1945年、抗日組織ベトナム独立同盟の指導者ホー=チ=ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言します。フランスはこれを認めず、インドシナ戦争となります。

フランスは、1949年、阮朝最後の皇帝バオ=ダイを元首としてフランス連合の一部としてベトナム国を独立させてベトナム民主共和国と対抗させます。こちらは十分、「傀儡的」と説明できます。

フランスはディエンビエンフーの戦いで敗退し、休戦協定となりました。

その後、ゴ=ディン=ディエムがバオ=ダイを追放して共和政を採用し、ベトナム共和国が成立しました。こうして北のベトナム民主共和国と南のベトナム共和国が対立し、北を中ソが、南をアメリカが支援するようになったのです。

ベトナム民主共和国は1945年以降、一貫して自主独立を保ち、傀儡国家と対決してきています。軍事支援を受けたからといって傀儡国家であるとはいえません。