『日本国紀』読書ノート(番外編22) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

P481P483で「教科書問題」が取り上げられています。

『日本国紀』には度々教科書批判が出てきますが、それとセットであるかのように、GHQによって歴史観が変えられた、「自虐史観」に満ちている、という言説が伴っています。

そして、象徴的に「侵略」という表現を取り上げて、教科書を批判されています。

 

「なお近年の歴史教科書では、『朝鮮侵略』と記述されていることが多いが、他国に攻め込むことを侵略と書くなら、世界史におけるアレクサンドロス大王やチンギス・ハーンやナポレオンの遠征もすべて侵略と書かなくてはならない。」(P159)

 

と説明されています。ただ、世界史と日本史の記述に関しては、かなり違うものだと考えてもらいたいところです。

ちなみに「侵略」は「他国に攻め込むこと」ではなく、「攻め込んだ上で支配下におく」という意味があり、戦闘などをともなって人々の生活を「蹂躙した」というイメージを伴う言葉でもあります。

やや主観的なイメージが強いので、価値観や文化の背景が異なる世界史の記述においては、「侵略」という言葉は使用していません。これは「世界の教科書」にわりと準拠したものです。

ただ、20世紀の記述に関しては、一転して「侵略」という言葉を用いる場合があり、それは「ナチス・ドイツ」に関するものです。

これも日本の教科書で、どう扱うべきか、いろいろ議論されたのですが、これも世界の教科書に倣おう、ということで「侵略」という表現になっています。

ただ、2000年代以降の教科書ではナチスに対しても「侵略」という表現を使用しなくなっています。

では、日本史ではどうかというと、モンゴルの攻撃を日本は受けましたが、その撃退に成功し、一時期でも日本の領土がモンゴルの支配下に入ったことはありません。よってどの教科書にも、「日本が侵略された」という表現は用いません。

また、古代の朝鮮半島への日本の「進出」も「侵略」とは説明していません。いわゆる「広開土王碑文」に見られた高句麗と倭の戦いも、「倭の侵略」とは言いません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12423787736.html

 

また、20世紀に関する記述ですが、多くの教科書では実は「日本の侵略」という表現は使用されていないのです。20世紀の記述に関して、2016年検定の教科書を例にとると、「満州事変」「日中戦争」「太平洋戦争」の記述内に、一文字も「侵略」という言葉は使用されていません。20世紀の歴史に関しては、日本史も世界史の一部と考えられているために、このような説明となっていると思います。

「歴史教科書では、『朝鮮侵略』と記述されていることが多い」と言われていますが、

現状、「多い」とはいえず、「朝鮮出兵」がこれからは多数派になるでしょう。

この一部をもって全体を語り、教科書全体を批判するのは問題であると思います。

 

「昭和五八年(一九八二)、日本の教育が大きく揺るがされることになる事件が起きた。いわゆる『教科書検定』問題である。」(P481)

 

と説明されて、「『隣接諸国との友好親善に配慮すべし』との一項目を教科用図書検定基準に加えると表明することとなる。」と述べられています。

 

まず、1982年と言えば、37年ほど前の話です。

この37年間の「教科書の歩み」を踏まえず教科書問題は語れません。

「隣接諸国との友好親善に配慮」して「虚偽」を記述することはありません。現在の教科書は「史料・資料にもとづいて」説明されています。

かつては「任那」という表現は教科書には一時期削除されていましたが、現在では『日本書紀』にはこう記されている、として「任那」も「日本府」の説明もされています。教科書は資料・史料に基づいた記述が心掛けられるようになり、批判する方々の説明のほうが「史料・資料にもとづかない」説明が圧倒的に多い、ということです。

 

「一方、中韓の教科書は近隣諸国に配慮するどころか、全編、反日思想に凝り固まったもので、歴史的事実を無視した記述が多く、歴史というよりもフィクションに近いものである。」(P482)

 

と百田氏は強い口調で非難されています。

だから日本もフィクションを書いてもよいだろう、とは百田氏も考えられないと思います。

何より、隣国の歴史記述を批判できるのは、日本が「史料・資料にもとづいて」是々非々で教科書作成を続けてきたからで、百田氏堂々と隣国を批判できるのは、こうした日本の歴史教育の姿勢に立脚しているからとも言えます。

他国がおかしくとも日本は資料と史料にもとづいて、たとえ日本に不利な記述であろうとも記していく、ということこそ歴史教育の「矜持」とすべきところだと思います。

そしてそれを支えているのが、数多の歴史研究家たちの議論と検証で、地道に築き上げられてきた「成果」です。この30年で教科書はずいぶんと「進化」していると思いますよ。

そして「近隣諸国条項」が設けられたことは、私はよかったと考えている派です。

というのも、「配慮」するにあたって、客観的な事実をより踏まえるような意識が歴史記述に生まれた、ということです。

この「配慮」はおかしい、と主張するグループも、なぜおかしいかを「掘り下げて」

研究するようになったからです。

教科書の限界、問題点があることは確かですが、思いつきや陰謀論や、都合の良い史料の一部のつまみ食いだけで反論・批判するほうがはるかに問題です。

教科書にせよ歴史の研究にせよ、それは「氷山の一角」、その頂点の見える部分だけで記述されているのです。

その下には、何倍もの質・量の「積み重ね」がある、と考えてほしいところです。

軽く、甘く考えて近づけば、タイタニック号のような豪華客船でも簡単に沈没させられてしまいます。